2005年度ゼミメンバーが集まる。
長旅から帰ってきたせいか、今年は卒業生と会う機会が多かった。

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友人の建築家、菅谷君の仕事の見学で葉山へ。

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2007年度OBが集まる。

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ゼミ室にて

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勝井先生のシンポジウム、ギャラリートーク、レセプション。


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藤木さんに使わなくなった家具を頂いた。

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1999年度卒業ゼミ。

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合宿の翌日京都、詩仙堂と蔓壽院を訪ねる。
詩仙堂は人間が作り出した空間で最も美しい場所のひとつ。
蔓壽院では久しぶりに八窓の茶室を見る。

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kakikuheba kaneganalunari houryuji

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室生寺

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2007年末以来、放置しっぱなしにしていた大量の事務所の荷物で自宅と大学の個人研は無茶苦茶な混乱状態であった。
やっと何とかしなければという気力が少しずつ戻って来たので自宅近くに仕事場を探すことにした。
これも帰国後のリハビリの一環だろう。

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武蔵小金井駅

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マイーダさんがダルマチア、プリモシュテンにあるユーリッチさんのオリーブ畑で元気に育つ私と妻のオリーブの木の様子を教えてくれた。

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アドリア海に浮かぶ美しい半島、プリモシュテン

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ユーリッチさん先祖代々の家

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加茂川神社

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方丈庵

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日食

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長谷寺

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ニュートンのリンゴの木、ヒポクラテスのスズカケの木、リンネとトゥーンベリーゆかりの月桂樹、平瀬作五郎精子発見のイチョウの木など。

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サレジオ学園 胡桃舎 藤木隆男建築研究所

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吾一君と花見で偶然会う。

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明日(31日)は午前中に飛行場に行って帰国の途につくので(日本到着は時差の関係で4月1日の午後となる予定)、今日が実質ニューヨーク最後の一日であり、またこの一年にわたる長旅も最後となる。
今の状態や感慨など書くべき事は当然あるのだが、今は時間がないので帰国後としたい。

今日は昼間はミッドタウンで本屋めぐり。
夕方からマジェスティック・シアターで「オペラ座の怪人」を見る。

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午前中にミッドタウンに行った後、地下鉄でイーストリバーをわたり、ブルックリンのウイリアムズバーグ地域を散歩。
主な目的はベッドフォード・アヴェニューにある古書店である。

ブルックリンは何と言っても僕のイメージはポール・オースターである。
小説だけではなく映画「スモーク」や「ルルオンザブリッジ」なども含めて。

17年前に来た時は案内して下さったカナザワさんが、とても危なくて歩く道を間違えたらとんでもなくなる、などと脅されたものだ。
今やブルックリンもニューヨークもそのようなことはないようだ。
おだやかな街に変貌した。オカダ君に言わせれば世界の巨大都市の中では今やもっとも安全な街だそうな。

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今日のNYは霧と驟雨。

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昨夏、リエカに遊びに来た卒業生のおかちんことオカダ君の案内で今日はニューヨーク巡りをする。
彼はニューヨーク大学(NYU)の大学院(Tish school)のITP(インタラクティブテレコミュニケーションプログラム)というところで学んでいる。
今が最終学期で多分忙しい時期であると思ったので連絡しようかどうしようか、少し迷ったが連絡してみた。今日は時間があるということでホテルまで迎えに来てくれた。
彼の案内にお任せの一日である。さすがニューヨークの住人、バスは使わず、地下鉄である。

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まずブルックリン、右手の古書屋へ。このあたりは通称ダンボといわれる、新しい
アートの街だそうな。本屋の後(パウル・レンナーの本を一冊購入)、街を適当に見て歩く。

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マンハッタンブリッジ。
24日の僕のブログをおかちんは読んでいて(彼に連絡したのは25日)妻が本当はここからの眺めを見たかったということを知って「先生は何でもっと早く連絡してくれなかったんですか?僕がちゃんと案内したのに!」と叱られた。

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マンハッタンブリッジとブルックリンブリッジの間にある公園。
天気も最高に気持ちよい。のんびり話をする。

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ブルックリンブリッジを歩いてマンハッタンに戻る。ここはさぞ夜景も美しいことだろう。

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地下鉄でノーホー地区にあるNYUへ。校内見学。
写真はおかちんの先生でもあるダニエル・ローツェン氏の作品。インタラクティブ立体鏡。

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おかちんの作品も廊下に展示されていた。

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彼が学部の3年の時ライティングの授業で作ったコンセプトを進化させたものと言っていた。
彼はその時ジョン・ケージのスコアをインタラクティブ化して「テラヤマ賞」を受賞したことを今書きながら思い出した。

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美術館の学芸員が興味を持ってくれたと言っていたが確かにこれは美術館にあると良いですね。

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工作室

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ここは17年前の視察のおり、レッド・バーンズ女史を訪ねている。彼女はまだ学科長としてご健在とのこと。

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その後大学そばのお店で昼食。

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チェルシーにある画廊がたくさんあるアート地区へ。
まあとにかくこのあたりは画廊が沢山あります。内容は有象無象というか、いろいろです。
とにかく空間は広くて贅沢に使われています。

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現在、オカダ君がインターンとして働いているニューヨークタイムズの本社へ。
彼は仕事をしながら修士制作を併行しているので大変なのだ。ここでも単なる手伝いとかではなくて、ニューヨークタイムズの過去20年の記事が完全オープンになっていてそれを利用しておもしろいデータベースのデザインをしろというプロジェクトを中心になってやっているようであった。彼のニューヨーク暮らしは卒業後も当分続きそうだ。

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NYT社内エントランスにあるインタラクティブ作品。

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夕方になったので僕も気になっていたこのお店に行くも今日はプライベートの貸し切りでだめだった。

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でグランドセントラルを通ってホテルの近くに戻る事に。

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ホテルのそばで気になっていたけど一人では入り辛いなあと思っていたお店に行く事に。
jazz standardという店でライブが聞けました。

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ライブはハモンドオルガン、サックス、ギター、ドラムにボーカル男女で、音は最高、気に入りました。でも寝不足のせいかビール一杯で酔いがぐるぐる回りました。

オカダ君はこれから月曜日までに3000文字の修論レポートを書かなきゃと言っていた。
今日一日、ずーっと話しながら動き回った。
いろいろ面白い話が聞けました。
結局ほとんど、デザインとかコミュニケーションとかに関する話ばっかりなんですけどね。
夏前には東京に一度戻るらしいのでその時の再開を約束して別れる。お疲れさまでした。

グッゲンハイム美術館に行く。
撮影は不可なので画像はない。
大掛かりな企画展をやっていたので常設展の展示スペースは少なかった。普通ならばがっかりするところだが、この企画展が思いの他よかった。
その後セントラルパークを散歩。

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企画展は「the third mind: american artists contemplate asia ,1860-1989」というものだった。アメリカのアーティストがアジアを直視(凝視、沈思黙考)したという内容である。
興味深い作品(絵画だけではなく文学にも及んでいた)が並んでいたので名前だけでも以下に挙げておく。
野口米、T.S.エリオット、エズラ・パウンド、j.l.バイヤース、ロバート・マザーウエル、スティーグリッツ、スタイケン、サム・フランシス、イサム・ノグチ、岡田健三(漢字がこれで良いか不明)、アド・ラインハルト、ローリー・アンダーソン、ジェイムス・タレル、杉本博司、桑山忠明、A.ウオーホル(スリープという映像作品)、荒川周作、ジャスパー・ジョーンズ、ティモシー・リアリー、ブルース・コーナー、R.ラウシェンバーグ、ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーク、ウイリアム・バロウズ、オノ・ヨーコ、ジョン・ケージ等など。
必ずしもアメリカ人とは限らない。
特にジョン・ケージの龍安寺のドローイングとオノ・ヨーコの「頭の中で組み立てる絵」を見れた事は幸運であった。
不満というか疑問があるとすれば、アジアといってもその90%(少なく見積もっても80%)は日本ないし、日本人なのである。こういった場合素直にタイトルに「日本」または100歩譲っても「日本およびアジア」とするべきではないか。アジア人をジュッパヒトカラゲというか一緒くたにしているようで少し、不快な感じを持った。
それは例えば日本人が白人を一緒くたにして「外人さん」または「アメリカ人」と言うようなものではないか。
またもし、「contemplate」した相手がヨーロッパだったならば絶対こうはならなかったのではないかと。
内容を精読したわけではないので本当のところは分らないけれど...。
ともあれ展示自体は現代美術に関してこの1年で最も僕のツボにはまったものではありました。

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セントラル・パーク

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アメリカ自然史博物館に行く。おそらくアメリカで最も大きな博物館なのだろう。
ミランさんが絵本、ナイトミュージアムの構想を思いついたところでもある。

展示のコンセプトがヨーロッパと比較してやはりアメリカらしいと感じるところはある。
それは実証主義的というかプラグマティックというか、見えるようにする、比較するという視点だろうか。
結果として現れるハイパーリアルな視覚というか...。
(特にハイテク使用以前の展示物について。映像を多用するよりもずっと説得力があるのだ)

その後近くのダコタ・アパートへ。僕が23歳の冬、卒業制作を作っている最中にジョン・レノンの死を知った。身内でもない人の死にあんなに衝撃を受けたのは人生最初のことだった。
近くのセントラルパークの中にオノ・ヨーコさんがデザインした記念碑というか場所がある。ストロベリー・フィールズである。
そこで小一時間ほど過ごす。

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ミクロネシアの海図。これが見れただけでも来た甲斐があったと思った。

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ディテール

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博物館外観。

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ダコタアパート

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ストロベリー・フィールズ

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今日は妻が帰国する日だ。

その話の前に。
早朝、大慌てで今春退任される0先生への送別の辞を書いてメールで送る。(僕の所属する研究室では年度の終わりにスタッフ全員でいつも一泊二日の小旅行をするのでその時に読み上げてもらうため)
これは昨春からずっと頭にあって考えてきたことだけど、思い出がいろいろありすぎてこれまで文章にできなかったのだ。考えてみれば先生とは大学入学以来32年間持続的にお付き合いしていただいたのだ。

もうやけくそ気味というか、校正も何もないままとりあえず、書いて送った。
今、これを書きながら重要なことを書き漏らしたことに気がついたのでここで書いておきます。今更ですが。

O先生は筋金入りの反権力、反権威主義の人だった。
僕は学生として教育を受けただけではなく後に教員として一緒に授業を組み立てたりもした。学生の頃から一貫していたことだが、この人は学生といつも対等に付き合っていた。(僕が尊敬する人は皆そうだが)
僕などは若気の至りと言うか、もともと生意気だったので学生時代から、そして助手時代もデザインや教育に関しては言いたい事は何でも言っていた。おかしいと思った事は平然と批判したりしていた。
その当時僕は青臭い原理主義者だったのかもしれない。面と向かって「先生は歩く矛盾だ!」と非難したことさえある。
しかしこの先生はいつも笑っていたし、かといって無視するわけでもこちらの馬鹿さ加減をたしなめるわけでもなく、ずっと付き合ってくれたのだった。

結果的にこの先生の僕に対する「教育」は正しかったと思う、(自分で言うのも僭越ですが)何故なら何かに対して本気で異議申し立てをした本人は結局言った分の責任を自分でとるしかないのだから。
僕自身のこの20年間は自分で行った他者(大学)に対する批判の責任(おとしまえ?)を自分なりに果たしているということなのだ。
このようなO先生の態度がそんなに簡単なことではないと理解できるようになったのはごく最近のことである。
助手がカリキュラムに対して教授に面と向かって批判するなど、他の研究室ではほとんどありえないことは後で知った事であった。
少なくとも僕の所属している研究室の良き伝統はこれであることは間違いのないことだ。
今ではO先生は僕にとって「矛盾を抱えたこの世界で、それでも笑いながら歩き続けた先生」となった。

話は今日のことに戻る。

朝8時過ぎにホテルをチェックアウト。
駅に向かう途中、こちらに来て毎朝朝食に通ったお気に入りのダイナーに寄ると今日はお休みであった。
そのまま空港に向かう。
パリから来たのとは違うルートでジョンFケネディ空港に向かうも、途中乗り継ぎを間違えて少しあわてる。最後の最後まで僕らの旅らしいと苦笑い。
しかし何とか無事に搭乗手続きも終え、空港で朝食をとって別れる。

最近、スペインとフランスで5日間旅をともにしたあきお君は我々の珍道中の様子をみて、妻が先に帰る予定だと聞いて「せんせー。ひとりで生きて行けるんですかぁ?」と言った。
さすがにこいつ突っ込みが鋭いなと思いつつ「何を失礼な。一人で充分僕はやっていけますよ!」と答えたものだった。「1週間程度ならね。」

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マンハッタンに戻り、ホテルの移動。今度はパークアヴェニューの30丁目。

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妻はいよいよ明日、日本に帰国する。
これは最初から決めていた事で4月の帰国早々、僕が忙しくなるのを見越して一足先に帰って不在中の問題処理や家の事など、諸々準備をしてもらう為である。
ということで私たちコンビの1年弱の珍道中も今日が最後。
美術館にも飽きたし(なんと贅沢な!)今日はこれまでヨーロッパでたまにしてきたように闇雲な(行き当たりばったりの)散歩をしようということになった。
といっても妻の希望はあってイーストリバーを地下鉄じゃなくてバスで渡ってみる事と、対岸からマンハッタンを見てみたいというものであった。

バスを使ってマンハッタンをずっと北上しスパニッシュ・ハーレムへ。
そこからイースト・リバーを渡りクイーンズへ。再びイーストリバーを渡りルーズベルト島へ。クイーンズボロブリッジに併設(?)されているゴンドラで再びマンハッタンに戻るというルートであった。(ルートといっても初めから決めていたわけではなく、闇雲に移動してみたらそうなったということ)本当は途中でイサムノグチの庭園美術館に寄りブルックリンまで行ってみたかったのだが道に迷ったり、バスが分らなかったりで結果的にこうなった。
さすがに北の方、スパニッシュハーレムやロングアイランドの北部は高層ビルもなくなり寂れた感じ。バスにずーっと乗っていると客層が変化して行くのが興味深い。白人をあんまり見かけなくなるのはパリの北駅近辺と似ています。
ニューヨークでも東京でも、どこに行くのもバスで行くと言っていた田中小実昌さんのエッセイのことを思い出した。

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本当に凍てついた10番街。凍っています。
朝ホテルの廊下ですれ違ったメイドさんが「外は本当に寒いわよう、もう3月なのになんて事でしょう」と話しかけて来た。ボロになったセーターを捨てずに持って来て良かったと思いました。

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老舗のデパート。エスカレーターがあまりにも古いので。

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エンパイアステートビル。昇る事に関しては高所恐怖の僕は最初から関心なし。
ただここから落ちた哀れなキングコングのことを思うのみ。

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スパニッシュハーレム。今日はトラブルを恐れて写真を撮る事は自重した。

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妻はこの景色で一応満足したようである。右がマンハッタン。

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この橋かどうか定かではないが、僕はニューヨークの橋に追い込まれて殺された哀れな米国版ゴジラを思う。

終日MOMA。
さすがに20世紀以降の美術に関してアメリカは自信満々の印象である。

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セザンヌ
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ルソー

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ピカソ

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カンディンスキー

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マティス

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キリコ

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ピカソ

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マレーヴィチ

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マレーヴィチ

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マレーヴィチ

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リシツキー

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リシツキー

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クルツィスとリシツキー

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モネ

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モンドリアン

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モンドリアン

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クレー

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ピカソ

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コーネル

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コーネル

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ホッパー

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ベン・シャーン

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常設以外にマーティン・クリッペンベルガーという人の大展覧会もやっていた。

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ジョーンズ

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イームズの初期の仕事。

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エスカイアのディレクター(名前失念)の紹介。

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ベーレンス

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印刷に関する地味だが力のこもった大展覧会をやっていた。
とても好印象。パソコンからの出力に関する部分に相当エネルギーを費やしている所が特に良い。これ日本でもどこかがやれば良いのに。
図録は重すぎて恐れをなして購入せず。

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アートでも工芸でもない「デザイン」の見せ方に関してはここMOMAでさえも停滞しているというか、迷っているというか、そういう印象も受けた。
世界中、皆同じく迷っているようだ。
そういった意味では先に上げた印刷の展覧会には少しポジティブなヒントがあったように思う。
今日はとりあえず、前回来た時最も気に入った美術館に行く事にする。
メトロポリタンである。

夜はミュージカルに行く。

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以下メトロポリタン美術館。
写真のセレクトはランダムです。

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バルテュスはなかなか見れないので良かった。

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実際、メトロポリタン美術館だけで疲労困憊だったのだけれど、夕食の後、ブロードウエイの切符売り場に行ってみたら、チケットが手に入りそうだった。
妻は僕よりも一足先に帰国するのでもしミュージカルを見るとしたら今日しかないということになり無理矢理見る事に。
寝てしまうかと心配したが、とても良い舞台だったので全然平気であった。
英語がちゃんと理解できればもっと楽しめただろうとは思うが、音楽とパフォーマンスだけでも充分良かった。
劇場から宿へは歩いて10分程。

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ニューヨークは僕は17年ぶり。その時はデザイン教育視察の為に来た。
クリントン、ゴアコンビの最初の選挙を行っていた秋であった。クリントン8年、ブッシュ8年の後、昨年の秋にアメリカはオバマを大統領に選んだ。
この17年間の世界とアメリカの大きな変貌は様々な感慨を呼び起こさずにはいられない。

妻はNYは初めてである。
ここでどう過ごすか全く計画が立ってない。二人ともかなり疲れ気味。
僕の方はあきお君とヨーロッパであったおり大学からの連絡をいくつか受けた。4月の早々から様々な事が始まるから準備しろという指示などであった。
帰国して一週間程間があるはずと思っていたので少しうろたえた。
4月からの生活が待ち遠しくなるかと思っていたが意外にも実感は逆で少し鬱気味になった。
うーん。しかしそんな子供のようなことは言ってられないので、ここにいる間に気持ちを立て直さなければならない。

ともかく、いつものように街の散歩から始める。

ニューヨークを歩いているとこれまで読んだ小説にいかにニューヨークのものが多いか考えさせられる。すぐさま想起できるのだけでもジョン・アービングやポール・オースター、スティーブン・キングやエド・マクベイン...。ニューヨークに関係する音楽も当然スプリングスティーンだけじゃない、ディランからジョンレノン、マイルス、コルトレーン、ガーシュイン、フォークやロックやジャズやミュージカル...。
映画にいたっては無数といっても良い。
地方のアメリカ人よりもニューヨークにまつわる二次情報(コノテーション)を自分は膨大に持っているのではないかと思える。(多分多くの日本人がそうなのではないか?)
善かれ悪しかれだが、ニューヨークはそういう都市なのだ。拮抗出来るとしたらパリぐらいだろう。

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そんなに強く意識したわけではないけれど、最初にどこに行くかと考えると自ずからここしかないだろうと思えた。ワールドトレードセンター跡地である。
ここ20年間の世界の変化を巡って、そして今回の1年の旅で考えたことと、この場所の意味が重なって思いは乱れた。

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その後近くにあったブルックスで買い物をしてマンハッタンの北、ロウア−マンハッタンを散歩。

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トリニティ教会。

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バッテリーパーク。ワールドトレードセンターから移築された壊れた彫刻。

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バッテリーパーク沖、リバティ島。

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近くにアメリカン・インディアン博物館があったので入ってみる。

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イサム・ノグチ、レッドキューブ。

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デビュッフェ

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イサム・ノグチ、水上庭園。

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市庁舎の横で映画撮影をしていた。

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ウォール街、ニューヨーク証券取引所。

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北上してチャイナタウンとリトル・イタリーを少し歩く。

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朝、6時起き。7時前に宿を出て北駅からシャルル・ドゴール空港へ。
10時半のパリ発チューリッヒ行きに乗る。
私たちは例の(以前説明した)世界一周チケットなのだが、パリからニューヨークに直接行けず、一旦スイスのチューリヒにトランジットしなければならない。スイス国際航空である。
13時に無事チューリッヒを飛び立ちニューヨークへ。
大西洋を越えてニューヨークまでは約9時間のフライト。
以前N島先生から「寺さんニューヨークとヨーロッパはすぐだよ」と聞いていたのでもっと短い時間で着くと思い込んでいた僕は9時間かかると聞いて「えー。そんなに長いのか」と言ったら、僕が不満を言っていると思ったらしく妻に「今頃何を言ってるの」と叱られた。
機内で映画を3本見たが画面も小さいし、どうも映画を見た気分がしない。まあとにかく暇つぶしということなんだろう。

ヨーロッパ時間の夜の10時頃ニューヨークに到着したが時差で当地夕方の4時である。
日本との時差は14時間となる。ヨーロッパからの時差は8時間だったので要するに日本からさらに6時間も遠ざかっている(地球の裏側)のだが、気持ち的には帰国の途上なのでどうも遠ざかっている気がしないのだ。そんなことを言うとまた妻に「何にも考えてない」と怒られそうだ。
入国はやっぱり大変で入国審査を通貨するのにとんでもなく時間がかかった。
入国者は左右の4本指の指紋、親指の指紋、眼紋までとられるものものしさである。
その後バスでニューヨーク市内のホテルにたどりついたのはパリのホテルを出てから約20時間後であった。結構疲労困憊であった。
ホテルは10番街の49ストリート近く。アッパーウエストサイドでブロードウエイから比較的に近い場所である。

10th. avenueと聞いて1975年、今から何と33年前に出たブルース・スプリングスティーンの名曲「10th.ave. freeze-out(凍てつく10番街)」を即座に思い浮かべ、それだけで何となく嬉しくなった。
僕が19の時に聴いた曲だ。スプリングスティーンも今年還暦(!)を迎えるという。
「全く何てこった」

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リエカを出て約40日あまり。ついにヨーロッパ最後の一日となる。
いよいよ明日は大西洋を超えてニューヨークに移動する日だ。
連続して50日間の最後のホテル暮らしはつらいかなと思っていたが、やっぱり辛い。
多分息抜きというやつがなかなか出来ないせいだと思う。

パリはまだまだ見るべき所を残している。
例えば、イイヅカさんのギャラリー、カルティエ財団の美術館、新しくできたらしい広告博物館、写真美術館、ブレッソンの美術館、またパリからは離れるけど「行けなくはないですよ」とあきお君に言われたコルビジュエのロンシャン教会などなど。

しかし今日はついに限界状態がきて美術館にはどこにも行く気力がわかず。
結局、街をぶらぶらすることにした。
妻はお土産を買わなければならないというのでオペラ座近くにあるデパート、ギャラリー・ラファイエットへ。
その後パサージュめぐりでもしようかと思っていたが、どうも体調不良で結局僕だけ先にホテルに戻る事にした。
ホテルで荷物の整理、旅の記録、ブログの更新などをする。

昨年の4月1日にロンドンに到着して約355日、旅もここまで来てしまったかと思うと感慨深いものはある。

フランスの短い覚え書き。
地下鉄や国鉄の不便さ、分りにくさについてはさんざん悪口を書いてしまったが、意外なことに(?)フランス人はとても良かった。
ヨーロッパでこれまで私たちはかなりの国、都市を歩いて来た。あくまでも短期滞在の旅人の視点でしかないけれど、例えばホテルのレセプション、美術館の職員などの対応はフランスが最も良かったし、さらに街中で僕や妻が地図を広げていると必ずと言っていいほど街の人が向こうから「どこに行きたいんだ」と声をかけてきてくれた。
こんな都市は他にはなかった。
「フランス人は英語を話す人間を無視する」とか「フランスは個人主義の国だから他人に冷たい」とか諸々聞かされていたし、私たちもその覚悟でいたのだが実際全く想像とは違っていたので正直驚いた。たまたま偶然そうだったのかもしれないが、私の感じからすると単なる偶然とは言い切れないと思う。
電車に乗って隣り合わせた時など、言葉を交わさないでも存在する身振りとか表情での交信などから。
しかもその上、食事がやっぱりおいしいし(全ての料理の平均点が高い)、ワインもうまい。いたるところで映画も見れるし。パリは大都市の割には物価は安い方だと思う。
私の知る限り、日本人が住むとしたらヨーロッパの中ではパリが最も住みやすいのではないかと推測する。
逆に期待が高かった反面、最も想像と異なっていたのはイタリアであった。
理由を書き出すと長くなるので省略しますが。


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昨夜、イイヅカさんにアメリカへの渡航は私たちが出発した2008年春よりもさらに厳しくなっていることを聞いた。例えばメールで出入国管理局に入国3日前までにあらかじめ情報を提出しておかなければ、空港で大変な目に会うことなどである。
その確認と航空券のリコンファムも含めてオペラ座近くにあるANAの支店を訪ねる。
ANAにはパリーニューヨーク直行便がないせいか、担当の人は最初よく分らないと言っていたのだが、調べてもらった結果イイヅカさんの言った通りである事が判明、ホテルに戻った後、早速メール送信作業を行った。
このオペラ座界隈は日本にあるのと全く同じブックオフがあったり、沢山の日本料理店もあり、先日のクロネコヤマトも含めてつくづくパリはラクチンな場所だと思う。
私たちの拠点にしたクロアチアと比べての話だが。同じヨーロッパといっても全く異なる環境なのだ。
だからといって拠点をパリにすれば良かったなどとは露程も思いませんが。

その後、市立近代美術館、ギメ美術館へ行く。

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乗換駅「スターリングラード」にて。

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以下、市立近代美術館。

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アンリ・ミショー

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ジャン・フォートリエ

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マティス

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ブラック(部分)

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ソニア・ドローネー

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左が市立近代美術館、右がパレ・ド・トーキョー。

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以下ギメ美術館。

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乾山

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白隠

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午前中宿を移動。
詳述は避けるが今回の宿の選択はトラブルがらみで北駅近くになった。
確かあまり環境の良くない所とは聞いていたが、初めて実際に行ってみると聞きしに勝るとはこのことで本当に環境は悪そうな所だった。
朝電話で久しぶりに会話したパリに住むイチダさんも大変心配そうで、「とにかく気を付けて下さい!」と注意された。

ともかく今更宿の変更などは面倒なのでこのまま行く事にした。
その後急いでオルセー美術館へ。閉館時間まで。

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以下オルセー美術館。

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ロダンのデッサン。

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今回見た中で最も意外な発見はクールベだった。何かうまく説明できないけれど、引っかかるものがあった。絵を描く事と思考している事が合体しているというか、とても知的な人の印象を持った。

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これもクールベの有名な一点である。

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ドーミエ。

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夕方7時半頃、イチダさん夫妻がわざわざホテルまで車で迎えに来てくれた。
車でセーヌを渡って安全な(笑)場所、イチダ夫妻が良く行くというレバノン料理を出すお店で食事をご一緒した。
同じく秋のパリフォトで知り合ったイイヅカさんも仕事を片付けた後、合流。
イチダ夫妻はつい前々日まで3年ぶりの里帰りで東京にいたのだが、ぎりぎりパリにいる私たちのスケジュールに間に合わせてくれたのだった。
イチダ夫妻は主にweb上のデザインをやっているが、ルーブル美術館の最初のバーチャルミュージアムのデザインもしていたことが今回わかったり、色々楽しいお話が聞けた。
また写真専門の画廊をやっているイイヅカさんにも今回改めて、これまでどのような活動をしてきたか伺う事ができた。画廊と平行して写真雑誌の編集発行をやっているだけでなく、もともとはファッションの(パリコレなどの)ショーのディレクションもやっていたのだ。彼が手がけた仕事は誰もが知っている有名なデザイナーのショーであった。
イチダ夫妻もイイヅカさんも会社とか業種とかの枠に全くとらわれず自立した表現者として仕事をしているように思う。しかもそんなに気負った感じは少しもしない。
しかし今回若い時からここに至るまでの話が色々聞けた。
面白すぎてここには書けませんがさすがに波瀾万丈。僕など自分で振り返ると波瀾万丈からはほど遠い淡々としたというか、気がついたら時間が経っていたみたいな人生なので彼らの話を少しうらやましく思いながら聞いた。
まあ、人はそれぞれ運命みたいなものを背負って生きているのでせうか...などと思ってみたり。

しかし時間はあっという間に過ぎ、まだまだ話足りない思いも残ったがまたの機会を楽しみにしようと思う。まあ僕がパリに行く事はめったにないと思いますが、彼らが東京に帰って来る機会の方が多いだろうから、次は東京ですね。
ともあれこういう出会いを作ってくれた(パリフォトの)友人スエマツ君に改めて感謝。
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ルーブルは当然ながら一日では見れないので再度。
まあそれでも結局は見切れないのですけど。

そしてその後、クリュニー美術館、正確には中世美術館に移動。
ここは3月11日の日記にも書いたが、自然史博物館と並んでかつて十数年前に訪れて僕が今日のwriting space designを考えるきっかけ、そして言い換えれば今回の長旅の大本となったところの一つである。

十数年前の旅はもっと正確に言えば、パリに先だってロンドンの大英博物館とナショナルギャラリー、ヴィクトリア&アルバートミュージアムを訪ね、モリスのマナーハウスに行った後の旅であった。その時もちろん、ルーブルも行ったしオルセーにもポンピドゥーにも行った。
しかし僕の心を強く揺さぶったのはここクリュニーと自然史博物館、そしてケンブリッジ近くにあるモリスのマナーハウスだったのだ。その当時理由はよくわからなかった。

そういった因果関係が今回旅をしながらだんだん自覚されて来たので(妻にも語った事はない)今日、クリュニーに行くのは大変緊張した。
まるで十数年前の自分の秘密を暴きに犯罪現場に向かう者のように。
しかし、当時もっとも衝撃を受けたクリュニー最下層にあったローマ時代の遺跡は今回工事中で見れなかった。

今日の感想は心にそっとしまってここには書きません。(もったいぶるわけではなくささやかなことだから。多分)
が、ひとつだけ。

要するに当時ルーブルも、単なる入れ物、せいぜい立派な箱だと感じたのだが(それでも時代とともにアウラは濃くなるのだろうが)クリュニーは場所と中身が決定的に切り離されない場所だと強く感じたのだと思う。
当時の僕は。理屈抜きでそのことが絶対的なものに感じたのだろう。
クリュニーの展示物自体にはその後の学習もありさほど驚くものではないが、結局今回の長旅を絶対的に「現地で見る」旅にしたきっかけはここにあったのだろう。
それだけは思い返して我ながらとても良い判断であったと確信する。
人が何と言おうと。

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以下ルーブルの続き。例によってランダムです。

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セーヌを渡る。

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以下、クリュニー中世美術館

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一角獣のタペストリー

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この日は朝からルーブル美術館へ。
ここについてはいろいろ意見はあるが長くなるので省略。

ヨーロッパの旅の始め昨年4月に、ロンドンの大英博物館とナショナルギャラリーで「予習」をしたとするとまあ、今回は旅の「復習」をルーブルで、ということになるのだろう。
やっぱり大英博物館でものを見ていたときの方が圧倒的にテンション高く緊張していました。
そのテンションの違いは大英博物館かルーブルかという問題では当然なく、旅の終わりなのでこれもやむを得ないことなのでしょう。

また、当然ながら自分が現地に行ったもの(エジプトやギリシア)よりは、まだ行っていない場所、アフリカや南アメリカや中近東などがより興味深いのも当然のことだろうと思う。
そういった意味では今は未知の旅への予習の時であるのかもしれない。

以下写真の流れは編集する時間がなくランダムである。

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人だかりの方が興味深かった。

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今回ルーブルで最も興味深かったのは改築工事で発掘された元のお城の基礎部分である。
それだけなら、何と言う事はないのですが、その城は14世紀の手稿本の傑作「ベリー候の時燈書」に出て来る城だったことが分ったことである。

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モナリザの前の人だかり。近づく気も起こらず。

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こっちは大丈夫。ゆっくり見れた。ナショナルギャラリーのカルトンとツインで見てみたい。

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これにはさすがに凄いパワーありますね。ルーブルを救っています。

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ハンムラビ法典最上部。

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朝、宿をリヨン駅そばから、地下鉄ペレール駅傍へ移動。
その後パリ郊外、ポワシーから歩いて20分くらいのところにあるコルビジュエのサヴォア邸を訪ねる。
その後パリに戻り、南の端にある国際大学都市、シテユニヴェルシテールにある、同様にコルビジュエの設計したスイス館とブラジル館を訪ねる。

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宿からシャルルドゴールエトワールの凱旋門の地下鉄駅まで歩いてみる。

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以下サヴォア邸。

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管理人の家

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ポワシーのノートルダム。

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シテユニヴェルシテール入り口。

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以下スイス館

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以下ブラジル館

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昨日に続き、膝の調子がどうも悪い。足の関節が逆向きに折れそうな感じです。歩く分には何とかなるのだが、特に階段の上り下りがつらい。
パリの地下鉄は老人や身体の不自由な人には本当に「不親切」にできているところなので堪える。
昨年の夏のギリシアやイタリアはもっと過酷な状況だったが平気であったのにここにきて蓄積疲労が出ているのかも知れない。(うーん。走ってもないのにトシだにゃーと独り言。これで春から授業ができるのかしらとまた独り言。)
かといってホテルで休養する気分にもならず、今日は出かける場所をひとつに絞った。

シネマテークは歩いて行ける距離である。途中に国鉄近郊線の高架橋跡がアトリエ・ブティック街になっている場所があり、画廊、家具屋、アクセサリー店などが延々と並んでいてなかなか面白いところを通った。
シネマテークの上映プログラムを見てみたが、あいにく見たいものとは遭遇しなかった。
しかし併設の映画博物館ではメリエスの特集をしており、メリエスの短編の多くをみることができたし、その他エジソンの映像も含めていろいろ見る事ができた。

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荷物の重量を少しでも減らすべく、妻が午前中オペラ座近くにあるクロネコヤマトに行って荷物を送ってくれた。パリは便利ですねー。

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ベルシーの新大蔵省。

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シネマテーク入り口

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設計はフランク・ゲイリー。もともとはアメリカンセンターのための建物だったらしい。
どっちにしろ、フランクさんは個人的にはいただけない。

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ヴァザルリによる映画へのオマージュ

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ちなみにこの日上映されていた映像を記録として残しておきます。(部分的なものも含む)
メリエス、リュミエール、エジソン、オスカー・フィッシンガー、ジュール・マレイ、ヴァイキング・エッゲリング、ハンス・リヒター、ジガ・ヴェルトフ、エイゼンシュタイン、チャップリン、フリッツ・ラング、ムルナウ、ゴダール。







昨晩の映画「グラントリノ」の感動からその後の酒盛りは2時か3時頃までになってしまった。
あきお君は朝早くミラノに行くため宿を出たように思う(こちらも夢うつつなので時間はよく分らなかったが)。
その後、飛行機に間にあったかどうか心配したが、「なんとか無事到着」のメールをもらい安心した。
多分彼も二日酔いでしんどい状況だと思う。

僕は僕でポルトガル以降の疲れが出たのか昨日から古傷の膝がかなり痛み長時間歩けない状態になる。
今日は雨模様だし休養日にしようということで昼過ぎからモンマルトルに出かけ、夕方早めに宿に帰って休む事に。
モンマルトルは妻の買い物で、ザグレブのあきこさんが教えてくれた布屋さんがあるところ。
ちゃんと目的の布がありました。

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今日は書くべき事の多い一日。
あきお君は朝早く宿を出て図書館に向かう。
彼の研究テーマとかかわるミナールという人の図像を見る為である。ミナールはダイヤグラムに関する本であれば必ず出て来るあのナポレオンのロシア遠征を視覚化した人である。
しかし現在専門家でさえもミナールがどのような人かちゃんと知っている人は少ない。
ホテルに戻って来た彼に採集した図像をいくつか見せてもらったが大変刺激的であった。
特に僕にとってはミナールのナポレオン遠征ダイヤグラムが実は何とハンニバルのローマ遠征とセットだったことがわかり大変興奮した。これまでそんなものは見た事もなかったからだ。
ミナールはテクノクラートでそれゆえほとんど名前が出て来ない人である。
「にもかかわらず」ナポレオンとハンニバルをテーマにした事自体、このダイヤグラムが実務的というよりは、かなり強く啓蒙する意思を持って作られたということがわかる。
ヨーロッパ人にとってアレクサンダー、ハンニバル、ナポレオンは英雄3点セットなのだ。
アレクサンダーの場合はあまりにも古くてデータが充分ではないだろうが、ハンニバルならばかなりのデータがあるので可能と考えたのではないかと推測できる。
あきお君はハンニバルを知らないみたいなので「?」みたいな感じだったけれど。
まあ、ともかくもこれから彼の書く論文を楽しみにしたいと思う。

私たちは宿から歩いて国立自然史博物館の進化大陳列館、モスクを通ってアラブ世界研究所、サン・ルイ島に渡り、十数年前に泊まった宿を見て、シテ島ノートルダム寺院まで歩く。
国立自然史博物館は十数年前に僕が衝撃を受けた所で今日のwriting space designを僕が考えるきっかけになったところである(もう一つはクリュニュー)。
ここでの感想を述べ出すとあまりにも長くなるので止めておくがとても色々なことを考えさせられた。
昨夏、ギリシアの神秘のディスクの時にも書いたがここでもまざまざと十数年前の自分の経験が今の自分を決定していることを改めて考えさせられたのが一つと、しかしこの間の時間によって今の自分は当時とはまた異なる感想を持ったということである。
それは僕に与えられた新たな宿題なので今後ゆっくり考えたいと思う。

またアラブ世界研究所は今回はじめての訪問であった。
今更なのかもしれないが(1987年完成のものなので)とても良かった。
今回僕が見たヨーロッパの現代建築の中でも最も感動したものかもしれない。

そして明日からミラノに移動するためお別れするあきお君とは最後の夜なので、スペインから実はずっと気になっていた映画グラン・トリノを見に行く事にした。
これが期待通りというよりも期待をまたはるかに超えて傑作であった。
三人とも涙ぼろぼろ。
あきお君は上映中は泣いてないといっていたが嘘だ。
僕は最後の最後、「グラン・トリノ」のテーマソングが流れイーストウッドの声が聞こえてから堪えられなくなった。

小学生の頃見ていたTV西部劇「ローハイド」のロディ役の頃からのクリント・イーストウッドファンとしても、これは涙なしでは見られない映画である。(どうでも良いことだがこの映画で彼にアカデミー賞を授けなかったアメリカのアカデミーはアホである)
そしていつの間にか(僕の中では「バード」のころくらいから)アメリカ映画の最高の映画監督(それも2位以下を大きく引き離して)になってしまった彼だが、その中でもこれは特別な傑作の一つだろう。
ニューヨークと東京でもう2度見ようと思う。

あまりにも感動したのでホテルに戻り夜中まで酒盛り。
明日あきお君は飛行機の便が朝早いのだけど。

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パリ、宿の近くのリヨン駅。

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国立自然史博物館。正面が進化大陳列館。

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ビュフォンの像。

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進化大陳列館内部。
僕は十数年前、英国の自然史博物館を訪ねた後、ここを訪れた。英国は当時流行の映像、コンピュータインタラクティブの先端を走っていた。しかしここは全く映像などのハイテクは用いず、「ブツ」の見せ方(lightingとレイアウト)とグラフィックのみで、驚く程美しい空間を作り出していた。しかも後にベルリンのモリタさんから聞いてわかったことだが、パブリック施設においてサウンドデザインを導入した最初期の博物館だったのである。
音響がすごくて無意識に響くのだ。
英国とフランスこの二つの博物館の展示という行為に対する行き方は当時の僕には本当に多くの刺激を与えてくれたのだった。ものを「見せる」ということはどういうことかについて(当時の僕としてはストイックなこちらの方が断然好ましく思えたのだったが)。
しかし、今回の訪問で、ここもその後結局は時代の流れに抗する事ができなかったとみえ、液晶ならぬ古くさいTVモニターがあちこちにあり、かつてはあんなに緊張感をもっていた美しいグラフィックもぐずぐずになっており、実は少なからずがっかりした。
妻はそうだとしても十数年前にここまでやっていれば、当時あなたが感動したのは理解できるとなぐさめてはくれたが。
もちろん、僕自身も特に今回の1年の旅でさらに色々思う所もあるのでお互い様である。
要するに「時代は変わる」し僕らは「転がる石」なのだ。

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モスク

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アラブ世界研究所。設計ジャン・ヌーベル

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図書館

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ノートルダム寺院
リヨンから電車で約1時間、駅から坂道を歩いて30分くらいか、丘の斜面に建つコルビジュエのラ・トゥーレット修道院を訪ねる。
(僕は2度目。前回はJさんの運転するレンタカーであった)
最初に訪れて以来、時間が経つごとにまた来たくなったのだ。

光を可視化するとは言語矛盾なのは承知なのだが、モダニズムとかポストモダニズムとかいうことよりも、彼は実用的な空間において既に、現代のジェームス・タレルを軽々と先取りしている。ように思える。
僕は建築の専門家ではないけれど、ある境地にたった建築家がそれまで蓄えて来た全ての(建築)言語を使って自由自在、細部にわたるまで自分の意思をコントロールして作られている感じがする。多分施工現場はとんでもなく大変だったのではないだろうか。
そして見ていて楽しいのはとても心地よいリズムに建物が満たされていることに尽きる。

ある美的なエネルギー、それも強力なエネルギーに触れた。
かなり以前から修道院として使用されておらず、現在はもちろん管理はされてはいるものの一種の廃墟状態なのが唯一残念だけれども。
(一部修復中であった)

その後リヨンに戻り、夕方パリに向かう。


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いよいよ、スペインを後にして今日はフランス、リヨンへ移動する。
リヨンはコルビジュエのラ・トゥーレットを見る為である。
実はここは12〜3年前に同じ目的で訪れており僕にとっては再訪である。

フランスは食べ物は一流かもしれないが交通機関はあんまり良くない。
鉄道のシステムと案内がスペインに比べても旅行者にとって分かり辛く不親切な所である。
色々苦労したが何本か電車を乗り継ぎながら、無事リヨンへ到着。
夕方リヨンの街を散策。
ちなみにリヨンはグーテンベルクがマインツで近代活版印刷を始めた後、それが広まった最初の場所の一つであり、印刷に関しては大変歴史の古い街である。
旧市街には古本屋も多い。かつて訪れた古本屋も再訪した。

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ポルボウ朝。

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恐らくポルボウで一件だけ営業していた私たちの宿泊したホテル。建物の中に大きな松の木があった。

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ポルボウ。

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リヨン到着。

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最近(2002年)にできたらしい、サン・テグジュペリ(リヨン出身)のモニュメント。
バルセロナからスペインとフランスの国境の街、ポルボウへ。
ここはワルター・ベンヤミンが1940年に陥落するパリを逃れマルセイユを経て、ピレネーを超えて亡命するために到着した場所である。
そして入国を拒否された彼はここでモルヒネで服毒自殺をする。
1940年9月26日。死亡は翌日。

ここには彫刻家ダニ・カラヴァンがベンヤミンに捧げた素晴らしい彫刻がある。
そのことを教えてくれたのはK先生で(数年前)それ以来、ここには必ず来たいと思っていた場所である。僕はその記憶からK先生は既に訪れているものと勝手に勘違いしていたのだが、今回先生もまだ訪れていないことが1月にわかったのだった。
急な話だがせっかくなのでご一緒できればという話になった。しかし残念ながら諸事情で先生の今回の訪問は無理となった。

しかし先生はこの間、ベンヤミンがこの脱出行の時に持っていた原稿の入った重い黒い鞄に関するエピソード(『ベンヤミンの黒い鞄 亡命の記録』リーザ・フィトコ)を読んでない僕の為にわざわざテキストをメールで打ち込んで送って下さっていたのだった。

自分がいかにベンヤミンに影響を受けたかについてここで事細かに語るつもりはない。しかし簡単に言えば20歳代の自分がデザインをすることはどういうことかをリシツキーから学んだとすれば、デザインされたものと社会との関係はどのようなものか、考える事の意味と深さを学んだのはベンヤミンであることは間違いのないことだ。

ある人の記述によればスペインの国境警備隊がそれまでやって来ていたフランスからの亡命者を拒否することに決定したのはベンヤミン一行の到着前日であったらしい。
(ここら辺の事情は複雑で、私にはよく分らない。当時スペインはフランコが統治していて、このあたりにはドイツの駐在軍もいたらしいので)
しかしともかくも、つまりベンヤミンがもし前日に到着していたならば助かっていたのである。
そしてベンヤミンの自殺に感銘を受けたスペイン側の国境警備官はベンヤミンとともに来た他の人々がポルトガルへ逃れることを許可したという。

...とても悲劇的だが、ある意味ベンヤミン的だとも思う。

そしてベンヤミンが命に代えても守ろうとした黒い鞄は現在も見つかっていない。

その中身はパッサージュ論の原稿であろうと言われている。
彼程かしこい人が自分の危険を察知しないはずはない。(彼はユダヤ人だったので)
さっさと危険なパリを後にすれば良かったのにと今の僕は思う。
しかし彼はパリの図書館にある資料でこの論文を書かざるをえなかった。

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今回一緒に巡礼の旅に出たあきお君。
彼はムサビの学部、院を修了し現在はS大学の博士課程3年目である。言うまでもない事だが、大変優秀な男である。今回の旅は博士論文の為の調査も含まれている。今年論文提出予定なのでこれから修羅場が待ち受けているのだ。

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ポルボウ駅

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ポルボウの港。向こうがピレネー山脈。

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ベンヤミンの墓のある丘に立つカラヴァンの作品。タイトルは「パサージュ、ヴァルター・ベンヤミンへのオマージュ」これは垂直の断崖に斜めに貫通した階段であるが、他にも2点ありそれらはセットになっているようだった。

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向こうは海だが分厚いガラスでここから先には行けない。

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階段から見上げる。

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近くの墓地にあるベンヤミンの墓。小石が積み上げられていた。ここを訪ねた人たちによるのだろう。

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二番目の作品。

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墓地から海を見る。

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三番目の作品。ここに昇るとはるかピレネーと海が見える。


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その後、ポルボウにおけるベンヤミンの足跡を訪ねる。

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市民センター。閉まっていたが2階にベンヤミンに関する展示があった。

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当時フランスからピレネーを超えてスペイン領へ脱出する人々。


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ベンヤミンの亡くなった場所。真ん中の赤い壁の2階奥。

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最後にベンヤミンにとって書物と都市とは何か松岡正剛さんのテキストを引用させていただく。
「...ベンヤミンが若い頃から書物を偏愛し(これは予想がつくが)、それ以上に装幀に稠密な好奇心をもっていたことにあらわれている。ベンヤミンにとって書物とは、それが見えているときと、それが手にとられるときだけが書物であったからである。その書物の配列と布置と同様に、ベンヤミンには都市が抽出と引用を待つ世界模型に見えた。

 しかし、書物も都市もそれを「外側から内側に向かって集約されたもの」と見るか、それとも「内側が外側に押し出されたもの」と見るかによって、その相貌が異なってくる。」

(松岡正剛の千夜千冊ベンヤミン「パサージュ論」http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0908.html)


今日はバルセロナ最後の一日。
ミロ美術館、ガウディの設計したグエル公園、公園内にあるガウディの住居でもあったガウディ博物館を訪ねる。
夜10時過ぎ、東京からやってきたあきお君が無事ホテルに到着。
彼とはこれから数日writing space 巡礼の旅を共にする予定である。

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以下ミロ美術館。
写真は撮れないので絵を見せられないのは残念ではあるが、この美術館は場所、建築、展示内容全てにおいて素晴らしい。

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美術館屋上から見えるバルセロナ市街。

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以下、グエル公園。

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ガウディ博物館

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ガウディのベッド。

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朝、地下鉄でサグラダ・ファミリアへ。

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僕はバルセロナも、スペイン自体も今回の旅が初めてであるが妻は二度目で30年ぶりである。当時は塔は4本のみだったが現在は8本になっている。

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その後地下鉄でピカソ美術館へ。
ここは撮影はできないので写真はない。(写真は美術館中庭)
数としてはそう多くはないがここの特徴は子供の頃の作品が沢山あることと、ベラスケスのラス・メニーナスにインスパイアされた作品群だ。

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ガウディ、グエル邸。

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バルセロナ現代美術館。設計はリチャード・マイヤー。
4人の作家の展覧会と常設展をやっていた。

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トーマス・バイルレ。

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以前ソボルさんと話をしていた時「僕の旅はいわば修道僧の巡礼の旅みたいなものです」と言った事があるが、旅も後半、ますますその色合いが濃くなってきた。
中途半端な感想を述べる余裕もなくなってきた。
今後は淡々とした記録が多くなる事と思う。
今日は宿を出て歩いてミロ公園、スペイン広場、バルセロナ見本市会場を通りミースのバルセロナ・パヴィリオンへ。
その後スペイン広場からの軸線上のモンジュイックの丘にある広大なカタルーニャ美術館へ。
その後地下鉄で移動。アントニ・ガウディのカサ・ミラ、カサ・バトリョ、近くにある現在改築工事中のアントニオ・タピエス美術館の外観を見てホテルへ戻る。

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ミロ公園

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バルセロナ・パヴィリオン。
正式にはGerman Pavillion International Exposition Barcelona。これは1929年バルセロナ万博の時建てられ、終了後解体。1986年に同じ場所に復元されたもの。設計はミース・ファン・デル・ローエ。

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丘の上がカタルーニャ美術館。階段とエスカレーターがついている。

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以下、カタルーニャ美術館。中世キリスト教美術、特にカタルーニャ地方のロマネスク美術の宝庫。

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以下、アントニ・ガウディのカサ・ミラ。
ミースと同様、ガウディについて感じる所、大いにあるけれども書き出したらきりがないのであえて省略します。ただ単に「ガウディはとても良かった。偉大なモダニストである」とだけ。そして今回の旅全体の中でオルタ、ギマール、ガレなどとの比較関係とともに見る事ができたことも。

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屋上。

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東にサグラダ・ファミリア聖堂が見える。

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カサ・ミラ内のギャラリー。

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カサ・ミラの近くカサ・バトリョ。同じくガウディ。

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アントニオ・タピエス美術館、外観。

雨模様の中12時半発のaveというスペイン版新幹線でマドリッドのアトウチャ駅からバルセロナのサンツ駅へ。

マドリッドからバルセロナまで直線距離で420~30キロくらいか。約3時間。

列車は時速300キロを超えていた。

早いのは良い事かもしれないがおかげで車両が揺れ過ぎ。パソコンで作業するつもりが気持ち悪くなり中断してしまう。

宿はサンツ駅のそばで大変便利である。

いつも苦労しながら宿選びをしてくれている妻に感謝。


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マドリッド、アトウチャ駅.中が温室、ヨーロッパで最もお気に入りの駅になりました。


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バルセロナ、サンツ駅前。


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まあどっちにしろ、毎日がmuseo三昧という至福の、かつ結構しんどい日々を過ごしているわけですが、マドリッドも今日で最終日。

朝、やはり宿から近くにあるティッセン・ボルネミッサ美術館へ。ここは世界第二といわれる個人コレクション(ちなみに一位はエリザベス女王)で、ボルネミッサ男爵という人の美術館。

13世紀のイタリアからルネッサンス、フランドル、オランダ、イギリス、フランス、ロマン派、そして印象派、未来派、キュビズム、シュルレアリズム、ポップアートの20世紀まで、膨大なコレクションである。

建物もネオ・クラシックの傑作といわれているらしいが素晴らしいし、展示も良い。作品が時代別、国別にバランスよく配置され、「西洋」美術史を学ぶための教科書のような美術館である。

かなりの見応え。写真は不可なのは残念だけどその方が絵を見る事に集中できるので楽である。

ここは親子二代でできたコレクションらしいが全く想像がつかない。どうしたらたった二代でこのようなコレクションが可能なのか。

1990年代日本のバブル期においても、「日本人が金の力で」有名絵画を買い集めたと何かと話題、揶揄の対象になっていた事を思い出す。

しかし、どう考えてもこれに比べれば日本は赤ちゃんみたいなものだったのですね。


その後、国立考古学博物館に移動。ここは見るからに巨大で、かなりの覚悟で入館したのであるが、工事中なのかどうか分らないがごく一部しか展示しておらず、完全な拍子抜け。

ここではアルタミラ洞窟の壁画を再現しているということに強い期待を持っていたので大変残念である。


その後遅めの昼食をとり一旦ホテルに戻り休息。

スペインにいるうちに私たちもスペイン風シエスタを必要とするようになってしまった。特に昼食にワインなどを飲んでしまうと絶対必要となる。スペインの人々の昼食は2時頃から4時。

夕食のレストランに客が入り始めるのは9時からである。(レストランが始まるのは8時頃)

私たちは夕食には付き合いきれず、夜の9時からレストランに行くという事はほとんどしなかった。

(そんなことをしたら、ますます身体がもたなくなってしまう。あぁ、日本のあっさりした食事が恋しいよ。)


夕方、元気を取り戻しプラド再訪。

2度目でも改めて感動。まだ見足りないがしょうがない。8時に美術館を追い出される。

ティッセン・ボルネミッサ美術館、プラドともに写真不可なので残念ながらイメージはない。


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発見の広場

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以下考古学博物館

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今日は月曜日。ここ数日のトラブルでなかなか行けなかったトレドへ。マドリッドからバスで約1時間。

トレドのバスセンターで市バスに乗り換え丘の上、城壁で囲まれた旧市街、中心部にあるサンタ・クルス美術館へ。


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サンタ・クルス美術館。


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中庭。

サンタ・クルス美術館の後、アルカサルという巨大要塞の横を通り(内部に入らず)町の中心カテドラルへ。ここはスペイン・カトリックの総本山らしい。1227年着工、1493年完成。壮大であり入り口も5つの門がある(迷いました)。

ここは聖具室がかなり大きな美術館になっていてグレコ、ゴヤ、ベラスケス、カラヴァッジョなどかなりのものがある。

しかし展示の仕方は最悪で絵はとても見づらい。

全体的にとにかく埃っぽく、空気が悪い。思わず「ここは本当にあの有名なカテドラルか」と妻に言ってしまう程だった。入場料もかなりとっているわりにはひどい印象。(だいたいカテドラルは無料のところが多い)


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以下、カテドラル。


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その後、本日の目的地「サント・トメ教会」へ。

ここはマドリッドで宮廷画家の道を断たれたグレコが死ぬまで40年住んだ自宅そばの教会。

かの有名な「オルガス伯の埋葬」がある。

この一点のためにトレドに来る価値はあるだろうと思う。


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その後グレコの家を尋ねるも月曜日で休館なので外から眺めるのみ。


昨秋、リエカで薬師寺さんと話していて「グレコは今一わからん」と言ったら、「寺さん、グレコは凄いよ。スペインに行けばわかるから」と言われていたが、「にゃるほど」本当だった。

彼の空間の変形には全く独自性がある。

グレコをみていると使い古された「デフォルマシオン」という言葉が新たな意味を持って来るように思えた。

全く熱い変形であり視覚的である。


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以下トレドからの眺め。タホ川が見える。


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夕方マドリッドに戻る。アトーチャ駅外観。


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一昨日に行ったソフィア王妃芸術センターの横を通って宿に戻る。

朝早めにアランフェスの宿からマドリッドへ移動。約1時間。

ホテルはプラド美術館の近くなので荷物を置いて早速美術館へ。

フランシス・ベーコン展もやっていたがそちらには目もくれず常設展へ。(ベーコンに興味がないわけではありません。むしろかなり好きな作家ですが。)

この美術館は世界三大美術館の一つなどと言われており、今更僕がどうのと説明するまでもないだろう。ちなみに3つとはエルミタージュとルーブルとここだ。

これで一応僕はこの三つを見た事になる。

実際、傑作が目白押し、なんというか有名性だけではなくて、とにかく全体の質が驚く程高い。

その中でも無理矢理ベスト5を上げてみる。

「ラス・メニナス」を頂点とするベラスケス、

ファン・デル・ウエイデンの「十字架降下」、

ボッシュの「快楽の園」、

エル・グレコの「羊飼いの礼拝」、

フラ・アンジェリコの「受胎告知」

順不同...かな。

リューベンスもデューラーもゴヤもレンブラントもラファエロもブリューゲルもカラヴァッジオもそれぞれ良いものがあるにもかかわらずベスト5に入らないという豪華さ、贅沢さだ。

しかし別の日に来れば全く異なるかも。


一日いて、疲れ切ったが、ぜんぜん充分見たという感じはしない。時間が足りないのと体力も足りない。

再度来る事に。

久々に自分が眼の贅沢をしている感じを味わった。

写真不可なのでイメージはありません。


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アランフェスの宿の中庭。今日は朝から雨模様。


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プラド美術館。

この日はマドリッドに向かう。(宿はアランフェスのままである)

アランフェスーマドリッド間はバスで約50分なので国分寺から銀座に行くような感じである。

実は当初、今日トレドに行く予定だったのだ。しかしここに来てアランフェス発トレド行きの列車がないことが判明。バスもほとんどない。

原因は私たちのもっていたガイドブックが古かったためだ。それにはアランフェスがトレド行きの起点になると書いてある。実際地図を見ても位置関係からそのはずだと思った。しかし多分ごく最近に路線自体が廃線になったようで、マドリッド周辺の町に行くには必ず、一度マドリッドに行き、そこから向かわなくてはならないようになってしまっているのだ。事情は詳しくは分らないが距離的に言っても何とも不都合、不条理なな感じである。

...ということで今日はトレド行きを中止して急遽マドリッド入城である。

王立サン・フェルナンド美術アカデミー、イコー美術館、ソフィア王妃芸術センターの3つを尋ねる。


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王立サン・フェルナンド美術アカデミー。

ここはプラド美術館の分室と言われている所である。

16世紀から19世紀までゴヤ、スルバラン、ムリーリョなどのスペイン絵画が中心。その他はティッツァーノ、ブリューゲル、コレッジオ、リューベンス、アルチンボルトなど。

また館内にゴヤを記念した版画専門の美術館も独立してあって現代版画の作家の展示を行っていた。


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スルバラン


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イコー美術館入り口。

フランス人建築家ドミニク・ペローの大展覧会が行われていた。

写真は不可。


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ソフィア王妃芸術センター

ここは20世紀以降の近現代美術を集めた所である。かなり大きく見応え充分である。

ニューヨークから戻った有名なピカソのゲルニカもここにある。

ミロ、ダリ、ブニュエルなどスペイン出身の作家はもちろんのこと、それ以外の作品も傑作目白押しでかなり刺激を受けた。

またここはブニュエルもそうだが映像作品やドキュメンタリーも各所で映写していて(これは近年のプロジェクターの輝度が随分良くなったせいだが、絵画作品の隣に映像が映写されていたりして)大変刺激的であった。

ここも写真不可なのでイメージはない。


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写真は不可なのだが、廊下にあったこればかりはいやがる妻に無理矢理撮ってもらった。巨大なマン・レイのオブジェ。目が開いたりつむったりします。


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終日アランフェス。
朝、宿を出て「寒いなあ」と言っていたら交差点にあった温度表示を見てびっくり零下2度だった。これまでポルトガル、スペイン南部と春のような気候だったので、ヨーロッパの北に少し移動した事を実感。それでも昼間には18度くらいまで温度は上がるし、なにより写真を見てもらえばわかると思うが日差しが強いので冬の印象はないのですけど。

終日、王宮(内部は写真不可なのでイメージはない)、島の庭園、王子の庭園、船乗りの家、農夫の家などを歩く。
ここは町自体が王(フェリペ二世、16世紀〜カルロス三世、18世紀)の離宮だったところ。とても広大。

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町と離宮をつつむタホ川。

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「農夫の家」という名前の王の離宮。

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バスでグラナダからマドリッドのそばアランフェスへ移動。6時間程。
アランフェスといえばロドリーゴのあの名曲という人が多いと思う。
僕の場合、高校3年の時に当時の小倉のジャズ喫茶で聴いたジム・ホールです。


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連日の疲れが出て足(ひざ)がかなり痛くなり、今日は博物館に行った後は僕はホテルに戻って休むつもりでいた。(もう、無理の出来ない歳なんです)
午前中はサン・ファン・デ・ディオス博物館。
こじんまりしているがなかなかおもしろい。
特に石器時代の遺物はかなり。
多分専門家がいるのだろう。
博物館近くのサン・ニコラス教会の前庭から、アルハンブラ宮殿のある丘とグラナダの町の眺望を楽しんだ後、昼食をとってホテルに帰ろうかどうか迷ったのだったが、結局バスで科学博物館へ行く事にした。
ここで思わぬ不意打ちを食らう事になる。
この科学博物館が無茶苦茶すばらしかったのだ!
新しくできたらしい巨大な体験型博物館である。展示内容、展示方法、空間ともに素晴らしい。
実際、小学校高学年から高校生まで多くの子供たちでワイワイ賑わっていたがグラナダの公共施設で入館人数ナンバーワンという話もうなずける。
正直、スペインの首都でもないし、大体スペインの博物館などそんなに大したものではないだろうと僕は舐めてかかっていたのだった。
同じ体験型を目的にしていてもミュンヘンともウイーンとも異なる展示を展開していてそのオリジナリティに大変好感が持てた。
体験の為の仕掛けはこれまでのどこよりも突出して良く出来ていた。
体験して理解してもらうための装置のデザインはなによりデザイナー自身が対象物をよりよく理解し、使用者のことを深く考えないと良いものはできない。お金も時間も愛情も必要なのだ。きれいなディスプレイをして「ハイ終わり」というわけにはいかない。

また、ミュンヘンと(あそこも素晴らしかった)比較してコミュニケーションデザインにおける正解は一つではないという事を改めて実感させられた。
うーん、勉強になりました。
同時にヨーロッパの中では後進国ではないのかという僕の偏見は吹き飛んだ。スペイン、昨年のユーロサッカーと同様、大変元気、伸びざかりという印象です。

...ということで休む事も忘れてくたくたになるまで、結局博物館三昧の一日。
俺の足は大丈夫だろうか?

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以下サン・ファン・デ・ディオス博物館

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サン・ニコラス教会前庭。

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以下グラナダ科学博物館

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終日アルハンブラ宮殿。

ここについてはいろいろ感想ありますが、書き出すときりがないので省略。

離宮へネラリフェ、パルタル庭園、王宮、アルカサバ、カルロス5世宮殿というルートで歩いた。


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冒頭で感想省略と書いたが、庭に関しての覚え書きを少々加えておく。

ここはかつてローマ人の作った神殿の上に、ムーア人が宮殿を造り、そこにレコンキスタ以降のスペイン人が手を加えている。だから今私たちが見ている庭が少なくともアルハンブラ造営時代のものかどうかが、はなはだあやしい。(ような気がする)

この500年の間にかなりフランス庭園化しているのではないか。

イスラムにとって庭は天国の楽園の象徴だったのでこのことはとても重要である。

私の印象はこの変形がどのようなものであったかを知る必要があるということだ。

現在の折衷された感じの庭は意外にも全然凄いとは思えなかった。

正直な所。

また、してはいけないとおもいつつ、桂離宮や修学院等など、とんでもなく洗練された庭文化を持ってしまった私たちからすれば...?という思いがどうしても去来してしまうのだった。

例のごとく月曜日は美術館等はお休みなので町の散策へ。

夜は町の北東でアラブの統治下にできたグラナダ最古の街並が残るアルバイシン地区を歩く。


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以下、町の中心にあるカテドラル。1518年モスクの跡に作られ、工事は1704年まで続いたが未完。折衷様式でプラテレスコ様式というそうだが柱と天井のバランスが大変美しい。またパイプオルガンの巨大さに驚いた。実際演奏されていた。


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パイプオルガン


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アルハンブラ宮殿の裏側?


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向こうに見えるのはシェラ・ネヴァダの山脈。


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科学博物館


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ガルシア・ロルカ公園


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闘牛場


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以下、王室礼拝堂


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アルヘシラスから列車で約5時間、グラナダへ移動。
ここもアンダルシア地方の中心的都市である。
ローマ時代から栄え、モーロ人(イスラム教)のイベリア半島支配時代はコルドバ同様繁栄した古い町である。
またイスラム最後の王朝が築いたアルハンブラ宮殿がある。

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旅をしているのだから、当たり前と言えば当たり前のことなのだが、沢山いろんなものを見、感じているわけだ。それらの中には自分の頭や気分のなかでふわふわと転がしていたいものがあるにもかかわらず、旅の時間は否応なく進行するのでなんとも気持ちの整理が難しい。
ブログの更新が遅れるのは物理的な時間のなさもあるがむしろ、気持ちの問題も大きい。
今日のような電車での移動はそういった意味でパソコンで写真を整理したり、日記をつけたりするのに格好の時間となる。
うまく気持ちが切り替わるかと言うとそんなもんじゃあないのだが、とにかく過去を振り返る時間に充当することができるのだ。
しかしバスでの移動の場合、ノートブックの画面を見ていると気持ちが悪くなって来るのでこれができない。
ポルトガルをへてスペインに入って結構日が過ぎたのでその印象も書いてみたい気もするがなかなか手が進まず。

そういえば一昨日の夜の映画はこれも未見の「ノーカントリー」というもので、途中から見たがなかなか面白かった。CMも放映中には入らない。その前の「ゼア・ウイル・ビー・ブラッド」といいスペインのTV局はセンスがあるなあと思う。


アルヘシラスからバスに乗って40分でジブラルタル海峡に飛び出した岬、ジブラルタルに行く。ここはイギリス領で軍事上の要衝である。一応国境がありパスポートコントロールもある。ここは免税価格で買い物ができる町なので週末にはスペイン人が買い物にやってきて賑わう町だ。だから国境と言っても物々しさは全くない。私たちの目的はこの岬を象徴する岩山ターリクの山に登り、ジブラルタル海峡を見る事であった。少し曇りがちな天候であったがかすかにアフリカ大陸を見る事ができた。

ここからの眺めは絶景である。

その後アルヘシラスに戻り、夕方の5時から町の闘牛場で闘牛を見る事ができた。前にも書いたがまだ季節ではないので無理だと思っていたが幸運だった。

感想は長くなりそうなので省略。


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向こうに見えるターリクの山。


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この岩山全体は自然公園になっていて野生の猿の生息地として有名である。


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向こうに微かに見えるのがアフリカ大陸。


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右手がアルヘシラスの港。


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山を下りて岬の先端、灯台から山振り返る。


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決闘というのか試合というのか戦いというのか、5試合見たのだが、スタジアムが急に冷え込んで来て我慢の限界だったので我々は闘牛場を後にした。

まだ続きそうな感じであった。

またこの日は週末なので町中ではサッカーの試合で盛り上がっていた。




朝から曇りで雨模様。

朝10時の高速艇に乗ってアルヘシラスの港からアフリカ大陸の対岸セウタへ渡る。約1時間(ジブラルタル海峡の幅は15キロ)。

セウタはまだわずかな土地がスペイン領でそこを通り過ぎるとモロッコへの国境がある。

まずセウタ近くのテトゥアンの町を尋ねる。迷路のような複雑なスーク(市場)やユダヤ人街などを歩き回る。昼食。

その後車でタンジェ(タンジール)へ。

ここで絵を描いたマティスのこと、作家のポール・ボウルズ、ウイリアム・バロウズのことを考えながら。

その後、再びセウタまで戻りアルヘシラスへ戻る。


タンジェやテトゥアンは悪質な客引きで有名であるが、エジプトに比べれば全然かわいいものだ。モロッコの人気(じんき)は総じて良いように思う。

約12時間の日帰り旅行であった。


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連日の疲れがかなりたまってきた。

このブログの更新も滞っている。

それでも今日は移動日なので昼までホテルで写真の整理などを行ってタクシーでバスセンターへ。

13時のバスでアルヘシラスへ向かう。約3時間半。

アルヘシラスはスペインの最南端に近く、アフリカ大陸への起点となる大きな港町である。

初めはこの後コルドバ行きを予定していたが、考えた末、気が変わったのだ。理由は省略。結果が吉と出るか凶と出るかはわからないけど。


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セヴィーリャのバスセンター


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途中、相当大規模な風力発電地域があった。


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夜、宿のテレビをつけたら映画が放送されていて、あまりにも映像が美しく夫婦で見とれてしまった。スペイン語に吹き替えられているがアメリカ映画であることは分った。見た事のない映画である。しかしその映画がただものではないことは60秒くらい見てれば分るものだ。その後1時間程見たが気になってネットで調べてみた。

「石油掘りの男の映画」で検索すると一発で出た。「ゼア・ウイル・ビー・ブラッド」(これは何と訳すのだろうか?)というタイトルであった。昨年の春以降の日本公開らしいので知らなかったことに納得。日本に帰ったらちゃんと見てみたいと思う。

例によって話はどうだか分らないが撮影がすこぶる美しい。言葉が少ないのも好ましい。

多分若い監督だと思うが巨匠の風格であった。

セヴィーリャの旧市街の外側を流れるグアダルキビル川沿いを歩いて、南にある考古学博物館、民俗博物館に向かう。3~4キロ程だろうか。

途中、3つの橋を見、海洋博物館になっている黄金の塔に寄る。


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左手にマエストランサ闘牛場を見る。今は闘牛の季節ではないらしい。


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黄金の塔


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内部


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塔の上から町を見る。右手が旧市街。


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広大なマリア・ルイサ庭園内にある考古学博物館、正面。


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ここにあるローマ時代のものは多くが先日行ったイタリカからの出土である。


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その後昼食を挟み向かい側にある民俗博物館へ。


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その後トラムやバスなどの適当な交通機関もないので再び歩いて宿まで戻ることに。

途中バスセンターで翌日の移動の確認、スペイン広場、カテドラルのある旧市街で夕食をとり、ホテルに戻る。

昨日の遺跡歩きも相当なものだったが今日も少し歩き過ぎて足が痛くなる。

全部で12〜3キロくらいだろうか、あるいはもっとか。朝ホテルを出て食事時と時たまの休憩以外はずっと立ちっぱなし、歩きっぱなしである。

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以下スペイン広場


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セヴィーリャから9キロ離れたところに古代ローマ時代の遺跡、イタリカがあり、午前中バスで出かける。この遺跡は紀元前206年に築かれた大都市である。
詳述する時間はないがこの時期ローマはカルタゴ、あのハンニバルとの激闘を繰り返していた(第二次ポエニ戦争)。この後(イベリア半島征服=地中海の完全覇権掌握によって)ローマは本当の世界帝国になっていくのであるがこの都市はそのポエニ戦争の最中につくられたものである。
またここはあのトラヤヌス帝、ハドリアヌス帝が生まれた場所でもある。つまりトラヤヌスはローマ貴族出身ではなくローマ帝国内属領出身の最初の皇帝になった人でもある。
私たちはローマの遺跡に来ると何故か元気になる。妻の風邪も完全に回復したようだ。
ローマ人が都市を築く場所は常にその地域における最高の場所だからだと思う。
昔の東洋人ならば風水的に最高の地というだろう。

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ホテル前の路上にて。

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以下イタリカ遺跡。この遺跡は広大である。幸いにして周辺が都市化されていないためこのような完全な形で残ったのだと思う。発掘されているのは全体の10分の1(あるいはそれ以下)程度ではないかと推測する。
何もない所でもかつての都市の空間全体の広さを感じる事ができるのが素晴らしい。

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未発掘の場所

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手前が発掘されていて向こうは土に埋められている。

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円形劇場

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その後セヴィーリャの町に戻り、美術館へ。
17世紀に建てられた修道院だったところ。アンダルシア地方の画家の作品が集められている。
ムリーリョを筆頭にスルバラン、ベラスケス、バチェーコ、その他近代の作家まで。

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ファーロからバスでスペイン、アンダルシア地方の州都セヴィーリャに移動。バスで3時間(+時差1時間)。
スペイン南部のアンダルシアは闘牛やフラメンコなどスペインの中でも最もスペインらしいところと言われる。ジブラルタル海峡を挟んでアフリカ大陸も近く、その文化的な影響も色濃い。

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ポルトガルとスペインの国境の川、グアディアナ川を渡る。


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以下セヴィーリャ市街。

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市役所広場

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ヒラルダの塔、先端。ヒラルダとは風見のこと。

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セヴィーリャの歴史的象徴のひとつ、カテドラルとヒラルダの塔。
詳述する時間はないが、712年のモーロ人(=ムーア人=アフリカのイスラム)に征服されたイベリア半島(その中心地がセヴィーリャであった)がその後レコンキスタによって再びキリスト教に再征服される。このカテドラルにはイスラムが残した塔やオレンジの中庭と、レコンキスタ後に作られた巨大な(ヨーロッパ全土でサン・ピエトロ、セント・ポールに次いで3番目の大きさ)聖堂が合体している。
確かに巨大だが、威圧感はあまり感じない。これが大変不思議というか、普通の聖堂が持つシンメトリーが微妙にはずされた空間、結果的に中心軸をずらした空間になっていて興味深い。
これをイスラムとキリストの調和と言うべきかどうか知らないし、ましてやポストモダン的というと語弊がありそうだけれども、僕にとっては「結果的に出来てしまった」ようなその全体の構成が大変面白く、とても好ましい空間であった。

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オレンジの中庭

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今日は日曜日。
最初に訪れた郷土博物館が休みで出鼻を挫かれる。ガイドブックの記載と異なるのだ。これは大変残念。その後旧市街の外側に広がる新市街を散歩し市場などに行き、旧市街にある考古学博物館へ。内部は写真不可だった。
その後、時間が余ったので昨日僕は見れなかった例の夕焼けを見た後、映画に行く事にした。
町の映画館ではアメリカ映画を2本やっていて「ベンジャミン・バトン」というのを見た。
大きなスクリーンで見るのはヴェネツィア映画祭以来なので久々である。
字幕はポルトガル語。英語がもちろんちゃんとは分らない。なのでひたすら画面を凝視し内容を追うことになる。こういった見方は不便ではあるけど、他方意外と面白みもあるのだ。映像のリズムとかトーンのようなものに普段よりも意識が行かざるを得ないのだ。日本だとどうしても字幕に意識が行き過ぎるのだ。
なので感想を書くのは少し憚られるのだが、この特殊な見方においてこの映画の感想を述べておこう。
まず最初に出て来るケイト・ブランシェットのメーキャップが、かつて見たコッポラの「ドラキュラ」ゲイリー・オールドマンのメーキャップそのままで、はじめは別のホラー映画の宣伝だと思ったくらいだ。(もしドラキュラを見てない方はぜ確認してみて下さい)
それから想起される事はドラキュラも不死を主題にしており、時間と逆行して若返るというこの映画とはつながっているのだ。
で、結局はケイト・ブランシェットの醜いメーキャップは、欧米人の老いに対する強烈な潜在恐怖が図らずも露呈しているのだと解釈せざるを得ないのだ。

画面を見ながら「老いる事はそんなに醜い事なのか?」という問いが最初から出て来て困る。
(クロサワの「乱」における老いもそういえば醜かったなあ。しかしこの映画においては老いと誕生は一つに結ばなきゃならないんじゃないか?アジアでは鶴亀の例の様に老いはめでたいことなのだ)

この映画の中ではベンジャミンの育ての母親の存在感が頭抜けて良いし、船でロシアに行くエピソードなど時々ファンタジックな部分もあるものの、戦後の描き方はいきなり平板になってしまう(つまりこの映画の比較的良い部分は、時間と逆行して生きざるを得ないベンジャミンと基本的にはあまり関係のない所で展開する)。
そして結局やたらと長い。長過ぎる。母親(ブランシェット)と娘の何度も繰り返す挿入シーンなどは全く不要ではないのか。
ニューオリンズのあのハリケーンにダブらせる必然性はあったのだろうか。
観客は後半ひたすらブラット・ピットが若返ること(CG加工やメーキャップ)に意識を向けられていく。これも本来の主題とは関係のない事だ。世界中の人間がブラット・ピットの若返りに固唾をのむなんてちょっと倒錯的な感じがしました。

以上、言葉の理解なしの見地から見た無謀な批評でした。実際はどんなに凡作であったって映画を見れただけで楽しかったんですけど。
まあこの監督「エイリアン3」の時から相性が良くないようだ。もしこの映画が好きな人がいたら許して下さい。

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考古学博物館

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オウムを背負って夕日を見に来る男。

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奇妙な偶然。映画「ベンジャミン・バトン」でこれと全く同じ構図の画面が二度登場する。映画の方は朝だったけれど。

朝の列車でリスボンを発ちポルトガルの南端の町、ファーロに向かう。約22030キロの距離か。電車で約4時間。


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今回のポルトガル、スペインの南部諸都市訪問の目的はローマやギリシアの遺跡を見る事も当然あるけれど、ヨーロッパにおけるイスラムの痕跡、イスラムとキリスト教の混交を見る事も目的の一つである。

ここファーロはポルトガルにおけるイスラム勢力の終焉した場所なのである。地中海を渡ればもうそこはアフリカなのだ。


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ファーロ沖合に広がるラグーンの航空写真。私たちは町が出来る前のヴェネツィアがこのような状況だったのではないかと想像した。


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旧市街の門、アルコ・ダ・ヴィラを内から振り返る。


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旧市街の中心。


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夕方、僕は散髪に行ったのだがその間妻が撮った夕焼けの写真。


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沖合にラグーンの影が見える。

妻の風邪が少しぶり返し、調子が今一なのでホテルに残し、僕は午前中は一人で町を散歩する。ホテルからドゥケ・デ・サルダーニャ広場を通り、ボンバル侯爵広場、ラト広場などぶらぶらと5キロ程歩く。


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午後、少し体調の良くなった妻と再びグルベキアン美術館へ。歩いて10分程のところにある。

別館で今日からダーウィン展が始まるので、その為に改めて来たのだ。

展覧会は大変熱のこもった素晴らしいものだった。また改めてここの美術館全体は素晴らしいと思う。設計の中心はリベイロ・テレス(Ribeiro Teles)という人らしいがやはり詳しい事はわからない。ポルトガル初期モダニズム建築の傑作と言われているらしい。私の印象は鎌倉の近代美術館を思わせる落ち着きと佇まいを持つ。


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最近、たまたまK先生とベンヤミンをめぐってメールのやりとりをしていて、それはベンヤミン自身のナチスからの最後の逃避行のことについてなのだが、同時にかの有名な「アウラ」というこばをめぐって自分なりに見えて来たものについて語っていたりしていたのだ。その話はまだ続いているのでいつかここでまた触れると思う。

それとは別にK先生とのやりとりで以前に三木成夫さんのことを教えてもらったことがあり、ちょうどそれを改めて読み直したいと思っていたところだったのだ。その本の書名は『海・呼吸・古代形象』であった。三木さんは解剖学者、発生学者なので直接ダーウインとは関係があるのかどうかは知らない。僕にとってのダーウィンは佐々木正人さんやエドワード・リードによる「魂(ソウル)から心(マインド)へ―心理学の誕生 」経由(読みかじり?)なのだ。しかし今の僕の中ではこの三木さんという人とダーウィンが繋がっているのだ。しかも三木さんはモルフォロギアでゲーテに繋がっている。

説明はしませんが。

...ということもあって(話せば長くなりますが)、今回のダーウィン展は大変刺激的でした。

また展示ではかのラマルク「form follow the function」についてもちゃんと触れられていたし、リンネやビュフォンなどの博物学の歴史についても。


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リンネ


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リンネの分類模型


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ビュフォン


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ラマルク


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ビーグル号


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生モノもちゃんと展示してます


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これは剥製。


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ダーウィンのメモ


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この後妻はホテルに戻り、僕はリスボン最後の夜なので町を無目的に彷徨う。



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リベイラ市場。

二階には大きな書店とワイン・ショップがあった。そういえばポルトガルで特筆すべきはワインのおいしさである。しかも大変安い。コストパフォーマンスが大変高いことに驚く。


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CCBはベレン・文化・センターの略称。

設計はイタリア人グレゴッティという人。劇場、会議場、ギャラリー、レストラン、ショップなどの複合施設。大きさの割には外壁の石の色のせいか威圧感はない。大ギャラリーでは現代美術(1940年以降)を中心にした展覧会を行っていた。


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国立考古学博物館。

ここは広大なジェロニモス修道院の西棟部分にある。この修道院は大航海時代のポルトガルの栄光を偲ばせる大建築である。


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エントランス。内部は撮影不可であった。

展示は大変凝ったもので、ポルトガルの底力を感じる。


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海洋博物館。

ジェロニモス修道院の西の端に入り口がある。素晴らしい博物館であった。


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ここはさすがに船の模型が凄い。質量ともに圧倒される。


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海洋博物館のミュージアム・グッズは意外な事にこれまでに行った全てのミュージアムの中で最も良いと思った。とてもオリジナリティのある品揃えである。このショーケースなんか全部買い占めたいと思ったものだ。もちろんそんなことはしませんが。しかしそんな気にさせること自体が今までにないことでした。

これまで見て来たミュージアム・グッズはどこもアメリカかフランスの有名ミュージアムをお手本に(単なる真似)しているせいか似たり寄ったりでつまらない所が多いのだ。

今日の目的はユーラシア大陸の西の果て、ロカ岬である。

詩人カモンイスが「ここに地果て、海始まる」と詠んだところ。

まずは途中のシントラまで電車で行く。シントラはリスボンの西28キロ、電車で約40分。

山の中に王宮や別荘が点在する町である。

ここからさらにバスに乗って西に約40分でロカ岬に到着。

この旅のはじめの頃のアイルランド、ディングル半島を思い出す。

天気は晴天だが風が強い。

1時間程してシントラに戻る。

シントラには14世紀の王宮、7~8世紀に作られたムーア人の城跡、ペーナ宮殿などがあり町からそれぞれを巡るバスが出ている。

ペーナ宮殿を作った(作らせた)のはあの有名なドイツのノイシュヴァンシュタイン城を作ったルードヴィヒ二世のいとこ、フェルディナンド二世である。

血は争えないというべきか、笑ってしまう程のキッチュさである。1850年に完成。

何故こうもキッチュに見えるのか、多分本来ならば石や大理石で作られるべきところにコンクリを多用している所ではないかと。


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ロカ岬


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大西洋。彼方はアメリカである。


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以下シントラ、ペーナ宮殿。


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ムーア人の砦。


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シントラの町。


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午前中に歩いて近くのグルベキアン美術館へ。ここはアルメニア人の石油王の残したコレクションからできた美術館である。建物はモダニズム・スタイルで近代建築のお手本のような素晴らしい空間と思う。3人のポルトガル人建築家の共同らしい。

ここの建築にまつわる本もあったがポルトガル語だったのでよくわからなかったのは残念。美術館のカフェからの眺めなど周辺環境もとても良い。

コレクションの幅もエジプトからギリシア、イスラム、日本、ヨーロッパ美術と多彩かつ質が高い。さりげなく置かれていたが日本の蒔絵は特に突出して素晴らしい。多分大英博物館のコレクションにも劣らないのではないだろうか。


その後地下鉄と市電を乗り継いで国立古美術館へ。

ここは撮影禁止なので画像はない。ポルトガルを代表する美術館と言われるところだ。

14~19世紀のヨーロッパ美術、インド、中国、日本、アフリカなどかつて関係のあった国々の美術、そしてポルトガルの絵画と彫刻の三本柱で構成されている。

特に工芸品の量は膨大である。

ボッシュの「聖アントニオの誘惑」は特に印象深い。駄作のないボッシュの中でも最高の部類であると思う。

もうひとつは南蛮屏風が凄かった。

狩野派おそるべし、と思った。

桃山文化の最高傑作というのもうなづける。これは昔から画集で何度も見て良いとは思っていた。しかし本物の凄さというのは全く違っていた。これだけでもポルトガルに来た甲斐があったと思う。

夜、バイシャ地区にあるファドハウスに行き、食事をしながら念願のファドを聞く。7時半から結局11時半まで。


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以下グルベキアン美術館。


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そういえば。ここリスボンで思ったことではないが、ここで今まで記したことがなかったけれど、この旅で日本の伝統工芸美術がいかに素晴らしいかを思い知らされた。これは僕にとってこの旅の本当に特筆すべきことの一つであった。


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国立古美術館からテージョ川を見る。


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ファドに関するコメントは書き出すと長くなるのでやめます。


今日は月曜日なので例によって町巡りの一日となる。

私たちの宿は市の北部、カンポ・ペケーノというところで傍に大きな闘牛場がある。

リスボンの市内交通は地下鉄、バス、トラム(市電)、ケーブルカーがある。どれにも乗れる一日券でどこにでも行ける。よく言われるようにリスボンは坂の町である。せまい坂道の石畳を小さな市電がゴトゴト、ぐいぐい走って行く。

コメルシオ広場、リベイラ市場、フィゲイラ広場、サンタ・ジュスタのエレベーター、バイロ・アルト周辺、アルファマ周辺、テージョ川沿いの発見のモニュメント、ジェロニモス修道院など。

リスボンの町の規模や位置関係、市電、地下鉄、バスの路線がだいたい分る。


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朝起きたらホテルの前に三島のポスターが。残念ながらもう終わってましたが。


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「発見」という自己中心的な言葉には当然異議はありますけど。せめて「出会い」くらいにするべきだよね。21世紀にもなって。

ただ本当の意味で日本の近代を覚醒させたのは幕末の黒船なんかじゃなくて、それよりもずっと前のポルトガルの種子島到着だったことは間違いのない事だと思う。


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暖かく(10度くらい)雨模様の朝、10時20分にリエカを発つ。

ユーリッチさん、ダリンカさん、マイーダさんとお別れ。

ダミールさんの車でヴェネツィアのマルコ・ポーロ空港まで送ってもらう。

いつもならば朝6時のバスでトリエステまで出て列車でヴェネツィア、バスで空港というルートだが今回は妻が病み上がりということもあってダミールさんに運転をお願いしたのだ。

さすがに車で行くと早い、トリエステまで1時間半(バスならば2時間半)。

途中余裕ができたのでヴェネツィア近くの町のトラットリアで昼食。

2時20分に空港到着。4時発予定のポルトガル行きの飛行機は2時間の遅れとなり結局リスボン空港に降り立ったのは8時半。

10時頃宿に無事到着。日本との時差は9時間となる。


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マルコ・ポーロ空港からアドリア海とヴェネツィアを見る。


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宿に着いた後、夕食の為にレストランを探して近辺を探すもほとんどの店が閉まっていた。

諦めかけていた頃にやっと見つけたのが「ピザハット」であった。


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霧雨模様。

鳥の鳴き声、虫の声からなんとなく春の訪れの気配を感じる。

2月はもう少し厳しい寒さを予期していたので意外な感じのここ数日です。多分また何度か寒い日もぶり返すのだろうけれど。

実は今週あたりからリエカ最大のお祭り、仮装行列による大フェスティバルが本格化するのだが、残念ながら私たちは見る事ができない。この祭りはすでに近隣各地の村々で始まっていてそれが徐々に盛り上がっていくものらしい。

春を迎えるこの祭りは、はるかキリスト教以前からの土着のものが起源ということだ。約3週間後にリエカの中心街で行われるパレードでピークを迎えるとの事。

妻は見れない事を残念がっている。


午前中、町に行き両替などをする。

午後、私たちの名前がついたオリーブの樹をダルマチア、プリモシュテンにあるユーリッチさんのオリーブ畑に植樹するためのセレモニーを行う。名札を刺して樹が元気に育ち実を沢山つけるようにお祈りし土をかけ、そして皆でウオッカで乾杯する。

私たちはこの樹のゴッドファーザーとゴットマーザーだとのこと。

これからユーリッチさんたちはオリーブ畑に行く度にこの樹に「トモコサン」「テラヤマさん」と声をかけるんだという。ユーリッチさんらしい別れの挨拶。


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終日、大掃除に追われる。

夕方やってきたマイーダさんとの会話。

彼女は現在新しく作っているリエカ市のウェブサイトの編集ディレクターをしていることを昨日はじめて聞いたのだった。彼女はそこで様々な提案をしているらしく、今日はその為の重大な会議があると言っていた。ここの市長はすでに8年続いているリベラルな人で市民からは信頼されているらしい。5月には選挙もあるので、選挙のストラテジスト(戦略家?)やザグレブのデザイナーなどもやって来るという。

「今日の会議はどうだった?」と僕が尋ねると

「問題なく完璧に行きました。」とマイーダさん。その会議の中で

「この前撮影したテラヤマさん夫婦のリエカ市へのメッセージビデオを見せて紹介したら、市長がぜひディナーに招待したいので伝えてくれと言って来たの。」

「へえー。」

「でもテラヤマさんは明後日にはリエカを発ちます。と答えたら」市長から

「何で昨年の4月から今までこの僕に紹介してくれなかったんだ。と言われたわ。」

「だってテラヤマさんは自分はシャイだと言ってたし、そもそもこうゆうポリティカルなこと嫌いでしょ。」

「うん。そりゃそうだ。でももしそれがソボルさんやマイーダさんにとって必要だったならば多分どこへでも行ったと思うよ。」

彼女は笑っていた。


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朝、郵便局で荷物を送る為にマイーダさんが車で迎えに来てくれる。荷物が結構重いし、雨も降っているしで妻も手伝いに行くと言っていたのだがマイーダさんから「あなたは来てはダメ。家で寝てなさい」と言われ結局彼女の言葉に甘える事になった。
クロアチアで郵便を送る場合、完全にパッケージしてはだめで箱を開けられる状態で持って行く。そこで郵便局員が内容をチェックしOKが出てから梱包をし直すのだ。
郵便局員はマイーダさんと顔見知りの人だったらしく、とても良い人だったが、荷物を持って行って作業が終わるまでに2時間もかかった。
たかだか3箱の荷物を送るのに1人の郵便局員がかかり切りで2時間かけるなんて。こんなことで果たしてクロアチアのシステム大丈夫か?と思うが、僕が心配してもはじまらない。
2時間の間、荷物をあっちやこっちやに移動し、検査後指示されたとおりにパッケージし直す作業をやっていると汗がでてきた。まるでジムで運動したみたいねとマイーダさんと苦笑する。
とにかく荷物を無事送り出す事ができたのでホッとした。
帰りに車で「こんな非効率的なシステムで大丈夫かなあ」というとマイーダさんはいつものように済まなさそうに「クロアチアでは毎年の様にルールが変わるの。ごめんなさいね。」と言う。実際値段もネットであらかじめ調べていたのと全く違っていた。
でも実は最近では異常なまでに社会の隅々までサービスが行き渡った今の日本が普通じゃないのだと思うようになりましたけど。
考えようによっては今の(これまでの)日本は天国のような所なのだ。住んでいると気づかないけど。でもその日本システムもこれからは維持していけないかもしれないなあと思う。多分日本人がその為に相応の無理をしているのかもしれないから。

帰りの車でマイーダさんと話した事がもう一つ。
僕がリエカとザグレブで講義をしたことを知ったスプリットの美術大学の先生がマイーダさんに電話して来て、是非スプリットの美術大学に来てくれという依頼があったとのこと。
クロアチアはザグレブ、リエカ、スプリットが人口でも文化的にも3大都市なのだ。
スプリットは9月に訪れたところで、あのディオクレティアヌスの宮殿跡が旧市街になっている所。近くにはサロナ遺跡もあり、僕にとってはかなりお気に入りの町だった。
http://www.esporre.net/terayama/2008/09/0917split.php
http://www.esporre.net/terayama/2008/09/0918salona.php
「そこの美術大学の先生が、ザグレブなんてコンサバティブじゃない。私たちのところはモダーンだから、テラヤマは私たちの所にこそ来るべきよ」と言って来たという。
それを聞いて僕は「ああ、またスプリットに行きたいな」と単純におもったのだったが、
「でもテラヤマさん、奥さんが風邪でそれどころじゃなかったし、もう時間もないからあなたにはわざわざ相談しなかったわ。私からイッツトゥーレイト。ネクストタイムと言っときましたたからね。」と言われた。
「テラヤマさんあなたは今やここではユーメイジンよ。」とおもしろそうに笑っていた。
...僕は一瞬頭に浮かんだスプリット再訪が出来ない事が少し残念であった。


午前中、銀行や買い物などのために町に行く。
ここ数日寒さが緩んだようだ。小雨で霧が出ている。
このペタルクジッチの階段で町まで出るのももう最後かと思いながら歩いて行く。

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昨年末からリエカの最も古い教会の横で発掘作業が行われていた。先日そこからローマ時代のきれいなモザイクが現れ、4〜5世紀の石棺も出土したことが新聞でもテレビでも大々的に報道されていた。新聞はソボルさんがわざわざ持って来て見せてくれた。
その現場に寄ってみる。
この正面の教会の塔の向こうが海である。おそらくここはかなり広い神殿だったと推察できる。トルサット城ももとはローマ人が造った監視用の砦だったのだと思う。
僕が市長ならこの教会や周りの建物みんな移築して完全に掘り返してみたいが、この後どうするのだろう。

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午後、アメリカに発つソボルさんが別れの挨拶にやってきた。
いつか彼らと日本でまた会える日を楽しみとしたい。

夕方、いよいよ荷造り本格化。妻は時折起きて来てテキトーな僕の荷造り作業を監視するまでに回復した。
8日の出発までには何とかなりそうなので一安心である。
荷物は総計80キロで3箱。重さ調整が本当にやっかいであった。
妻の症状あまり変わらず。
今日あたり元気になるのではないかという僕の希望的観測は外れる。
ただ夕方あたりには、少し回復の兆し。
少なくとも最悪のピークを越したのではないかと思う。

昨日に引き続き荷物の選別や荷造り作業などを一人で行う。
あまり捗らず。

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以下妻の写真機より。前回のザグレブ行きの途中風景。

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妻には全く回復の兆し見えず。 
僕の時よりも症状が重いようである。

でも、呆然としているわけにもいかず、とにかく撤収のための荷造りを一人でやるしかない。
しかしここクロアチアでは荷造りの前に、荷物を送るということそのものが日本のように簡単ではないのだ。
マイーダさんとこちらの郵便事情、システムを相談するところからやる必要があるのだ。調べてもらうと料金も日本より高いしよくわからない制約がありそうだ。
こちらでは僕にすればひたすら本を買わないよう努めてきたが、それでも各所で頂いたものや資料、恐らく日本では手に入りにくいだろうと思われ購入した本が60キロほどになる。段ボール箱二箱半くらい。
その他全部で80キロ程のそれらをどのように送るかを検討。

以下10月末からこれまでの旅の覚え書きを記す。
覚え書きを記しながら思ったのだが、藤田さん、薬師寺さんが訪ねてきてくれたのはわずか3ヶ月前、ついこの間だ。
その後こんなにあっちやこっちや行ったのかと思うと我ながらこの旅尋常じゃないなと思う。
まあ自分で言うのも変ですが。
旅の前半、6月頃だったと思うが友人のスエマツ君にメールで「よくお前のその無茶苦茶な旅のスケジュールに奥さんが耐えられているなあ」と言われたことを思い出す。
実はこの旅の出発ぎりぎりまで妻は一緒に来たくないと言っていたのだ。
「あなたの研究なんだから、一人で行けばいいじゃない。子供たちが心配だから私は東京にいます。お金もかかるし。もし困ったら行ってあげるから。」だった。
まあそんな経緯もあったのだがともかく旅はここまで来たのだ。
何とか全うするしかありません。

旅の記録

10月26日以降2月頭まで。クロアチア、スロヴェニア、フランス、オーストリア、ドイツ、イタリア、エジプト、ヨルダン。


museum/library 美術館/博物館等】

ステューデント・センター(美術館)(ザグレブ)/1930年万博会場跡(ザグレブ)/ルーブル美術館(パリ)/パリ・フォト(パリ)/T.A.F(パリ)/ポンピドゥー美術館(パリ)/科学技術博物館(ウイーン)/旧総督邸(文化歴史博物館)(ドブロブニク)/クロアチア芸術協会美術館(ザグレブ)/イムホテップ博物館(エジプト)/ヌビア博物館(エジプト)/ルクソール博物館/エジプト考古学博物館/聖カトリーナ修道院(図書館)/レッド・ドット・ミュージアム(デュッセルドルフ)/シオルフェライン炭鉱跡(デュッセルドルフ)/クンスト・パラスト(デュッセルドルフ)/エーレンホーフ文化センター(デュッセルドルフ)/K21シュテンデハウス州立美術館(デュッセルドルフ)/グーテンベルク・ミュージアム(マインツ)/マチルダの丘(マインツ)/芸術家コロニー美術館(ダルムシュタット)/ドイツ映画博物館(フランクフルト)/ドイツコミュニケーション博物館(フランクフルト)/シュテーデル美術館(フランクフルト)/建築博物館(フランクフルト)/応用工芸美術館(フランクフルト)/モダン・アート・ミュージアム(フランクフルト)/シーオルガン(ザダール)/リエカ近現代美術館(リエカ)/フォルマ・ヴィヴァ屋外石彫美術館(ポルトロージェ)以上30カ所



camii/temple/church 教会/寺院/城/近代建造物等】

聖母被聖天大聖堂(ザグレブ)/トルサット城(リエカ)/ドブロブニク大聖堂(ドブロブニク)/ドミニコ会修道院(ドブロブニク)/スポンサ宮殿(ドブロブニク)/フランシスコ会修道院(ドブロブニク)/アスワン・ダム(エジプト)/アスワン・ハイ・ダム(エジプト)/スクオーラ・ダルマータ・サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ教会(ヴェネツィア)/サンティッシマ・ジョバンニ・エ・パオロ教会(ヴェネツィア)/ペンラート城(デュッセルドルフ)/結婚記念塔(ダルムシュタット)/ロシア教会(ダルムシュタット)/オルブリヒ自邸(ダルムシュタット)/ベーレンスハウス(ダルムシュタット)/ハウス・ダイタース(ダルムシュタット)/グリュッケルト・ハウス(ダルムシュタット)/ケルン大聖堂/フランシスコ会修道院(ザダール)/聖ストシャ大聖堂(ザダール)/聖マリア教会修道院(ザダール)/聖ドナド教会(ザダール)/聖ユーリ教会(ロブラン)/聖ユーリ教会(ピラン)/ピラン城壁 以上25カ所


city/nature 街並/自然景観等】

オパティア市街/モトブン市街/ドブロブニク旧市街/カイロ市街/ナイル沿岸(エジプト)/ナセル湖/スーク/バフレイヤ・オアシス(白砂漠、黒砂漠。クリスタ/シナイ山/ダハブ市街/アカバ港(ヨルダン)/死海(ヨルダン)/サン・マルコ広場(ヴェネツィア)/リド島(ヴェネツィア)/メディエンハーフェン(再開発地区)(デュッセルドルフ)/デュッセルドルフ旧市街/ケルン市街/バカール市街(クロアチア)/ザダール市街/ロブラン市街(ロブラン)/ピラン旧市街(スロヴェニア)/ポルトロージェ市街/ポストイナ市街/ポストイナ鍾乳洞 以上24カ所



ruins遺跡等】

クフ王、カフラー王、メンカウラー王のピラミッド(エジプト)/スフィンクス(エジプト)/ジェセル王のピラミッド・コンプレックス(エジプト)/ウナス王のピラミッド(エジプト)/アブシンベル神殿(エジプト)/イシス神殿/コム・オンボ神殿(エジプト)/ホルス神殿(エジプト)/ルクソール神殿(エジプト)/王家の谷/王妃の谷/メムノンの巨像/ハトシュプスト女王葬祭殿/カルナック・アムン大神殿/ペトラ遺跡(ヨルダン)  以上15カ所


academic ivent/university 大学/学会/イヴェント】

ザグレブ大学建築学部デザイン学科(ザグレブ)/マリンコ・スダッチ邸(ザグレブ)/FH.Dデュッセルドルフ応用科学大学コミュニケーションデザイン学科(デュッセルドルフ)/鈴木武アトリエ(デュッセルドルフ)/ダルムシュタット工科大学(ダルムシュタット)/リエカ大学応用美術アカデミー(講義)/ザグレブ大学建築学部デザイン学科(講義) 以上7カ所

昨晩から妻の調子が悪くなった。
多分風邪だと思うが今朝は起きられない状態になった。
熱とのどの痛み。
実は密かに恐れていたことなのだ。
僕は1月前半に同じく風邪でダウンしたが彼女が大丈夫だったおかげで何とかなった。
はじめは「この人が元気でよかった」と思ったのだったが、もし疲れからくるものだとしたら、二人一緒の行動なので何で僕がダウンしてこの人は大丈夫なんだろうか、とも思ったのだ。そしてこの人が倒れると本当にまずいなあ、このまま大丈夫でいってほしいなあと。
はっきり言って私たちはこの旅最大の危機に直面しているのかも知れない。

今日は日曜日でソボルさんたちが車でイストラ半島に連れて行ってくれることになっていたし、もうひとつは大家のユーリッチさんのオリーブ畑に私たちの名前のオリーブを植樹する為、その名付け(?)のセレモニーも行う予定だったのだ。(ユーリッチさんはこれをとても楽しみにしていた)
とにかく申し訳ないが、全てをキャンセルしてもらう。
2月8日からは帰国まで50日間の長旅が続くので、旅の途中で倒れるよりも今ここで体調を整えると考えればまだましかと思う。

終日資料の整理や片付けなど。

夕方ソボルさんたちが来てヴィデオで「雪点前」の撮影を行う。
これで彼らも映像を見ながら復習することができる。
ついでにリエカ市に住んでいる外国人によるリエカへのメッセージを撮影しているので協力してくれと言われ、ヴィデオに向かって二人でメッセージを送る。
後で見直すと、少し痩せていた。少しだけど。
とにかくこれで茶箱を無事渡す事ができたので妻はホッとしたようだった。

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ソボルさんは4日から仏教徒のコンファレンスに参加するためにアメリカに行く予定だ。
この会議には欧米から各宗派の人々が集まるという。

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これまでザグレブ芸大(美術大学)と僕が言っていた場所は、正確にはザグレブ大学・建築学部・デザイン学科ということらしい。
昨晩の酒盛りのせいで幾分(実はかなり)二日酔いではあるものの8時には目が覚める。
ミラン・アキコ邸にて朝食後、ザグレブ大学に向かう。
大学は実は今、冬休みなのだがブキッチ先生の配慮なのだろう、大学の院生を中心に多くの学生が集まっていた。
12時から1時間半ほどのレクチャーを行う。
事前にアキコさんから「テラヤマさん英語でしゃべったほうがいいんじゃないですか」と言われ、ちょっと迷ったが最初の予定通り日本語で話し、アキコさんに通訳してもらうことにした。
リエカと同様話がどこまで伝わったかどうか心もとないけど、なんとなく伝わったような感触はあった。
その後、あの(狂気の)コレクター、マリンコ・スダッチさんも加わって昼食。
僕の話したことを巡ってやそれ以外にもデザインの様々なテーマをめぐって話は尽きず。
スダッチさんは前回に会った時柳瀬正夢や村山知義に興味があると言っていたので、昨秋ムサビで行われたO教授企画の柳瀬正夢展覧会の図録を渡した。
相当、感動していた。後2年のうちには日本のアヴァンギャルド資料を集めたいと思うと言っていた。冗談じゃなさそうなところが相変わらず凄い。
この間にもハンガリーのアヴァンギャルド系の資料をかなり集めたと言っていた。
「見に来ないか」と誘われたが今回は遠慮した。
彼とは今後も関係が続きそうな気がする。
妻に言わせれば
「彼にとってあなたは理解者なのよ」らしい。

その後関係者と別れ、ミラン・アキコ邸に戻ってもまだ話は尽きず。
アキコさんミランさんともに今日も泊まれと誘って下さったがリエカでの諸々もあり
後ろ髪ひかれる思いで8時のザグレブ発リエカ行きのバスに乗る。
ミラン・アキコさんは今年の春or夏に日本に来る計画があるのでその時の再会を期待しつつ別れる。
アキコさんは普通にしゃべるだけではなく常に気を使ってミランさんに通訳しつつだったのでとても疲れたのではないかと思う。とにかく僕は酔っぱらうとマシンガンのようにしゃべってしまうから。
申し訳なかったと思う。
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ミラン・アキコ邸のバルコニーからの眺め。

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ザグレブ大学入り口にあった今回のレクチャーの為のポスター。

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右にいるのはレクチャー後いろいろ質問して来た学生。後で聞いた話によると普通講義をした後クロアチアの学生はめったに質問をしないらしい。

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右からミラン・トレンツ、今回僕を呼んでくれたブキッチ教授、左は学部長(名前失念)

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ミラン・アキコ夫妻と。

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以下ブキッチ教授からもらった大学の資料。

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明日のザグレブ大学での講義の為午前中11時のバスでザグレブへ移動。
ザグレブのバスセンターにミランさんが車で迎えに来てくれる。
今回のザグレブ滞在はホテルではなく、これまでお世話になり今回も通訳をして下さることになっているアキコさんが誘って下さったのでその言葉に甘えて、アキコ・トレンツ邸にお邪魔することになったのだ。
トレンツさんがわざわざ我々の為に(かどうかは正確にはわからないけど)ザグレブの山に行っておいしい水を採取してくれていると聞いたので、夕方お茶会をすることにした。
その後の夜、アキコさんの手料理をいただき、明日の講義の準備はそっちのけで話がはずんでしまった。
多分アキコさんのおもてなしがスペシャルだったのだろう、私たち二人はリラックスしてしまい(二人とも遠慮を知らない厚かましい性格なので)ガンガン、ワインを飲んでしまったように思う。
途中、ミラン家のお酒がなくなり(多分)ミランさんがワインを買いに出るという事までさせてしまったのだった。
とにかく普段それほどたくさんお酒を飲まない妻が、久しぶりに日本語でしゃべれる同世代の女性であるアキコさんと会えてお話しできたせいかどうかわからないが、とにかく話が尽きず夜中までの酒盛りになってしまったのだ。
デザインのこと、アートのこと、生きること、日々のささいなこと、日本と外国に住むこと、とにかく話は尽きない。
翌朝、並んだワインの瓶を見て少し反省しました。
まあとにかく楽しかったのです。

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ミラン・アキコ邸でのお茶会。

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スペシャル魚料理、アキコさんによる。

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ミラン・アキコ邸からの眺め。

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これはミラン・トレンツのザグレブでの回顧展(2005年)のカタログ。

今回ミラン・トレンツさんの作品をゆっくり見せてもらうことができた。
彼は早熟の天才で十代後半にコミックマガジンがヒットしてクロアチアでデヴューしている。
大学(ザグレブの映画大学)卒業前に作ったアニメーションで認められ、またクロアチア時代のコミックがニューヨークのヘヴィイメタルマガジンに認められ、卒業後ニューヨークへ。
先輩にクロアチアを代表するデザイナー、ミルコ・イリッチがニューヨークに居た。
彼と一緒に多くの仕事をしている。
ニューヨークタイムズやワシントンポスト、フォーチューン、ウオールストリートジャーナルのイラストレーターとして活躍し、同時期に作った絵本「ナイトミュージアム」がハリウッドで映画にもなっている。
4年前にアキコさんとともにクロアチアにもどりザグレブ芸術大学で映像を教え、アニメーションなどの作家活動をしている。
先輩のミルコ・イリッチがロックスターみたいにカッコ付けているのに比べて、トレンツ君はユーモリストで飾らない人柄、そして凄い才能を持った人であると思う。
友達になりました。

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同上図録より。

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漫画作品(コミックストリップ)

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展覧会の様子。


これまでの旅で集まった資料を日本に送るための整理作業や、ここに置いて行く(捨てる)本、持って帰る本の選別などの作業を終日行う。
しかし様々な資料や本を作業途中で思わず読んでしまい、その都度作業は中断され、はなはだ効率悪し。

例えば
白水社の文庫クセジュから出ているジョルジュ・カステラン著の「クロアチア」という本は旅の前に一度読み、5月頃にもう一度ここで読んだ本であった。
その時は大した事ないと思っていたし、実際小さな本だ。しかし今、読み返すと不思議に面白い。
西ローマ帝国の崩壊から、1200年前のクロアチア王国の成立、カトリックと国教会の対立、ハンガリー、オーストリア、イタリア(ヴェネツィア)、オスマントルコ、ロシアなどからの限りない干渉。
セルビア人とクロアチア人の相克、オスマン帝国の占領との闘争、ファシズムに巻き込まれた(ファシズムさえも利用せざる得なかったような)悲惨な独立運動、二つの世界大戦、その後のソヴィエトとのイデオロギー的な対立など、今頃になってありありとリアリティを感じながら読む事が出来るというのはいったいどういうことなんだろうか。
...と思うくらい興味深く読みだすと止まらない。

その理由は多分、それを「読む」ためのコードをこの間、僕が手に入れたという事なのだろう。
しかし、例えばアイルランドにおける(悲惨な)歴史の場合は、最初からあんまり抵抗なく読めたし一応普通に理解できたのに、クロアチアに関してはそうでなかったということは何か別の理由があったように思う。
今それが何故なのか精確に分るわけではない。
しかし多分恐らく、それだけこのセントラル・ヨーロッパ「バルカンの地」は特別に(と言っていいくらい)複雑な場所だったのだと思う。
宗教的にもカトリック、イスラム、正教、プロテスタントの相克があり、(もっと昔はローマ帝国やケルト、イリリアなどの古代社会の宗教も潜む)しかもそれは近代になっての社会主義時代においても単純ではなかった。
ソヴィエト(スターリン)との対立と同時に西側世界との対立など。
そして人種の問題。
国家ユーゴスラビア(南スラブ人の国の意味)内にかかえた、経済的、文化的、宗教的緊張。

そして結局それらを奇跡的に束ねていたチトーが死んだ後の1991年からの戦争。

僕がここリエカに来てすぐの頃、5月の初めだったかソボルさんが
「テラヤマさん、クロアチアは日本のメイジイシンのような激しい変革をこの2000年の間に20回は繰り返しているのです」
といった言葉が「かなり控えめ」な言い方だったということが今ならば分る。
今のクロアチア人にとって今クロアチアという独立国家が存在できることがどんなに貴重なことであるかということが、今ならば分る(というのはおこがましく)、感じる事ができるような気がするのです。

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そろそろ、ここリエカの撤収作業にかからねばならない。
ここを出てからの日程に関して、僕はザグレブでの講義が終わらない事には落ち着いて考えられないのでとりあえず妻がかわりにやってくれている。これも来週から慌ただしくなりそうだ。

今クロアチアではハンドボールの世界選手権が各地で行われており結構盛り上がっている。
以前、サッカーの熱狂については何度か触れたがここはバスケットとハンドボールもプロリーグがあり、かなり人気のスポーツだ。テレビでも時々やっている。
ハンドボールは妻が熱心にテレビを見ている。
クロアチアは結構強くて勝ち進んでいるようである。
国民全部でたった450万人しかいないのに、サッカーもバスケットもハンドも(加えてプロテニスも)世界的に見て一目置かれるほど強いというのは考えてみたら凄い事だ。
特に西欧列強諸国、ドイツやイギリスなどと対戦する時のクロアチア人の熱くなり方は尋常ではない。彼らにとって国際戦は戦争のようなものなのだ。
アジアにおける日本対韓国戦や日本対中国戦のような雰囲気がもっと複雑で激しく存在している。ような印象を受ける。

ともかくクロアチアの強さは彼らの「根性」とか「矜持」を示している。
と僕は勝手に思っていた。
しかし年末に遊びに来たベルリンのモリタさんのモリタ理論によればそうではなく
「テラヤマさん、それはですね、クロアチアに美人が多いからですよ!美人が多いと男は頑張るもんなんですよ。」とのことであった。
さすが欧州滞在の長い人の視点は違うのだ。
でも本当かなあ...?。
確かにクロアチアの特にダルマチア地方は美人が多い事で有名で、国際的に活躍するモデルの産地らしいけど。

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妻の写真機より。ポストイナにて。

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駅。

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リエカ大学応用美術アカデミーというのが正式名のようである。
最初の自己紹介は日本語でしゃべったほうが良いとソボルさんが言うのでそうした。
朝の10時から約2時間、ソボルさんのおかげで何とか無事に終了。
終わった後握手を求めに来る学生もいたし、聞いてくれた先生は「インプレッシブ」とか言っていたけど実際どこまで伝える事ができたかは不明です。
しかしまあともかくも、少しはリエカという町に自分なりの義理のひとつは果たせたかと...。

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ちなみに学生の総数は300名ほどとのこと。

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講義の後研究室にて。右から招待してくれたシンカニヤ教授、学科長のシュチマッチ教授。左はソボルさん。

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講義の後、シンカニヤさん、(写真を撮り損なったのが残念であるがカウボーイのような)IVO VRTARIC教授(通称クムさん)、ソボルさん。マイーダさん、妻とお茶を飲みに行く。
これはクムさんにいただいた地酒。強烈だがおいしい。
kumさんのことは以前マイーダさんにも聞いた事はあったのだが普段、モトヴンの自分の牧場で生活しているアーティストで、たまに学生と一日かけてモトヴンから馬で来たりするそうだ。
とても興味深い人物でかなり感じるものがあった。マレーヴィチが好きな様で私の今日の話にもマレーヴィチがちょっと出て来たので話が通じた。
モトブンの牧場でマレーヴィチのコンセプトをベースにした数日間のワークショップもしていて今年はあのワイマールのバウハウス大学の学生たちが来るそうだ。
確かにマレーヴィチの絵に地平線を馬が走る絵があります。
馬に乗りにこいと誘ってくれたのだが...。
時間があればまたモトヴンまで行ってみたいけど。

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帰ってくるとアドリア海は凄い光景を見せてくれた。

実際声に出して原稿を読んでみて時間を計り、それに通訳の時間を想定し、話が時間内に収まるようにあらかじめ並べてあったスライドを幾分減らしたり並べ替えたりといった作業に追われる。
最後に妻も初めて聞く(見る)話なので横で見てもらって最初のオーディエンスとして「これ分るかなあ」とか言いながら、いろいろアドヴァイスをもらう。
この場合、分る分らないというのは言葉の問題もあるのだけれど、むしろ学生たちの置かれている状況、デザインの環境のクロアチアと日本との違いとか落差のようなことである。
考えさせられる事多し。

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妻の写真機より。ポルトロージェ。

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ピラン、ヴェネツィアのライオン。

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夕方近く、ザグレブのアキコさんから最終的なリライト原稿を送ってもらう。
リエカの講義の為に(以前ここにも書いたが)日本文の原稿を自分で英語に翻訳してそれをソボルさんに見せ、ソボルさんと話しながら改良したものがあった。
基本的にはそれでいくしかないと思っていたのだが、アキコさんにもし読んでみて何かアドバイスがあればお願いしますと原稿を送っていたのだった。
アキコさんはこの正月フランス旅行もありかつ風邪もひかれていたにもかかわらず、熱心に原稿を読み比べてくれてかなり修正してくれたのだった。昨日からその確認作業をしていて最後はチャットと電話でのやりとりも加わった。
「遅くなってごめんなさい。」と何度も謝られて恐縮する。
実際読み比べると最初の原稿は文章という感じで堅苦しい気が何となくしていたのだが、なんかスムーズな話し言葉にちゃんと変わっているのだ。もちろん文意は変えないで。
いや、僕の語学力ではあくまでもそんな気がするとしか言い様がないのですけど。
実際声に出してみるとますますその感じを深める。
最初のテキストはやたら難しい単語が出て来るのだがそれも減っている。
自分で訳しておきながら、自分で意味が分からんとはしゃれにならないですから。
ともかくありがたいことであった。
その後、大急ぎで原稿をソボルさんに送り、夜プリントアウトしてもらうことができた。

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妻の写真機より。イストラ半島風景。ピランに向かう途中。

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来週26日に予定しているリエカ美術大学での講義が近づき緊張感たかまる。

もともと日本でも沢山の学生の前で話すのは苦手だし、これは何年経験しても変わらない。

こればっかりは慣れっちゅうのはないような気がする。

特にあの講義室の雰囲気がだめだ。

ゼミ室などで学生と向かい合っている時は全然OKなんだけど。

多分、ただ気が小さいだけなんだろう。今更でかくなりたいとも思わんが。

しかもこの旅ですっかり学校の事を忘れていて、今更ながら悪夢の感覚が蘇っているところである。


15日に書いた朦朧覚え書きのC.S.パースについてみぎわさんからメールがあった。

僕の旅を見ながら思い浮かべたパースの言葉があったとして以下のテキストを送ってくれた。


「......身体がなければ、多分われわれは情態というものを持たないだろう。......情態は全て認知的であり、感覚であり、感覚は心的記号あるいは言葉である。......そこで人間が動物的情態だとすれば、言葉はまさに同じく書かれた情態である」

「私は、この「ライティングスペーストラベラー」というタイトル、初めは単純に寺山さんがライティングスペースを旅しているのだと受け止めていましたが、パースの言葉を思い出してからは、寺山さんというライティングスペースが旅しているのだと思うようになりました。」

このパースの言葉もとても奥深いものがあります。「情態」という言葉がすごいですね。

またみぎわさんのタイトルへの指摘は僕も実感していたことで、最初は僕も単純にwriting spaceを巡る旅と何気なくつけたのです。しかしどうもそんなに単純な主客二分化などはできないと感じていたのです。つまり自分と世界が入れ子になっているという感覚でしょうか。それを言葉にしてくれたものでした。


かつてK先生と視覚伝達デザインの研究会の名前を「カメレオン」・プロジェクトにした時の記憶も蘇って来た。

...もしも私たちがカメレオンのように自分の身体が受容器であると同時にプロジェクション機能を持っていたとしたら...。

いや多分カメレオンのようにあからさまに目に見えなくてもそれが意味するところは同じ事なのだ。


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以下妻の写真機より。凍った水の中に浮かぶ蛇口。


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ロヴラン。


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ここ数日、もうすぐここリエカを離れなければならない時が迫ってきたことを考えるとふいに寂しさと悲しみの感情が心に起こる。

これは当初予測だにしていなかったことで、我ながら意外な感情であった。 
人の心がいかに不確かなものかと思う。
この1月のシシリーなどの小旅行をとりやめてここリエカに籠ろうと決めたのもひょっとしたら僕の心の奥底の感情がそれを決めさせたのかもしれないと今になって思う。
私たちは茶の稽古をしながら少しずつ別れの挨拶をしているのかもしれない。
そんなことはもちろん言葉には出さないけれど。
お茶の稽古が別れの挨拶なんてちょっと出来過ぎだとも思うけれど。
しかしこれから恐らくこの「雪」という点前をする度に私たちはリエカのこと、ソボルさんやマイーダさんのことを思い出すのであろう。
また彼らとて。

今日は予定した稽古の最終日。11時から。
道歌は
稽古とは一より習ひ十を知り
十よりかへるもとのその一

雪点前をソボルさんマイーダさんは二度繰り返した。
一応なんとか最後までできたので当初の予想よりもはるかに上出来だったのではないかと思う。
後もう一度どこかで時間をつくって最後の復習をすることになるであろう。

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彼らからお礼にとプレゼントされたエスプレッソマシーン。

今日も終日勉強。
お茶の稽古三日目は11時から3時間。
今日は仕舞いの稽古のあといよいよ雪点前の練習に入る。
この茶箱はいわば携帯お茶セットである。
アウトドアでもどこでもお茶を点てることができるところが素晴らしい。
また茶碗や棗(なつめ)を包む仕覆(しふく)が美しい。
ただこの出し入れが結構難しいのだ。
今日の道歌は
右の手を扱ふ時はわが心
左の方にありとしるべし

これなどは身体論として奥深い。とてもギブソン的ですね。

ソボルさんは僕の記憶はヴィデオ的ですと言っていたが、複雑な手順の記憶力が抜群に凄い。

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終日勉強。
今日は13時から2時間半の稽古。
割稽古の続き。茶巾、茶筅などの扱い。
抹茶の頂き方の復習など。
今日の利休道歌は
ならひつつ見てこそ習へ習はずに
よしあしいふは愚なりけり

利休道歌の言ってることはとても奥深い。
翻訳してみるとますますその感を強くする。
ひたすら見る事、そして行為が無意識化するまで繰り返せと言っている。
身体に覚えさせる、型から入るという日本古来の学習方法はとても興味深い。

そう、いつからか「かっこよりも中身が大事なんだよね」的な言い方を日本人はするようになったのだろうか。
これは一見真実っぽいが底が浅いなあなどと考える。

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ソボルさん、マイーダさんともに熱心でなかなか飲み込みが早い。
ソボルさんは日本語をしゃべる時、彼の好きな三船敏郎と北野武のまねをするところがおかしい。

僕は昔の古傷(膝、ソボルさんも同様である)で正座はせいぜい15分くらいが限度である。
しかし本当に久々に正座をし背筋をのばし座るのはとても気持ちの良い事だったことを思い出す。
そういえば物心ついた頃から僕は母の稽古をいつも見ていたのだった。
いつも客の役回りで頂く側でしたが。
終日、家で勉強する以外に今日から自宅でソボルさんマイーダさんとお茶の稽古をすることになった。
11時から3時間。
私たちはこの旅に雪点前ができる茶箱を持参していた。
時々お茶が飲みたくなるし、最後は旅先でこの茶箱をどなたかにあげてもいいと思って持って来たものである。
ソボルさんもマイーダさんもたまに家に寄った時はこれでお茶を飲み、気に入った風であったのでよかったら差し上げようと妻と話していたのだ。しかしお茶の点て方もわからずに茶箱だけもらっても困るよなという話になり、私たちのクロアチア滞在もあと僅かだということになってどうするか考えた。
結局ソボルさんもマイーダさんも是非教えて欲しいということになり慌ただしく稽古をすることにしたのだった。
先生は妻である。彼女は10年くらい修行をし一応茶名もある。僕は半東(はんとう=アシスタント)兼通訳である。
雪点前というのはなかなか複雑ではたしてマスターできるかどうか、妻は不安がったがとりあえずスタートしてみることに。
まずは席入りの練習。次に割稽古といって袱紗さばきなどの部分的練習を行う。
稽古の最初、挨拶の前に全員で利休居士道歌を一首吟じ黙祷するのであるが今日は
その道に入らんと思ふ心こそ
我が身ながらの師匠なりけれ


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向こうが見立ての床の間。本当は掛け軸も自分で描こうかと思ったが、もともと飾られてたクレーが良いのでそのままに。
リエカとザグレブでの講義の準備、その他の勉強の為当分家に籠る。
今日からリエカの天気も雨模様となった。

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以下妻の写真機より。トルサットの丘から北を見る。

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バルコニーから見えるイストラ半島の山。

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凍った水たまり。

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トルサット城にもある例のライオン(ヴェネツィア支配を示す)

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ポストイナはピランから北東へ直線距離で60キロ程のところにある。

スロヴェニアの首都リュブリャナとリエカを結ぶ鉄道駅のあるところである。

写真を見比べれば分るがたった60キロしか離れてなくても、内陸部に入ればいわゆるアルプス(の地中海側)となり全くの冬景色となる。観光ガイド風に言えばこのスロヴェニアやクロアチアは自然の風光の多様さでは本当にヨーロッパの中でも群を抜く所であると思う。

帰路にここを選んだのはこのあたりには有名な鍾乳洞が点在しているので一応見ておこうと思ったためである。ポストイナ駅のそばにはヨーロッパ最大のポストイナ鍾乳洞があり、そこから33キロ離れたところにはシュコツィヤン鍾乳洞もある。こちらは世界遺産となっていて地底に250メートルの大渓谷があって凄そうではあるが、例のごとく交通の便が悪いし、無理してはしご(?)をしてまで鍾乳洞を見たいわけではないので、今回はポストイナ鍾乳洞のみを訪れた。


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この右手には大きなホテルやショッピングアーケード風な場所もあるのだが冬期休業中であった。


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このトロッコに乗って2キロ程進む。


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この鍾乳洞は10万年くらいの間に地下水が石灰岩を削ってできたものという。

全長は27キロとのこと。トロッコをおりた後は2キロほどガイド(英語)の説明を聞きながら歩く。約2時間。


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ポストイナ駅。

鍾乳洞を見終わった後は町を散策しようと思っていたのだが美術館などの公共施設は全てクローズド。しかも土曜日の為かマーケットなど全ての店が閉まっていた。レストランだけは2件開いていてなんとか昼食を食べる事が出来たけれど。

まるでゴーストタウンというか、時が止まってしまった町のようでスティーブン・キングの小説を思い出しました。

夕方、例の一日一本の列車に乗って無事リエカに帰還。


朝5時に起き、6時に家を出て7時のバスでポルトロージュ、ピランに向かう。
ポルトロージュはリエカから直線距離だと約70キロ北東のスロヴェニアにある。イタリアのトリエステからは30キロほど南下したトリエステ湾の端にある。
イストラ半島を横断するのであるが例のごとく交通の便はすこぶる悪く、また国境(EU)越えがある。途中イストラ半島の半ばブジェットで小型バスに乗り換えコーペルへ。コーペルでバスを乗り換えポルトロージュへ到着。約3時間ほど。

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イストラ半島。有名な霧を見る事が出来た。

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ポルトロージュの港。

この町の南の小さな半島にフォルマ・ヴィヴァという屋外の石彫公園(open air museum)がありそれが今回の目的である。すぐ南、クロアチアと接している所にセチョヴリエという広大な天然の塩田がある。公園から塩田とアドリア海が見えるとても美しい場所である。
フォルマ・ヴィヴァは旧ユーゴスラヴィア時代の1961年から毎年、作家を招聘してきたようだ。作家はここに滞在して作品を残している。現在(48年間)までそれは持続しているところが、これまでのスロヴェニア(旧ユーゴスラヴィア)の激しい歴史的変転を考えれば驚くべきことのように思う。しかもこれに端を発してスロヴェニアは他にも鉄と木のそれぞれ素材別の同様の大きな美術館があるのだ。
旧ユーゴに限らず旧東欧諸国のこのような地味だが地道で誠実な芸術やデザインへの取り組みは情報こそ少なかったので西側諸国にはあまり知られてないが、再評価されるべきもののように思う。

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フォルマ・ヴィヴァのあるセチャ公園から塩田とトリエステ湾を見る。

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ここを教えてくれたのは尊敬する彫刻家のSさんで彼もここに作品を残していると聞いたのでそれと出会える事も今回の楽しみの一つであった。実際に行って見て、かなりの作品が丘全体に散在しているので果たして出会えるかと不安になったがちゃんと見つける事ができた。

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彼は30年位前(1978年)と言っていたがプレートには確か1971年と書かれていた。なんと38年前である!

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ディテールを見ていると、彫刻家の仕事というのは(建築家とも共通するけど)否が応でも自然との共作になるのだなあとしみじみ感じました。
まるでこれまで僕が彷徨って来た様々な遺跡のように。
多分石という素材にそもそもそのような宿命があるのだろう。鉄やステンレス、または木であれば自ずと印象は異なる。時間のスパンが全く異なるのだ。多分素材の石自体が何万年かの時間をかけて作られたものなのだから。

その後、すぐ近くのピランという町を訪れる。ここは13世紀から17世紀にかけてヴェネツイアに支配された町。いたるところにあのライオンの像がある。あのライオン像(結構間の抜けた顔の)を見ると今の国とは関係なくそこがヴェネツイア共和国であることを実感する。
これはピランに限らないが現在の国境とは何かを考えさせられることでもある。

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ピランの広場

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細い半島の先端にあるピランの旧市街。城壁からの眺め。

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城壁

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聖ユーリ教会

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半島の先端にある灯台。

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ここで一泊するかどうか迷ったが結局夜のバスでポストイナへ移動。
ポストイナは零下10度の冬の町であった。
終日家にて調べもの、読書などで過ごす。ゆえに特筆すべきことはない。

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ここ数日寝込んでいて朦朧状態ではあったが思考した中に重要だと思われる事があったので以下覚え書きとして記す。
(朦朧雑記なので長いです。あくまで自分のための覚え書きなので興味のない方はどうぞ読み飛ばして下さい)

「これからチャールズ・サンダース・パースをもう一度真剣に勉強し直さなくてはならない」という強烈な考えに見舞われた。
それはパースの記号学が主ではあるが、もちろん論理学や現象学も含めて再度しっかり読み直すということだ。
「全ての思考は記号である」
「全ての経験は時間の中の連続的なプロセスである」
という有名なことばをめぐってあれやこれや考える。
...この場合のプロセスとは一回限りのものであるけれども(経験とは常に一回限りなので)、しかし場合によっては別のプロセスで何度でも繰り返せるし、順番が決まっているわけではない、それは例えば僕らが絵を見る経験において特にとか...。
これは突然降ってわいたかのような感じもしたが、パースは人間の思考においてそもそも「直感的に」何かが頭に降りて来るなどといった類いは絶対に認めない人だったので、僕がこう考えたのにも意識化してないにせよ多分何らかの理由があるのだ(つまりあるプロセスを経た上で浮かんできたことなのだ)と思う。
それをここ2〜3日で考えてみた。
そもそもパースのことを幾分真剣に読んでいたのは20代後半から30歳の前半までで、結局彼の書いたテキストはとても分り辛く、かなり昔に音を上げて放り出してしまっていた。
今がその時以上に読解力があるかというと自信はないが。

まあそれはともかくとして
パースの記号論で最も重要な部分は思考のプロセスに関することである。
そして人の認知行為の中で最も重要なことは推論(のプロセス)であると述べている。
パースによれば推論は演繹と帰納と仮説形成の3つでできている。

極端に細部を端折ればパースが語ったのは、これが知覚と思考を理解するための道具立ての全てである(ように思う)。
たったこれだけ。
しかしこれで充分。
複雑な世界を解読するのに複雑な道具ではやっていられない。
問題はシンプルな道具をいかに用いるかなのだ。
ジェイムス・ギブソンもその点全く同じ態度であった。
しかし、しかしである。(ギブソンもまた同様であるが)実際はこれがとてつもなく難しい。
パースはこの三つの道具立てで世界を分類、論証していくのだが、とんでもなく複雑(に思える)な例の三角形を作り出した。大抵の人は多分これで挫折する。
(友人のみぎわさんはしぶとくその作業を持続している数少ないパース研究者の一人だ)

しかし僕はこれをもっと真剣に深く考えるべきであったと、今回朦朧とした頭で強く感じたのだ。
あの三角形が仮にパース程の天才でない限り簡単に理解できないとしてもだ。
すぐにあきらめないで少しずつ、そのプロセスを歩んでも良いのではないかと思えて来た。
で、その時にひらめいたのは本を理解しようと読むのではなく、
「自分自身の何らかの制作行為を通じて思考すれば良いのだ」
というのが今回の朦朧思考における最も重要なポイントである。
(書いてしまえば当たり前すぎてどうということもないが)
極端に言えば僕にとってパースを正しく理解する必要はそもそもないのである。
それを正しく理解しなければと考えたのがそもそも挫折の原因であるような気がしたのだ。
道具としての思考と思考そのものの理解を僕は混同していたし、それ故に自分の道具としての思考が時としてブレて、実際の制作と乖離していたのだ。
こんなことを今言うのは自分は馬鹿ですと言っているようなものだ。
実際馬鹿なんだからしょうがないじゃねえかと今は開き直っているところだ。

...まあそれもともかくとして
演繹はかなり論理的な説明であり、分析的で図式的である。故にこれは思考においては川下の「言説」の領域。
帰納は個人的な経験、感情から一般論にいたる道筋。一般論にいたらなくてもよいのだが。例えば絵を見て何か類似物を想起したり、別の記憶を重ね合わせたり、新しい関係物を発見したりするいわば中流域。
そして仮説形成(アブダクション)はもっとも川上にあって帰納を導くための触覚的な手探りのようなもの。環境と自分の間に生起する原初的知覚、あるいは新しい何かに出会うための自己投機的な振る舞い。

この仮説形成は仮に造形においては、これまで見た事もない形や方法に接近するためのものでもある。
私たちが「創発的」と言っているものはこの仮説形成によって生み出される。

その他は長くなるので省略。
(なお以上の説明は僕が勝手に理解していることなので正しいことかどうかは全く分らない)

では何故、今になってパースだと確信したか。
以下推論できるのはおおむね3つの理由による。

まず第一は自分にとって必要なことは哲学などの最先端を理解したりすることでは当然なく自分のヴィジュアル・コミュニケーション行為にとって必要な思考の道具、信頼に足る道具は何かを探すという目的の為であり、それをここ30年程考え続けてきた(つもりであった)。
しかし振り返ると自分の能力を過信し、あれやこれやに手を出し、全くものになっていないことに愕然とした。自分の頭の悪さに気がつかないこと自体が相当な問題であり、実はそれを考えると現在かなり絶望的な暗い気分であるがそれはここではとりあえず置いておく。
ともかくも、風邪のせいばかりじゃなくて自分がかなり心理的に追いつめられた状態であると思われる。

第二にこの旅(現在9ヶ月以上経過)を振り返って自分が採っている知覚の方法が全て基本的にパースが言った通りであった事に「はた」と気づいたこと。

まず非日常的といえる程の膨大な絵、図像、文字、風景などを見ている時、感じて理解したり認知したりする時に自動的に働く思考プロセスである。それは上に述べたような帰納的なプロセス。何か類似物を想起したり、別の記憶を重ね合わせたり、新しい関係物を発見したりすること。アナロジーやメタファーなどの稼働。

そしてまた、うまく言葉化できないけど存在する、単なる理解や納得を超えたある新しい出会いのようなものの遭遇感覚。一般論のためではない帰納的な帰結。

また日常の極めて不自由な言語環境の経験にもよる。つまり沢山の外国語に囲まれて行動する時、自分がとっている知覚と理解のプロセスも同様にパースがあてはまる。
ものを理解したり認知したり思考することは普段無意識に行っているが、ここ外国では無意識には物事は進行してくれない。言葉が理解されない時、出来ない時、全知全能を傾けて何かを発見する志向が起きる。環境、状況、身振り、表情、空気、抑揚、エトセトラ、推論を導き出す為の膨大な情報を必死でピックアップしようとすること。
パースが言っている事は正しいという結論。

第三に僕がこれまであれやこれや寄り道して来たものの起点の多くがパースにあったという仮説形成による。(かなり大雑把だけれどメモとして)
ジェイムス・ギブソン(+グレゴリー・ベイトソン、エドワード・ホール)などの生態学的知覚論、現象学、知覚心理学。
ウイリアム・ジェイムスのプラグマティズム。
現象学およびゲシュタルト心理学。
(ノイラートのいた)ウイーン学団。
エルンスト・マッハの科学哲学。
それぞれへの影響関係と共通項など。

ちなみにソシュールやバルトの「記号論」は社会や表現された表象を読み取ったりすることにおいて重要だと思ったし興味深かったが、今となってはそれだけのもので自分の道具としては今回は全くと言っていい程関係がないことも痛感。

最後にここまでメモしてきて浮かんだ4つめの理由。この旅が終わった後、自分はこれまでのやり方とは違ったやり方で物を作っていきたいと多分(無意識的に強く)思っていたのだろう。
仮に望んだとしても自分が別人になるわけはないのでそれは他人から見れば恐らく大したことではないだろうし、ささやかなことだ。もちろん、それが何かはここには書けないけれども。
午前中、リエカ近現代美術館に行く。
「17回国際ドローイングードローイングとアニメーション」展を見る。
この美術館の60周年、国際ドローイング展の40周年も兼ねているようであった。
ドローイングといいながらほとんどアニメーション展であった。
ここは前にも書いたがおもしろい建物だが展示は相変わらず良くない。
でもともかくかなりの数のアニメーションを見れた。
日本人作家では山村浩二「カフカ田舎医者」と和田敦「鼻の日」を見た。
たまたま今、N本先生が送ってくれたDVDでここ10年程の視デの学生のアニメーション(映像)を見直す機会があった。内容的には相当レヴェルが高く、こういう場所に出しても全く見劣りしないと思った。だから出せば良いと単純に言いたいのではなく(それはひとつは本人の作家的意思の問題もあるから)そもそも作家を育てる事が可能なのかという根源的な問題もあるように思う。これは夏にリンツのアルスエレクトロニカでもちょっと感じたことだが、美術大学にある根源的な問題なのだけど...。

帰宅後まじめに勉強。

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美術館のトイレのタイルにレーニン。これはまじめなのか冗談なのか?
ロヴランは私の今いる家のベランダからいつも真正面に見えるイストラ半島の小さな港町である。リエカから18キロ南でオパティヤのさらに南にある。現在はオパティヤと同様のリゾート地でもあるが、オパティヤよりもはるかに由緒のある町である。7世紀からここは港町として栄えていたのだ。
前々から行きたいと思っていたがやっと実現した。
ここはバカール同様記憶に残るクロアチアの場所のひとつとなった。

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このあたりはおそらく19世紀に作られたリゾートのためのヴィラ。

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旧市街の広場の聖ユーリ教会。ほぼ14世紀の建築。

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旧市街広場の主。町の人は通りかかると皆彼女(彼氏?)に「ディーディー」と声をかけていた。

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旧市街で最も古い場所、井戸らしい。

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ロヴランの港。真正面がリエカ。

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オパティア同様、海岸沿いに美しい遊歩道が続いている。

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「こんな場所で育てば色彩感覚がさぞや良くなりそうね」とは妻のセリフである。
僕「こんな場所が日常の散歩道であることがうらやましい」

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今日は昨年末から決まっていたリエカ美術大学での打ち合わせの日。
マイーダさんが車で迎えに来てくれて一緒に家を出る。
この学校は家から歩いてもせいぜい7〜8分のところにあり、これまでもここで何度も写真を載せて来た。いつまでたっても新築工事が進まないところである。
しかし、実際行ってみて僕が勝手に誤解していたことがいくつか判明した。
まずここトルサットの丘の西側はかつてユーゴスラビアの軍隊の駐屯地だったということが今回分った。つまり18年くらい前ということだ。当時のユーゴスラビアは徴兵制があり、若者は皆1年の兵役義務があってここトルサットはその軍隊の教育施設だったという。常時4000名くらいの若者がここにいたのだと。
その後、クロアチアが独立した後、(徴兵制度もなくなり)旧兵舎を流用してここに美術の教員養成大学ができたのだ。そこが今回私が訪れた場所である。
そしてさらにここは現在、応用技術系の総合大学として再編されつつあるということであった。現在リエカ市内に散らばっている文学、建築、法学、薬学、医学、理工学等の単科大学がここに集まるということなのだ。そしてかつての美術教員養成の学校も美術とデザインの大学として再編成されたのだった。正式な名称はよく分らないが12月に訪ねたデュッセルドルフのFH-D(応用科学大学)のようなものだと思う。
こういう総合大学ができるのはクロアチアでも初めてであることも今回知った。考えてみればクロアチアは独立してからまだ日も浅く、政治のみならず教育システムなど様々なことが現在構築中なのであることを改めて知る。
それがぼくがここリエカに滞在以来、散歩中になんとなくぼーっと見て来た建築中の建物の実態だったのだ。(もともと大学からは遠ざかろうと努力してきたので詳しいことを知らなかったのは当然であるけれど)僕がマイーダさんに「建築中の建物はすべて美術大学の建物だと思っていた」と言ったら「テラヤマさん、あなたクロアチアの人口を知ってますか?」と笑われた。確かにクロアチアの人口は450万人程。国土面積も九州の1.5倍なのだ。そんなでかい美術大学なんか必要なわけはないのだった。僕の所属する日本の大学もそもそも日本では最も学生数の多い美術大学でしかもそれは多分世界的にみても最も学生数の多い美術大学なのだ。そっちの方が一般的に考えて異常なのかもしれない。

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リエカ美術大学はこの建物で全て。彫刻も絵画もデザインも全てここに収まる。

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屋根裏を改築したところがコンピュータ・ルーム

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新築中の校舎。また改めて散歩で来ようと思います。

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講義室

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研究室にて。僕を招待して下さった先生は実は風邪でダウンしてお休みで今日は会えなかった。代わりにいろいろ面倒をみてくれたヤコブ・ザパー教授。彼はザグレブの美術大学を出た後オーストラリアのメルボルンで十数年デザイナーをした後、ここに呼ばれて来たという。まだ着任して1〜2ヶ月とのこと。彼は立ち上がると2メートル近くあります。座った写真で良かった。

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以前ここで紹介したミルコ・イリッチもそれから年末に会ったミラン・トレンツさんもそして今日会ったヤコブさんも人口450万の非英語圏の国に生まれている。そして国外に活路を見出している。そしてソボルさんがかつて僕に(彼は語学の達人でどこにだって行こうと思えば行けたのに)絶対リエカを離れるつもりはない、と強い口調で言った事を思い出したりもした。
同じく非英語圏ではあっても人口一億人の国に生まれた僕はそんなこと考えなくてこれまできた。それが幸せだったのかどうだったのかとふと考える。
もちろん選ぶとか選ばないとかの事ではなくて運命としか言いようはないことだけど。
少なくとも日本でも1000部とか2000部とかのマイナーな本ばかりデザインしてきた僕はどちらかというと450万人規模の国のほうが合っていたのかもしれないと思う。


やっと自信をもって回復したと言えるような状態になった。
1が3つも並んでめでたいので、今日が僕にとっての仕事始めというか新年のスタートのような気持ちである。
今日はリエカはとても穏やかな日和で久々に家を出て散歩に行った。
自宅では読書、調べもの等通常のパターンに戻る。

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薬師寺さんからの年賀状、無事に到着。とても手の込んだ(銅版画で5色刷り!)ものです。まるでお見舞いをもらったような気持ちになりました。

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12月の始めに大学の某部署が送った荷物の一つが今頃になって到着。どこをどう放浪していたのかボロボロ(これでも相当修復されていた)。中身の本はだめになっていたがDVDはビニール袋にカバーされていたのでなんとか無事だった。この間随分ご迷惑をおかけしたN本先生に早速報告。

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トルサット城(砦)ここは来る度ごとに良い場所だと思うようになった。とても良い空気が充満している場所である。今回ギャラリーのパネルでこの城の歴史をじっくり読んでみた。

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右上が城

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今回は、体調が(といってもそんなに大げさなものじゃないにもかかわらず、微妙に)悪いというのは意外に大変なことだと実感させられた。
まず何と言っても精神的なものというか、気持ちが思っていた以上にダウンするのがよく分った。
まるでジキルとハイドのように自分の中に別人がいるということを実感させられた。
しかしここ何日か朦朧な状態で考えたことも実は悪い事ばかりではなかったような気もしている。
それまで意識上ではあえて消していたこととか、無視していたことを知る事ができたような。
それは自分のこれからを考える上で多分大切なことであると思っている。
そういった意味で今回寝込んだのは、自分の中にある無意識的な一種のリハビリ作用が働いたせいかもしれない。
0110の写真で中川師匠から「あれは間違っておるぞ」とメールがあった。
もちろん説明が間違っているのではなく写真を僕が勘違いしたものであった。
もうすでに訂正していますが念のため。
冷や汗の不肖の弟子より。

やっと普通の感覚が戻って来た実感を得る。

今回のことで普通の状態=健康がいかに大切か思い知らされた。

これから無理せず少しずつ体調を整えていこうと思う。

(ご心配をおかけした方々すいません)

この間中川さんから前回15日に掲載した以下の物件についてのコメントをいただいた。


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ともかく以下引用させていただきます。


あれはね、ヤドリギ(宿り木)ほかの木に寄生する植物。

常緑で冬でも葉の緑が鮮やかで、赤い実がつくことでクリスマスには喜ばれる植物です。

あの宿り木の下では誰にキスをしてもいいと北欧ではいわれています。

種の皮が硬く、その実を鳥に食べられても消化されず糞の中でそのまま排泄され、ほかの植物の木の股などで発芽 し、親木の養分をいただきながら生活する、"パラサイト"

でもこれがたくさんつきすぎて枯れてしまった親木というもはあまり見たことがないなあ。

何か親木にもメリットがあるのかなあ。


...とのことでした。さすが僕のアウトドアの師匠。なんでもご存知なのだ。

中川さんの肩書きは写真家であったが最近はむしろ作家である。しかし僕の中ではアウトドアというか自然と遊ぶというか、生活することというか、その道の達人なのである。20年程前、中川さんと塩野米松さんの本をデザインしたのがお付き合いの始めであった。

取材と称しては現場にご一緒させてもらいそれ以降随分お世話になった。なにしろカヌーやシーカヤックは日本でも草分けだし、釣り(フライ・フィッシング)やスノー・クロスカントリー、星空観察、野外料理、キャンピング、植物や鉱物にも詳しい、(基本的に必要な道具は自分で作ってしまう)とにかく達人なのである。ちょうど子供たちも小さかったので影響を受けやすい僕はよく家族でキャンプに行くようになった。自分たちだけで行くと僕の場合はどっちかというと難民キャンプみたいになってしまう何とも全くダメな弟子であったが、自分にないものを持っているこの方には随分教えられることが多かった。最近は釣りはイギリスの田舎の川をも主戦場にしておられるようだが、木の上に家を造ったり田んぼを借りて仲間とお米を作ったり、海のそばで子供たちにアウトドア生活を教える学校をNPOで作ったりと活動は全く衰えない。

以前ここにも書いたようにクロアチアでユーリッチさんのアウトドアライフやもの作りスタイルにも感心したが、日本の僕の知り合いで真っ先に思い出したのが中川さんであった。


で、ここまで書いてみて気がついたことだがデザインを通じて仕事をする楽しさは「アウトドア」にもちろん限らない「文学」や「建築」等など、様々な「その道の達人」とその都度ご一緒できるであることは間違いない。

しかし僕はこれまでそれらは「その人の道」でありあくまでも僕の「デザイン」の道とは異なると思い込んでいた。しかしよく考えればそれらとの出会いは自分にとってデザインとはそもそもどんな存在意義があるのかを考える重要な鍵、そして糧になっていたのだと改めて気づかされるのだ。


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以下は中川さんのブログです。

http://blog.goo.ne.jp/bossokashira


何とか前日よりは良くなったような気がするが油断はできない。

こんなにぐずつくと「これは風邪じゃないんじゃないか?何か他の病気かも」と少し不安になってきたところである。
なにせ自慢じゃないが「20年かけて手塩にかけて作り上げた完璧なメタボ体質」なのでいろいろ思い当たることは沢山ある。
でも病は気からというし、そんなことわざわざ今考える事はあるまいと封印する。

学生時代からの友人カタヤマくんから見舞いのメールが来た。
この正月彼のブログを読んでいてそのエッセイに抱腹絶倒していたところなので遠く離れていても離れている感じがしません。
やっぱりこのネットでつながった世界というのは本当に実現してるんだなあと今更の様にしみじみ思う。
カタヤマくんとは20代から30歳後半まで代々木で仕事場をシェアしていたので、考えてみればお互い奥さんよりもずっと長く一緒に生活していたのだ。当時は二人ともしょっちゅう仕事で徹夜してたし、徹夜でよく酒も飲んでいた。事務所の床でシュラフでよく寝ていたが当時は全然平気というかそれが大変だなんて思ってなかったような気がする。若さって言うのはそういうことだったのだと思う。今から考えると恐ろしいことだ。
しかし、その彼も最近は完全に朝型生活になり適度な運動をし、まじめ生活を送っているようでメタボは克服したようである。
仕事は相変わらずバリバリこなし、この5月には個展もやっているのだ。
見習いたいと思います。

「今日は大分いいみたいだ」と言って起き出してみる。
妻「あなた昨日の朝も同じ事言ったわよ。寝てた方がいいんじゃない。」
「そうするわ」

いやーここに書きようがないですね。上記のように何もなくて。
今回風邪がこんなに長引くとは...。

本当は曼荼羅文化センターで献茶会を行う予定(お茶を点てるのはもちろん僕じゃなくて妻)もあったのだがリエカの寒さもあり中止。
明日はザグレブのアキコさんのところでの打ち合わせを一旦は予定したのだが、明日元気になっている自信がなくこれも中止させてもらってメールのやりとりで何とかすることになった。

そもそも漠然とではあったが1月はナポリに行ってポンペイの遺跡、シチリア島に渡ってパレルモ、シラクサ、アグリジェントを訪れるつもりであった。
妻は僕が寝ている間もいろいろ調整してシミュレーションしてくれたが、結局無理はできないということで断念することになった。
アグリジェントは心残りではあるけれど、最後の一ヶ月はクロアチアでしっかり過ごすことの方が今は重要かもしれない。
これまでの旅で得たものを反芻したり、整理したり、新たに考えたりしたいことは山ほどあるのだから。実際横になって朦朧な頭でもいろいろ思いは巡るのである。
それにザグレブとリエカでの講義の準備もある。

そしてここを2月の前半に引き払って以降の計画(ポルトガル、スペイン、フランスなど)を落ち着いてちゃんと立てようということになった。さすが1年の長旅だと今回のようなことも避けられないし、これもそういう運命だと受け止めポジティブに考えようと思う。

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妻の写真機より。高速道路にて。この険しい岩山の連なりもクロアチアらしい風景だ。

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リエカでは風の激しく吹きすさぶ日と穏やかな日が交互にやって来るようだ。
風の激しい日は外に干したタオルがあっという間にカチンカチンに凍ってしまう。
水たまりの氷もかなりの分厚さである。





今日はもう元気だろうと思って朝起き出すのだが、やっぱり調子が悪く、薬を飲んで寝たり起きたり。
昨年末に漠然とたてていた1月の小旅行の計画は完全に頓挫している。
計画をたてるどころではない状態である。
合間に読書をしようとか試みるのだがすぐに眠たくなる。
とにかく寝るしかないと思い17時間ほどねむっただろうか。
冬眠する熊の気持ちで朦朧を楽しむしかない。
i-podのシャッフル機能は単なるランダムのはずなんだが、2600曲の中でどうしてこの曲の後にこれが来るのかと不思議な気持ちになる。これ偏ってるぞというか意図を感じ始める。
いや楽しんでいるんですが。曲目を書き並べたい欲望を感じるほどです。

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妻の写真機より。バカールの港。




風邪薬と滋養強壮と書いてある漢方薬を飲んでずっと寝ていた。
普段は昼間は眠れない質なのだが薬のせいかよく眠れる。
というか起きてるのか眠っているのかよくわからない状態。夢うつつ?が続く。
食事時には起きて食べれるのでそれほどひどくはないのだろうと思う。
ヘッドフォンが嫌いなのでこちらに来てあまり使ってなかったi-podをシャッフルにして
寝ながら聞いている。意識朦朧の中充分トリップした感じになる。新たな発見である。
英会話とイタリア語会話のためにi-podに入れてたデータは結局こっちに来て全く聞かなかったなあと苦笑しつつ。シャッフルの途中突然挿入される英会話のデータ(岩村某の一分間英会話とか)が邪魔でその都度ボタンを次へ押さねばならないのがめんどくさい(病の中の本音状態で向学心は全く失われている事がこれによってわかる)今度消さなくてはと朦朧とした意識の中で思う。
シャッフル機能はとてもおもろいと思う。
音を聞くとそれを聞いた時代が蘇ってそれも面白い。
とにかく今の自分にはこの朦朧が必要なのだと朦朧とした状態で考える。

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妻の写真機から。デュッセルドルフ。

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同上。あの固まりは何だったのだろうか。



今日はクロアチアの滞在許可証を申請するために警察に行かねばならない。
朝、風呂に入ったのだが何故か途中で水になってしまい中途半端になってしまった。
歩いてペタルクジッチを降りて警察署へ。建物の前でマイーダさんと待ち合わせたのだ。
小一時間ほどかかって無事許可証を得た。
その後カフェでお茶をして曼荼羅文化センターに寄り、市場で買い物をして帰宅。
帰宅と同時に体調が悪くなり寝込む。
ここ数日鼻風邪ぎみではあったが大したことはないと高をくくっていたのだ。
朝の水風呂が良くなかったのか、熱はない模様だがとにかく関節が痛む。
薬を飲んで寝ることにした。

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妻の写真機より。リエカ。まるで我が家にある山桃の実のようだ。
今日は日曜日。
妻と今後の日程を少し打ち合わせる。
そのあと散歩に出かける。今年最初の散歩である。
家のあるトルサットの丘の裏側を探索する。
何十メートルかで頂上に行き着くはずだがこれまで本気で昇った事はない。
また丘の上にはいつも行くスーパーマーケット(西にある)に行く別のルートがあるはずだと、ここに来て以来妻と話していたのだが、いつも工事中のリエカ美術大学の広大な敷地のフェンスにぶつかってこれまで断念してきた。
今回はもう少し根性を出して探索しようと考えた。
(どっちにしろローカルな話ですいません)
そして私たちは新たなルートを発見した!
今後使う機会があるかどうかはわからないほどの獣道であったけれど。
これっていつもの旅のパターンと全く一緒でおかしい。
裏道や抜け道を発見した頃にその町とはお別れというパターンである。


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新たな工事現場に遭遇。

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丘からアドリア海を見下ろす。

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この先が頂上であるが行き止まり。

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適当に歩いていると丘の裏側に出た。谷をはさんで向こう側の集落。

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丘の尾根下に道らしきものを発見。突き進む。

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丘の西側に出る。写真は春からいつまでたっても完成しないリエカ美術大学の新校舎。

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多分第二次大戦前から残る不思議で無意味な壁と駐車場のような場所。ロックコンサートには向いていそうだ。
右手丘が私たちが探索した獣道。左奥が私たちの住居のあるところ。


ちょっと風邪気味が続く。
静かに過ごす。
九州の実家とスカイプで話す。
今年はカレンダーのせいか5日から学校も始まったりするらしく、日本のお正月は短いらしい。
息子達もそれぞれに帰京するようだ。
記憶に残った親父とのやりとり。
旅の後半の話をしていて最後に親父が言ったひと言。
「まあともかくも...キュウジンノコウヲイッキニカかんようにな」
僕「...あ親父、すいませんが今のもう一回言ってくれる?意味は後で自分で調べるから」
もちろん親父はその場で意味を説明してくれたが、あとで電子辞書で調べた。親父の言った言葉は
「九仞の功を一箕に「か」く(ことなかれ)」(「か」はこのマックでは表示できない。)であった。
これは「書経」からのことばで
『高い山を築くのに、最後のもっこ一杯の土が足りないために完成しない。長い間の努力も最後の少しの過失からだめになってしまうことのたとえ。』であった。
もちろん、親父が「旅は最後まで気を緩めず無事帰って来なさい」という意味で言ったのは重々承知なのだが、この言葉によってその晩は勝手に妄想が膨らみ、山の上であと一杯の土が足りないと言って頭を抱える自分のイメージが何度も出て来て寝付かれず。
中国の古い言葉はなんとも凄みのあるものですね。


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ちょうど去年の今日。立川にて。




昨日は客が来て慌ただしかったので、今日はゆっくり起きる。
ちょっと風邪気味であるが今日が元旦のような感じがする。
静かな年頭である。
妻と二人で雑煮を食べる。
ここ一ヶ月ちかくドイツ行き以来、とにかく慌ただしく過ごしてきたので今日は久々にのんびり寝正月を決め込もうと思う。
今年はいつものように年末の28から31日にかけて年賀状書きという悪夢もなく(例年妻からその計画性のなさを責められつつ苦しんでいた)それだけでもありがたいことであったと思う。
周りには日本のお正月を指し示す記号は全くなく普通の日々と変わりないとはいえ、やはり年が変わるという事実は大きなものだ。
ページがめくられた音が響くようだ。
だらだらしながらも本能的なものかどうかはわからないが、これまでを思い、これからのことを考えてしまうものだ。
我が家ではいつも正月には家族4人でそれぞれ今年の抱負を述べることがしきたりになっている。
例えば去年の僕は「さらに日々努力して禁煙できるようにがんばりたい」だの「さらに日々気を付けて酒量を適切な値に持って行く様努力したい」とかそういう抱負である。(苦笑しながらそれを聞いている長男の顔が浮かんで来る。年頭の抱負で息子に苦笑されるのは我ながら情けないと思う)
今年は息子達は多分おじいちゃんの所で抱負を述べている事と思う。

さすがに今年はいつもと状況が異なるのでいつもとは違った新年である。
過去を思い返すにしても1年ではなくてここ20年位になるし、これからを考えるにしても10年程のスパンになってしまう。
もちろん抱負はここには書きませんけれど。

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あけましておめでとうございます。
新春のお慶び申し上げます。
私の今回の長旅でご迷惑をおかけした日本の方々、この旅を暖かく見守って下さっている皆様、またこの旅の途上で出会い、お世話になった全ての方々に深く感謝いたします。
また皆様におかれましては今年が昨年よりもさらに素晴らしい一年になりますよう祈念いたします。

元旦になりました。
今日はマイーダさんの妹イヴァさんに約束した寿司パーティーをすることになった。
実はもっと後の予定だったのだが彼らのスケジュールの関係上今日になってしまったのだ。
ご存知のように私たちは12月のドイツ行きから始まってここ最近忙しかったので、正直このパーティーが実現可能かどうかかなり危ぶまれた。昨日ザダールのマーケットに行ったのもその所為であった。

結局は妻のおかげで何とか元旦パーティーが実現した。
秋にドブロニクでイヴァさんに会った時、彼女には「リエカに帰省したら蕎麦パーティーをしようね」と言っていたにもかかわらず、彼らは何度訂正しても「今度のスッシィ(寿司)パーティーのことだけど...」というので(ソバだっちゅうのに)妻ともども訂正するのを諦めたのだった。彼らは「日本人=寿司=ごちそう」という強力な思い込みがあるようだ。彼らに日本では寿司はプロが握るもので家庭では寿司は作らないのだと説明しても全く理解してもらえない。
勝手に寿司(スッシィ)と言ってにこにこ、目を輝かせる始末なのだ。
結局、今回も彼らは本当の寿司を食った事がないんだから、まあいいかという結論に達したのだ。
さすがに12月のドイツ旅行での仕入れが効いて今回は夏の寿司パーティーよりもかなり良く出来たと思う。ザダールで買ったまぐろといかがまあまあだったので一安心。蕎麦は藤田さんが秋に持って来て下さった「深大寺蕎麦」である。
とにもかくにも、年初め身内を褒めて恐縮だが、妻のがんばりに感謝するところから今年はスタートとなった。

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イヴァさんは蕎麦が気に入ったようでそばつゆの作り方を聞いていた。

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大家のイェルコ・ユーリッチさんはクリスマス以降の食べ過ぎで元旦早々ダウンし、残念ながら欠席であった。
ザダールで大晦日の朝を迎える。
宿は旧市街の中にあるので主要な場所は歩いて見てまわれる範囲にある。町の中心はローマ時代に作られた広場(フォーラム)で2100年前のものである。海がとびきり美しいこの場所を古代のローマ人が見逃すはずはないなあと思う。(前にも書いたがここの海は映画監督のヒッチコックや劇作家バーナード・ショーなどが礼賛していたことでも知られる)
そのローマ時代の大理石を使って作った聖ドナド教会を始め、聖マリア教会・修道院、聖ストシャ大聖堂、フランシスコ会修道院などを見る。ミランさんが歩きながら簡単に説明を加えてくれた。ここザダールは昔から位置的に要衝の地であったため、2100年の間、破壊と再興が何度も繰り返された町だということがわかる。
最後に再び海岸のシーオルガンへ。ここでミランさんが作ってくれたサンドウィッチを皆で食べる。
明日はお正月なのだが食料の買い置きに不安を持つ私たちのため、ザダールのマーケットに行き買い出しをする。日本と違い年末の大賑わいといった感じではない。
帰りは行きとは異なり途中まで高速道路を使いリエカまで送っていただく。外気はマイナス5度。
夕方、家に戻ると前回書いた、N本先生が送り直して下さった荷物が無事届いていた。また秋にここリエカに来て頂いた藤田さんからの郵便も届いていた。
N本先生にはミランさんに見せる為に無理をして送って頂いたので、長旅で疲れているであろう、ミランさん、アキコさんであったが、結局は引き止めて映像をしばしの間見てもらい話をすることになった。
その後トレンツさん一家はザグレブに戻った。お疲れさまでした。
2008年の最後をミランさん、アキコさんたちとザダール行きで締めくくる事ができて、本当に良かったと思う。

日本では改めて考えることはなかったことだが、ここクロアチアにいると日本の年末の風習は本当に良いものだなあと思う。
夜は「紅白」も「ゆく年来る年」もない静かな大晦日を過ごす事になった。お酒をちびちび飲みながら藤田さんが送って下さった本を読む。「浅見潚随筆集 新編燈火頬杖」である。まずは巻末に付された藤田さんの書かれた解説を先に読み、それから本文に入る。とにかく日本語に飢えているので活字がまぶしい。コンピュータ上の文字ではどうしようもないものがあるのだ。(この本はウェッジ文庫から出ています。浅見潚の名前はあまり知られていないが、文学に興味のある皆さんにお勧めです!)
夜騒々しいなと思ったらあちこちで花火と爆竹の音が一斉に鳴り出し1時間ほど続いた。それで「今」年越しなのだと気づく。早くに寝ていた妻もその音で起きてきた。正直こんなうるさい正月の迎え方はあんまり乙じゃないなあと思った。やっぱり日本の除夜の鐘のほうがずっと良いと思いながら寒いベランダで花火を眺めこの一年を思う。
翌日マイーダさんは「昨日うるさかったでしょう」と聞かれたので「うん」と言ったら花火や爆竹を鳴らすようになったのはここ10年のことで、◆国から粗悪な花火が入って来てからにわかに流行しているのだと。どこかのまねをしたカウントダウンなんて「最低でしょう」と眉を潜めていた。

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以下聖ドナド教会。

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異国の地で小さな子が上手な日本語をしゃべっているのを聞くと心がなごみます。彼女は日本語、クロアチア語に加えて英語の三か国語を何の苦もなく使い分けます。

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聖マリア教会・修道院

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聖ストシャ大聖堂

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フランシスコ会修道院の回廊

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朝のシーオルガン。ここは階段がハーモニカのようになっていて波の動きがパイプオルガンのように空気を動かして最上段横にある四角い穴から音が出る仕組みである。

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空気が出入りする穴と思われる。

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高速道路が走る山岳地帯は雪である。

午前中にトルサットの城と教会を訪ねた後、トレンツ一家の車に乗せてもらいザダールに向けて出発。アドリア海の海岸沿いの道を南下していく。
途中、これまで通りかかっていつも気になっていた小さな港町、バカールに寄りフェリー会社ヤドランの古いホテルでお茶を飲む。この小さな港町はもちろん観光ガイドブックなどには載らないけれどクロアチアらしい魅力を持った場所と言えると思う(クロアチアの海岸線を走っているとこのようなおとぎ話に出て来そうな小さな集落というか町をよく見かけるのだ)。実際行ってみると何と言うか時間が100年くらい止まったままのような不思議な感触があるのである。あるいは誰かの短編小説に書かれた架空の港町といったような。
こちら(ヨーロッパ)に来た当初、車を運転するかどうかで迷った末、結局やめたのであるがこういう場所は自家用車でなければなかなか来る事ができない。特にこれまでしつこいくらい触れて来たように公共交通機関が劣悪なクロアチアでは尚更であった。そういった意味で今回の小さな旅は私たちのこれまでの欲求不満を少し解放してくれるものであった。
途中、クルック島、ラブ島、パグ島といったアドリア海に浮かぶ島影を右手に美しい景色の中を走る。途中夕日がパグ島の向こうに落ちて、ザダールに到着したころは新月が昇っていた。
宿には向かわずまずは海岸にあるシーオルガンを訪ねる。かなり冷え込むし暗い中であったがこの装置なかなか良い音であった。
あまり詳しくはないが以下に解説がある。
http://www.seaorgans.com/
ザダールの旧市街はスプリットと似ていてローマ時代からのものであり、ここも想像以上に興味深い街並であった。
海岸の傍のレストランで食事をした後ホテルに向かう。

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バカール。山の上に見えるのは高速道路。

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シーオルガンのヴィジュアル部分は暗くならないと見れない。

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昼間の太陽エネルギーが蓄電されていて音に反応する仕組みである。

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シャッタースピード30秒くらい。

朝方、大学が冬休みになって僕の九州の実家に帰省した長男のセッティングで、小倉の両親の自宅とスカイプがつながった。4月の出発以来はじめて両親、帰省している姉ファミリーとも肉声で話ができた。この旅のあいだ、このブログが手紙代わりということでメールもたまーにしか送ってないので久々の交信である。

いくらしゃべっても電話代がかからないなんて、どうもピンとこないですね。

ともあれ久々に声がきけ、元気そうなので良かった。

親はこちらがいくつになっても親で、ハラハラしながら旅を見守ってくれていることを痛感。

記憶に残っている親父のひと言は「夫婦仲良くしろよ」でした。


夕方ザグレブからトレンツさん一家が車で無事来訪。途中、高速道路は凍結していたそうで心配する。

ミランさんはクロアチアでコミック作家、アニメーターとして活躍後ニューヨークに移動、彼の地でもイラストレーター、絵本作家として活躍。現在はザグレブに戻り、活動のかたわらザグレブ芸大、アニメーション・ニューメディアコースで映像ディレクションの教授をしている。映画「ナイトミュージアム」の原作絵本の作家としても有名である。今回大学から無理をして資料を送ってもらったのも、このミランさんを通してザグレブ芸大とクロアチアのアニメーション協会などとアニメーションや映像教育に関する交流を行う為であった。(旧ユーゴスラビア時代からここはアニメーションが盛んなところなのです)

奥さんのアキコさんは前回ここにも書いたが114日ザグレブのHDLUクロアチア芸術協会美術館のフランチェスキさん、コレクターのスダッチさんを訪ねたおり通訳をして下さった方である。

http://www.esporre.net/terayama/2008/11/

始めはアキコさんの旦那さんがトレンツさんであるとは全く知らなかったわけで、全く不思議なご縁を感じます。リエカもそうだがザグレブも僕にとって不思議な出会いに満ちた都市である。

アキコさんには正月のザグレブ芸大での僕のレクチャーでもまた厚かましくも通訳をお願いしている。

前回から話に出ていたザダールのシーオルガンを見に行く計画が今回実現したのだ。


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トレンツ一家

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アキコさんは日本でデザイナーをした後、アメリカのシアトル、ニューヨークで作家として活動。子育てが一段落した後、ここクロアチアで活動を再開されたという。写真は彼女から送ってもらったもので5月の展覧会の様子。これは3年がかりのプロジェクトでスロベニアとの国境沿いの村の伝統工芸者とのコラボレーション作品である。レースによるテント。実見してはいないが途方もない時間をかけたインスタレーション作品である。

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1000本のボビンによって作られたテント。サウンドインスタレーションとして映像もあるようだ。

今日は森田さんのリエカでの滞在最終日となる。彼は朝早く家を出てクルック島、バシュカに向かう。
我々は家に籠りそれぞれの仕事。僕は少し風邪気味。
森田さんは東京出身だけど中高生時代は東北や北海道で育ったという。そのせいか雪が恋しくて、最初はインフォメーションセンターでもらった地図にあったリエカ近くの「アドリア海が見れるスキー場」に行きたいと考えたのだったが、例のごとくバス便が皆無で断念。それでクルックに変更したのだった。
夕方帰って来た彼から話を聞くとなんとバシュカの山の上にある教会(私たちは行かなかった)まで行って来たとの事。あそこはかなり急な岩山でしかもこの寒風の中よく行けたものだとあきれる。
しかも彼はここに滞在中、毎日あのペタルクジッチの階段を平然と往復していたのだ。
私たちも旅先では年齢の割にはぎりぎりのところで、かなりハードに動き回っているつもりだが、30代なかばとはいえ彼の元気さに感心する。
「何事も身体で感じることが大事だと」と彼が言うのを聞いてやっぱり彫刻科出身だなあとも思う。
ともかくも彼はクロアチアの人も環境も気に入ったようで良かった。
来年はもっと良い季節に展覧会の予定があるとのこと。
春か夏に来れば多分もっと気に入るだろうと思う。




午前中、荷物が届いたとの連絡があり、マイーダさんの車でダリンカさんと共に街の郵便局へ。
なんと荷物は三つに分けて送ったらしいのであるが一つはぼろぼろに壊れて原型を留めず、もう一つは完全に行方不明となっていた。僕の心配が結局は的中した。送られた本は皆水に濡れたようで傷がついてよれよれになっている。
最もショックだったのは8枚のDVDが全て失われていたことである。
ここ数日、この荷物のことが心配で頭を悩ませていたが最悪の事態である。
郵便局の説明などは長くなるので省略するがクロアチアに到着した時点でこのような状態だったという説明であった。
何とも言いようがない。
N先生が無理して送って下さった次の便が無事である事を祈るのみとなった。

今日の夕食は森田さんが手料理を作ってくれ、ごちそうになった。
(かれはドイツで一人暮らしであるが食事はしっかり自分でつくっているとのこと。さすがに上手です。)
今回、彼とは作家活動について、これまで受けた美術教育について、サウンドデザインについて他、ゆっくりと沢山の話ができてとても良い刺激を受けました。

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クリスマスというのは25日と26日の二日ということを知った。
森田さんは午前中からひとりでリエカ探索のため家を出ている。
お昼過ぎ、日本で忘年会をやっているK先生、O先生からメッセージがJ先生の携帯から届く。
僕らの健康を祈念して乾杯をして下さったとのこと。
感謝感激です。
つられて昼間から僕もワインが飲みたくなったがそうもいかない。午後からソボルさんがやってきて僕の講義用英文の添削作業をいっしょにやる。まじめに英語の勉強です。

夕方、大家のダリンカさんにダルマチア式クリスマスのパーティーに招かれる。
マイーダさんの妹のイヴァさん一家も帰省してきてにぎやかである。ユーリッチさんもダリンカさんも孫に会えて嬉しくてしょうがないといった感じ。こういうのは世界共通のことですね。
長時間かけてタラで作ったパテ、自家製のパン、生ハム、オリーブ漬けをワインでいただく。
遅れて帰宅した森田さんも合流する。

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昨日のイブもそうだが、クリスマスといっても街はとても静かである。どちらかというと日本のお正月の朝の雰囲気に近い。
このクリスマスの期間、街には東京のように騒々しい、ジングルベル他クリスマスソングなど流れていなかったし、フジヤのケーキを売ってるような風景は皆無である。
昨日の夕方は街ではカフェに若干人がいて、流しのような人と演歌のような民族音楽を皆で歌っているくらいであった。
ドイツのクリスマスマーケットでも同様に静かで、東京というか日本がいかに音が野放しになっているかを実感させられる。
森田さんがサウンドデザインが専門なのでそのことについていろいろ考えさせられた。

今日は午前中いつものように森田さんを近くのお城と教会、街の中心まで案内した。後は彼は自由に歩き回ることになっている。
僕はその後自宅で勉強。

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夜は目が覚める程の強風であるが昼間は良い天気である。トルサット城にて。

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トルサットの聖母教会にはお参りの人が沢山いた。


とっくに届いているはずの荷物が届いてない事に昨日から憂慮している。1月のこちらでの講義の為に送ってもらった資料である。

昨日、今日と東京のN先生にメールし確認してもらう。先生が確認した結果、送付を頼んだ大学のある部署が、なるべく早く確実にと依頼したにもかかわらず、普通航空便で送った事が判明。これでは現在荷物がどこにあるのか確認もできないのだ。中には大事な書籍やDVDに納められた映像作品もあるのに信じられないことでショックを受ける。

年末にザグレブ芸大のアニメーションを教えている先生に会う予定で、そのためにもかなり以前から依頼していたものだったのだ。

その後、今日になって経過を知りあきれたN先生とゴンちゃんがなんと再度荷物を梱包し送付し直す作業をして下さったと連絡が入る。

彼らが僕にとって今年のサンタさんになってしまった。全く申し訳なく、言葉もないとはこのことだ。


夕方ザグレブからやってくる森田さんをリエカ駅に迎えに行く。

以前ここにも記しているが森田さんとはリンツで出会い、ベルリン芸大サウンドデザイン科を訪ねた際お世話になっている。彼は今回ザグレブで行われた「TOUCH ME HERE」というユニークな展覧会に招待され23日まで展示していたのだ。その展覧会を今日撤収し我が家に寄ってくれるのだ。


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森田さんの作品がポスターになっていた。随分人が来て熱気のある展覧会になったそうだ。

早朝の飛行機にてケルン・ボン空港からリエカ空港へ。 
普段は飛んでないのだが、クリスマス帰省用の特別便でほぼ満席であった。
旅先で購入したり、頂いたりした本で荷物が異常に重くはなったものの無事帰還。
私たちが出かける前と打って変わって、クロアチアはここ数日好天に恵まれていたらしい。
朝からすでに夕方の気配を漂わせているようなドイツからアルプスを超えてこちら側に来ると、その光がこうも違うのかと思う程の差異があることに驚く。ゲーテに限らず、北方ヨーロッパの人間が南に憧れる理由が実感としてよくわかった。劇的といっても良いくらいだ。ドイツではつい「もっと光を!」と言いたくなるような暗さだったのだ。
しかも今日はここに住んでるダリンカさんでさえ「素晴らしい眺め!」とわざわざ言うに相応しい変幻自在のアドリア海の海と空の色であった。
帰ったら洗濯機が何故か故障していた。クリスマス休暇で修理も頼めず、3階の大家さんの洗濯機を借りる。

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飛行場のあるクルック島を渡る。海がまるで湖のように静かで空よりも明るく光っているのだ。

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小春日和といっても良いような暖かさである。

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翌日の帰りの飛行機が早朝なのでフランクフルトからケルンへ列車で移動。
夕方街を散策。

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ケルン大聖堂

午前中トラムに乗って、モダンアートミュージアムへ。ここの建築はホラインである。常設展が目的だったのだが、何と全館を使用して村上隆氏の大展覧会をやっていた。実は僕は彼の作品をこれまでほとんど見た事がない。こういう機会でもなければ見る事はないだろうから結果的には良かったと思う。(全く自慢にはならないが僕は普段日本では出不精の上、ここ10年近くの日本の現代美術の動向に全く疎いのである。)

その後、応用工芸美術館、建築博物館を見る。

フランクフルトには他にも自然史博物館、前史先史博物館、シルン美術館、世界文化博物館と面白そうなミュージアムがあったのだが、まあ二日ならばこんなところであきらめるしかない。

......グーテンベルク博物館にもう一度行くべきだったかもしれない。


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以下モダンアートミュージアム。最初見た時MURAKAMIという名の商社ビルだと思いました。


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左手はシルン美術館。マグリットをやっていた。


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以下応用工芸美術館。家具などのモダンデザインとアジアを含めた世界の工芸の紹介。


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以下建築博物館。ここは期待が大きかっただけにちょっと...。建物は3つの階層に分かれ2007年度の高層建築世界一のコンペ、エコロジーと建築をテーマにした100の提案、最新のヨーロッパ各都市の都市計画といったものであるがどれも中途半端というか、雑誌の特集を読まされているような気がした。


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常設展らしいところで世界の都市の歴史の模型を展示しており、これはおもしろいかと思ったが途中で尻切れとんぼになってしまった。今回の旅で私たちの行った場所の模型があったのは個人的には興味深かったが。


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疲れ果てて足を引きずりながらの帰路となった。


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橋の向こうがシュテーデル美術館、ミュージアム通り。


フランクフルトにも見るべき場所は多い。またここもデュッセルドルフ同様日本人を数多くみかける。ホテルでたまたま話した年配の夫婦はドイツのクリスマス・マーケットを見るという目的で来ているとの事。

僕らも行く先々でマーケットは覗いてみたがそういう目的を持った旅もあるのだと変な感心をした。

朝マイン川を渡り川沿いにあるシュテーデル美術館に行く。この通りは美術館通りと言われていて沢山のミュージアムが並んでいて私たちのような旅行者にはとても便利な場所である。

シュテーデルはドイツ国内でもかなり立派な美術館である。中世から近代までバランスよく作品を収蔵している。フェルメール、ヤンファンアイク、デューラー、ホルバイン、クラナッハ、ボッティチェリ、フランジェリコ、ティエポロ、ラファエロ、レンブラント、ボッシュ、ルノワール、モネ、マネ、ベックマン、キルヒナーなど。特筆すべきは特別展で謎の多い画家といわれるファン・デル・ウェイデンをやっていたことだ。周辺の画家、ヤン・ファン・アイクなどを同時に配置した素晴らしい展示であった。

その後ドイツコミュニケーション博物館、ドイツ映画博物館(両方とも書き出すと長くなるので詳細省略)を見て、美術館を出たら7時であった。

昨日に引き続きかなり疲労困憊する。

腰の調子が少しおかしい。


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以下シュテーデル美術館


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ファイニンガー


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クレー


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ベックリン

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キーファー


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リヒター


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トーマス・バイルレ。バイルレさんは14-5年前になるが特別講師として学校に来て頂いたことがある。


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バイルレ


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バイルレ


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以下ドイツコミュニケーション博物館。ここは「子供の城」(青山)と通信博物館が合体したような内容であった。


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以下ドイツ映画博物館


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日本にゴジラがあるように、ドイツにはメトロポリスのあの...。


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朝、早めに宿を出て電車でダルムシュタットへ向かう。約40分ほど。小雨まじりでかなり寒い。

ここダルムシュタットの工科大学でエル・リシツキーは建築を学んでいる。

彼はサンクトペテルブルクの芸術大学を受験したがユダヤ人という理由で入学できず、ここダルムシュタットに留学したのだった。1909年頃である。彼はここで建築家のヨーゼフ・マリア・オルブリヒに学ぶことになる。

ダルムシュタットの街の中心にある工科大学をさらに丘の方に昇ると、19世紀末から20世紀初頭にダルムシュタット大公ルードウィヒが、ドイツ各地から芸術家を招聘し作った芸術家村がある。それらの中心にいたのがオルブリヒである。この丘の中心はルードウィヒの結婚を記念して作られた結婚記念塔であり、その横に芸術家コロニー美術館がある。周辺にはロシア建築家ベノイの造ったロシア教会、オルブリヒの自邸や彼が設計した住宅、ペーター・ベーレンスによるベーレンスハウスなど、ドイツにおけるアール・ヌーボー様式=ユーゲント・シュティール建築の見本市のような場所である。

リシツキーはここで多感な学生時代を過ごしている。彼は学生時代、電車と自転車で遠くパリにまでエッフェル塔を見にいっており、既に卒業のころはオルビリヒの影響を脱してベーレンスによるユーゲント・シュティール後、つまりモダニズムの影響を受けていたようである。結局1914年に勃発した第一次大戦の混乱の中ロシアに戻る事になるのだが...。

結婚記念塔横の美術館では「ロシア1900」という展覧会が行われていた。図録が大部だったのでDVDを購入した。

本当はダルムシュタットとマインツを一日ずつ訪問しようと考えていたのだが、いつもの「月曜日問題」にぶつかる為、一日で二つの街に行く強行軍となった。



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マチルダの丘


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ロシア教会


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結婚記念塔


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塔上からの眺め。


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我々が訪ねた時ちょうど結婚式が行われていた。


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今回の旅は何故かカメレオンに縁があるようだ。


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オルブリヒハウス


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ハウス・ダイタース(オルブリヒ)

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グリュッケルトハウス(オルブリヒ)

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ベーレンスハウス(ベーレンス)


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現在のダルムシュタット工科大学。考えてみればリシツキーがいたのは100年前で、そのあいだに第二次大戦もあり、ここダルムシュタットも相当な戦災にあっているからその当時の面影はもう見えないのかもしれない。しかし、それを求めて彷徨う私だった。


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ダルムシュタットのマチルダの丘の後、電車で40分程のマインツに移動。

マインツはグーテンベルクミュージアムを訪ねることが目的である。まあローロッパに来てここに来ないと何となく落ち着かないので、何と言うか僕にとっての「お伊勢参り」「富士山登頂」のようなものでしょうか。僕は富士山には登った事はありませんが。

美術館は5時に閉まったため2時間では到底充分ではなかったがまあやむを得ない。外に出ると暗くなっていたがクリスマスの市で街は賑わっている。皆が飲んでいる飲み物を頼んだら「ホットワイン」のようなものだった。

かなり歩き回ったのでくたびれた。


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ここは写真撮影ができなかったのでイメージはない。却って良かったかも知れない。写真撮影が可ならば予定を変えて「明日また来る」と言っていたであろう。


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マインツのクリスマス・マーケット。各都市ごとに見ているので私たちはクリスマスマーケット評論家になれそうである。


デュッセルドルフを午前中に出てフランクフルトへ向かう。電車で約2時間半。

フランクフルトを拠点にしてマインツとダルムシュタットを訪れるのが今回の目的である。

ホテルは駅の側で、到着して外に出ると雨模様で薄暗い。

街の中心部まで歩き、クリスマスの市を見る。


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実はデュッセルドルフでの美術館で最も楽しみにしていたのはクンスト20K20と呼ばれる州立美術館であった。ここはクレーやピカソなど20世紀美術が充実していることで有名である。しかし何と、今年の4月から来年の秋まで改築の為閉鎖されていた。

うーん...調査不足であった。

残念であるがしょうがない。ここの名作は今日本の名古屋の美術館に行っているようだ。

それでもうひとつの美術館、K21に行った。ここはその名の通り未来志向(?)の現代美術の展示をしているところである。大体1980年以降の作品に絞っているようだった。建物はK20と裏腹にこちらは古い建物を改築したものであった。この改築はとても優れたもので感心した。

また現代美術の展示はこれまで訪れたところの多くが、何故かぞんざいな印象を受け、うんざりさせられることが多いのだがここは違った。ひとつは普通よくあるように大空間に膨大な数を羅列せず(建物が古いせいか)こじんまりした部屋に少しずつ展示している所が落ち着いていてとても良かった。名前の知らない作家幾人か、イリヤ・カバコフ、クリスチアン・ボルタンスキーが特に印象深かった。(作品は撮影禁止なので写真はない)



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K21エントランス


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途中、クンストアカデミーの横を通る。


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その後エーレンホーフ文化センターにある美術館クンストパラストに行く。ここは古典から現代美術までを展示していたが、時々ドイツで見かける時間軸を壊して異なる時代の作品を併置する(ドレスデンの美術館がそうであったが)僕の嫌いなタイプの展示をしており、あまり感心しなかった。ただオットー・ディックスの版画のみの特別展をやっておりこれは、第一次大戦の悲惨さを告発したものでその迫力に圧倒された。もともとオットー・ディックスは好きな作家ではあったがこれによってさらに見方が変わった。これだけでも来て良かったと思ったが、その後ガラス博物館に行って驚いた。この美術館はむしろガラスがメインだったのだと知らされた。エジプトやローマ時代のものからアールヌーボーを経て現代までこんなにガラスが充実した美術館は初めてであった。ガラスをやっている人は必見の美術館だと思う。あまりにも多すぎて時間内に見切れなかったのが残念である。(ここも撮影禁止なので写真はない)

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エーレンホーフ文化センター周辺。


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クンストパラスト。いくつかの美術館の複合施設らしい(全部は見れなかった)


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エントランス。


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今日はもうデュッセルドルフ最後の夜となってしまった。

鈴木さんとご家族には何から何までお世話になってしまい本当にありがたかった。

しかも今日は最後の夜ということで、またしても鈴木家でごちそうになってしまった。

つい最近リエカでの食事についてブログにうかつなことを書いてしまい、私たちの貧困な食生活を随分心配して下さったようだ。まったく厚かましい事で恥ずかしくまた申し訳ないと思いつつ、楽しい最後の夜を過ごさせていただいた。

私たちにとって(これまでの苦しくも楽しかった旅の思い出や鈴木さんのデュッセルドルフでのお話を酒の肴に)楽しい忘年会になりました。


ブログはこれから会う方に気を使わせてしまうという問題があることに気づきました。これはある面、どうしようもない問題ですが、少なくともこれからは食生活などに関する弱音ははかないようにがんばります。もう旅も残り少ないのだから。

鈴木さんの車でmaiさんと海君も一緒にデュッセルドルフから高速を飛ばして3〜40分にあるエッセンに向かう(初めてアウトバーンを走りました)。ここは戦前からドイツの重工業を担ったルール地方の中心都市である。重工業?に何の関係があるのと思われるかもしれないが、ここにはツォルフェライン炭鉱跡があってそこが今回の目的地である。
ここのことは以前大学の研究紀要の編集をしていた時、査読した論文にここを始めとするドイツにおける近代産業の保存活動について書かれたものがあって、その時以来関心を持っていた。その論文自体はレポート程度でさほどのものではなかったが、実態を自分の目で確かめたく来てみた。
ここは1930年代に当時最先端のモダニズムスタイルで建てられたもので建築的な価値があるとともに、街と言っても良いくらい広大な敷地にある炭鉱全体を産業遺産として保存しようとしているところである。これは新しいエコロジーミュージアムの一つの展開でもある(ユネスコの世界遺産にも登録されている)。日本でもこのような場所がたくさんあるがほとんど顧みられる事なく壊されているのが現状である。こういった姿勢と過去の遺物に対する考え方は残念ながらドイツのほうがはるかに進んでいると思われる。
修復した建物の一部は現代美術の展示やデザインミュージアム、子供たちの遊戯施設などとして使用されている。
今回訪ねたレッドドット・デザイン・ミュージアムはノーマン・フォスターが手がけたものである。

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27年前に作った修士制作の(dead tech)風景が現物として存在しているようで、感慨深くひとり静かに興奮していた。
近代の廃墟には(あるいはあらかじめ廃墟である近代において)局所的な物語と想像力が必要と考えた、あの頃から僕らは確かにポストモダンを生きて来たのだと実感。生きている間は気がつかないのだが過去がパースペクティブになってやっと確認できることもあるのだなあと独り言。

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リシツキーのフォトモンタージュ「雲への階梯」を思い出す。

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レッドドット・デザインミュージアム
ノーマン・フォスターのデザインに関しては手放しでは褒められらない。また展示内容に関してもかなり問題を感じた。今回はレッドドット・デザインコンペティションの受賞作が膨大に並べられていた。有象無象であるので一概には言えないが、全体としては産業振興目的の展示であった。アプローチがちょっと古い(モダニズム?)というか、頑固なドイツ人らしいと言うべきか...。形にならないデザインに対してどう考えているのだろうとか思う所あるけれども省略。

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工場跡地は面白いけど、ノイズが大きすぎて展示には不向きで、そこはあまり解決されていない。

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夜は皆でドイツ名物のビアホールへ。
伝統的なドイツ料理と共に自家醸造のビールを楽しみました。
このお店には1811年にナポレオンも訪れたということで肖像が飾ってあった。
朝から霧で薄曇り。温度は2度から4度くらいか。
今日は夕方、FH-Dのコミュニケーションデザイン学科のテュフェル(Teufel)教授の研究室を訪問する予定である。
それまで午前中から昼間にかけて自分たちでデュッセルドルフの町を散策し、3時に鈴木さんが迎えに来てくれて車でデュッセルドルフの町を案内してもらい鈴木さんのアトリエを見学した後、大学に向かう。

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デュッセルドルフは州都であり、ファッションと商業の町である。ここは町の中心、ケーニヒスアレー。お堀をはさんで82メートルの大きな道。両側に並木道が続いている。

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旧市街にある市庁舎とマルクト広場。クリスマスの市。

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ライン川沿いの道。

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オーバーカッセラー橋

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かつての港の再開発地域、メディエンハーフェン。手前はラジオ局、向こうに見えるのはフランク・O・ゲーリーの建築。このあたりはおしゃれな場所らしいが月曜の午前中とあって人通りも少なくひっそりしていた。

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デュッセルドルフにはこのような立派なお寺もあるのに驚く。

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少し郊外にあるベンラート城。城と聞いていたので最初のイメージとかなり異なっていた。
18世紀に建てられたバロック様式の建物で城というよりは離宮である。庭が広大である。

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鈴木さんのアトリエ。ここは自宅からすぐ(歩いて15秒!)の昔の駅舎だった建物である。
(駅は現在別の駅舎を使用している)
建物は市によって文化遺産として丁寧に保存修復され、市はそれを芸術家に貸しているのだ。
となりの空間はギャラリーであった。年に一回、デュッセルドルフの市民はこういった芸術家たちのアトリエを訪ねるフェアがあるそうである。

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アトリエは昔の駅長室。ここは南側の廊下だったところ。

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FH-Dデュッセルドルフ応用科学大学コミュニケーションデザイン学科。
昨日書いたクンスト・アカデミーにはデザインコースはない。この大学の創設者はあのペーター・ベーレンスである。それだけでもここが由緒あるところだと分かりますね。

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ここはドイツ国内でも評価の高いデザイン教育機関だとは聞いていた。テュフェル教授はいきなりここ10年の学生の作品、教育の成果をまとめた分厚い本から紹介を始めた。いや本当によく頑張っている事が理解できる。そのあと次から次へと面白い本を繰り出して来る。時計は見ていなかったが話が尽きず、多分予定時間を随分オーバーしたようだった。
普通の実務教育よりも教師と学生共同のプロジェクトがやっぱり面白い。映画のグラフィック史やヘルムート・シュミットなどといったテーマの研究はアプローチもまとめも立派である。
詳しい話は長くなるので省略しますが刺激をかなり受けました。

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テュフェル教授。テュフェルというのは天使(エンゲルス)の反対の意味だそうだ。皆さん笑う。ご本人も自己紹介のとき笑っていた。彼は来年の2月と3月に大阪のddd、東京のgggギャラリーで学生と共同プロジェクトの展覧会を行うそうだ。ヘルベチカの50歳の誕生日を記念していると言っていた。またそれはチューリヒとバーゼルを和解させる展覧会であるとも。
僕は残念ながら行けないけれど、東京、関西にいて興味のある人はぜひどうぞ。

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鈴木さんの娘さんであるmaiさんはテュフェル教授の教え子で、彼女がこの面談をアレンジしてくれた。彼女はギムナジウムを出て数年デザインの実務を経験した後、この大学に入学している。テュフェル教授の右隣にいる青年は海君。今回通訳をしてくれた。完璧であった。
この後、テュフェル教授も含めて皆さんで食事に行った。

朝、雨の中6時半に家を出てタクシーでバスセンターへ向かう。

ザグレブ空港からケルン・ボン空港。

ケルンから電車でデュッセルドルフに4時過ぎに無事到着。

デュッセルドルフは知り合いの鈴木さんからぜひ来るようにと誘われていたのだ。

前回のドイツ旅行の際は鈴木さんの日本行きとすれ違いになってしまい、お会いできなかった。

鈴木さんは40年以上前、東京芸大の院を卒業した後すぐに日本を出て、ユーラシア大陸を渡りドイツに向かったのだ。キール滞在を経てここデュッセルドルフにアーティストとして暮らして30年以上になる。

以前日本でお会いした時、色々なお話をしたのだが、その中でデュッセルドルフのアカデミー・クンストで6年勉強されたこと、その理由がかつてここのアカデミーでクレーが教えていたことなどを興味深く伺っていた。またここではボイスやリヒターが学生だったり、教えていたことでも有名である。

そういうわけで僕の中では「デュッセルドルフ=鈴木さん=クレー+現代美術」となっており、是非訪ねたかったのだ。

ホテルに到着後、鈴木さんに電話すると早速車で迎えに来て下さった。

夜は鈴木さんご一家に温かなおもてなしを受けた。鈴木さんの手料理(和食)は全くプロ並みで妻ともども、こちらヨーロッパに来て何と「初めての!」本格的日本料理に感動。

デュッセルドルフは日本人がヨーロッパの中でも最も多い町としても有名だそうだ。日本の食材もかなり手に入るらしくリエカと比べると思わずため息が出てしまう。


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ケルン上空。


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鈴木家にて。鈴木さん、家内、maiさん、ペトラ夫人と。

maiさんはデザイナー、奥さんは写真家である。


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鈴木さんの家にはペットが沢山いた。立派なカメレオンも二匹いてびっくり。

彼の名前はdiegoである。ソボルさんと一緒だ。

明日からのドイツ旅行の準備に追われる。
約11日間の予定である。

この間英作文などに忙しかった為、旅の心構え(?)をする時間が少し足りない。
ドイツは3度目になるので慣れて来たせいもあるかもしれない。
マイーダさんが訪ねてきてくれる。
抹茶を飲みながら話した事。
以前ブキッチさんにもらったクロアチアデザイン史の本を読んでいて、どうにもしっくりしないところがあった。ひとつはそれがザグレブ中心で語られ過ぎているように思えた事である。もうひとつはバックボーンになるはずの19世紀末から20世紀にかけての、つまりオーストリア・ハンガリー帝国以降の国家としての政治的変遷についてほとんど触れていないことである。また同様に今は外国になっているボスニアやスロヴェニアなどについても全く触れようとしていないこと、第一次大戦と第二次大戦間がかなり抜け落ちている印象をもったこと。そして最後に僕の今住んでいるリエカについて、かなり意識的に触れていないと思われた点である。前にも書いたがリエカは1920年ころダヌンツイオがいてヨーロッパ中から未来派とダダイストが集まった不思議な時空間を持っていたはずなのに全く触れられていないことであった。なので話のついでに彼女に聞いてみた。
それに対してマイーダさんはとても懇切丁寧に説明してくれた。
歴史的にリエカは20世紀の100年で少なくとも7回政治体制が変わったこと。栄光のオーストリア・ハンガリー唯一の貿易都市時代、イタリア占領の時代、ダヌンツイオ時代、自由自治都市、イタリアとユーゴスラヴィアによる二国分割支配(ベルリンのような)、そしてユーゴスラヴィア、現在のクロアチアなどだ。
そしてリエカはそもそもイタリアの影響を強く受けているのに対してオーストリアの影響の強いザグレブとはもともと対立的な感情もあるらしい。
とにかく複雑なのだということは分かった。
今はザグレブの美術館のディレクターをしているフランチェスキさんがリエカにいた数年前にダヌンツイオ時代の芸術のアヴァンギャルドの展覧会をしたところ、「未来派なんてファシズム芸術を称揚するなんて」と非難囂々であったらしい。(この展覧会の図録は見せてもらったが大変立派なものだった)確かに日本でも80年代までは未来派=ファシズムといった短絡的な見方があったことを思い出したりした。
ダヌンツイオがマリネッティに影響を与えたからファシストで、ファシスト=ナチズムだからけしからんというのは、マイーダさんも言っていたが歴史をちゃんと知らない人間の短絡化した戯言ではある。
まあ、話はブキッチさんのデザイン史の記述にリエカに触れた部分が少ないのは何故というところから始まったのだが、それに関しては「ダヌンツイオ時代や二国統治されていた時代はクロアチアではなかったから」ということのようだ。
だから納得できますということではないけども。
マイーダさんは少なくとも僕の疑問の理由はよくわかるらしく将来もっと統合的なデザイン史、美術史が書かれるだろうと言っていた。多分時間がかかるだろうということも。
それとは別に僕にとってこのリエカという町はマイーダさんやソボルさんとの話でいろんなことを知れば知る程、興味深いところになってきた。
始めのうちはここに来たのは偶然のようなものと言っていたが最近では必然であったのではないかという確信に変わって来ている。

その後、西側ヨーロッパによる旧東側諸国への偏見や差別などについても話が及んだがそれは長くなるのでやめます。



作業は昨日の続き。
朝から夜までずっと雨が降り続く。
講義文に加えて履歴書も送って欲しいと頼まれる。
これも英訳作業する必要あり。履歴を書くという作業は日本語だったとしても大変だ。
これまでの論文や雑誌に載った文章のタイトルも翻訳してみる。
たまたまコンピュータにデータのあった約25年分の版画作品やデザインワークを見直すはめになった。パワーポイントで以前作ったもの。画像で約200枚くらい。
改めて全部を見返すと意外に(?)おもしろい。...いや本当は思う所多々あるけど、ここでは省略。

ついでにマイーダさんやソボルさんにこのパワーポイント画像も見せる事にした。
考えてみたら彼らにこれまで自己紹介らしいことは全くしていなかったことに気づく。
今頃、私はこういう者ですと言うのもおかしな話ですけど。
言葉を重ねるより全然早かったんじゃあないかと今更ながら思う。
朝から雨模様の曇り空であったが昼間、雨の間を縫うようにリエカの町まで買い物に出かける。ザグレブ行きのバスの時刻も確認する。案の定、ネットには出ていないバスがあった。クロアチアは油断できないのだ。
近所のスーパーにあったお米が最近売り場からなくなっていて、町のデパートやスーパーを探すも見つからない。まだ買い置きはあるものの、どうしてなのか不明である。唯一何とか食べれるお米なのである。
あとは終日翻訳作業の続き。

そもそもこの旅の出発時において講義などするつもりは毛頭なく、むしろなるべく学校の授業のことや、自分の行って来たデザインその他の活動はなるべく忘れて、せっかくの機会なので外から入って来る新しい情報に純粋に身を委ねようと思っていたのだ。
今翻訳しているのは自分がこれまで主に関わった授業を中心に大学の教育内容を紹介するものである。(たまたまコンピュータに画像データなどがあったので引き受けても良いかなという気持ちになってしまったのだ)
なので今回必然的にこれまで封印していた授業の記憶諸々と一気に向き合うことになった。僕が非常勤で大学に勤め出したのは29の時なので22年間の記憶である。今年退任されるO先生と22年前からスタートした1年の基礎授業のこと、15年前から何年もかかってK先生と作ったwriting spaceの授業のこと、9年くらい前からN先生とスタートさせた通称レシピ等など。
ここでの紹介は「うちの学生はこんな素晴らしい作品を作っています」という自慢などするつもりはなく、何故この授業(カリキュラム)が学生にとってそしてデザインにとって重要だと考えたかという一点に尽きる。
デザインに対する理念なり哲学なりと教育の具体的方法論は表裏一体のもので両方が同時に問われるという意味においては昨日の翻訳という作業について考えたことと似ている。
...結果、これまで封印して来た思考が一気に吹き出して来て言葉は追いつかない。ので考えた内容に関してはここでは省略します。
結局もの思いにふけって翻訳作業のほうがしばしば中断する。
しかしこのことに今はあまり捕われすぎないようにしようと思う。
日本に帰ればまた、いやというほど考えなければならないのだから。


14日からのドイツ旅行のスケジュールがほぼ決まる。

自宅でひたすら英文作成。リエカとザグレブでの講義のために既にある30枚か40枚ほどの日本語の原稿を英語に置き換えていく作業。リエカではソボルさんがその英文からクロアチア語に同時通訳してくれる予定である。前にも書いたがソボルさんは翻訳家であり言語に関しては天才的なところがあるので、問題はない。問題は私が自分の考えを未熟であっても正しく彼に伝えられるかにかかっているのだ。ザグレブも含めて講義は来年の予定だが今週末のドイツ旅行の前にまず第一稿を渡さなくてはならない。

この翻訳translationという作業はとても面白く考えさせられる。実際やってることはもちろん大したことではないけれど、ノイラートの言ったtranslaterだとか、ボイスのtranslationという言葉の意味とか、単に右のものを左に持って来るというものではない。

今の僕はいかにシンプルな、基礎的な語彙を用いるかを考えざるを得ない。そうすると同時に元の日本語を添削する作業になる。日本語だと適当に書き流したような文章も1センテンスごとに吟味することになる。そもそも言いたかったことは何なのかを相対化するということ。その結果、日本語では気づかない意味がまた浮かび上がってくる。そこが何とも言えず不思議な感覚である。

造形に関するテキストなのでなおさらのことかも知れないが、身体とか自己とか環境とかをめぐって考えていると、簡単な言葉が哲学的な意味を帯び出したり...。

日本語が自由に話せるということは、ある面では言葉を意識化しないということなので、自由なようでいて実はそうでもないのではないかと思えてきた。

やむを得ずの作業だけれど日本にいては忙しさにかまけて、こんな経験をするチャンスがなかったことを思えば僕にとって「言葉」を考えるとても良い機会である。


ここクロアチアには僕の日本語をクロアチア語に翻訳してくれる便利な人はいないのでやむを得ず英作文に励んでいる。
元のテキストは既にあるのでこれをネットの翻訳ソフトと電子辞書を使いながら翻訳しているのだが、当然簡単ではない。時間がかかる。普段使わない脳みそを使うので気が狂いそうになります。
時間感覚もおかしくなる。
もう夜遅いから寝ようかと思って時計を見るとまだ7時だったりする。
こんなことはここ最近ありえなかった経験だ。
ここリエカはずっと雨の日が続いている。
朝明るくなるのは遅いし、昼間も薄暗く夜が本当に長い。
ヨーロッパは夏と冬のコントラストがこんなにも強いのかと実感する。
妻に言わせればヨーロパの梅雨は12月なのだ。
何故かわからないがエジプト旅行中、タクシーの中で聞いたサンタナの「哀愁のヨーロッパ」のフレーズが頭の中をグルグルする。

妻との(哀しい)会話。
「今日は何を食べたい?」
「すき焼き。」
「あなた、ここにはお豆腐としらたきがないこと知っているでしょ。」
「じゃあかわりにたまねぎとか...」
「それじゃすき焼きじゃないでしょ。それにこちらでは生卵は食べれないのよ。」
「...」
「他に食べたいものは?」
「湯豆腐」
「...」

哀愁のヨーロッパ。


昨日に続き読書と資料の整理。

以下エジプト覚え書きの2。トラブル編
このブログを読んでいただいている方にはお分かりのことと思うが今回のエジプトの旅では種々問題が発生し大変であった。細かい経緯を書いているわけではないのでなんのこっちゃ分からんという部分もあったと思う。
改めてここで愚痴るつもりはないのだが、記録に留めておきたいことのみ記す。
以下、カイロの私の旅行エージェントになったサイードとトラブルの後に話したことである。
エジプトでは独立した人間はお金持ちなのである。例えばダハブにサイードと行ったとき私たちが昼食をとったレストランはサイードの昔からの友人が経営しているところであった。彼の説明によればその友人は複数のレストランと安ホテルを経営しているのだが、売り上げは一日に200万円以上であるという。しかしそこで働く従業員の一ヶ月の給料は1万円以下なのだという。
つまりオーナーは月に6000万円稼いで、その人件費は月2−30万円で済ませると。
日本ではありえないことだがサイードにいわせればこれがエジプトでは普通なのだと。つまり独立したオーナーはとても金持ち。しかしその周辺で働く人々は極端に貧乏なのである。
同じ事が旅行エージェントでも起こる。
カイロから客の為に地方の旅行エージェントに委託しても、そこがピンハネをし、実際のエージェントにはわずかな金しかまわらない。そうすると彼らは勝手に予定やホテルを変更し小金を稼ごうとする。
それでトラブルが絶えないのだと。エジプト人であるサイード自身が「エジプト人は馬鹿なんです」という。
そんなことをしたら結局は信用を失う。だから自分もそんなことをしたエージェントをクビにする。そして別のエージェントに替える。(代わりはいくらでもいるから)最初はまじめにやってくれる。しかし1〜2年もすれば必ずと言っていい程同じ問題を起こす。また替える。その繰り返しなのだと。結局長続きしない。
サイードに言わせれば「だから馬鹿なんだと」
そのような状況には僕らも実際何度か出会ったので実感として理解できたのだが、本当にそれが全ての原因なのかどうかは分からない。

話はかなり変わるが私が印象深く感じたのは現代のエジプト人が古代エジプトの遺産を特にありがたく感じてないように思われたことだ。イスラム教徒からみれば古代エジプトはとんでもない異教徒であり、全く否定すべき対象なのだ。
少なくともそこには尊敬や畏怖の感情はないようであった。単なる観光、お金儲けとしか考えてないようであった。
その事が私には最も信じ難いことであった。

以下妻の写真機からー旅の断片その4
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食料がなくなったし今日は土曜日なので妻とあわてて食料の買い出しにいつものスーパーへ。
雨が止んでくれたのは幸いであった。
あとは一月にザグレブとここリエカの大学でレクチャーをすることになったので以前ブキッチ先生にもらったクロアチアデザイン史の本を必死で読んでいる。
まあ典型的な泥縄なんですけど。

昨日書き忘れたことであるが、我が家を訪ねてくれたマイーダさんはこれから町でデモに参加するということであった。嵐模様であったにもかかわらず昨日はクロアチアの全ての主要都市では一般市民による大デモがあったのだ。
マイーダさんの話によれば今回の世界的な経済恐慌による景気後退とクロアチア政府の政治的経済的政策に対する異議申し立て、もう一つは以前にも書いたがマフィアがらみの一連の政治的なスキャンダルに対する抗議行動でもあるらしい。
このスキャンダル(ジャーナリスト殺害事件)には現在のクロアチアの政治中枢とイタリアのマフィアと財閥、クロアチアの軍、新興財閥などがからんだ複雑なものがあるらしい。
当面ユーロによる政治的外圧しかクロアチアの現在の歪んだ状況を正せないのは情けないことだとマイーダさんは言っていた。(充分理解できたわけではないがそのように聞こえた)
そしてここヨーロッパの片隅でアメリカ新大統領オバマの演説を読んだ。
美しい文言の羅列ではあるがあれは単なるレトリックにしか聞こえない。アメリカ人だけが陶酔しているのではないか。
世界はもっと複雑できしんでいると実感する。
おそらくもし日本にいればこのようなリアリティはなかったのだろうと思うけれど。

以下妻の写真機からー旅の断片その3

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終日雨風。冬の嵐のようである。
終日メール、旅の片付けなど。
昼間マイーダさんが訪ねて来てくれる。
1月のリエカ美術大学訪問について相談。
妻は大分回復した模様。
体調が思わしくないにもかかわらず食事を作ってくれている。
このことによって二人とも少しずつ体調が良くなっていることは間違いない。
僕のお腹の調子も大分良くなって来ました。

以下エジプト覚え書きを少し。
エジプトやヨルダンで見たものを自分の中で消化するには今は早すぎて無理のようだ。
改めて調べたいこと等も山積しているからだ。
それはともかくとして、少なくとも言えることは今回かなり無理をしたけれどシナイ半島、ヨルダンまで足を伸ばせたことは結果的に良かった。
シナイ半島のセントカトリーナの蔵書が見れたことについては既に触れたが、それよりもヨルダンを含めあのあたりの空間、風土に少しでも接することができたことが大きい。
以前にも少し触れたが今回の旅全体で本当は今のイスラエル、イラン、イラクまで足を伸ばしたかったのだ。つまり僕にはバビロニアまで行って楔形文字発祥の地点に立つ必要があったのだ。旅の始めから時間と安全の問題でそれは断念したのであるが、今回中東地域に少しでも触れることができたのは自分の中の世界地図の上では貴重なものとなった。5月に行ったトルコ東部のハットゥシャシュの楔形文字でかなりの関係がつかめたというのもあった。
またラムセス二世とハットゥシャシュ王国の戦争とその後の世界初の国家間平和条約という3200年前に行われたダイナミックな交換も実感することができた。
現代人の想像力を超えて古代の文化交流はダイナミックなものなのだ。

単純に宗教のせいに帰するつもりはないが現在のイスラム圏を旅する大変さはエジプトでいやという程味合わされたけれども。

以下妻の写真機からー旅の断片その2

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妻は風邪で寝たり起きたり。
リエカは終日雨で寒い。
荷物の片付けの前にこの間旅先で送れなかったメール、特に緊急を要するものから優先的に送らねばならない。
あれやこれや、旅の疲れが残っているせいか遅々として進まない。
次の12月後半の旅の準備にも手をつける必要がある。
夜になってやっと随分遅れたブログの更新。

妻の写真機が9月になってレンズエラーで壊れてしまい、僕の1台だけでは不安だということで今回ウイーンで新たに購入した。
以下妻の写真機からー旅の断片その1

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10時のヴェネツイア、サンタ・ルチア駅発トリエステ行きの電車に乗る。

トリエステでバスに乗り換え、何事もなくリエカへ。

11月11日パリ行きに始まった今回の約3週間のショートトリップも何とか無事帰還することができた。

私たちの為にマイーダさんが暖房を入れておいてくれたが、思った以上にリエカの夜は底冷えがする。

妻は風邪気味で寝込む。

恐らく旅の心労と疲労のせいであろう。


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朝ホテルの中庭にて。


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サンタルチア駅前




今日は空港傍のホテルからバスでヴェネツイアのサンタ・ルチア駅近くの宿に移動し一泊する予定であった。

朝テレビのニュースを見ているとヴェネツイアが大浸水している様子が映し出されたいた。

建物のグランドフロア(一階)部分まで完全に水浸しだったのでそもそもホテルがやっているかどうか、大丈夫かと不安になる。

とにかく行って確認するしかない。

私たちがサンタ・ルチア駅近くのローマ広場に着いた10時頃にはかなり水も引いていた。

サンマルコ広場にはなお水が残っていたが駅前は何とか普通に歩ける状態となっていた。

移動したホテルは外見はこじんまりしているが、中に入ると堂々としたヴェネツイアンスタイルで、とても気持ちの良いホテルであった(今はオフシーズンなのでこのようなホテルに泊まることができるのだが)。

荷物をおいてチェックインまで時間があったのでバポレットでムラーノ島まで行ってみる。今年は夏以来二度目である。

曇り空のせいもあって、もう3時には暗くなり始め、4時には夕暮れる。

暗くなってから二つの教会を訪ねる。

スクオーラ・ダルマータ・サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ。スキアヴォーニはダルマチアのことでかつてのクロアチア人の為の教会である。ここにはカルパッチョの連作がある。暗くて見にくいのが難点であるが素晴らしかった。

もうひとつはサンティッシマ・ジョバンニ・エ・パオロ教会。ここはヴェネツイアの中でもかなり壮麗な教会で、ベッリーニの多翼祭壇画、ヴェロネーゼの絵画連作、ヴェロッキオの彫刻等傑作がある。


エジプトのムスリムからカトリックの世界へ。

死海とヴェネツイア、二つの場所を行き来したことに感慨を感じながら...。


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道に打ち寄せる海水。


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海水が残るサン・マルコ広場


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午後4時のカイロ発の飛行機でウイーンを経由して夜9時、ヴェネツイアに到着。

タクシーで空港近くのホテルへ。

飛行機、タクシー、ホテルと当たり前のことが当たり前にスムーズにいくことにこんなに感動するとは...!。


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昨日というか日付が替わった今日の夜中にターバを出てカイロには朝の6時過ぎに到着。

車中は異常に寒くほとんど眠れず。途中トラックの複数の追突事故で少し渋滞をした。

宿で眠る。

ヨルダンの旅は短いものの大変素晴らしいものとなった。にもかかわらずやはり旅の最後の最後でだめ押しのようなエジプト的被害にあってしまった。

全く残念であった。

昼間起きたが、外には出ず宿で記録の整理などをする。

明日はエジプト脱出?である。

旅を始めて今日で240日目、私たちのこの長旅全体の3分の2が終わる。

中盤最後の山場であったエジプト行は波乱含みであったが、なんとか無事に終了しそうである。


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ホテルにタクシードライバーで案内のジャミールが訪ねて来る。

朝8時半に宿を出て北上、死海を目指す。

ここヨルダンは南北に長い国境をイスラエルと接している。国民の多くはかつてパレスチナ(現イスラエル)に住んでいた人々である。この国境線上に死海もある。

またペトラから死海に向かう岩山が連なるヨルダン高原の途中にはネボ山がある。これはユダヤ民族を率いてエジプトを脱出し、シナイ山で十戒を授かりシナイ半島を横断し40年かかって約束の地カナン(現エルサレム)を目指し、それを目前にしたモーゼが120才で亡くなったといわれる場所である。

この死海までのドライブは視覚的にも大変変化に富み、ペトラのあった高地からはるか向こうにイスラエルの大地を見下ろす地点など忘れられない光景であった。


ヨルダンとイスラエルが上のような地理的、歴史的関係なので行ってみるまではさぞや危険な場所かと思っていた。しかしヨルダンとイスラエルは1994年に平和条約をかわして以降は基本的に平和な関係が続いているらしい。ヨルダンは王国でいわゆるイスラム原理主義ではない。ジャミールは石油もないし貧乏な何もない国と言っていたが天然ガスや鉱物は豊富にあるらしく、また国民性というか僕らが接した多くのヨルダン人はこう言っては何だがエジプトの観光客ずれした人々よりもはるかに好ましい印象を受けた。

5時間ドライブで死海に到着。ヨルダン川沿いの大平原+砂漠(低地)地帯に降りる。この一帯は農業が盛んだという。

死海で2時間程過ごした後それこそ国境沿いの道にそって南下、再びアカバの港を目指す。

ジャミールから途中温泉があるから寄るか?と誘われたが温泉は日本に帰ってからのお楽しみなので断って、そのかわり途中途中好きな所で止まって写真を撮りたいと頼んだ。

夜無事にフェリーでアカバからターバまで到着するもこの旅最後のトラブルが待ち構えていた。

本当ならば港に私たちをカイロまでダイレクトに連れて行ってくれる出迎えが待っているはずであった。

しかしそれが現れず、遅れて現れたドライバーが私たちをヌエバに連れて行きそこから乗り換えてカイロに行ってもらうという。全く遠回りになるのでそれはおかしいと抗議する。

そこからの経緯詳細はばかばかしいので省略するが私たちは3台のミニバスに乗ったり降りたりさせられたあげく夜の何もない港で結局3時間待たされ夜中の12時になって予定通りのルートでカイロに向かうことになったのだった。

あまりにもひどいので私が最後は日本語で怒鳴りまくったことは言うまでもない。


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ホテルから見下ろすペトラ渓谷。


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ペトラの町


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廃墟になっている昔の石と土でできた家屋。


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死海とその向こうに広がる「約束の地」パレスチナを見下ろす。


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かつて3000年以上前にモーゼ達も同じ光景を見たのだろうか。


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低地に降りる。


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死海dead sea。


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死海で泳いでみた。不思議な体験であった。


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中央高い山の右がネボ山。


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アカバの港町


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朝ダハブの宿にドライバーが迎えに来て1時間程でターバの港へ到着。

ここはアカバ湾を囲むようにエジプト、イスラエル、ヨルダン、サウジアラビアの国境がほとんど接する形で集中しているところである。陸路をイスラエルを通っていけば簡単なのだが、おそらく宗教的、政治的な理由からイスラエルを経由せずにフェリーでヨルダンのアカバ港へ行くルートである。目で見える対岸のアカバまで約40分の航行である。

船上で出入国審査を受けヨルダンに入国。

ヨルダンは50万年前(!)から人類が住み着き1万年前に人類最古の農業が営まれたといわれる場所である。

アカバからツアーバスでヨルダン高原を北上する。周りの客はほとんどがペトラ遺跡を見ての日帰りらしく軽装である。

2時間かけてペトラ遺跡に到着。

ペトラはギリシア語で岩を意味する。ここは紅海に近く砂漠を行き来するキャラバンの中継地点であり昔から中東における要衝の地であった。このあたりには3200年前から人が住み着き、紀元前1世紀には古代ナバテア人の都市として栄えていた。その後ローマの属州となっている。


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ターバ、フェリー乗り場


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ヨルダン、アカバ港。アカバ湾の向こうは右手がイスラエルで左はエジプトのターバ。


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ヨルダン高原を走る。


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霧。まるでストレンジャーザンパラダイス(ジャームッシュ)のような...。


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以下ペトラ遺跡。


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石畳を敷設したのは当然ローマ人であろう。


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朽ちかけてはいるが印象深い彫刻。


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岩盤をくり抜いてこういう巨大な円形劇場を造ったのも後から来たローマ人だと思う。


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前日書いた理由で、やむを得ずダハブで一日を過ごす。

前日はほとんど寝ておらず、結果的には私たちにとって久々の休養日となった。

ホテルの部屋で朝から昼過ぎまでかかってたまりにたまっていた日記を書き、更新が遅れているブログの為に3日分の写真の整理をする。

これらの作業は結構集中力を要するのだ。

昼間はせっかくなのでビーチで少し泳いで久々の読書。

カイロの宿から持って来た藤沢周平。

しみじみ...。

夕方町まで行ってインターネットカフェでブログを一日分だけ更新。

しかしせっかく書いたテキスト(日記)がいざ更新しようと思ったら全く失われてしまっていたのだった。このソフトは自動保存が勝手に出て来て両方とも保存をかけたにもかかわらずきれいに失われていた。かなりのショック。


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もし私たちが自分で探していたら絶対に選択しないであろう(サイードが決めた)ホテル。

結局彼は最後まで私たちの希望を理解してくれなかった。

ここ2-30年の間に世界中のリゾート地に造られたアメリカ資本の自称高級ホテル。

インドネシアのバリにも似たようなのがあったがでかくて青いプールをつくれば客が喜ぶとかたくなに信じているようである。

世界中どこにもある点ではマクドナルドとそっくりだ。


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昨晩は結局なかなか寝付けず1~2時間の睡眠の後1時起床。

真夜中の2時に宿を出発する。

同行するのは私たちの宿のオーナーであり、旅行エージェンシーをやっているサイードとドライバーである。前半の旅のトラブルを反省したのかしらないが、オーナー自身が私たちが無事ヨルダン行きのフェリーに乗れるまで付き添うと言って来たのだった。

カイロから1時間ほどでスエズに到着。

スエズ湾のある紅海はアジア、アフリカ、ヨーロッパの交差点である。サイード達はここを渡るとアジアに来たと感じるといった。同じアラビア圏なので私たちからすると不思議な感じがするが彼らには彼らの空間地図があるのだろう。日本人にとって朝鮮半島までの距離が実際よりも遠く感じられるのと同じかもしれない。

長いトンネルでスエズ運河をわたりシナイ半島に上陸。

スエズ湾沿いに南下しシナイ山のふもとの聖カトリーナ修道院へ8時頃到着。

ここは言うまでもないが旧約聖書でモーゼが十戒を神から授かった山である。こちらの名前はガバル・ムーサ、モーセ山という意味である。標高は2285メートル。このふもとにモーゼが聖なる山に入る時に見た燃え尽きない「燃える柴」があったところを中心にできた礼拝堂がセント・カトリーナ修道院である。

ここシナイ半島に来た目的はこれまで間接的知識でしかなかったユダヤ教やキリスト教、イスラム教が実際に誕生した場所に身を置いてみることと、ここカトリーナ修道院にある図書館に行くことであった。

先にここがアジア、アフリカ、ヨーロッパ文明の交差点であったと書いたがそれは、文字の流通という意味においても当然言えることなのだ。

アルファベットの成立もここ紅海と地中海を自由に商活動したフェニキア人によって徐々に形成されていったと言われている。

このカトリーナの図書館は当時、聖書の翻訳センターでもあったのだ。重要な写本は大英博物館にあるとはいえ、ここにもまだ膨大な数の写本が残されている。書庫にはもちろん入れないが展示されているものを今回見ることができた。

写真は不可なので残念だがアルファベット・カリグラフィ=タイポグラフィの歴史書には必ず載っている写本書体のオリジナルを見ることができた。

言語はギリシア語、シリア語、コプト語、ペルシア語、グルジア語、アルメニア語、アムハラ語、教会スラブ語(バシュカ文字!)、アラビア語などである。


その後半島の東、アカバ湾側に出てダハブに到着。ここは1960年代イスラエルが占領していた時代にできたリゾートの町である。ダイビングで有名なところでかのクストーが世界で最も美しいダイビングスポットがある場所と言った所でもある。

昔ダイビングの本を何冊かデザインしたことがあって、その時はフィジーに取材に行ったのだが、たしかに紅海の海はダイバー達のあこがれと書いてあったことを思い出した。

今の僕にはほとんど関係ないけれど。

ここに一泊し、翌日ターバという港からヨルダンに行くつもりであったが、フェリーが欠航になりここで二泊するはめになった。

本当に欠航なのかどうかははなはだあやしいのであるけれども。


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スエズ運河で新月を見る。


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シナイ半島を南下する。左手には岩山が延々と続く。ここも、サウジアラビアも山が赤く見えることが紅海の名前の由来らしい。


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半島を東に折れてシナイ山に到着。


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聖カトリーナ修道院


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モーゼが見た燃え尽きない柴


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モーゼの昇った山


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ダハブの海岸沿いのレストランにて。左はドライバーのアルシャミル、サイード。後ろは紅海。


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朝バフレイヤの町を少し散歩した後、10時のバスに乗ってカイロに戻る。

途中バスの調子が悪くなり砂漠の真ん中で30分ほど停車。バスのクーラーもとまり車内はサウナ状態に。

一時はどうなることかと思ったが無事カイロまで戻る。

翌日からこの旅最後の冒険、シナイ半島、ヨルダンのペトラと死海行きが控えているので夜はその準備。

早めに眠る。


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バフレイヤオアシス


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泊まった宿。


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朝顔のような...。


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危なっかしいテレビ台


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朝7時過ぎに宿を出てバスセンターまで車で送ってもらう。

バスセンターから西方(リビア)砂漠にあるオアシス、バフレイヤ行きのバスに乗る。ピラミッドのあるギザを通り巨大なカイロの町の外に広がる砂漠の一本道をひたすら走る。

約5時間半かけてバフレイヤに到着。

ここで昼食をとり4WDのジープ(トヨタのランドクルーザー)に乗り換えさらに南西の白砂漠を目指す。途中ピラミッドの形をした山のある黒砂漠、小さな山全体がクリスタルでできているクリスタルマウンテンを通る。

運転手は夕日までには着いて白砂漠を見せたいからとひたすらオフロードを飛ばす。

日没の30分程前に無事白砂漠に到着。ここはマッシュルーム状の3メートルから10メートルほどの石灰岩の巨石が林立している。地面の石灰岩部分も真っ白である。

そこに沈む夕日は確かに全く美しい。

奇岩ということではトルコのカッパドキアを思い出すが広大な360度の砂漠の中にあるところなど、全く異なる印象だ。あっというまに日は暮れて周囲は瞬く間に暗闇になる。

感動したのは音である。

無音室にいるような不思議な感覚があった。

その後遅れてやってきたグループ、カナダ人、アメリカ人、博多から来た4人娘と合流し砂漠にカーペットとマットを敷いてたき火しながら夕食をとる。博多の4人はばりばりの博多弁で楽しい娘たちだった。二人は4ヶ月の世界旅行中で、そこに友人の二人がエジプトで合流したらしい。

砂漠の満天の星(天の川を視認したのは40年ぶりではないかと思う)を見た後私たちだけ暗闇の砂漠を2時間程走ってバフレイヤの宿に戻る。

ドライバーは「宿はキャンセルOKだから砂漠に泊まれば」と勧めてくれたが、他のメンバーは皆2~30代なので砂漠に毛布で寝ても平気だろうがさすがに私たちは歳なので遠慮した。朝日の中の白砂漠も見てみたかったけれども、これ以上睡眠不足が続くのは後々を考えるとやばいと判断したからでもあった。

砂漠の夜は本当に寒いのだ。


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砂漠の中の休憩所


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黒砂漠


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クリスタルマウンテン


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白砂漠に到着


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昨晩11時半にルクソール空港を飛び立ち、カイロの宿に戻ったのが夜中の2時近くであった。

朝9時から旅行エージェントとの話し合い。

あまりにもこの前半、言ったこととやることが異なるトラブルが多かったのでしっかり時間をとって説明してもらうためだ。

あまりにも対応が悪い場合は後半すべてキャンセルするつもりでもあった。午前中を全てこれにさいた。

全てに納得できたわけではなかったが、結局はまあ乗りかかった船だし、問題が起こった時のエジプト的対応の仕方も分かってきたので後半もほぼ予定通り旅を続けることになる。

カイロのエージェントの言い分は今までこんなケースはほとんどなかったこと。

問題はアスワンのムハンマドにあったこと。

カイロのエージェントからの抗議でムハンマドは昨日クビになったことなどだ。

「えー?クビ!」僕らがしてほしかったことはそんなことじゃないんですけど...、と思ったりもしたが全くエジプト人(旅行代理店)の行動パターンは理解を超えている。クビにするんじゃなくてちゃんと教育しろと思いましたが、多分そんな風にはなっていないのだろう。


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6車線分の道を右3車線、左2車線分車が駐車していて残された1車線を人と車が通る。端の車は多くが廃車であった。


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午後やっと世界的にも有名なエジプト考古学博物館にいく。

当然のことだが収蔵品には素晴らしいものが多々ある。

しかし展示のあまりの劣悪さに驚いた。

ライティング、展示方法、解説、部屋の割り振り(導線)全てにおいて良くない。

これは全く信じられないことであった。

ツタンカーメンのマスクのある一帯だけ別の美術館の様にまともになるのだが、それが違和感に拍車をかけている。


皮肉屋のリチャードならば遺物は大英博物館にあったほうが保存の点からも幸せなんじゃないかという冗談を言いそうである。

写真撮影は禁止なので画像はない。




午前中にボートをチェクアウトしていると、アスワンとはまた別のムハンマドが現れて私たちを次のホテルに連れて行くという。この日我々は夜遅くの飛行機でカイロに戻るのでそれまで荷物を置き休息などをするためのデイユースである。

このムハンマドもかなり胡散臭い男であった。

後で分かったことであるが私たちの一連のトラブル続きのアスワン、アブシンベル、ルクソールの旅行を仕切っていたのはどうやらこの男だったのである。この日の時点では我々はそれを知らない。

ホテルのチェックインの後、ルクソール博物館にまずは行きたいと我々が言っているのに土産物屋に連れて行こうとしたり、博物館は小さいから時間なんかかからないと言って食事を誘ったりするのだ。しかも博物館とは反対方向に随分歩かされた。いい加減頭に来てここからは自分達で行動するからあんたは帰っていいときっぱり言った。

ルクソール博物館は展示数こそ少ないものの傑作ぞろいであり、展示の仕方もエジプトの中でも数少ない真っ当なものだった。4時頃、博物館で遅めの昼食をとってホテルに戻る。


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ここは撮影禁止なので画像はない。

ホテルの近くのマーケットの中にインターネットカフェをみかけたので、久方ぶりにメールを確認し一日分だけブログを更新する。ナイルクルーズしている間ネットは全くできなかったのだ。

エジプトでの旅行エージェントとのやりとりにいささか辟易し、殺伐とした気持ちになっているところへK先生から絶妙なタイミングで我々を気遣うメールをいただいていた。妻とふたりそれを見ながら思わず泣きそうになりました。

先生のメールにはジョセフ・アルバースの言葉からの引用があった。

無断ですが以下、引用させてもらいます。


...

芸術とは

はじめに表現があるのではなく、

まず視覚を提示することなのだ。

芸術における視覚とは

洞察力、生命を見抜くこと。

だから芸術とは

対象ではなくて

経験なのだ。

そのことに気づくために

私たちは感受性を磨かなければならぬ。

それゆえ芸術は

そこにあり

そこで芸術は

私たちをとらえる。

...


朝ルクソールに到着。

他の乗客の多くはこの日で下船するらしい。リチャード達ともお別れだ。

私たちは翌日にルクソールをもう一日見るつもりなので、もう一泊する。

午前中にナイル西岸の砂漠に行く。

メムノンの巨像、ハトシェプスト女王葬祭殿、王家の谷、王妃の谷をミニバスで移動しながら見て歩く。さすがに太陽がきつく32~3度くらいにはなっているようだ。夏はとんでもないことだろう。


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メムノンの巨像


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王妃の谷


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ハトシェプスト女王葬祭殿


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王家の谷


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墓の内部構造。内部は撮影を禁じられているので画像はない。


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一旦船にもどり昼食をとって東岸に向かう。

カルナック、アムン大神殿はさすがに時間がかかり、途中で日が暮れてしまった。

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次のルクソール神殿に着いた時には真っ暗でここはライトアップされた状態で見るしかなかったのが少し残念である。


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真夜中の3時に出発した船は6時ころにコム・オンボ(アラビア語でオリンポスの丘)に到着。朝食の前に神殿を見学。ホルス神とソベク神を祭っているので二重構造になっているところが興味深い。

午後にエドフに停泊。馬車に乗ってホルス神殿へ。

ここは全体的に壁面のレリーフが素晴らしい。その膨大な文字と画像を見ていると建築がひとつの書物(writing space)であることがひしひしと伝わって来る。


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以下コム・オンボ神殿


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一旦ボートに戻る。ボートからの眺め。古代墳墓。


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午後エドフにてホルス神殿を見る。


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私たちの乗ったクルーズ船(現地の人はボートと呼んでいた)はアスワンからルクソールまで約200キロを三泊四日かけて、ゆっくり北上する。船は途中遺跡がある町で停泊する。食事は朝昼晩と船でとるので初めての町でどこで食べるかあれこれ心配することもない。移動するホテルだ。船は全く揺れないしエンジンの音も煩くないので大変快適である。

これまでトルコやギリシアの遺跡巡りでハードな移動をしていたことに比べると、すこぶるラクチンである。こんなにラクチンしていいものか?という気持ちになる程だ。

しかし今のエジプトは実際問題としてテロの影響で旅行者が勝手に行動するにはあまりも制限が多いのだ。特にこのあたりはムスリムとコプト教(古くからあるキリスト教)が混在する地域なのでなおさらのようだ。

後になって分かったことだが船が停泊した後の遺跡を見に行くツアーは船のサービスではなくて旅行エージェンシーがその都度手配した現地のガイドが船まで迎えに来るのだ。

だから同じ船に乗っていて同じ場所を見に行く場合でも別々に行動するということが起こる。このあたりがそもそも理解しづらいところである。

船にはフランス人、アメリカ人、イギリス人、オーストラリア人、スイス人、イタリア人などのグループがいてで日本人は私たちだけであった。日本からの団体ツアーはこのタイプのボートとは異なるようである。乗客には遺跡を見ることを主な目的にしているタイプと、一日中船のプールに寝転んで夜騒ぐリゾートタイプとの二つに大きく分かれるようだ。それぞれの行動パターンというかお国柄がはっきり分かれているのが見ていて可笑しい。

私たちはここでイシス神殿で一緒だったイギリス人夫妻と偶然再会し、食事の席も隣合わせたので話をするうちに親しくなった。

夫のリチャードはロンドンで金融証券の会社に勤めており、おとなしい奥さんは今は子育てで休職中だがBBCのドキュメンタリー部門のプロデューサーであった。リチャードは最初は気難しい感じがしたが、エジプトの遺跡の出土品の多くが大英博物館にあるという話をしていた時「英国は貴国(日本)からはお宝をあまり分捕ってないので幸いです」など自虐的なユーモアを好む典型的なイギリス人であった。僕の旅の目的について簡単にしか話してないにもかかわらず、コム・オンボ神殿で僕が撮影に夢中でガイドの説明を聞き漏らしていたら、わざわざ探しに来て壁面に刻まれたエジプトカレンダーについて「これはあなたにとって重要だと思うから」と言ってわざわざガイドにかわって説明してくれるような男だった。


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朝10時に再びコンボイを形成してアスワンに戻る。

バスを降りると来ているはずのムハマンドがいない。今日はナイルを下るボートにチェックインし、エドフに向かうはずだった。カイロのエージェンシーに電話をすると別の男が現れてムハマンドの代わりだと言って私たちをボートに案内した。チェックインをしているとムハマンドが現れ、今日ボートは出発せず、明日の明け方3時に出発するという。全く聞かされていた話と異なるのでついに妻が切れる。この旅の予定は彼女がクロアチアにいた時からメールなどでやりとりしながら立てたものだった。ここまであまりにも頻繁に予定と異なる事が続いたのでさすがの妻も頭に来てカイロのエージェントに全てをキャンセルすると強く抗議する。

ムハマンドともう一人の男たちはあわてる。

その後いろいろやりとりがあったが省略。

とにかく旅は進めるしかない。

彼らはその後お詫びにといって私たちをヌビア人の帆船フルーカに乗せたいから来てくれという。こちらはただ当たり前に約束通りのことをして欲しいだけで半分有難迷惑であったがこれもエジプシャンウエイとあきらめフルーカ乗り場に行く。昨日ナイルでフルーカが気持ち良さそうに奔るのを見ていた。しかし今日は全く風がないためエンジン付きのボートになってしまった。アスワンにある中州で最も大きなエレファンティネ島の周りを走る。貸し切りであった。

その後、出発が延びたためヌビア博物館に行く。幸いここは9時まで開いているのだ。

収蔵品も展示もエジプトの中でも突出して良かった。

ヌビア人はアスワンから南にかけて支配していた民族で黒人である。

ローマに関する歴史などにはヌビア人は重要だがあくまでも脇役として(例えば傭兵)登場するが彼らはエレファンティネ島に先史時代から住み着いており大変興味深い文化を持っていたのだということがわかる。彼らが自らをエジプシャンでもなくアフリカンでもなくヌビア人だと言う強い自負があるということも頷ける。

こういった感触は書物では学べないもので、やはりここに来なければ感じられなかったことだと思う。


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ヌビア博物館


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以下は既に一回更新したのであるがソフトの不具合で消えてしまったので再度、更新する。

日にちがずれてしまったのはその為である。


列車で簡単な朝食をとり10時半にアスワン到着。カイロから直線距離で600キロ強南方のナイル川沿いである。ムハンマドという男が駅で出迎えてくれ、駅から近くのホテルへ。そこで彼と日程の打ち合わせをし昼食。

ここエジプトでは駅、ホテル、博物館、町中などいたるところにに自動小銃をもった兵士がいてホテル、博物館、遺跡など建物の入り口には空港にあるのと同じX線の壁を通過させられる。イスラム過激派によるテロに対する防備策であろう。列車では私たちのコンパートメントの二つ隣にいた人物が要人か何からしく(見た感じはマフィアのボス風)私服の自動小銃を持った男がその周りをうろうろしているので最初は何事かとびっくりさせられた。

ムハマンドとその旅行エージェンシーにはこの後何度もバスや船での出発時間の変更を突然告げられたり、予定とは異なるホテルに連れて行かれたりと、私たちは混乱させられることになるのだが、彼らやドライバーはそれを軍の命令で安全のためだと説明するのだが本当かどうかはあやしい。

その他諸々、私たちはエジプト的時間、エジプト的お金の計算を少しずつ学ばざるを得なくなって行くのである。(まともな人間もたまにはいるがこれまでの経験上3:7でかなりひどい)

トルコも大変だったけどエジプトはトルコ以上だ。

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2時から小型バスでアスワン・ダム、アスワン・ハイ・ダム、イシス神殿を見に行く。イギリス人の夫婦と我々4人のツアーで英語のガイドがついた。

ダムは当初、ナイルをコントロールし豊かさをもたらすものとして作られたものだが、結局の所異常気象をもたらし、洪水がなくなった事で農地は現在塩害が深刻になったという。

その後に訪れたイシス神殿、そして明日行く予定のアブ・シンベルも含めて多くの遺跡がこのダムのために水没しているのだ。イシス神殿やアブ・シンベルは移築されたので現在もかろうじて見る事ができるが移築されなかった遺跡は今もナセル湖の湖底に沈んでいる。

イシス神殿も本来の聖なる島から移動して現在のアギルキア島にある。

詳述は避けるがこの移築が良かったのかどうかははなはだ疑わしいと感じた。本来あった場所と構築物の関係はおそらく絶対的なものだったと思う。現代技術の粋を尽くして移築したことを自慢げに語っているのを見ると強い違和感を覚えざるを得ない。ここには典型的な近代技術への過信がある。移動してしまったら本来あった最も重要な何かが失われることに現代人はあまりにも無神経だ。言っても詮無い事だけれど。

でも正直に言うとその落胆の方が感動を実は上回っていたことも事実なのだ。

そんなことはありえないかもしれないが何百年か後に未来の人間がダムを元の川に戻すまで遺跡はそのまま湖底で眠っていた方が良かったのではないかという夢想に駆られてしまった。

ともあれこのイシス神殿はエジプト王朝末期からローマ時代、初期キリスト教(コプト教)にかけての遺構が混在している場所である。

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アスワンハイダム


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ダムによってできた巨大なナセル湖


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普通イメージする垂直に切り立ったダムではない。


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下流のアスワンダム


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ボートでアギルキア島にわたる。


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ナイルに戻る。


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夜中の2時に起きて3時30分発の小型バスでアブ・シンベルに向かう。アブ・シンベルはアスワンから280キロ南でエジプト最南端の地点。スーダンの国境はすぐ近くである。アスワン・ハイ・ダムによってできたナセル湖のほとりにある。

ここに行くのは前後を軍の兵隊が乗ったバスにはさまれて全ての自動車がコンボイを組んで移動する。勝手な移動は許されないらしい。その多くは大型の観光バスで全部合わせると4~50台くらいか。エジプトは今冬で観光のハイシーズンである。


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途中砂漠に昇る朝日を見る。

約3時間半後、8時前にアブシンベルに到着。多くの観光客はここで2時間程見学した後同じバスでアスワンへ戻るようだ。私たちはここで一泊する予定なのでまずはホテルに移動。

当初聞いていたホテルと全く異なるところに連れて行かれるトラブルが発生。カイロとアスワンのエージェンシーと電話のやりとり、交渉、再移動に2時間近く時間を消費。

ムハマッドやムスタファやアミーゴや訳の分からん人間が電話をかけてきてそれぞれ異なる事をエジプシャンイングリッシュで言う始末でこちらも大変消耗する。言うべき事をかなりはっきりしつこく言わないと彼らは動いてくれない。エジプシャンウエイオブライフ?やれやれ。

当初予定のホテルに荷物を置いてアブシンベルに向かえたのはやっと11時近く。

ゆっくり見学する。

ここでの感想は昨日のイシス神殿での印象と同様なので省略。


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大神殿の内部は写真が禁じられていたので画像はない。

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小神殿


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小神殿内部


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奥が至聖所


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一旦ホテルにもどり昼食をとって仮眠。昨晩ほとんど寝ていないので。

夕方5時半にホテルを出て再びアブシンベルへ。ホテルからアブシンベルの神殿まで歩いて10分くらいなので今度も歩いて行こうとしたら今度はエージェンシーが車で送り迎えするという。全くあってもなくてもよいサービスなのだがホテルの手違いを詫びる気持ちでそうしているのかどうかもよく理解できず。ライトアップされたアブシンベルと音と光のショーを見る。約30分暗闇の中ふたつの神殿が築かれた人工の岩山をスクリーンにしてユネスコによる移築の経緯から始まって、この神殿を作ったラムセス二世とエジプトの歴史が詩的な台詞と音楽とともにスライドで投影される。

ちなみにこの神殿は19世紀末にイタリア人によって発見されたもので1960年代のユネスコの移築キャンペーンで世界的に有名になったもの。

移築に関する違和感は一昨日書いたので省略。

その後ライトアップされた神殿を再び見てホテルにもどる。


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私たちが滞在している場所はナセル駅のそばでカイロの新市街の中心部にある。

朝7時からタクシーをチャーターしてピラミッド巡りをする。まず最初にカイロから西に14キロ、ギザにあるクフ王、カフラー王、メンカウラー王の三つのピラミッドを見る。クフ王のピラミッドでは内部見学。その後同じエリアにあるスフィンクス。ちなみにクフ王のピラミッドは約4550年前のもの、エジプトの初期王朝の成立は約5000年前。


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ギザの南へ約10キロ移動しサッカーラ地域のピラミッド群へ。ここはカイロのピラミッド群の中でも最も興味深い場所であった。最も古い(4650年前)ジョセル王のピラミッドコンプレックス(ピラミッド+複合施設)は階段状ピラミッドであり、周壁で囲まれた敷地の中にピラミッドとセド祭殿などの遺構の複合した空間が良く残っている所。ウナス王のピラミッドは内部にピラミッドテキストと呼ばれる貴重なヒエログリフが残っている事で有名であるが残念ながら内部には入れない。外側からはかなり崩れかかったように見える。その後イムホテプ博物館へ。これは階段ピラミッドを設計した建築家でありジョセル王の当時の宰相でもあったイムホテプを記念したもの。入場したものの停電らしく真っ暗闇の中、持参した懐中電灯で展示物を見るはめになった。20分程して回復。


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写真はイムホテプ博物館が先になってしまった。


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その後少し南下してメンフィスへ。ここは古王国時代の首都である。現在はそのイメージはない。横たわった全長15メートルのラメセス2世像と美しいスフィンクスがある。


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美しいスフィンクス


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その後遅めの昼食をとってカイロに戻る。

夜、地下鉄でギザ駅まで行き、8時45分発のルクソール経由、アスワン行きの夜行列車に乗り込む。これは鉄道マニアの人がわざわざこれに乗る為にエジプトを訪れるほどだと聞かされ、当初飛行機の予定を変更したもの。老朽化した列車ではあるが二人ずつのコンパートメントになっており確かに悪くない。夕食、朝食は部屋まで運んでくれる。

これまで夜行列車、夜行バスで碌な目に会って来なかったがこの夜行列車は初めて良いと思った。


午前中10時発の飛行機でカイロへ。3時間強のフライトである。さすがに遠い。

時差が1時間減る。日本とは7時間となる。

空港で待っていたドライバーの車で宿へ向かう。空港から1時間程。

トルコ以来再びアジア的な、あの喧噪、あのカオスの世界に突入したと最初に実感させられるのは、暑さ、スモッグ、車の乱暴な運転である。

車の運転は全く無茶苦茶である。車線や交通ルールなどなきに等しい感じ。信号はおろか横断歩道がほとんどない。交差点にはいたるところに警察官がいるが全く何をしているか不明である。

まあ今回のこのドライバーはその中でもよりクレージーなやつだったらしいが。

カイロの人口は1200万人。

宿について日程について色々相談した後、夕食に出る。


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昨日書いた理由でこの日はフリーになったので前回、夏に来た時疲れ果てて入らなかった科学技術博物館に行く。夏同行していた息子が後から「お父さん、あそこは見るべきだよ」と言ったところである。

確かにミュンヘンのあの博物館に比べれば展示数は少ないものの、ここウイーンの科学技術館も大変レヴェルの高いものだった。詳述しだすときりがないが、例えばミュンヘンと比べると数が少ない分厳選しているということが言える。その分見やすい、理解しやすいということ。

展示、ディスプレイが大変優れている。

そして極めつけはやっとここにきてノイラートに触れた展示が見れたことである。

ノイラートの扱いが充分かといえば全くそうではないが、都市の諸問題について触れたコーナーにあったことだけでもかなりましな方だと思う。また残念ながらノイラートに関する説明文はありきたりというか特別目新しいものはなかった。「自国人なんだからもっと突っ込んだ紹介せんかい」と思いました。大きなお世話だろうけど。

しかし謙虚に考えればトータルなヴィジュアルコミュニケーションに対する意識はこちらの方がやっぱり大人だなとも思いました。

歴史の厚みは必要なのだ。


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宿からの眺め


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科学技術博物館


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ディファレンス・エンジン!


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ふたりのオットー、ワグナーとノイラートの接点も調べる必要あり。


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その後ウイーンの町を散策。ステファン寺院、オペラ座、新市庁舎など。新市庁舎ではクリスマスシーズンの前夜ということで飾り付けができていた。

ホテルで翌日からの準備。


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朝10時、地下鉄に乗ってアンヴァリッドへ。

エアーフランスのビルがありそこのカフェで朝食。

ここからオルリー空港へのシャトルバスに乗る。

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パリからウイーンへの飛行時間は2時間。

ウイーン空港からシャトルバスでウイーン南駅まで約30分。

4時過ぎだが雨のせいで外はほとんど真っ暗である。駅傍のホテルに無事到着。

夜10時、リエカから列車でやってきた妻を駅に迎えに行く。

今回、今日明日とエジプト出発までウイーンでわざわざ二泊予定したのはまさかの列車の遅延、飛行機の搭乗トラブルに備えてのことだったが、二人とも無事到着で何より。

午前中、末松君とポンピドーに行き駆け足で見て回る。

作品は知っていたがどんな人か未知のジャック・ヴィレグル(Jacques Villeglê)の展覧会をやっていた。

これが大変素晴らしい。

また「パリの未来派」展もやっていて、これもさすがポンピドーという感じのセレクションでとんでもなく面白かった。

その他常設展は本当に駆け足になる。


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マドレーヌ教会


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ポンピドーそばの公共自転車。このシステムはウイーンにもあった。


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ポンピドーからの眺め


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ジャック・ヴィレグル


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2時からルーブルのピラミッドの地下でパリフォトがスタートする。

パリフォトには世界の写真専門のギャラリーが出品する一種の写真の見本市のようなものだ。

例えば150年前のニエプスやマーガレット・キャメロンなどの古いオリジナルプリントから今日の写真の動向までランダムではあるが様々な状況を見る事ができて面白い。特に今年は日本特集の年で若手が紹介されていた。

日本のビッグネーム(木村伊兵衛以降)の作家は日本特集とは無関係にアメリカやフランスなどのギャラリーから出品されている。

写真に関しては1992-3年の頃、大島さんと「写真装置」復刊を目指していた頃まではかなり関心を持って見ていたがここ10年程、自分の領域の仕事に追われていたこともありあまり関心を払ってなかった。

ここ数年の貧血気味?の写真の流行にあまり関心が持てなかったこともある。

今回そういった経緯も含めて、これだけ集中的に大量のオリジナルプリントを新旧取り混ぜてみる事ができたのは良かったと思う。

自分の中の写真史の再構築、再確認の機会となった。例えば二十歳の頃自分がいかに石元泰博さんの「シカゴ、シカゴ」に影響を受けていたか、そしてそれがいかに今日まで続いているかなど。

他思う所たくさんあるけれども省略。


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会場入り口


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会場では何人かの作家やキュレーターの方とも出会えた。パリで作家活動をしているオノデラ、アキ・ルミ夫妻など。アキ・ルミ氏は昔クロアチアを放浪しザダールに一時住んでいたということで興味深い話も聞けた。3月に再びパリを訪れる予定なのでまたその時にゆっくり話がきければと思う。

また前回アムステルダムで触れたまーさんが会場にいて久しぶりに会えて話ができたことも偶然の幸運であった。まーさんは3つの欧米のギャラリーから作品が出品されていた。

時間が経つにつれ会場は人で溢れかえり、7時からまーさんがインスタレーションのパフォーマンスを行うということだが、昨日お会いした十文字さんの展覧会を今日中に見る必要もあり、残念であったが7時前に会場を出てマレ地区にあるイイヅカさんの画廊T.A.F.へ。

十文字さんは初めての個展ということなので当然レトロスペクティブな展示も行っているだろうと思っていたのだが、何とほとんど新作だったのには驚かされた。

前向きな作家の強い意志を感じ、感銘を受けた。


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T.A.F.


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末松君が「いやあ、こうしてこの年になってユーサクとパリの町を歩き回るとはなあ」と言っていたがそれは俺も同感だよ。


リエカから6時のバスでザグレブへ行きバスセンターで乗り継いで空港に9時過ぎに到着。

ここからハンガリアン航空でブタペスト経由、パリ行きの飛行機に乗るべくチケットををインターネット予約していた。しかし何が問題なのか現時点で不明であるがとにかく「あなたのチケットは昨日キャンセルされている」と言われチケットが発行されない!。

今更電車では到底今日中にはパリに行き着けない。

やむを得ず、ハンガリアン、ルフトハンザ、エアフランス(この3社しかない)の窓口で当日券があるのかどうかを聞く。元々予約したはずのハンガリアン航空はビジネスの往復券しかなく(片道は売ってくれない)、ルフトハンザはミュンヘン乗り換えルートがあり、エアフランスは一つだけ席が空いていた。皆ほぼ同じ値段(正規運賃)で当初予約した運賃の4倍!である。目眩がした。

一瞬、もうパリ行きは諦めてリエカに戻ろうかという考えが頭をよぎったが友達との約束をすっぽかすわけにはいかない。エアフランスの直行便で行く事に。


パリでは無事、友人末松君(普段はお互いファーストネームを呼び捨てにしてるがここでは名字を書くことにする)に空港で会う事ができた。

高速近郊鉄道でパリ市内に入る。地下鉄を乗り換えてマドレーヌへ。

宿はお互い歩いても行き来できる距離である。


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荷物を置いた後、末松君の知り合いで主にウエブデザインの仕事をしている市田さん夫婦のアトリエを訪ねる。市田さんはもう10年近くパリで仕事をしている。近く永住権ももらえるらしく、超有名な某化粧品会社のウエブサイトのデザインなどをしていることからも彼が特殊な技能を持っている事がわかる。この後パリ滞在中はご夫妻には本当にお世話になりました。


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夜、市田夫妻らとともに、パリフォト関係者と夕食。パリで画廊をやられているイイヅカさん夫妻、ちょうど今その画廊で個展をされている写真家の十文字美信さん、最近十文字さんが出された作品集の編集者の鎌田さん...その他の方々総勢10名以上のにぎやかな食事となる。信じられない事だが十文字さんはカメラ会社のギャラリーを除いてこれまで個展をしたことがなく今回が初めてとのことだった。明日訪ねる予定である。

また某女優さんも来ていた。太宰原作の映画に出たばかりだと言っていた。(かなり有名らしいが僕は知らなかった)彼女の出演作の話題から永井豪の漫画論の話になる。


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翌日の僕のザグレブ行きのバスと13日の妻のウイーン行きの列車のチケットを買う為に久々にひとりで町に降りる。
リエカは素晴らしい秋晴れである。

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前々から気になっていた駅の向こうの港側にある巨大な工場に近づいてみる。
線路を渡るしか近づく方法がないことは分かっていたので勝手に近づく。
こちらはプラットフォームが線路の高さなので簡単に横切る事ができるのだ。
列車はめったに入ってこないし。

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ここも廃墟だと思い込んでいたら細々と操業していた。
最初はセメント工場だと思っていたが...。こんどソボルさんに確かめてみようと思う。

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町の中心にあるローマ時代の門。
帰りに久々にカフェコントに寄る。コンチネンタルホテルのインターネットカフェである。
7月までは暑い中、わざわざここまできてブログの更新をしていたところ。
入ってみたら高級レストラン風に模様替していて驚いた。気のいい店員のお兄さん、お姉さんもいなくなっていた。
後から入って来た若いバックパッカー風の若者たちも面食らった様子で質問していた。
インターネットは従来通りできるみたいだけど。
ここに来たばかりの4月のころをふと思い出す。
カプチーノを飲んで帰宅する。

明日、早朝5時に家を出て、ザグレブ、ブタペストを経由してパリに向かう予定だ。
結局、エジプトの旅程はこちらで確定できないままであった。
とにかくナイル川沿岸がちゃんと見れればまずは良しとしよう。
後は成り行きにまかせるしかない。



終日資料読みと次の旅の支度。

エジプト行は一般的なカイロ、ルクソール、アスワン、アブ・シンベル、アレキサンドリアといったナイル川沿岸ならば、仮に向こうに行ってからでも何とかなりそうなのだが(それでも南北に1000キロの移動はあるが)、今回加えてシナイ半島に渡り、さらにヨルダンのペトラまで足を伸ばすとなると大変な旅になりそうで...。どうするべきか悩んでいるところ。
まだ確定できないでいる。
こんなにぎりぎりまで予定が確定できないのは初めてだ。

同時にエジプトの後、12月後半に訪ねるつもりのドイツ西部のルートを確保する作業。
今度のドイツ行はクレーのデュッセルドルフ、リシツキーが大学生活を送ったダルムシュタット、そしてグーテンベルクのマインツが含まれている。
とにかく行き帰りの飛行機を押さえねばならない。

そんなこんなで地味に慌ただしい日々である。


終日、調べものと次の旅の準備に追われる。

雨の合間を見て食料の買い出しに出かける。
いつもの歩いて30分のスーパーへ。
帰りは霧雨になった。
空のキャリーバッグを満杯にして帰る。
いつものことだが約15キロほどか、結構重い。
ただ中身はワインやビールなどアルコール水分比率が高く
これは苦労話にはならないねと妻と苦笑する。

前々日マイーダさんと話したことの覚え書き。
イヴァさんのいるドブロブニクの話。
1992年のクロアチア独立の際に起こった旧ユーゴスラヴア軍との戦争でドブロブニクの町がかなり破壊されたことは有名である。
プリトヴィッツェ国立公園と同様危機的世界遺産リストにはいったのだが、この時の状況は凄まじかったらしく僕らが眺めた町からすぐ上に見えるスルジ山の頂上まで旧ユーゴスラヴィア軍に占領され、そこから集中砲火を浴びたらしい。
僕らが訪ねたイヴァさんの家にも爆弾が飛来したらしいのだが幸運にも不発でコンクリートにひびが入っただけですんだらしい。
僕が少し驚いたのはそのような状況の中でほとんどの住人が疎開というのか避難しなかったということである。小さい子供だけは避難させたらしいけれども。
そこに長い歴史を持つドブロブニクの人々の強い意志があったのだなと感じた。
マイーダさんが言うには困難だったのは当時クロアチアはまだ国としてちゃんと独立したわけではなかったから寄せ集めの防衛軍だったのでより大変であったという。
結局ドブロブニクは占領されなかった。

その後スダッチさんのコレクションの話になり芸術と国のアイデンティティ、ナショナリズムを巡って話をしたがそれは複雑だし、長くなるのでまた機会があったら書きたい。
ともあれ、ヨーロッパは複雑である。
ましてやこのバルカン半島は。

エジプトの前のパリフォトは今年は日本特集らしく楽しみである。
しかしエジプトが本当に決まらない。
すこしあせる。
まる一日、次のエジプト旅行の計画に費やす。
これは後半最大の山場だと思われる。
なかなか難しい。

食料の買い出しに行く必要があるのだが終日雨で家を出られず。
終日、メールで各方面への礼状や様々な連絡など。
次の旅の宿の予約や切符の手配など。
まずは数日後のパリ行きとウイーン行きのルートを押さえる。
お昼にマイーダさんとお茶。

夕方藤田さんたちにいただいたお土産のうるめいわしをみそ汁とご飯で食す。
全くこんなに美味いものがこの世にあるのかと思う程おいしい。

トリュフもいいけど僕はグルメじゃないので、このうるめいわしの方にどちらかと言えば感動する。
今日本を離れているからであろうか。
慌ただしく昨晩無理をしてリエカに戻ったのは、今後の旅のスケジュールがタイトであるからである。
ついこのあいだ旅の半分が過ぎたばかりと思っていたが後半やりたいこと、行きたい事を考えると意外に時間が足りないのだ。

リエカは相変わらず、曇り空で時々雨が降っている。本格的な秋だ。
大家のユリッチさん、ダリンカさんはダルマチアにある別荘のオリーブの収穫に行ってしまい当分帰って来ない。100%のスペシャルなオリーブオイルを持って来てあげるといわれているので楽しみだ。

終日1週間程たまったブログの更新を行う。妻は次の旅行の予約などに追われている。
朝10時過ぎにホテルへ車で迎えに来てくれたあきこさんと昨日レセプションのあったHDLUクロアチア芸術協会美術館のフランチェスキさんを訪ねる。
彼とあきこさんの車で早速コレクターのスダッチさん宅を訪ねる。丘の上のザグレブ旧市街のさらに奥は高級住宅地で大統領官邸もある美しいところである。そこにスダッチさんの家はあった。助手の方と我々を迎えてくれた。

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ジーコ似の大コレクター、スダッチさんと。
これはスダッチ邸を辞す時に撮ったものだけど、我ながら興奮して頭に血が上った時の顔をしてますなあ。

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左からあきこさん、スダッチさんの助手(名前失念)、フランチェスキさん、スダッチさん。
あきこさんは10月15日に知り合った桐谷さんが紹介してくれた方で、ニューヨークでアーティスト活動した後クロアチア人の旦那さんと結婚し、今ザグレブに住んでいる。今回のミーティングのお手伝いを快く引き受けて下さった。前日のレセプションで既に旦那さんとも挨拶済みである。
旦那さんは高名なイラストレーター、コミック、映像作家でミルコ・イリイッチと同様にニューヨークで活躍した後、現在ザグレブ芸大でアニメーションを教えている。
あきこさんには通訳ではなくて、僕がへたでもとりあえずがんばってしゃべるので横にいて分からない時にヘルプして下さいとお願いした。頼り出すときりがないので。
フランチェスキさんは最初HDLUの主任学芸員のような立場だろうと勝手に思い込んでいたのだが、どうも館長のようである。まあ肩書きなどどうでもいい話であるが。ほとんど僕と同世代である。

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そこからの出来事は書き出したら簡単には済まなくなるものであった。
とにかく彼は途方もない量のコレクションを惜しげもなく見せてくれた。というか全くみきれない分量である。
範囲もアヴァンギャルド時代のグラフィック・デザインの領域を超えて現代美術まで含まれているし、例えばクロアチアの有名なアニメ作家の場合、絵コンテ、セル画も根こそぎ持っているのだ。雑誌も微妙にサイズが異なっていたり、検閲が入ったものなどの複数ヴァージョンも。
ある種の狂気というか何と言うか。
現在の日本のコレクターも何人か知っているが全く比較にならない。むしろ(会った事はないが)昔の日本の財閥、五島慶太や益田飩翁などが想起される程そのスケールがでかい。
彼は37歳と若いが自分で会社を経営している。洗濯機を作る会社と建築会社のようだ。そこで儲けた金を全てコレクションに注ぎ込んでいるらしい。
大学教育とは全く無縁であるという。
「いつからコレクションを始めたのか?」という質問に「生まれた時から」と冗談を言っていたが、僕が今回見せられたデザインに関するものはたかだかここ数年と言っていた。これも信じられない。
僕の編集したリシツキーの本を見てそれが大学のコレクションだというと「これ皆ほしいなあ。売らないのか」と冗談を言っていた。「売るわけねえだろう」と思いましたが冗談に聞こえない所が凄い。しかも後で分かったのだが、彼は金にあかして買い集めたのではなく周りの人がその価値に気づかない時期に根こそぎ収集していたという。それを知ったフランチェスキさんが展覧会をリエカで行い(それにマイーダさんが関わっていた)それで市場では急激に価値が高まったらしい。結局かれは損をしていないのだ。もちろん売って儲けようなどとは思ってないようだったが。
日本のアヴァンギャルド、柳瀬や村山にも興味をもっているらしく、今回待ってましたとばかりにいろいろ質問された。

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戦後ユーゴスラヴィアを代表するグラフィックデザイナーのグワッシュによる原画。
この作家は数日前に高齢で亡くなったという。

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アニメーションのキャラクター設定のスケッチや音楽のスコアなど。

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始めのうちは写真をメモ代わりに撮っていたが、あまりにも膨大な量に途中からばからしくなってやめた。

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スダッチさんのコレクションのみで行われた展覧会(リエカ)の図録。
編集はフランチェスキさん、マイーダさんも英語の翻訳で関わっている。

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ユーゴスラヴィアのアヴァンギャルドはミチチ率いるゼニートと旅団(travelers)という二つの集団があった。彼らの写真、往復書簡やメモなども全てスダッチさんは持っているのだ。

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戦後のアヴァンギャルドも当然のように。

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これはもっと最近の現代美術中心の図録。背が10センチ近くある大部のもの。

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これも。

ともかくいつまでいても見切れないので、「また来たければいつでもどうぞ」という話になって皆で遅めの昼食(2時を過ぎていたか)に行く事に。
途中彼の建てたビルディングに置いてある現代クロアチア美術のおびただしい作品なども見る。
話に忙しく写真はほとんどとる暇がなかった。

その場にザグレブ芸大のデザイン史、デザイン理論の先生ブキッチさんが合流した。
昼食後スダッチさん、フランチェスキさんと別れ、ブキッチさんとあきこさん三人でステューデントセンターの展覧会に行く。
途中ザグレブ芸大を通りながら30分程歩く。
さすがにデザイン史の先生、歩きながらあの建物、この建物、町の構造の由来などを簡単に紹介してくれたのだが大変興味深い。スペシャルなガイドであった。
さすがにブキッチさんはスダッチさんのような狂気?の雰囲気はなく、むしろ控えめな感じの方だが、少し話して相当優れた人だというのがすぐに分かった。
僕が知りたいと思っていたクロアチア(旧ユーゴスラヴィア)のデザインや建築、アートに関する第一人者なのだ。
ここらへんのフランチェスキさんのセンスには改めて舌を巻く。ソボルさん、マイーダさんが「とにかくフランチェスキは凄い人だからあなたを見たらそれにふさわしいことを考えてくれるからとにかく会えば」といって人見知りだからといって渋る僕を会わせた理由が良くわかった。

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ザグレブ芸大はこの奥。

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ステューデントセンター

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ここはかつて1930年代万国博覧会の会場だった場所らしい。これはイタリア館だという。
今は無惨な廃墟である。最近同じ会場内の木造の建築が火災で焼失したという。
ブキッチ先生に「しかし、これだけのものが残っているということが凄い。修復すれば立派な文化遺産になるのに」ということを言ったら激しく同意していた。
クロアチアでは、まだまだ予算的に手がまわらないのだろうけど。

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ステューデントセンターも歴史ある場所のようだった。今夜が内覧会である。
1968年のいわゆる世界中で起こった社会変革の波がここザグレブでもあり、その当時から今日までのポスターが展示されていた。夜時間がないという僕の為にブキッチ先生はわざわざ見れるようにしてくれたのであった。

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展覧会図録。これもかなり分厚い。

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ブキッチ先生の本をもらった。英語であることがありがたい。

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同じくブキッチ先生が編集した本。Zagreb modernity and the city

僕は今回の旅ではなかば意識的に大学などのアカデミックな場所とのコンタクトは避けて来たのだが、ザグレブでの5月の奇跡的なゼニート遭遇事件以来、奇跡的な人との出会いや繋がりを考えるとこれは人知ではなく天の差配としか思えない。
なのでとにかく素直に状況を受け入れ行動しようと思う。

ブキッチ先生からレクチャーを頼まれたので1月にザグレブ芸大で話をすることにした。

この後あきこさんと別れ(彼女には一日中付き合ってもらい大変ありがたかった。今度ザダールのシーオルガンを見に行きましょうということになった。楽しみである!)

その後ザグレブの町を散策していた藤田さん、薬師寺さん一行と合流し、最後の晩餐二日目を行いお分かれする。
私たちは9時発のバスでリエカへ。
帰宅すると12時を過ぎていた。

朝、快晴。まるで真夏の光の中、ドブロブニク旧市街のプロチェ門からすぐそばにあるマイーダさんの妹のイヴァさんのアトリエを訪ねる。イヴァさんは陶芸家で旦那さんはガラスをやっておりここは二人の工房兼ショップである。昨日が日曜日だったので私たちは訪問を遠慮したのであるが実は待っていてくれたようであった。マイーダさんから連絡があったのだろう、私たちの為にプレゼントまで用意してくれていた。
イヴァさんはダリンカさん似である。
お正月はリエカで会う約束をした。

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後で知ったことだがイヴァさんたちのアトリエは旦那さんのマルコさんの実家でもあった。
このあたりは第二次大戦後は全く家もなかった場所だったらしい。

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私たちがそもそもクロアチアのリエカに滞在するようになったのは全くの偶然にもかかわらず、このような出会い、繋がりができることの不思議さを思わずにはいられない。

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ホテルの窓から見えるグンドリッチ広場。月曜の朝の市。

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一時間遅れの飛行機でザグレブへ。ここはザグレブのホテル。

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夕方、ザグレブ散策の後、フランチェスキさんから招待されていたHDLUクロアチア芸術協会美術館の展覧会のオープニングに皆と向かう。

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HDLU。白い建物がピンクにライトアップされていた、かなりクレイジーである。

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入り口で藤田さん薬師寺さんらをフランチェスキさんに紹介した後内部へ。

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この展覧会はコンペティションだったらしく授賞式はテレビが取材していた。

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僕は明日の昼間、ザグレブのアヴァンギャルドアートのコレクターやザグレブ芸大の先生と会う予定があり、藤田さん薬師寺さんご夫婦とゆっくりできるのは今日が最後かもしれないということで、このレセプションのあと皆で最後の晩餐(飲み会?)に行きました。
この間藤田、薬師寺ご夫妻とは旅をともにできたし、久々に日本語でいろんな話ができ、まさに叱咤激励され、夫婦共々ありがたいことでした。



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現在は文化歴史博物館として使われている総督邸にて。昔の地図、右上にRAGVSAとある。

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中庭

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オノフリオの小噴水

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1990年代のボスニア戦争におけるドブロブニク防衛軍兵士を記念した部屋。壁には戦死した兵士の写真、ヴィデオで当時の破壊されたドブロブニクの町が映し出されていた。

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防衛軍の旗

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向こうに見えるのがスルジ山。右手が旧総督邸。

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昔の港。人が泳いでいた。

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フランシスコ会修道院

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城壁の上を歩く。全長約2キロ。

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左向こうに見えるのはロヴリイェナツ要塞。

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スルジ山側の城壁

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城壁の最も高い所から見たドブロブニク旧市街。

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フランシスコ会修道院

前夜からの雨が朝には土砂降りとなる中、タクシーでリエカのバスセンターに向かう。
今日はクロアチアのほぼ南端、ドブロブニクに行く予定である。
「アドリア海の真珠」とも称されるドブロブニクはおそらく日本でも最も有名なクロアチアの都市かもしれない。ここクロアチアでもソボルさんたちからこれまで何度も行くべきと勧められ実際二度程計画したのだが、何せリエカから交通の便が悪いのとタイミングがうまく会わず断念したところである。
リエカからドブロブニクは直線距離だと400キロ強、バスだと12時間かかる。
今回はここに訪ねて来られた藤田さんたちに合わせて一緒に行く計画を立てたのだった。
リエカからいったんザグレブへバスで向かい、飛行機でドブロブニクに飛ぶルートである。
所要時間は7時間弱。

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ザグレブ

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ザグレブ、サヴァ川をこえて空港に向かう。

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ドブロブニクの湾岸。

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手前に見えるのはロクルム島。

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城塞都市ドブロブニクを囲む城壁。構造は総督府など城内の建築物も含めて5月に訪ねたギリシアのロドス島旧市街と驚く程似ている。異なっているのはロドスは聖ヨハネ騎士団が島民を支配して作ったのに対して、ここは完全な独立共和国であったことだ。
http://www.esporre.net/terayama/2008/05/523.php
ヴェネツイアの強い影響下にあったロドス島とドブロブニクが似ているのは歴史的に言えば当然のことで、アドリア海の女王といわれるヴェネツイアがゲルマン人の圧迫から逃れたローマ人が潟(ラグーン)に住み着いたのと同様、ここも昔から住んでいたローマ人がスラブ人(現クロアチア人)から逃れて住み着いたのが始まりである。ここの昔の名前はラグーサであったという。



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ピレ門から市街に入る。

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ここ旧市街は車は入れない。プラッツァ通り。ここは7世紀には運河で海だったところ。


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旧市街にある宿に荷物をおいて散策に出かける。ホテルの前にあるグンドリッチ広場。

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階段の上は大聖堂。

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大聖堂内

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少し雨模様のなかモトブンへ向かう。
イストラ半島の中央部にある丘の上の町モトブンは以前にも書いたが交通の便がすこぶる悪くなかなか行けない所である。
今回私の友人が来たということでソボルさん夫妻と友人のダミールさんが車で連れて行ってくれた。
周囲が城壁に囲まれたモトブンの町は13世紀にできたという。町の入り口にある回廊には歴代支配者の碑文が飾られていた。
周囲はなだらかな丘陵地帯でよくイタリアのトスカーナ地方に似ているといわれる。ここはオリーブやワインの産地としても有名だが何よりもトリュフらしい。周囲はトリュフの森である。僕はグルメじゃないので「何それ?」みたいな感じではあるが。
またここは地形的に霧が発生しやすいところらしく、霧が発生すると丘の上にある町がまるで雲の上の町に見えるらしい。(今回は雨模様なのであいにく霧は出ていなかったけど)
それでソボルさんに言わせればクロアチアの人にとってここはおとぎの国のイメージが昔からあるようだ。
そのせいかどうか知らないが宮崎さんの映画、ラピュタもここがモデルだという説もあるところである。

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モトブン周辺

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城壁

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天空の町モトブンにて

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町の中心。
この町はマイナーだが夏にモトブン映画祭が行われる所としても有名である。上映は全て屋外スクリーンで若者が多数集まるという。宿泊は皆町や周囲の丘陵でテントを張るらしい。

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下から見たモトブンの丘。

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その後ソボル夫妻お勧めのレストランに行く。素材は全てオーガニックで、トリュフのかかったパスタはグルメじゃない僕にも細胞がぴりぴり反応するくらいおいしかった。
食にうるさいイタリア人が沢山やって来るというのもうなづける。
かつてここを占領したイタリア人はここの森を手にいれたかったのではないかと思いました。

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帰りにリエカの町のそばにあるサッカー場に寄る。ここはプロチーム・リエカの本拠地である。海のそばの岩盤を戦後ダイナマイトと人力で削って作ったという。

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今回、ソボルさん運転の車に我々男性陣は乗って行ったのだが、以前書いたように彼は日本の暴走族のように無茶苦茶、飛ばす。
早速、藤田さんに呆れられて「クレージー・ボーイ」と言われるようになってしまった。本人は多分知らないけど。







朝は昨日の大雨が嘘の様に晴れるが、昼近くになるとまた雲が出て暗くなった。
雨を心配しながらも近所のトルサット城や聖母教会を見てペタル・クジッチの階段で町まで降りる。
市場を少し覗いたあとバスでオパティアへ。

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トルサット城

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城からの眺め。ここに来るのは近いにもかかわらず4月以降二度目である。
ここから見るリエカの町とアドリア海はやっぱり素晴らしい。

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城の北側

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オパティアの波の音を録音する薬師寺さん。
彼は版画家であるが藤田さんの編集した昭和文学の群像シリーズ、中上健次、村上龍のブックデザインの折りに挿画をお願いしたのが付き合いの始まりであった。かれこれ十数年になる。僕はこの旅行で行けなかったが9月に銀座の養清堂で個展をしたばかりである。

オパティアを訪れるのも春以来二度目である。
秋の波の強いこの季節もなかなか風情があって良い。
春にケーキを食べておいしかったホテル・ブリストルのレストランで遅めの昼食。

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向こうに見えるのがリエカの町。
日が暮れてリエカに戻る。
夜はまた嵐のような大雨となる。


朝からリエカは雷雨。一日中heavy rainである。
年間降雨量の平均をみるとこの季節のクロアチアは東京の倍である。
春から夏にかけて雨が少ない分、この季節に集中して降るようだ。
夜遅く、東京からの友人が到着する。
藤田さんご夫妻と薬師寺さんご夫妻である。
成田→チューリヒ→ザグレブ→リエカの長旅を経て我が家に陣中見舞いに来てくれたのだ。
到着は10時を過ぎていたが皆さん元気で一安心である。雨はほとんど止んでいた。
さっそく話に花が咲いて夜遅くまで飲む。

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藤田さんが三十数年前に三島と作った本(装釘もご自身)の文庫版を持って来て下さった。(巻末の解説も書かれている。藤田さんは日本文学の知る人ぞ知る大編集者である)
しかしこの本はマイーダさんが三島を好きだと聞いて彼女にあげることに。
久しぶりに家を出て歩いて30分程、妻と日常品の買い出しに近所のスーパーへ行く。
明日、友人が東京から訪ねてくるのでその準備も兼ねて。

外に出るのは5日ぶりか。
天気は相変わらずあまり良くなく雨の合間を見計らって出かけた。
昼間は20度前後なので暖かい。マイーダさんは異常気象と言っていた。

その後はいつもと変わらず自宅で調べ物や次の旅の準備などをして過ごす。
旅の準備もザグレブ用、パリ用、エジプト用と頭を切り替えつつ行わなければならない。
だからやっぱり時間が足りないのだ。

調べ物もここにある資料だけでは全く足りず、日本にあったあの本、この本持ってくれば良かった...と後悔に苛まれ部屋を無意味に歩き回っている。
本を今更取り寄せるべきかどうかで少し悩む。

まあ、基本的にはできる範囲で何とかするしかないですが。

HDLU(ザグレブのクロアチア芸術協会)を訪ねたさい、フランチェスキさんにいただいた今年のヴェネツイア建築ビエンナーレ、クロアチアの出品作SEA ORGAN & GREETING TO THE SUNのヴィデオ(DVD)を見た。
建築家NIKOLA BASICの環境建築作品。
ザダールの海岸で打ち寄せる波が音に変換され、太陽のエネルギーが光に変換される海浜公園の装置である。とても素晴らしいものであった。
似たようなインスタレーション作品というのはこれまでもいろいろあったし、見て来たが完成度が高くかつ詩的である。
現場に行ってみたくなった。

明日から少し慌ただしくなるのでこの日記の更新は一週間程遅れるかもしれない。


終日、家にこもって調べ物とブログの更新。
ブログの更新は長期間怠ると、何かあったのではと心配をかけることがわかったので、やっと正常に追いついてきて一安心。
こちらに戻ってからは一歩も家を出ておらず、写真もないのでラクチンだ。
そのぶんくだらない独り言を書いているので恐縮ですが。

2日後に東京の友人がわざわざここリエカに訪ねてきてくれるのでその連絡と、次のザグレブとパリ行きに関する連絡などもする。
ザグレブではフランチェスキさんの紹介でユーゴスラヴィアアヴァンギャルドの研究家とザグレブ芸大の先生と会う事になっているので楽しみだ。ちょっと緊張しますが。
パリでは浪人時代(もう30年以上経ちます!)の友人とパリフォトを見て回るつもりである。

今回の旅では旧友はもとより、知り合った人が次から次へと新たな人を紹介してくれて、新たな出会いが生まれる。
自分は本当に恵まれているなあと実感、感謝する。
一期一会、出会いを大切にしたいと思います。

朝おきて昨晩の夜中でサマータイムが終わった事を知る。
日本とは8時間の時差に戻る。早速部屋の時計を修正する。
8時半に起きたらまだ7時半だったという単純なことではあるけれど。
日本では経験できない事なので少し楽しい。
ここ数日リエカは日照時間もどんどん短くなる上に天候不順で一日中暗い。
眼に弱点がある僕はこれくらいの暗さの方が楽なのであるけど。

そういえば森田さんからのメールに皆(特に旅行者)が嫌うベルリン(ヨーロッパ)の冬の夜の長さについて

「ベルリンの冬の暗闇が僕は好きです」
とあった。

...ちょっと感動しました。


終日、資料の整理。調べものなど。 
以下の記録でとりあえず、前半の旅のメモは完了。

こうやって振り返ると改めておびただしいものを見て来たのだと実感する。
可能であれば(必ずしもこのブログの形態でなくとも良いのだが)見て来たすべての画像データに場所や作者や年代その他の分かりうるテキストデータを加えて相互リンクできればよいと思うのだが。
実現は現状では不可能だろうな。アシスタントはいないし。コンピュータソフトじゃなくて自分の頭(ソフト)でやるしかない。
例えば「時の視覚化」というキーワードに対してこれまで見て来た全ての情報、ストーンヘンジやアンカラ、ニュルンベルクでみた無数のサンダイアルや古代時計、ギリシアで見たユダヤのカレンダーや3700年前の青銅のカレンダー機械、これから見るであろうエジプトのピラミッド等などが時代別、構造別に比較検討できるような。
同様に例えば「アルファベットの変遷」とか、
例えば「グリッドの変遷」、「光の記述」「空間の視覚化」「行為の記述」「デザインのモダニズムの意味」「展示する(見せる)ことの歴史」とか...。
全てのヴィジュアルコミュニケーションの根源となるようなものたちの歴史をつなぎ比較検討する作業...。

それは(これまでも行なって来たが)これからも自分の頭の中で行なわなければならない作業だ。

以前(多分このブログを見ていない)ある人から「お前の旅はしょせん外遊だ」という意味のメールをもらって少しへこんだ。
「俺の今やってることは遊び?」かぁ...。
僕はこれまでデザインの仕事もそうだったが、それが「お仕事」だとはあまり感じたことがない。「仕事」というにはそのデザイン行為がもたらしてくれる結果、幸福感はもっと大きいと感じて来た。僕にとって研究や仕事や遊びの境界はほとんどないのだ。
義務とか責任というのは社会に生きている以上厳然とあるのだけれど。
それに人からどう思われてももちろんかまわないのだが、僕の旅を遊びだと揶揄したその人はどこか外国の大学に席をおき研究する事がアカデミックな研究に値するものと思っているようであった。しかし僕に言わせればそんなことならわざわざ1年間外国暮らししなくても(明治維新じゃあるまいし)、日本でもできるし(そのほうが効率的だし、必要があれば短期で旅行すれば事足りる)僕は20年間、大学でそうしてきたのだ。
今回考えに考えて各方面に迷惑をかけながらもこの旅に出たのだが、どっかの大学に腰を落ち着けるなんていう選択肢はどこを探してもなかった。
本を読んだり、人に聞けばわかることではないことを感じて学ぶ為にこの旅に出た。
それだけが今の自分に必要なことだと思われた。
それは実際やってみて、確かに楽しいが大変だ。

それが「遊び」と言われるならば、むしろ本望かもしれない。


旅の記録
●オーストリア
【museum/library 美術館/博物館等】
ウイーン・ミュージアム・カールスプラッツ/美術史美術館/応用美術博物館/ルードウィヒ財団近代美術館/レオポルド美術館/自然史博物館/シェーンブルン宮殿(以上ウイーン)/レントス美術館(リンツ) 以上8カ所

【camii/temple/church 教会/寺院/城/近代建造物等】
パビリオン・カールスプラッツ/カールス教会/国会議事堂/市庁舎/オペラ座/シュッテファン大聖堂/郵便貯金局/クーアサロン/カイザーバート水門監視所/フンダート・ヴァッサー・ハウス/クンストハウス・ウイーン/ハース・ハウス/シューリン宝石店/ペーター教会/ロースハウス/ゴミ焼却場/(以上ウイーン) 以上16カ所

【city/nature 街並/自然景観等】
フォルクス庭園 以上1カ所

【academic ivent/university 大学/学会/イヴェント】
アルス・エレクトロニカ(OKセンター、アルス・エレクトロニカ・センター、ブルックナー・ハウス、リンツ芸術大学など)

●ドイツ
【museum/library 美術館/博物館等】
アルテ・マイスター絵画館/武器博物館/陶磁器コレクション/ドレスデン城緑の丸天井/(以上ドレスデン)/ライプツィヒ印刷博物館/造形博物館/バッハ博物館/(以上ライプツィヒ)/デューラー・ハウス/おもちゃ博物館/ドイツ鉄道(DB)博物館/ゲルマン国立博物館/フェンボー・ハウス(ニュルンベルク市立博物館)/(以上ニュルンベルク)/ドイツ博物館/ノイエ・ピナコテーク/アルテ・ピナコテーク/(以上ミュンヘン)/デッサウ・バウハウス/マイスターハウス/(以上デッサウ)/ワイマール・バウハウス博物館/ゲーテ国立博物館/ワイマール候の城美術館/バウハウス大学ライブラリー/(以上ワイマール)/バウハウス・アッシブ/ユダヤ博物館/ケーテ・コルヴィッツ美術館/文化フォーラム絵画館/旧ナショナル・ギャラリー/新ナショナル・ギャラリー/ペルガモン博物館/旧博物館/ハンブルグ駅現代美術館/(以上ベルリン)/ 以上30カ所

【camii/temple/church/ Castle/ Modern building 教会/寺院/城/近代建造物等】
ツヴィンガー宮殿/ゼンパー・オペラ/カトリック旧宮廷教会(以上ドレスデン)/トーマス教会/ニコライ教会/旧市庁舎(以上ライプツィヒ)/フラウエン教会/聖ローレンツ教会/カイザーブルク/(以上ニュルンベルク)/新市庁舎(ミュンヘン)/国民劇場/市教会/ヴァン・デ・ヴェルデ邸/バウハウス大学(旧バウハウス校舎)/シラーの家/(以上ワイマール)/ベルリン大聖堂/戦勝記念塔/カイザー・ヴィルヘルム教会/ソニー・センター/クライスラー・センター/ブランデンブルク門/ドイツ連邦議会議事堂(以上ベルリン)/ケルン大聖堂/ 以上23カ所

【city/nature 街並/自然景観等】
メードラー・パッサージュ(ライプツィヒ)/職人広場(ニュルンブルク)/ポツダム広場(ベルリン)/ 以上3カ所

【academic ivent/university 大学/学会/イヴェント】
ベルリン芸術大学サウンドスタディーズ/

●ベルギー
【museum/library 美術館/博物館等】
王立美術館/漫画博物館/オルタ美術館/ルネ・マグリット美術館/ギャラリー34 36 SB/(以上ブリュッセル)/ゲント美術館/ 以上6カ所

【camii/temple/church/ Castle/ Modern building 教会/寺院/城/近代建造物等】
市庁舎/カフェ・ファルスタッフ/ストックレー邸/ホテル・ソルベ/ホテル・タッセル/メゾン・ペルソネル/シャンベルラーニ邸/オトレ邸/ファン・ネック博士の診療所/プリズン・サン・ジル/(以上ブリュッセル)/聖バーフ大聖堂/鐘楼と繊維ホール/ゲント大学図書館/フランドル伯居城/(以上ゲント) 以上14カ所

【city/nature 街並/自然景観等】
グラン・プラス(ブリュッセル)/第肉市場/コーレンレイ(ギルドハウス)/グラスレイ/(以上ゲント) 以上4カ所

●オランダ
【museum/library 美術館/博物館等】
オランダ建築博物館/ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館/クンスト・ハル/(以上ロッテルダム)/マウリッツハイス美術館/エッシャー美術館/ハーグ市立美術館/(以上デンハーグ)/歴史博物館/国立美術館/国立ゴッホ美術館/レンブラントの家博物館/科学技術センター/アムステルダム大学付属アラード・ピアソン博物館/聖書博物館/写真博物館/(以上アムステルダム)/ディック・ブルーナハウス/セントラル博物館/(以上ユトレヒト) 以上16カ所

【camii/temple/church/ Castle/ Modern building 教会/寺院/城/近代建造物等】
カフェ・デ・ユニ/ゾーネンフェルド邸/ブラーク・オールド・ハーバー開発計画/レストラン・ポンピュ/エラスムス・ブリッジ/(以上ロッテルダム)/デルフト新教会/アムステルダム中央駅/シュレーダー邸(ユトレヒト)/エラスムス通りの集合住宅/ドム塔/ドム教会/(以上ユトレヒト) 以上11カ所

【city/nature 街並/自然景観等】
デルフト/ダム広場(アムステルダム)/アムステルダム運河/マヘレのはね橋/ 以上4カ所
終日、資料の整理、様々な連絡、ブログの更新など。

先週からか世界的な金融不安、同時不況のニュースが流れている。
友人からのメールで「円高は追い風になってよかったね」といったコメントをもらうのだが、そもそも、4月から8月までの宿泊費や交通費が最も高騰する時期に、手数料を入れれば1ユーロ=170円以上という不条理な旅をずっとしてきた実感から言えば、ここ最近急に円高になったからといって、残念ながら得した実感は全くない。
しょせん、自分がコントロールできることではないし、今度の旅は一生に一度のものと覚悟してきたので一喜一憂しないことにしてきたし、今後も変わらないだろう。
達観しているのではありません。「もう、勝手にしろ」という感じです。
ただ前にも書いたけど、日本の生産力というか国力からして不当なレートではあると感じてはいたので、むしろ、今が正常に戻ったという言い方もできるのではなかろうか。
それにしてもイタリアやギリシアの美術館で入場料2500円などというのは無茶苦茶だなあと思ったものだ。今のレートでも2000円くらいだから日本での実感からすればまだ高いとも言えるのではないでしょうか。

それよりも、ヨーロッパの不況は今後、深刻になりそうな気がするし、クロアチアも含めた周辺国(旧東欧諸国や経済が安定していない国)は大変な状況になるかもしれない。そのことによる治安の悪化などが心配である。
昨日マイーダさんとも話したのだが、クロアチアでは最近ジャーナリスト2名がテロで殺害されテレビでも連日そのことが報道されている。軍隊上がりのマフィアの犯行とのこと。ここではボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の記憶もまだ新しく人々の間には暴力に対する不安も大きいようである。先日テレビで山奥にこもってひたすら銃を撃っている不気味な男のドキュメンタリーを放送していた。詳しくはもちろん分からないのだが、彼も軍隊出身者であった。映画「タクシードライバー」のデ・ニーロのようであった。
ベルリンで会った森田さんも、今オーストリアでは極右に近い政党が政権をとろうとしているなど、右傾化を憂慮していた。
ドイツでは第二次大戦の経験から右傾化にはかなり敏感で、今の所正常だそうだ。むしろ周辺諸国が全体的にナショナリスティックになっているようだ。旅をしているだけでは鈍感なせいか僕には良くわからなかったが。
経済の悪化とともにこれまでのユーロ統合の矛盾が出て来ているのかもしれない。
やはり一日、連絡作業に時間をとられる。
合間をみてベルリンの写真の整理に着手。 
ブログに上げるには写真を取捨選択しリサイズしなければならない。
お昼からリエカの警察署に滞在許可証の申請に行く。マイーダさんが付き添ってくれた。
窓口にはいろいろな人(ビザをとる外国人など)がいて、並んで順番を待っていると様々な人間模様が見える。
申請後、マイーダさんとお茶。
来週にイストラ半島のモトブンに行こうという話になる。ここは交通の便悪く、自力ではなかなか行けそうにない所である。実現すれば良いのだが。
夜にやっと一日分のブログの更新ができる。

自分のやってきた旅の意味について考える事あり。
もう少し落ち着いたらちゃんと書きたいと思う。

とりあえず、昨日に引き続き旅のメモをここにも残しておきたい。
分類が意外と難しいことがわかる。
単なる記録じゃなくて自分なりのデータベースにするならば考えなきゃならんなあと思っている。
経験の内容をどのように分節するかなのだけれど。

旅の記録

●チェコ
【museum/library 美術館/博物館等】
国立博物館/国立美術館/フランツ・カフカ博物館/チェコ・キュビズム博物館/プラハ城ライディングスクール・ギャラリー(以上全てプラハ) 以上5カ所

【camii/temple/church 教会/寺院/城/近代建造物等】
プラハ城/大司教宮殿/シュバルツェンベルク宮殿/聖ヴィート大聖堂/クレメンティウム教会/旧市庁舎/市民会館/キュビズムアパートメント(ヴィシェフラド地区)/キュビズムの家(2件ヴァルタバ川沿い) 以上10カ所

【city/nature 街並/自然景観等】
ペトシーン公園/カレル橋/カレル庭園/ 以上3カ所

●ギリシア
【museum/library 美術館/博物館等】
国立考古学博物館(アテネ)/アタロスの柱廊博物館(アテネ)/エーゲ海海洋博物館(ミコノス)/考古学博物館(ミコノス)/ディロス博物館/ワイン博物館(ティラ島)/メガロン・ギジ博物館(ティラ島)/フィラ考古学博物館(ティラ島)/新先史期博物館(ティラ島)/考古学博物館(イクラリオン)/クレタ歴史博物館/コリントス考古学博物館/ミケーネ考古学博物館/オリンピア博物館/アンティリオン大橋記念博物館/デルフィ博物館/ 以上16カ所

【camii/temple/church/ Castle/ Modern building 教会/寺院/城/近代建造物等】
国会議事堂(アテネ)/アギオス・エレフテリオス教会(アテネ)/セント・ニコラス教会(ミコノス)/パラ・ポルティアニ教会(ミコノス)/ルサヌー修道院(メテオラ)/アギオス・ステファノス修道院/(メテオラ)/アギオス・エレフテリオス教会/ 以上7カ所

【ruins遺跡等】
ディロス遺跡/古代ティラ遺跡/クノッソス遺跡(クレタ島)/マリア遺跡(クレタ島)/フェストス遺跡(クレタ島)/ゴルティス遺跡(クレタ島)/エピダウロス遺跡/エピダウロス古代劇場/旧コリントス遺跡/ミケーネ遺跡/オリンピア遺跡/デルフィ遺跡/アクロポリス遺跡/アドリアヌス門/ゼウス神殿/アドリアヌスの図書館/古代アゴラ/ヘファイトス神殿/ローマン・アゴラ/風の神の塔/ 以上20カ所

【city/nature 街並/自然景観等】
シンタグマ広場/アノ・ミリの丘の風車(ミコノス)/ディロス島/エル・グレコ公園/マリア・ビーチ/コリントス運河/アンティリオン大橋/メテオラ奇岩群、修道院 以上8カ所

●イタリア
【museum/library 美術館/博物館等】
ボルゲーゼ宮/ローマ国立博物館(アルテンプス宮)/ローマ国立博物館(マッシモ宮)/ローマ国立博物館(ディオクレティアヌスの浴場跡)/パラティーノ博物館/バチカン宮殿(ピオ・クレメンティーノ美術館、絵画館、システィーナ礼拝堂、エジプト博物館、キアーラモンティ博物館、エトルリア美術館、地図のギャラリー、ラファエロの間他)/ボルゲーゼ美術館/ヴィラ・ジュリア・エトルスコ博物館/国立近代美術館/クインティーリ博物館/カピトリーニ美術館/クリプタ・バルビ(地下都市跡)(以上ローマ)/市立考古学博物館(ミラノ)/アンブロジアーナ美術館(ミラノ)/市立博物館(スフォルツァ城、ミラノ)/王宮(現代美術館、ミラノ)/ブレラ絵画館(ミラノ)/アカデミア美術館(ヴェネツイア)  以上18カ所

【camii/temple/church/ Castle/ Modern building 教会/寺院/城/近代建造物等】
パンテオン/サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会/ヴィットリオ・エマヌエーレ二世記念堂/サンタネェーゼ・イン・アゴーネ教会/サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会/サン・ルイージ・ディ・フランチェージ教会/サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会/サンタ・マリア・マッジョーレ教会/サン・ピエトロ広場、大聖堂/サンタ・マリア・デル・ポポロ教会/サレジオ教会/ジェズ教会/サンタゴスティアーノ教会/テリニタ・ディ・モンティ教会/(以上全てローマ)/ドゥオーモ(ミラノ)/サンタンブロージョ大聖堂/ヴィットリオ・エマヌエーレ二世のガレリア(ミラノ)/サンマルコ寺院(ヴェネツイア)/鐘楼(ヴェネツイア)/サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会 以上20カ所

【ruins遺跡等】
フォロ・トライアーノ/トラヤヌスの記念柱/トラヤヌスのマーケット/フォロ・ロマーノ/コロッセオ/カラカラ浴場跡/パラティーノの丘/アッピア旧街道/サンセバスティアーノ門/クインティーリ荘/チェチーリア・メテッラの墓/ハドリアヌス邸の別荘/ 以上12カ所

【city/nature 街並/自然景観等】
バルベリーニ広場/ポポロ広場/ナヴォナ広場/スペイン広場/共和国広場/ボルゲーゼ公園/ティボリ/トッレ・アルジェンティナ広場/大運河(ヴェネツイア)/サンマルコ広場(ヴェネツイア)/ムラーノ島/ジューデッカ島/サン・ジョルジョ・マッジョーレ島/リド島/ 以上14カ所

【academic ivent/university 大学/学会/イヴェント】
ヴェネツイア映画祭
昨晩から引き続いて必要なメール連絡にほぼ一日かかる。
内容は勤務している大学との必要なやりとり。旅で新たに出会った人やお世話になった方への礼状やその後のやりとり。これからのスケジュール相談のための様々なやりとり。日本の友人とのやりとり等々である。
ものによっては難しい内容でひとつに3時間程もかかる。
英語は日本語の4倍くらい時間がかかる(...情けない)。
頭の片方ではいつものように行って来た旅の記憶の意味を反芻している自分がいるが、じっくり考える時間が今はない。よってブログも更新できず放置したままとなる。

これまで訪ねた場所に関するメモを残したのは6月6日のトルコ関係のもののみであった。
旅も半分が過ぎたのでここでメモ代わりに前半の部分(の前半)を記録しておくことにする。名前等不正確な部分があるかもしれないがこれ以上放置しておくとますます億劫になりそうなので。
イギリス、アイルランド、クロアチアなどである。抜け落ちもあるかもしれない。

旅の記録

●イギリス
【museum/library 美術館/博物館等】
大英博物館/大英図書館(リーディングルーム+ギャラリー)/ヴィクトリア&アルバートミュージアム/ナショナル・ギャラリー/自然史博物館/キュー・ガーデンズ(+ギャラリー)/ボドリアン図書館(オックスフォード)/アシュモレアン博物館(オックスフォード)/自動車博物館(バートンオンザウォーター) 以上9カ所

【ruins 遺跡等】
ストーン・ヘンジ/ローマ浴場跡(バース) 以上2カ所

【camii/temple/church 教会/寺院/城/近代建造物等】
ソールズベリ大聖堂(オックスフォード)/クライスト・チャーチ(オックスフォード)/バーフォード教会(バーフォード)/バース寺院(バース) 以上4カ所

【city/nature 街並/自然景観等】
オックスフォード大学群/バートン・オン・ザ・ウオーター/バーフォードの町並 以上3カ所


●アイルランド
【museum/library 美術館/博物館等】
トリニティ・カレッジ・オールドライブラリー/国立考古学歴史博物館/国立博物館/チェスター・ビーティー・ライブラリー/ブルーナ・ボーニャ・ビジター・センター 以上5カ所

【camii/temple/church/ Castle/ Modern building 教会/寺院/城/近代建造物等】
聖パトリック大聖堂/クライスト・チャーチ大聖堂/ダブリン城/中央郵便局(以上ダブリン) 以上4カ所

【ruins遺跡等】
ダウス古墳/ニュー・グレンジ古墳/ボイン川の古戦場/タラの丘/ドン・エンガス遺跡/ガララス礼拝堂/ダンベックの砦 以上7カ所

【city/nature 街並/自然景観等】
モハーの断崖/イニシュモア諸島/ディングル半島/セント・スティーブンス・グリーン/キラーニー国立公園 以上5カ所


●クロアチア
【museum/library 美術館/博物館等】
自然史博物館(リエカ)/市立博物館(リエカ)/海洋歴史博物館(リエカ)/リエカ大学図書館/イストラ歴史博物館(プーラ)/イストラ考古学博物館(プーラ)/地方博物館(ポレチュ))/ロマネスクハウス(ポレチュ)/民俗学博物館(スプリット) 市立博物館(スプリット)/スプリット美術館/考古学博物館(スプリット)/考古学博物館(ザグレブ)/クロアチア歴史博物館(ザグレブ)/HDLU(ザグレブのクロアチア芸術協会)  以上16カ所

【camii/temple/church/ Castle/ Modern building 教会/寺院/城/近代建造物等】
トルサット城/トルサット聖母教会/聖ヴィート大聖堂/聖セバスチャン教会/クルック大聖堂/聖ルチア教会(バシュカ)/聖ニコラ教会(プーラ)/大聖堂(プーラ)/聖エウフミヤ教会(ロヴィニィ)/エウフランシス聖堂(ポレチュ)/大聖堂(スプリット)/聖母被聖天大聖堂(ザグレブ)/聖マルコ教会 以上13カ所

【ruins遺跡等】
ローマン・アーチ(リエカ)/ヴィラ・アンジョリーナ(オパティア)/クルック城塞/バシュカ旧市街/アウグストゥス神殿(プーラ)/円形劇場(コロッセオ、プーラ)/双子門、セルギ門(プーラ)/バルビ門(ロヴィニィ)/ネプチューン神殿跡(ポレチュ)/ディオクレアヌス宮殿跡(スプリット) /宮殿地下遺跡(スプリット)/サローナ遺跡(スプリット) 以上12カ所

【city/nature 街並/自然景観等】
オパティア/プリトヴィッツェ国立公園 以上2カ所

●スロベニア
【camii/temple/church/ Castle/ Modern building 教会/寺院/城/近代建造物等】
三本橋トロモストウィエ(リュブリャナ)/リュブリャナ城 以上2カ所

朝宿を出て8時半頃の電車でハノーファー中央駅へ約2時間。
中央駅で乗り換えて空港へ約20分。
リエカ空港へ3時頃無事到着。
ベルリン─リエカ間の直行便がない為にこのような行程になる。
これから冬になるとリエカ発着の航空便がますます少なくなりそうなので気が思い。
今後クロアチアから他のヨーロッパ諸国に出国する場合、バスで3時間半かかるザグレブかバスと電車で4時間半はかかるイタリアのヴェネツイア利用となりそうだ。

ともあれ約1週間のザグレブ、ベルリンのショート・トリップから無事に帰宅する。
ベルリンでの滞在期間が充分だったかというと全くそうではないものの、まあしょうがない。
今回はベルリン芸大、博物館島、リベスキンドのユダヤミュージアムに行けたことで満足しなければならないだろう。
後半の4日間ネットが使えない環境にいた。こういう時に限って重要なメールがたまっている。
荷物もそこそこに返事を書かねばならない。

旅の間「法句経講義」友松圓諦著(講談社学術文庫)を読了。
これはこの夏来た息子が置いて行ったもの。
原始仏典の最古層に属する、釈尊が直接語った言葉の解説で昭和9年に刊行され昭和の仏教革新運動の起点となったと言われるものである。
仏教書とベルリン?と一見無関係に見えるのだが(実際はじめから関係ありと思ったわけではないけど)、ヨーロッパとアジアの死生観、自然観、自我認識の違いについて考えさせられること多く興味深かった。
またこういった言説の解釈と(今私たちが行っているような)遺跡や歴史の断片を見る作業は意外と似ていて、まさに解釈する側の想像力が問われているのだとしみじみ思った。
ベルリンを動き回れるのは今回は今日まで。
ハンブルグ駅現代美術館はかつてのターミナル駅を美術館にしたもの。
信じられないくらい広い。普通の美術館4つ分の感じである。
実は常設展を見たかったのだが芸術の秋のせいか、常設展はやっておらず、芸術家の儀式(cult of the artist)という大テーマの元に大規模なヨーゼフ・ボイス展、アンディ・ウォーホル展、その他多くのデコンストラクション・アーティストの集合展などをやっていた。
その後どうしても19日に行った文化フォーラムの絵画館、昨日行った博物館島のペルガモン博物館、旧博物館のもので再度見たいものが出て来たので今度は絞り込んでそれらを見て回った。
朝10時から夕方6時まで時間を気にしながらであったがとても神経の張りつめた1日であった。
その後はもう気が抜けた状態でふらふらと既に暗くなった夜のブランデンブルグ門、ドイツ連邦議会議事堂(フォスター設計のガラス張り中央ドーム)に行った。

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Ayşe Erkmen展(下も)

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白い壁がゆっくり動く。まるで...。

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ウォーホルのエルビス

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マックス・ビル

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ジェームス・ギャグニー

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実は初期の広告のためのイラストレーションが最も興味深かった。

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ボイスは写真に撮ってもなあと思ったがとりあえず記録として。

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とにかく広い。大スクリーンで映像を映している部屋も何室もあり、広さ自慢しているのか?とも思う程だ。でもその分個人的には何か空虚な印象も受けた。

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膨大なドローイング

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ボイスについて書くと長くなりそうなのでやめます。
25年前もすでに大作家であったが、現在はそれ以上の扱いですね。かつて彼の作品(そもそも「作品」という言い方が良いのかどうか?)を見て強く感じる所あったけどよく理解できなかった。
それでルドルフ・シュタイナー(今回も触れられていたが)の本を読んだりもしたが結局良くは理解できなかった記憶がある。
やっぱりドイツ語が理解できない事には判断しかねるような...。

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宿の近くの中央駅

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ペルガモン博物館と旧博物館を再訪。今回は写真はあまりとらずに見る事に集中。

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文化フォーラム入り口

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25年前には見る事ができなかった東側からみたブランデンブルグ門

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西側

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ドイツ連邦議会議事堂屋上

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移動した宿はベルリン中央駅のそばで、ここからは博物館島にも徒歩で行ける距離である。
博物館島はドイツ統一によって旧東西にあった博物館、美術館が再編成、再統合している中心地である。私の大きな目的のひとつであったペルガモン博物館もここにあるが19日まで工事中で入れなかったように、工事等で公開を中止しているところもある。
また博物館同士の収蔵品の調整や博物館の名称もまだ統一されていない部分があるようだ。実際かなり混乱させられた。
ともあれ、ここの収蔵品も素晴らしい。分野によっては大英博物館をしのぐものもあり、到底1日では見切れるものではない。


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博物館島へ行く途中にあるシナゴーグ。

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向こうに見えるのは旧東ドイツ時代からあったテレビ塔。

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ペルガモン博物館。今回何とか入れたのは良かったが、その三分の一、バビロニア、シリア、アッシリア部門は閉鎖されて見る事ができない。
とても残念である。いつ再開されるか掲示板には触れられてなかった。

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朝一番なので人もまばら。この後あっという間に人が押し寄せてきた。
ここは有名なペルガモンのゼウスの大祭壇が置かれた場所。
この遺構は私たちが5月31日に訪れたトルコのベルガマにあったものを移築したものだ。その現地の様子と比較して見て頂けると分かりやすいと思う。
BC180〜159のものである。
http://www.esporre.net/terayama/2008/06/531.php

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左に見える白い円形の劇場跡は現在でもかなりはっきり残っている。
その下の構築物が失われているので現在では観客席から急角度に谷に落ち込んで見えるので高所恐怖症のぼくにとっては大変怖い場所であった。
この模型を見てなるほどと納得。

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ゼウスの大祭壇の元々あった様子。
ローマ人はこの上方に自分たちの祭壇を作っていた。

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神話が描かれたこの壁面は何時間見ていても見飽きることはない。

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隣のギリシア、ヘレニズムの建築遺構を通って、古代ギリシア、ヘレニズム、ローマ時代のものが展示されている。

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ミトレスの市場門。この先にバビロニアなどの展示があるはずであったがクローズされていた。

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ペルガモンはこれでおしまいかと思い、一旦美術館を出ると工事現場の横のドアから入れた先にはイスラム美術の博物館があった。

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旧博物館から左手に見えるベルリン大聖堂。

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旧博物館。設計はカール・フリードリッヒ・シンケル。
ここも二階と一階は別々のミュージアムかと思うくらい分かりにくかった。
二階ではエジプト美術の大展覧会、一階は古代ギリシャ、ローマの彫刻など。
収蔵品の質は極めて高い。

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書記1

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書記2

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書記の用いていた筆記用具。板の上に蝋を塗ったもの。これに鉄筆でメモをとる。
今日のバインディングされた(綴じられた)書物の原型ともいわれる。
これを見るまでこうやって板を何枚も重ねていたいたことは知らなかった。

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ナイルにそってそれぞれの地域ごとの神が展示された一種のダイヤグラム(一部)。大変興味深い。

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一階。ここは新古典主義者シンケルの傑作といわれるがなるほどと思わされる。中央の円形大ホール。18本のコリント式円柱。
純粋な幾何学的空間である。

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午前中に宿を移動してから文化フォーラム(ポツダム広場近く)の中の絵画館へ。

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文化フォーラムは複数の美術館と芸術図書館からできた複合文化施設である。
ここは国立で、とてもゆったりした敷地内に絵画のみならず版画、図書資料、工芸デザイン資料などの美術館が布置されていることに感心させられる。
ドイツの文化的豊かさ、というか国をあげての本気度を実感。博物館島もそうだが。
以下は絵画館。マスターピースが目白押しである。

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フェルメールが二点

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カナレット

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ベリーニ

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メルジ

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ボティッチェリ(下も)

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アントニオ・デル・ポライウォロ

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リッピ(だったか、あまりにも多すぎてどれが誰だか混乱してしまいます)

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ワイデン(だったと思う)

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デューラー(下も。彼はまとまって6点ほどが展示されていた。出来にかなりのムラがあるのがかえって興味をそそられた)

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ホルバイン

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ヤン・ファン・アイク(下二点も)

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この後、そばにある新ナショナル・ギャラリー(主に近現代美術を扱う。ミースの設計)に行くも展示準備中で閉館。これまでは写真家杉本博司の大展覧会が行われていたようだった。
中に入れず。


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博物館島にある旧ナショナルギャラリーへ。
ここは写真不可なので画像はない。フリードリッヒやベックマンなどロマン主義、象徴主義の作品が多く収蔵されていた。
かなり玉石混合というか混乱している印象あり。
建物はギリシア古典様式の堂々たるものである。

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シュプレー川、右手が博物館島、ボーデ博物館
今日の主な目的はベルリン芸大の大学院、サウンド・スタディーズSound Studiesを訪ねることであった。
午後まで時間があったので、カイザー・ヴィルヘルム教会を訪ねた後、のんびりと6月17日通りと博物館島のふたつの蚤の市をはしごする。

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宿の近くのカイザー・ヴィルムヘルム教会。
これは大戦中の悲惨な記憶を残すため破壊された旧教会と新しい教会がふたつ並んで建っている。

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新教会内部。合唱団のリハーサルが行われていたのでしばしの間楽しむ。

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森田さんの作品
ベルリン芸大の修士課程、サウンド・スタディーズは9月5日にリンツのアルス・エレクトロニカで(http://www.esporre.net/terayama/2008/09/0905linz-ars-electronica-longe.php)知り合ったベルリン在住のアーティスト森田さんが、昨年度(この夏)修了したところである。彼の作品は音を耳ではなく骨で触覚的に聞くというユニークなアプローチで大変興味深いものであった。
彼がこの日は大学の新学期でオリエンテーション・ワークショップがあり、各授業の様子が分かりますから来ませんかと誘ってくれたのであった。ちなみに森田さんは学部、院と日本の大学で彫刻を学び、ドイツで活動した後この出来たばかりの院に興味を持ち入学したという。このコースは10年の準備期間を経て森田さんが第一期の修了生なのでできたばかりである。
彼はこのコースをサウンド・コミュニケーション・デザインと言っていた。

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校舎。ベルリン芸大は沢山のコースに分かれているので校舎もベルリン市内のあちこちに点在しているという。
サウンド・スタディーズについての詳しい説明は長くなるので省略するが、学生数25名から30名。旧来の音楽学部とは全く異なるコンセプトで出発したという。専任は4名、サウンド人類生態学(基礎言語学的)、コーポレート・サウンド(アドバタイジング的)、実験的メディア・サウンド(コンピュータサウンド的)、空間サウンド・デザイン(建築、環境的)といった大まかに4つのコースに分かれている。今日は全体説明と前学期の特別プログラムの発表会の後、それぞれの教授たちが自分のコースの考え方を説明しながらのワークショップを行った。
僕は実験的メディア・サウンドとサウンド人類生態学のワークショップを見学した。

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最初にオリエンテーションの後、昨年度の特別プロジェクトの発表会が行われた。
これは環境サウンドの学生たちの作品。

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実験的メディア・サウンドのワークショップ。この日は学生の他卒業生、興味のある人(入学希望者など)の見学も自由であった。このコースの先生はあのクラフトワークのカール・バルトスである。僕はさほどテクノにのめり込みはしなかったが、やはり僕らの世代にとってクラフトワークの名前は絶大、特別なものがある。(ちなみにクラフトワークに関しては松岡さんの以下に詳しいので興味ある方はどうぞhttp://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0965.html)

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その場で集めた言葉をサンプリングするカール・バルトス。

この他コーポレート・サウンドはメタデザインという会社を率いるヴェスタマン(ヨーロッパの主な企業のサウンドロゴを手がけている)など企業との現実対応もしっかり押さえた上で、しかしサウンド・コミュニケーションの根本は音経験をどのように言語化するかにあるとして、かなり年若いサウンド人類生態学のシュルツェ教授(哲学出身)が学科長として全体のバランスをとっているようであった。
授業の進め方、考え方が私たちのライティング・スペース・デザインと驚く程似ていたりして興味深く、思う所沢山ありました。
最後にシュルツェ教授に挨拶をして辞した。

その後森田さんと串焼き屋でお酒を飲みながらいろいろ突っ込んだ話を聞けた。
森田さんはリンツ以降、すでに次の展覧会の予定もいくつかあるようだ。
また彼の触覚サウンドの仕組みは大変ユニークなのでいくつかの企業も注目しているようであった。
これからの活躍が楽しみな人だ。日本に来たらムサビに来てもらいたいと思う。

ベルリンは紅葉真っ盛りである。東京の11月半ばの感じである。
既にデッサウやワイマールで25年前には見れなかったバウハウスに関係する展示を見て来たが今回あらためてバウハウス・アッシブを訪ねた。
撮影不可なので展示物の写真はない。
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展示内容に関して、またこの美術館が出来た経緯(グロピウスの設計)に関して思う所あるけれども省略。

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ベルリン、秋

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リベスキンドの設計で有名なユダヤ博物館はここベルリン博物館から入場し地下通路を通って行く事になる。

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この美術館は何と言うべきか、彫刻としての建築というか建築化した彫刻というべきか、少なくとも25年前はこのようなコンセプトの建築が実現できるとは思えなかった。思えばこの間日本でも(タイプは全然異なるにせよ)荒川周作の養老天命反天地のような建築化した彫刻とでもいうものが出来たのであった。

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荒川さんやリベスキンドに先立って、かつてヨーゼフ・ボイスによって社会彫刻というコンセプトが既に出されていたこと思い出す。

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肝心の展示内容について。興味深い点は多々あるものの若干の違和感もあった。それはユダヤミュージアムといいながら10世紀以降のドイツにおけるユダヤ人の歴史に限定していることであった。ユダヤ人のことを考えるならば少なくとも4000年からの歴史にざっとではあっても触れる必要があるのではないかと。
また第二次大戦中の悲惨な歴史に関して驚く程あっさりした展示であった。(それは下の写真にあるリベスキンドの設計した地下が代替しているという考えもあるかもしれないが)考え過ぎかもしれないがある種の政治的配慮があったのかとも思った。
あくまでも現時点での感想ですが。


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リベスキンドによるホロコーストの象徴。人の顔の形をした無数の鉄板。

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最後にケーテ・コルヴィッツの美術館に行く事ができた。
コルヴィッツは学生時代から好きで尊敬していた作家である。彼女の作品、生き方も含めて深く感動。

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美術館中庭。

ザグレブ空港からベルリンへ向かう。
前日は2〜3時間しか眠れず、少し意識もうろう。
ベルリンの宿(ツォー駅そば)に4時頃到着。荷物をおいて散策。4時過ぎにすでに町は暗い。

ベルリンは25年ぶりの訪問となる(当時は西ベルリン)。ヴェンダースが「ベルリン天使の詩」を撮影した年であった。あのサーカス小屋のあったクロツベルクを歩き回った記憶がある。(映画が公開されたのはその2〜3年後であったか)
今回は旧東側であるザグレブからの入国なのでショーネンブルグ空港から各駅停車の電車に乗ってベルリン入りをした。
25年前、たしか一日50マルクを使う事を条件に東側の町を半日観光したのだが、今回の印象とは全く異なったものだった。
その他思う所あり。

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ザグレブ空港待合室

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以下ベルリン

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クロアチアの首都ザグレブに早朝のバスで向かう。
5月のトルコ旅行の前に寄った「例の」画廊にまず訪ねる。
今回は1970年代旧ユーゴスラビアの前衛芸術家たちのドキュメントが展示されていた。
ここで来意を告げると、いろいろ細かい経緯はあったのだが、デヤン・クリスィチ(Dejan Krsic)氏(多分クロアチアで有名なデザイナー)という人に近くのカフェで会う事になる。一緒にいた美術史家の女性(名前を忘れた)とも話をする。ユーゴスラヴィア時代のアヴァンギャルド研究についていろいろ教えてもらう。(詳細省略)また、資料になる本を探すためにクリスィチさんは私たちを本屋に連れて行ってくれる。(結局三件はしごしました。)
その後HDLU(ザグレブのクロアチア芸術協会)というクロアチア現代美術で最も活発な活動をしている美術館に、ディレクターのフランチェスキ氏を訪ねる。(ソボルさんマイーダさんの紹介)
ここで偶然ニューヨークのアーティスト、ダリオさん(来年ここHDLUで個展をする予定)とそのガールフレンドで同じくニューヨーク在住の日本人女性アーティストの桐谷さんという方がいて、一緒に話をしたのだが成り行き上、結局厚かましくも彼女に通訳のようなことをさせてしまった。
フランチェスキさんは興味深い人で僕とほぼ同世代だと思うがクロアチアの現代美術において中心的な活動をしている人であった。今年のベネツイア建築ビエンナーレ、クロアチア部門のキュレーターもしている。
ここでは僕の興味のあるユーゴスラヴィア・アヴァンギャルドに関する情報を得る事ができた。
詳述するときりがないので省略します。11月の前半にまた来る必要ができた。
HDLUという美術館の建物も数奇な運命をもったもので、それだけで一冊の書物が発行されている。旅のあと落ち着いたら触れたいと思う。
今日は沢山の人にあったにもかかわらず、残念ながら写真を撮り忘れてしまった。それだけ話に忙しかったということだ。

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HDLU(HRVATSKO DRUSTVO LIKOVNIH UMJETNIKA /CROATIAN ASSOCIATION OF ARTISTS)

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HDLU内部

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明日から短い旅に出るのでいつものように準備に追われる。
たいしたことではないけど、荷造りは当たり前として
いつもの大掃除をします。

考えてみるとこれは何なんだろうと思います。
この長旅で東京の家を出る時もそうだけど、こちらに来ても、ここを拠点に短い旅に出る時も同じ心境になる。深く考えたことはなかったけれど
旅先で何かあっても恥ずかしくないようにというか、後で人様に迷惑をかけたくないというか、何と言うか。
一種の旅の覚悟とでもいうのでしょうか。

儀式の様に暗黙のうちに夫婦で大掃除をして家をきれいにしてでかけます。
15日からザグレブーベルリンの1週間程の旅が始まるのでその準備で少し慌ただしくなる。
町に行ってザグレブ行きのバスの切符を買ったり、買い物など。
町中のいつものカフェ(かつてチトー大統領のシェフをやっていた人が経営しているソボルさんお気に入りの)でマイーダさん、ソボルさんと待ち合わせし、久しぶり(1ヶ月ぶりか)にお茶をする。
こちらの旅の感想を巡っての話なのだが、ヨーロッパ2000年の主にキリスト教の変遷からオランダやら各国の国民性の話まで広がり全く大変な話になる。もちろんとても面白い話になるのだが自分の英語力がもどかしくもある。
ソボルさん達はもちろん僕の英語力にあわせて親切に話してくれますけど。
バチカンは異端としたのに何故あんなにギリシアやローマ、エジプトのお宝を抱え込んでいるんだ?とか何でヨーロッパは偉大なローマを忘却したのか?とか僕の乱暴な質問に対して、ソボルさん、マイーダさんはさすがに宗教家、とても鋭い分析で答えてくれる。(ここに書き出すときりがないので省略しますが)
印象深いソボルさんの言葉。
「ヨーロッパはこの2000年の間、日本が経験した明治維新のような激しい変革(あるいは歴史の断絶)を少なくとも20回以上繰り返してきたのです。テラヤマサンそれが理解できますか?」
...他にもあるけど刺激的すぎてやめます。
がソボルさんの比喩がとにかく面白い。僕がオランダの印象を当たり障りなくインターナショナルな印象を受けたと言ったことに対するソボルさんの意見。オランダ人の考え方は「臨済禅のようにlike a rinzaizen」strict(精密、厳格)だが、「臨済禅と違って」オランダ人は大都市のinternationalな印象とは裏腹に実は本質的には保守的なのだ、などという言い方なのだ。
確か僕の家は臨済宗だがそれが仏教の中でどれほど厳格であるかを残念ながら僕は知らないのだけれど。

僕らが旅していた間ここリエカは5度から15度ほどで大変寒かったらしい。
僕らが戻ってからインディアンサマーになったとのこと。

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ソボルさん家の庭でできたPOMENGRANATE。とても酸っぱい。

そいえば昨日の深夜テレビで「復讐するは我にあり」1979年をやっていて観た。
ここクロアチアに来て初めての日本映画である。九州弁や三河弁がことのほか新鮮である。(6月頃妻は小津安二郎の「晩春」1949年を観ているが朝早くだったので僕は観れなかった)緒形拳が亡くなっての追悼上映かどうかは分からない。監督の今村昌平は松竹の小津組にいたのだが反発して日活に移ったのだがこの映画は松竹の配給。緒方も凄いがほかの役者も凄い。三國連太郎、小川真由美、清川虹子、ミヤコ蝶々、倍賞美津子、加藤嘉など。映画よりも配役が凄すぎる。


アムステルダム(オランダ)ではこれまで書いて来たようにそれこそ気持ちが悪くなる程(?)たくさんの素晴らしいものを見てきたにもかかわらず、ずっと釈然としないというか引っかかるものがあった。
旅の途中ではその理由は当然分かるはずもなく、ただ単にもやもやした感覚だけが残っていて、それをこちらに戻ってからもずっと引きずっていた。(それは10月9日に書いたオランダ覚え書きにもある。

その理由が何となく分かったのはゴッホ美術館で買ったマーレヴィチの図録を読んでいてであった。
私が9月30日に見たマレーヴィチの素晴らしいタブロー群もウエルクマン(H.N.Werkmanヴェルクマン?)の作品もゴッホ美術館の収蔵ではなくアムステルダム市立美術館の収蔵品であった。この市立美術館(Stedelijk Museum of Modern Art)は2008年までの予定で改装中で、その間一部を中央郵便局に移転展示しており、しかも私たちが訪れた前日になんとその中央郵便局も工事で閉鎖され、結局見る事のできなかった美術館なのである。
http://www.esporre.net/terayama/2008/10/0930rembrandtvermeerghghmalevi.php
http://www.esporre.net/terayama/2008/10/1001-1.php

推測するにおそらくゴッホ美術館が展示場所のない市立美術館に場所を提供していたのだろう。
何故、アムステルダムにこれだけまとまったマレーヴィチがあるかというと上に記した図録、「1878-1935 Kazimir Malevich─Drawings from the collection of the kharzhiev-Chaga Art Foundation」によれば、革命後10年、国内での保守派との政治闘争に敗れた(本当はそんなに単純ではないがあえてそう書きます)マレーヴィチが1927年にワルシャワとベルリンで行なった展覧会の作品がその後の第二次大戦などの混乱でロシアに戻らず、それが(まるごと)ここ市立美術館にまとまって残っている理由だったのだ。
またそれに加えて、ロシアのマヤコフスキー研究家でマレーヴィチと直接つきあい、彼の重要なドローイングの多くを個人的に所持していたN.I.カルジエフ(発音はよくわかりませんKHARDZHIEV1903-1996)が、ペレストロイカの後1993年にアムステルダム市立美術に寄贈したものも加えられたのだった。
これにもドラマがあって90歳のカルジエフはそのドローイングの半分は持って来れたのだが、残りはロシアの空港で警察に差し押さえられ現在はモスクワにある。その後カルジエフはロシアに戻れず奥さんとともにアムステルダムで93歳で客死しているのだ。

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マレーヴィチのドローイング

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マレーヴィチのドローイングを見ていると自分の手で追体験(模写)したくなる程魅力的だ。
あのリベスキンドの初期のドローイングもリシツキーの影響というよりはむしろやっぱりマレーヴィチかと...。
この実感は僕にとって少なからず衝撃であった。

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マレーヴィチとカルジエフ。1933年。

結局、ここで言いたかったのはオランダがデザインのモダニズムに関する研究にとって最も重要な場所だと僕が感じていたのは、基本的にこの市立美術館によっているということなのだった。
これはおそらくこの美術館に歴史的に優れたキュレーターが何人もいる(いた)ということを示しているのだろう。
今回残念ながら僕はそれと出会う機会を逸してしまったのだ。
「せっかくオランダに来て、肝心のモダン・グラフィックのコアがないのは何故だろう?こんなはずじゃあないだろう」と感じたわけがやっとわかったような気がしている。もやもやと苛々の原因。

もちろん旅の出会いは時の運。その事自体は理由がわかった以上そんなにくやしいとは思っていない。もやもやが晴れたのでむしろすっきりしました。
帰国したら図書館でこの美術館(とハーグの市立美術館)が出した出版物を系統立ててちゃんと読んで、必要ならばそれから改めてまた来ればよいと思う。少なくとも3〜4年はかかるだろう。そのころにはいくらなんでも改装も終わっているはずだ。
新たに宿題が加えられました。
終日、資料の読書と長旅後半の計画に追われる。
夏は9時頃だった日没が今では6時である。これが4時頃までになっていくのだと思うと
ヨーロッパの冬は暗そうだ。これまで経験して来た春、夏とは全く印象が異なるのだろうと思う。

前から聞いてはいたものの、ヨーロッパ圏内は早めに予約をすると航空券が(列車などに比べて)大変安く手に入る事がやっと後半になって分かって来たし、ビビらずにネットで予約する度胸もついてきました。

やっとアバウトながら以下の旅程が決まる。
10月は後半に1週間ほど、ザグレブ、ベルリンへ。
10月の終わりから11月のあたまにクロアチア国内のドブロブニク、ザグレブへ。
11月の半ばにパリ、ウイーンを経由し20日間弱エジプト(シナイ半島)へ。
12月半ば過ぎに再びドイツ(ドュッセルドルフ、マインツ)へ1週間ほど。
1月前半に南イタリアとシチリアに約2週間。
2月の前半にクロアチアの拠点をたたみ、ポルトガル、モロッコ、スペインをまわる。
3月10日から20日までフランス(パリ)、その後ニューヨーク(約10日)を経て帰国の予定となる。

その他リエカ滞在中に出来る限り時を見計らって近隣のスロヴェニア、クロアチア国内のショートトリップ(バス)もしたいと考えている。
このあたりの冬の寒さがどのようなものか未知なのでどうなるかわからないけれども。

多分、11月のエジプトが冬とはいえ後半最大のハードな旅になりそうなのと、
ここリエカの拠点を引き払って後の放浪の50日間がどうなることやら不安ではある。

これまでの前半は全てが手探りだったし、様々なカルチャーショックもあったがその分、多分に新鮮でもあった。
後半は同じ旅でもその経験の受け止め方が変わって来るのではないかという予感がある。
うまく言えないが善かれ悪しかれ旅の質感が変わって来るのではないかと。


終日次の旅の準備。
でも家に籠ってばかりは何なので散歩しました。

テレビのニュースを見ていると同じクロアチアでも南のドブロブニクなどではまだ海水浴をしているのです。
しかしここトルサットはもう秋の気配です。
歩くと上着を脱ぎたくなるくらいの気温ですが。

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終日、家にひきこもり調べもの、読書、次の計画などに集中。

ここリエカの家は静かで気持ちよく引きこもりには最高です。
申し訳ないですが家事はなにもしていません。
感謝の気持ちを時々忘れるのでカミサンから顰蹙を買っているのが問題なくらいの
静かな日々です。

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画像が荒くて申し訳ない。1926年シュレーダー邸を訪れた左から建築家のマルト・スタム、リートフェルト、エル・リシツキー。リートフェルト38歳、老けて見えるが(急に頭が禿げたので)リシツキーは36歳。リシツキーの奥さんのゾフィーの書いた伝記では世界恐慌、ファシズムの前のアヴァンギャルドが幸福だった頃のワンシーンである。彼らはここで一般庶民の住宅の未来を終わる事なく語り合ったとある。

オランダ覚え書き。
今回のオランダではレンブラント、フェルメール、ゴッホ、エッシャー、モンドリアン、リートフェルトと(見落としも随分あるとは思うが)それなりに見れたのは良かったと思う。
そう、加えてウエルクマンやマレーヴィチなど思わぬ出会いもあったし。

ただ心残りがいくつかあった。
気をつけて(意識しながら)美術館や町の画廊などを見たつもりではあったが、戦後の優れたオランダのグラフィック・デザインがほとんど見れなかったこと。

リートフェルトは思った以上に評価されていたがデ・スティルのドゥースブルクがほとんど見れなかったこと。

そして最も大きな欠落はゲルト・アルンツがどこにもなかったことであった。
かつてゲルト・アルンツの大回顧展を行ったのはハーグの市立美術館である(今回モンドリアンを見たところ)。ここではモンドリアン以外にはイズラエルという画家の大展覧会をやっていてモダンデザインに関する展示は全くと言っていい程なかった。
まあ、こちらにも学芸員にわざわざ何故か質問する程の準備もしてなかったのでしょうがないが...。
オランダにいればなにか情報が入ると思っていたのだが...。
アルンツに関しては特に心残りではある。



終日家にこもり旅でたまった資料の整理。
旅の途中購入した書籍や、ゆっくり目を通せなかった資料に目を通す。
辞書を引きながら、またインターネットで確認しながらの作業なのでなかなかはかどらない。

しかし今回はあまりゆっくり振り返っている時間がない。
次の旅の当面の準備もあるけれど、ほとんどちゃんと決めてなかった後半の旅の見取り図全体を再度描かなければならないのだ。

もちろん、誰かが言ったように旅はちゃんと戻らなければ旅とは言えないので出発前に大きなアウトラインは作って来た。
これまでは若干の修正(例えば8月は少し休んだり、当初思ったよりイタリア滞在が少なくて北ヨーロッパが少し増えたり)はあったもののほぼ計画通りであった。
しかし後半についてはあまり考えてなかったのだ。

これは出発前にそれだけの準備をする時間やゆとりが全くなかったということにもよるのだが、半分は意識的に「行ってみなけりゃどうなるか分からんだろう。」という気持ちもあったのだ。
決めた事をそのままトレースするほうがどっかおかしいんじゃないかという気持ちがあった。

実際、見たり、感じたりするこということは、何かがその都度、自分に刻印され自分の感覚の何かが変化し続けているということだ。実感として。
これは当たり前と言えば当たり前のことではある。しかしこれまでの人生で少なくともこんな短期間にこれ程の量の情報を浴びた経験がないので圧倒されているということなのだと思う。
それで旅先で「やばい」と感じて思わず受信を遮断しよう(インプットを減らそう)とする自分がいるのだ。そしてそれを見ているもう一人の自分が「なんちゅうやっちゃ、お前は」と苛立っているのだ。

ここ最近、みっともないとは思うのだが「苦しい」だの「混乱している」だの弱音を吐いているのはそういうことです。
意外と弱い私をお許し下さい。

この迷いも旅に含まれた大事な要素なんだとここ数日、少しづつ開き直るようになってはいるものの。

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9月7日。ミラノで見たグリーナウエイのインスタレーションの様子。画像が小さくて見にくいですが。正面に見えるのが再現されたテーブルです。
http://www.esporre.net/terayama/2008/09/0901leonardos-last-supper-by-p.php

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終日、ブログの更新に追われる。

今回の旅の後半、ベルギー、オランダでの経験で書くべき事は目白押しではある。
が、頭からどうやっても離れないのはまずはフェルメールである。
フェルメールはこの旅の最初、イギリスのナショナルギャラリーに始まっている。
これまで行った場所で見れるものは必ず見て来た訳で、しかも彼に関しては今日いろんなところで語られているので今更僕が何か語る必要もないと思う。
いや、語りたい事は山ほどあるのだ。しかしそれをどう語って良いか分からないということなのだ。
このブログをご覧の方はもうすでに僕の見方が偏っている事はご存知だと思う。
レオナルドとヤン・ファン・アイクはまず別格として、デューラーとホルバイン、ボッシュとブリューゲル、そしてカラバッジョ、レンブラントがいるのだが、どうしても今語らねばならないのはフェルメールなのである。
時代も場所も異なるのにそれらを一緒くたに語る無茶苦茶さは承知の上です。しかももっと他にも優れた画家は沢山いるかもしれない。その点もごめんなさい。

ともあれ今はフェルメールのことを記さねばならないとおもうのだが今更何を語るべきなのか...。

「失われた時を求めて」を書いたマルセル・プルーストはフェルメールの「デルフトの眺望」を二度見ている。1902年マウリッツハウスと1921年パリでのオランダ絵画展覧会で。
そこで彼は書いている

「デン・ハーグの美術館で[デルフトの眺望]を目にして以来、私はこの世で最も美しい絵を見た事を知った」と
で彼の小説「失われた時を求めて」第五巻「囚われの女」の中に以下のテクストがある

「(...)しかし、ある批評家が書いているものによると、フェルメールの『デルフトの眺望』、彼が大好きでよく知っているつもりだったこの油絵のなかに、黄色い小さな壁面(それが彼にはよく思い出せなかった)が、じつによく描かれていて、そこだけ単独にながめても、十分に自足する美をそなえていて、すばらしい支那の美術品のように美しい、とあったので、ゴルベットは、じゃがいもをすこしたべ、外出し、展覧会場にはいった。階段をまず二、三段のぼったとたんに、彼は目まいに襲われた。いくつもの絵の前を通りすぎた、そしていかにもわざとらしい芸術の、うるおいのなさ、無用さの印象を受けた、(...)やっとフェルメールの絵の前にきた、その彼には、およそ知っているどの絵よりもはなやかで、他とはかけはなれていたという記憶があった、しかし彼は批評家の記事のおかげで、いまはじめて、青い服を着た小さな人物が何人かいること、砂がばら色をしていることに気がついた。そして最後にほんの小さく出ている黄色の壁面のみごとなマチエールに気がついた。...」

このプルーストの語る小さな黄色の壁面は本当に小さく、そう指摘されなければ探せないくらいのものだ。
しかしフェルメールの絵を見ていて実際、彼の本当の凄さはこの壁面にあると思う。
もちろんこの壁でなくても良いのだ。彼の絵におけるこの黄色い壁的なもの。
「牛乳をそそぐ」女の後ろの壁面でも、手紙を読む女の青い衣装でも、女の耳飾りでも。
そこには誰もが見えるのに誰もが描きえないものが厳然とある。
支那の美術品かどうかは知らないが少なくとも「自足する美をそなえて」いることは確かなのだ。
フェルメールと同時代の似たような題材を扱う優れた画家はいるものの、この感覚はフェルメールだけのものである。
これを何と言ったら良いのか。

僕には言葉が見当たらない。
抽象とか具象とかは全く関係のないことだけは確かだ。
ぼちぼちとたまっていた今回の旅、後半部分のブログの更新を行う。
余裕があると、あれやこれや考えてしまうので、一日分の更新に随分時間がかかってしまう。
自分が見たものを単純に見たということが簡単ではなくなってきた。

今回の旅の途中、たまたま別件についてであったが、尊敬するアーティストでもある友人の木本さんとメールのやりとりがあった。
いろいろ凄いものを見たりすることが単なる快楽では止まらずもはや、苦しみを伴う苦行でもあり、自分がどう受け止めれば良いか分からないカオス状態でもあることを正直に彼女に伝えたのだった。
その返信が
「寺山君、あなたの状態は不安定平衡といって、とっても素晴らしい状況なんだよ」であった。
さらに「腰が抜けるまでそれを徹底しなさい」でもあった。(実はもう腰は抜けかかっているのですが)

ともあれ「不安定平衡」とはとても難しい言葉である。
数学に対してまともに取り組んでいる数少ない芸術家である木本さんならばともかく
素人の僕がどうのこうのいう資格はないのだが、彼女の言わんとする事は何となく分かるような気もする。
普段、教師として学生を見ている時、ものを作ることにおいて学生がそのような状態に一度は突入しない限り本人における本質的な変容は現れないということは経験的に知っているし、それはいうまでもなく自分自身の経験でも知っている事だ。

旅を初めて6ヶ月。もう半分が過ぎてしまったという思いと、まだ半分かという思いが交錯する。
妻に正直
「他所様からは単なる贅沢に聞こえるかもしれないが...見続ける事はある意味本当に辛い事でもあるなあ」と弱音をはくと
「でもそれをあなたは望んだんでしょ」と答えられた。

そうだ、僕は無意識的かもしれないけど望んだのだ。
おそらくこの不安定平衡を。


ご存じない方のために木本さんのホームページは以下です
http://www.kimoto-k.com/index.html



今日は日曜日。

食料など日常品の買い出しに行かねばならない。

昼過ぎにいつものように荷物を運ぶためのキャリーバッグをごろごろ転がしながら

30分くらいのところにあるスーパーにのんびり向かう。

1時頃そこに我々が到着したとたんに店内の電気が消える。

いったい何事か、と思っているとこれで閉店なのだと知らされる。

「えーっ、何で日曜日のこの時間に閉店なの。今日は祭日でもないでしょう」

とか思っても始まらない。

これがクロアチア生活なのだ。

あきらめてそこからさらに2~30分かけて丘をおりてセンタービルにある大型スーパーで買い物を済ます。

荷物が重いので帰りはバスを二つ乗り継いで帰宅。

タクシーを拾いたくてもここには「流しのタクシー」というものがない。

日常の何ということのない買い物がここでは半日仕事となる。


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庭の主。名前は忘れた。今度ソボルさんに聞いておこう。
例のごとく、小旅行から帰った後の作業に追われる。
荷物の片付けや洗濯など。
疲れでかなりボーっとしながらも淡々と。

ここに戻ると本当にほっとします。
帰る場所があって本当に良かったと改めて実感。
食料は買い置きしていたもので済ます。

いつものことながら頭はそれまで見て来たものを
無意識に反芻している。
これもいつものことながら、夢遊病者状態が一時続くのだと思う。
朝の列車でアムステルダムからドイツのケルンへ。
今回はケルンーリエカという飛行ルートを見つけたので(リエカ空港は本当にマイナーでめったに飛行機は飛ばないのだ)その飛行機に乗るためである。
3時間弱。
この日の写真は全て妻が撮ったもの。

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ケルンでは駅前にある大聖堂を見る。飛行機の時間まで3〜4時間の余裕はあったものの、中途半端に町を歩く気にならず。
駅で昼食をとってケルン・ボン空港に向かう。

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夕方、無事飛行機は出発し夜の8時、リエカに到着。
心配していた空港から町までのバスもあった。
今回のオランダの旅も終わりに近づいてきた。
この旅の究極の目的のひとつにシュレーダー邸があった。
朝、朝食もとらず宿を出てユトレヒトに向かう。
シュレーダー邸はユトレヒトのセントラル・ミュージアムが管理しておりそこからバスでツアーが出る。
今回も最初は予約がないから内部は見せないと一悶着あったが結局見れることに。(ミラノ以降今回の旅はその手のトラブルが多すぎた)

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アムステルダム中央駅、朝。

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リートフェルト設計シュレーダー邸1924年

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ここはセントラル博物館が修復、管理している。世界遺産に登録されている。一階はまだ修復中の部分がある。
修復技術に関してはデッサウのバウハウスと比較するとかなり落ちる。かなり荒い。
デッサウ並みにやるべきだと思った。
http://www.esporre.net/terayama/2008/07/726.php

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残念ながら、内部は撮影不可だったので写真はない。
ここは建築化された家具という言い方がなされる。やっぱり内部、細部をちゃんと見なければその面白さがわからない。
空間をこれでもかという程細かく変化させるその執念(?)には恐れ入る。やり過ぎと思える程である。微笑ましいというか何というか。リートフェルトの他の全ての建築がそういう訳ではないから、若くして(シュレーダー夫人と出会ったのが33歳)この建築を彼女(当時32歳で未亡人であった)と作ったプロセスにその秘密があるのかなと思いました。
また住む人間の積極的な行動にあわせて空間が変化するという考え方は、リシツキーのプロウンルーム(1923)やドレスデンの展示空間設計(1926)と全く同じコンセプトである。1926年にここを訪れたリシツキーがリートフェルトと意気投合したという話もうなづける。
想像以上に興味深かく来て良かったと思いました。
リートフェルトは木工職人あがりというか、気取った感じのない人で、しかしこのような大胆な物を作ってしまう所が好きだ。
建築の専門家の人たちがどう思っているか知らないが。

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内部写真のかわりにセントラル博物館で撮った資料写真を載せます。
最初の模型。

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歩いて1〜2分の所にある同じくリートフェルト設計の「エラスムス通りの集合住宅」も見学する。ここは内部撮影が可であった。

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ジグザグ・チェア

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見学はオランダのどこかの大学の建築の学生と一緒だった。

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ディック・ブルーナ・ハウス。
一旦バスでセントラル博物館に戻る。ここはディック・ブルーナ・ハウスも併設していて閉館時間の関係でそちらに先に行くことにする。

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ブルーナは父親の経営する出版社のブックデザインも随分手がけている。
グラフィック・デザイナーとしても相当なものであった。
彼はリートフェルト、マティス、レジエに強い影響を受けたと語っていた。

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子供の遊戯室も当然充実。

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セントラル博物館に戻る。ちなみにこの設計もリートフェルトである。

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ショップと受付カウンター

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カフェテリアで遅めの昼食をとる。こことショップのデザインは「ドローグ・デザイン」椅子のデザインはリートフェルト。

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ドールズ・ハウス

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ドム塔1332年。

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ドム教会1254年。オランダ最古の教会。



朝、まず中央駅近くの郵便局に移転して展覧しているはずの市立近代美術館に行く(本館は改装中らしい)。途中、東京駅のモデルとなった中央駅や周辺の建物等を見ながら探すもなかなか分かり辛い。やっと探し当てると、ここも工事中で何かいやな予感がする。
なんと展示は昨日までであとはずっとお休みとのことであった。 

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アムステルダム中央駅

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図書館

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郵便局。市立近代美術館の移転先。

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科学技術センター(通称NEMO)レンゾ・ピアノの設計。

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NEMOを反対側から見たところ。

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しょうがないのでトラムに乗って考古学博物館へ向かう。
ここはアムステルダム大学の付属でガイドブックにも載っていない場所である。
正式名はAllard Pierson Museum Amsterdam。
それほど期待することもなく入ったのだがその充実ぶりに驚いた。
ギリシア、ローマはもとより、エジプト、シリア、キプロス、メソポタミアなど、全体の目配りも素晴らしく、かつこれまで私たちがギリシアやトルコで目にしたこともないような造形もあった。こういう不意打ちはうれしいものだ。
以前にも書いたが、私たちの今回の長旅の予定にシリア、メソポタミアまでは入っていない。なのでその部分も含めたここの展覧会はとてもありがたいことなのだった。

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オリンピアの模型

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キプロス

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キプロス

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次に尋ねたのは聖書博物館。
昨年、院生の李さんと15世紀以降の書物としての聖書史の研究をやったので当然行かずばなるまいと思ったのだった。
ここは19世紀のある修道士が収集した資料をもとに作られた場所であるらしい。
その人のテーマはまずは旧約聖書の成り立ちから始まっているようだ。(なので話はとんでもなく長いことになる)
そしてもう一つのテーマは聖地エルサレムを巡る歴史研究のようであった。
いわゆる十字軍から今日における紛争までそれは繋がっている。
とにかくオランダ語も全くわからないので、内容を理解できたかどうかははなはだ心もとない。
少なくとも私の期待したものとずれてはいたのだが、ユダヤの「トラー」(巻物)の様々なヴァリエーションが見れたことなど、それなりの収穫があった。
全体としては不思議な印象の美術館であった。

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トラー(小型)

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大型

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全てユダヤ語。エルサレム聖域の構造図のようである。


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モバイル型?

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古代イスラエル、ユダ王国の首都、エルサレムの神殿模型らしい。

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聖地エルサレム模型。

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そして写真美術館。
3人のフォトグラファーの個展がそれぞれの空間で行われていた。
そのうちの一人は石内都であった。

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またギャラリーに置かれている本をぱらぱらめくっていた妻が「あー。この写真いいね。」というので僕も「うん。」といって名前を見るとなんと知り合いの(ムサビ卒)まーさんこと山本昌男さんの写真であった。このギャラリーで展覧会をした時のものだった。
最近は年賀状のやりとりくらいしかしていないし、日本よりも海外で有名らしいという話は聞いていたが...。

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その後雨模様の中アムステルダム運河のクルーズ船に乗る。

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マヘレのハネ橋。

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宿から見える風景。この日も雨模様。
良くも悪くも大変な一日であった。

まずオランダ最大の美術館「国立美術館」に行く。ここは長期改装中なので現在全てを見ることはできないが、いわゆるめぼしい物を絞って展示している。
レンブラントの「夜警」「若き日の自画像」「聖パウロに扮した自画像」、フェルメールの「台所女中」「手紙を読む女」の他ファルケルト、オランダ伝統の風景画と静物画の傑作が目白押しである。デルフト焼、ドールズハウスもまた充実している。
写真撮影は不可なのでここにあるものはイメージである。

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次に国立ゴッホ美術館へ。
ゴッホの重要な作品はもとよりゴーギャン等同時代の作家の作品も見れる。
また今回僕にとって大変興味深かったのは一般には知られてないがなんとここでニコラス・ウエルクマンの特別展が行われていたことだ。あの「ネクストコール」の。彼はナチスに抵抗して地下出版を行ったが1945年捕われて死亡している。しかもこの展覧会はアムステルダム市立美術館の館長をながく勤め、「ヌー」や「エクスペリメンタ・ティポグラフィ」の編集とデザインも行っていたサンドベルフの解説付きであった。
これはとんでもなく感動ものであった。(...この間の事情は「エル・リシツキー」に書かれているが、その事情を良く知る図書館の本庄さんには少なくとも理解してもらえると思います)
しかもここではそれで終わりではなく、なんとマレーヴィチの小規模ではあるがスペシャルな展覧を行っていたのだ。タブローは10点前後、しかし初期から後期まで重要な物がちゃんと並べられている。これは本当に凄いことである。かつて「白の中の白」をサンクトペテルブルグで見たが「マレーヴィチは単体でみるだけじゃだめで、この流れでちゃんと見なければいけませんよ」といった展示であった。
多くの人のマレーヴィチ観をひっくり返す程の展示だと思う。
ここも撮影禁止なので画像がないのは残念だけど。

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ウエルクマン

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ゴッホ美術館外観。設計はリートフェルト1973年

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ゴッホ美術館新館。設計は黒川紀章、現在は改装中のようであった。

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ものを見すぎて興奮しすぎたせいかどうか知らないがこの後、僕の(失明している)左目が痛くなりどうしようもなくなった。
これは3年程前から始まったものでいくつか病院には行ったが原因は不明である。
根本的な治療方法もない。
この長旅の間は、以前に比べて幾分よくなっているのだが、時々忘れた頃に痛みが突然やってくる。そうなってしまうと目を開けていられない。

一時のあいだ休息し次に美術館に行くのは止めて、妻と相談の上、レンブラントの家博物館に行く。(結局似たようなものだが)

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レンブラントの家美術館。レンブラントが33歳の絶頂期から53歳、破産して売り渡すまで20年住んでいた家。

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玄関脇の部屋。ニュルンベルクのデューラーハウスと同様、飾られた絵はクライアントへのプレゼンテーション用である。

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銅版画の製版作業場と刷り室。

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モチーフ室。興味深いが多分にオリジナルの配置ではなく、後の学芸員が置いたものであろう...。
何故ならレンブラントならばこんなださい置き方はしないように思う。僕の勝手な推測ですが。

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最上階、アトリエの片隅。

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絵の具制作台。

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レンブラントは巨匠と呼ばれるにふさわしい人ですね。何という線の柔らかさ、自在さであろう。

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今日で僕の長旅の半分が終わった。
長かったのか短かったのか、自分でもよくわからない。
今はインプットが多すぎてカオス状態である。

雨模様の中デン・ハーグからアムステルダムへ移動。
宿に荷物を置いてアムステルダム歴史博物館へ。
13世紀から今日までアムステルダムの歴史がしっかり「物」で展示されている。
オランダの歴史といってもよいと思う。同じヨーロッパでもドイツよりも先進国であったオランダ独特の展開がはっきりと見れる。海に開かれていた点が決定的に異なるのだろうと感じた。
建物は17世紀孤児院だったところでベギン会修道院(女子修道院)と繋がっている。

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アムステルダムの歴史の始まった所、ダム広場。王宮。

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以下歴史博物館

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レンブラントだけではなく当時大量の「解剖画」が描かれていたことを知る。

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ダムの精巧な模型。まるで彫刻作品の様である。

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20世紀ドイツの侵攻。

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ノイラートのアイソタイプ運動にウイーンで協力したペーター・アルマのタブロー発見。とても珍しい。

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屋根裏のレジスタンスの部屋も再現。

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雨の合間の光。雲の形がドラマティックに変化する。

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この日はマウリッツハウス美術館を見て(写真禁止なので画像はない)エッシャー美術館そしてそして市立美術館に行った。
連日こういう日が続くと本当に旅はつらい。
マウリッツではフェルメールの名作2点、「真珠の首飾りの少女」「デルフトの眺望」、レンブラント「テュルプ博士の解剖学講義」、ファン・アイク、ホルバインその他沢山。そしてエッシャー。市立美術館ではまとめてモンドリアンという有様である。
何が辛いかというとあまりにも見る対象が凄すぎてヘヴィーなのだ。旅の途中なのでゆっくり消化してなどと言っている暇はない。凄いものが次から次へ視覚に飛び込んで来るのだ。
簡単にいえば気が狂いそうになります。
精神状態はかなり苦しい。


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エッシャー美術館
写真はあまり撮らなかったが初期の作品も含めて素晴らしい。彼の作品はそもそもその内容に見るものを誘い、技術的なことは気にかからないのだが、今回見て木版、木版のエングレーヴィング、リトグラフ、銅版と全てにおいて超絶技巧と言っても良いくらい精度が高いことを実感した。特に若い頃、旅をした風景シリーズなどはあまり見る機会もない。ブレがなく一貫していてすばらしい。

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美術館照明器具

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エッシャーとマグリット。
今回の旅でこの二人の仕事には改めて深い感銘を覚える。
視覚の哲学の視覚による探求をやり方は異なるとはいえこの二人程徹底した作家はそうは見当たらない。
二人に共通するのは周りや時代の流行に惑わされることなく徹底して続けた(恐らくは)孤独な作業である。
画集からは伝わりにくいその息づかいが聞こえるようだ。

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エッシャー美術館の前。

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市立美術館にて。

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以下モンドリアン。これまた強烈でした。フェルメールと同じように光の探求から全てが始まっているのがよく分かる。

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とても良い会場です。雨のせいか人はほとんどいません。

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美術館内部。1935年の建築

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ゴッホ

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アルプ

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ファン・デル・レック

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美術館外観

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夕方美術館を閉め出されたのでトラムに乗って20分ほどで行けるデルフトへ。
妻と地図を見ながらあのフェルメールが描いたと思われる場所を自力で探すことに。

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多分このあたり。私たちが立っている場所の後ろにある建物の屋上あたりからこの画面の左方向にあたる。...と思われる。

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デルフト新教会。1331年建造。

ブリュッセルを朝早く出て、ロッテルダムへ向かう。
この旅の後半はスケジュールをちゃんとたててないのでここに至って
「あれロッテルダムには泊まらなかったんだっけ」ということになり、妻から私の計画性のなさを責められつつ旅は続く。
結局ロッテルダムはこの日のみなのでハードな一日となった(いつものことだが)。
夕方、デン・ハーグにたどりつく。

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ブリュッセルの宿の近く。フォロンの彫刻。

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ロッテルダム、カフェ・デ・ユニ。J.J.P.アウトの設計。デ・スティルを代表する建物。

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このサインを見て何事か!と思ったのですが単なる中古レコード屋でした。

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オランダ建築博物館(通称NAI)ノイラート展でお世話になったパスカルさんのいる所。
ふたつ展覧会をやっていた。オランダの環境と建築に関するもの。(渋すぎて写真はとらなかった)広場と人間に関する写真展であった。

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図書館見学。このNAIの建物は一見かっこ良くできているが、この図書館を見てこれはだめだと思った(建築家はヨー・クーネンという人らしい)。なぜならば図書館の一部がまるでサンデッキのようにさんさんと太陽が降り注ぐのだ。これじゃ本の墓場だ。実際書架の本の背は皆焼けていた。
ムサビの新しい図書館もこんなことにならなければ良いが...。

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ここも図書館の一部

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NAIは敷地の一部に近代デザインの建築を移築し保存修復している。そのうちの一棟は内部見学ができた。ブリングマンとヴァン・デル・ブリュートのゾーネンフェルド邸。

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これはまた別の移築物。まだ作業中らしく内部には入れなかった。

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近くのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館へ。
ヤン・ファン・アイク

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ブリューゲル

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ボッシュ
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ダリ

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マン・レイのタブローが2点もあった!

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イヴ・タンギー

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デルボー

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マグリット

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河原温もあり...

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現代美術も結構充実している

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草間弥生のかなり大規模な展覧会もやっていた。

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また工芸、デザインも相当に...。

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デザインの20世紀をたどる展示。

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ファン・デル・レック

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ツワルトのパッケージデザイン

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ブリジット・ライリー

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作者名失念。回転します。

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広い公園に面したカフェ

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ユニークかつ機能的なデザインのクローク

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図書館、資料室。貴重書のこの収納デザインは素晴らしい。
この美術館は展示物、展示形態、建築、視覚デザイン全ての面においてハイグレードであった。ただグラフィック・デザインの展示が少なかったのは何故だろう。少し気にかかった。

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レム・コールハースのクンスト・ハル

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エラスムス・ブリッジ ファン・ベルケル&ボス設計。向こうに見えるのがレンゾ・ピアノのKPNタワー

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レストラン・ボンピュ。メカノー設計。

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ブラーク/オールド・ハーバー開発計画。正六面体の集合住宅がどんなものか見たくてやって来た。

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設計はピエト・ブロム。
視覚的にはかなりいらいらさせられます。


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宿はブリュッセル北駅の近く。周りは官庁オフィス街でこんな感じ。

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トラムに乗ってマグリット美術館へ。看板も小さななんてことない住宅。探していたら近所のお兄さんが教えてくれた。「ルネはまだ眠っているかも」とジョークを言われた。
ここにマグリットは結婚後死ぬまで住んだ。シュルレアリズムの巨匠にしては驚く程質素である。絵画作品の展示はすくないものの、とても感銘深いものがあった。彼の絵に出て来る室内モチーフはすべてここに実在するものだ。

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あのマントルピースである。

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小さなアトリエ

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あの帽子

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絵が売れない時代マグリットはかなり長い間広告の仕事をしていた。(特に有名なのは鳩が空になっているサヴェナ航空の仕事)庭の奥にあるのが弟(音楽家)や仲間とやっていたデザインスタジオ。

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その後オルタ美術館周辺の建築めぐりへ。
ここは名前不明だがたまたま道を聞いた女性が僕の建築ガイドブックを見てこれが載ってないのはおかしいと言った建物。「労働者のパレス」と言ったような気がするが定かではない。場所はサン・ジル。
一応中にも入って写真をとった。

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道すがらのアール・ヌーボー(作者知らず)

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これも道すがら。名前はプリズン・サン・ジル。正真正銘の監獄である。だから中には入れない。

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アントワーヌ・ポンペ設計 ファン・ネック博士の診療所


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今はダンス、音楽スクール


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途中寄り道。

以前ここにも書いたが大学時代からの友人、菅谷君と奥さんのあやさん(ふたりともムサビの同期であやさんはグラフィック・デザイナー)が何かあった時のためにとブリュッセルの知人の連絡先を紹介してくれていた。

今回の荷物紛失事件で図らずもそのUさんと電話で話すことになった(電話が繋がった時には事件は解決していたのだが)。その折、カメラマンである旦那さんが今、展覧会をやっていると伺ったのでこれも何かの縁と思い尋ねることに。オルタ美術館の近くである。かなり大きなギャラリー。写真とハイヴジョン映像によるアフガンのドキュメンタリーで内容は大変ハード、質の高い作品群であった。


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ヴェルデ設計 オトレ邸


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ポール・アンカール設計 シャンベルラーニ邸


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アルベルト・ロー設計 メゾン・ペルソネル 


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オルタ設計 ホテル・タッセル


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道すがら。


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旧オルタ自邸 オルタ美術館


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外部に比べて内部は圧倒的な迫力がある。この時代にのみ奇跡的に実現したと思わせるような。

撮影は不可だったので以下はイメージである。


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ホテル・ソルベ


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その後、かなり離れているのでトラムに乗ってヨーゼフ・ホフマン設計 ストックレー邸へ。


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夕方、トラムで旧市街に戻る。証券取引所。


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アール・ヌーボーの意匠を残すカフェ・ファルスタッフで夕食


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最後にグラン・プラスへ。

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朝から王立美術館とベルギー・バンド・デシネ・センター(ガイドブックでは漫画博物館となっているが少し違和感がある)を尋ねる。

王立美術館は15世紀から18世紀にかけてのフランドル派絵画の宝庫であり、また19世紀末から20世紀前半にかけてのコレクションもすばらしい。

オランダの静物画、ルーベンス、ダヴィッド「マラーの死」、ボッシュ、ブリューゲル「イカロスの墜落」、クラナッハ、メムリンク、ゴーギャン、スーラ、クノップフ、カルダー、アンソール、マグリット、デルボー、キリコ、エルンスト等等。美術館全体の雰囲気も大変ゴージャス?な感じである。


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ベルギー・バンド・デシネ・センターはその建築がアール・ヌーボーの巨匠、ヴィクト

ール・オルタによるものである。(元はデパート)

フランス語に翻訳された日本の漫画も見ることができる。


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タンタン


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タンタンの登場人物相関図


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この後、昨日荷物が届かなかったので最悪の場合(当分届かないか、紛失)を覚悟し、必要最低限の衣類などを買いに行くことにする。(着るものがほとんどないのだ)

はじめはガイドブックにあるデパートに行ったのだが靴下が一つで2500円くらいするので、「ふざけるな」と思い町を歩いて勘で探すことに。ベルギーのユニクロのようなところを探して(ユニクロよりも4倍くらい高いが)を見つけてなんとか購入。

でホテルに戻ると

なんと!荷物が戻って来ていた。

買い物は無駄となった。まあ得てしてこういう間が悪い時はこんなもんだよねと妻とため息。

後で電話で話をしたベルギー在住の方に話を聞くとベルギー空港は一日で100個荷物がなくなっているとのこと。

シンジラレナイ。

それで今回アリタリア航空倒産ショック(イタリアの国営にもかかわらず!)の混乱もあるのではないかとのこと。

2日で荷物が戻って来た僕らは幸運だったということらしい。

いや、本当に「やれやれ」ですわ。

荷物がなくなったからといって旅を中断するわけにはいかない。

しかし今後の最悪の場合を想定して日程を若干変更。

予定よりも一日早く、今日はゲントに行くことにした。


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バーフ大聖堂


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東フランドルの中心地、ゲントはブリュッセルの西にありICで40分の距離である。

訪問の目的はバーフ大聖堂にあるヤン・ファン・アイク作「ゲント祭壇画」通称「神秘の仔羊」を見ることにある。これは油絵の具による絵画史上最高の部類に入ることはまちがいない。これはヤンの兄、フーベルトとの共作であるがフーベルトは謎の人物でほとんど知られていない。ヤンには他にも傑作が残されているがフーベルトはこの一点のみである。

今日一日この絵一点だけだとしても充分以上だと思える程の傑作であった。

聖バーフ教会も建築、装飾、空間ともにかなり素晴らしい。

地下にある博物館も想像以上に充実していた。


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写真は当然撮れないのでこれはイメージです。


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その後繊維ホールにある鐘楼に昇る。


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鐘楼の巨大なオルゴール。


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町の中心を流れるレイエ川にそって、中世からギルドによって栄えた町並み、市場を見、フランドル伯居城まで歩く。


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大肉市場内部


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フランドル伯居城


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ゲントのデザインミュージアムを偶然見つけたが時間がなく入れなかった。


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その後駅に歩いて戻る途中、1936年に建てられたアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデのゲント大学図書館を見る。正面に見えるのが図書館の高層部。


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最後は駅の近くにあるゲント美術館へ。

この美術館も展示空間、展示物ともに豊かである。

ボッシュ、アンソール、クノップフ、マグリットなどを見る。

しかし特筆すべきは特別展で何とピラネージの大展覧会をやっていたことだった。

まるで長旅をする私の為に用意されたような展覧会であった。ローマを巡りながらずっと「帰国したらピラネージをちゃんと見なきゃ」と密かに思い続けていたのだ。

ここでも何度か書いたがローマ人がローマに気づいた最初の人々の中に確実にピラネージはいたのだ。

これだけまとまったオリジナル(といっても大半は銅版画であるけれど)ピラネージを見ることはもうないのではないかと思う。


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ピラネージ


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「神秘の仔羊」といい、ピラネージといい至福の一日となった。


しかしこの日、失われた荷物は届けられなかった。


午前中、ぎりぎりまで宿でブログの更新をした後、フィウミチーノ空港に向かう。

3時発の飛行機でベルギーのブリュッセルへ。約2時間の飛行である。


空港で大トラブルが発生。

なんと預けた二つの荷物のうちの一つが出てこない。これで空港に1時間以上足止めをくらう。

「多分、ローマで荷物が飛行機にちゃんと載せられていないのだろう、遅れて到着したらホテルまで運ぶから明日まで待て」という説明なので一応、明日を待つことにする。

そのバッグの中身はほとんどが衣類で、本当の貴重品は入ってなかったのは不幸中の幸いであった。

ブリュッセルはさすがに寒くしかも小糠雨である。

ホテルにチェックインした後、もう7時半になっていたが、とにかく元気を出してグラン・プラスまで散策し途中夕食をとる。

明日、荷物がちゃんと届くことを祈ろう。


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フィウミチーノ空港


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雨でしかも肌寒く、傷心のブリュッセル第一日目となった。


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グラン・プラス


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この街も24年ぶりである。

午前中フィウミチーノ空港まで帰国する息子を送る。
約23日間、一緒に旅したのだがあっという間であった。
普通ならば親子でこんな長旅をすることはありえないことだ。おそらく一生に一度であろう、こういった機会が与えられたことに改めて深く感謝している。

一緒にいる間は別にどうということもないのだが、いなくなると急に寂しくなるものですね。


午後からはローマから東30kmのところにあるティボリという街へ行く。

ここは山の上にできた古い街である。


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ティボリからの眺め。


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ティボリの街よりもはるか昔、ふもとにヴィラ・アドリーナというローマ皇帝ハドリアヌスの別荘が作られた。今回はそこが目的地である。

ハドリアヌスはローマがまだ質実剛健だった時代の皇帝であり、ローマがもっとも広大に世界を支配した時代の人である。戦争と領土視察に明け暮れた人だが、とても広大な敷地にかつて自分が見た建築や景観(ギリシアやエジプトなど)を再現しようとこの別荘の建築を始めている。


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復元模型


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哲学者の間、読書室だったらしい。


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島のヴイラ(海の劇場)


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彩色回廊。ここは柱廊に囲まれていた。


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右上側が彩色回廊


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小浴場


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大浴場


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博物館


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カノプスと呼ばれる池と神殿


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ニンフェウム(セラーピスの神殿)


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倉庫、商店、兵舎


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大浴場内側


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養殖池と消防士の宿舎


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ドーリス式付柱の門


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皇帝の宮殿からティボリの丘を見る。


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皇帝専用図書館。この他にギリシア語図書館、ラテン語図書館が別にある。


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皇帝の食堂


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皇帝のテラスからの眺め。


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朝、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会にてミケランジェロの「モーゼ像」を見る。

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いかにもいわくありげなボルジアの階段を通って、トラヤヌスのマーケットに入る。この遺跡はトラヤヌスの記念柱、トラヤヌスのフォロ(広場)と近接し幸運にもかなりよく保存修復されたところである。遺跡の中に作られた博物館も大変よく設計されていると思う。


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トラヤヌスのフォロ(広場)、トラヤヌスの記念柱

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その後昼食をはさんで、フォロ・ロマーノへ。前回ここは上から眺めただけなので、今回はゆっくり歩きながら見た。

これ程の巨大な遺構の上(中?)に暮らしながらローマ人自身が19世紀の考古学的発掘がなされるまで、このローマの中心を忘れ去っていたとは本当に信じ難いことである。


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エミリアのバジリカ


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クーリア(元老院)


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セヴェルスの凱旋門


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サトゥルノの神殿


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ユリウスのバジリカ


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アントニヌスとファウスティーナの神殿、後世に作られた後ろの教会はなんとも無粋である。


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マクセンティウスの巨大なバジリカ


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その後パラティーノの丘に昇る。ここは二度目となるので写真は省略。


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フォロ・ロマーノを再び通ってコロッセオに入る。前回来た時に工事中だった闘技場の床の部分的な再現がほぼ完成していた。

その後バスでサンタ・マリア・マッジョーレ教会に行く。

かなりハードに歩き回った一日であった。

息子のヨーロッパ滞在も今日までである。明日は飛行機で帰国する。


今日のローマは快晴である。 
再びバチカンへ。

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市バスでスペイン広場へ。夕刻大変な人だかりである。サンクティス設計による有名な階段を昇りトリニタ・ディ・モンティ教会へ。


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地下鉄のフラミニオ駅そばで夕食をとりトラムに乗ってサッカー・スタジアムへ。約20分ほど。

ローマ対レッジーナの試合は3対0でローマの勝ちであった。

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フェリーは朝7時に定刻通りアンコーナの港に到着。
アンコーナ情報は全くなく少し不安であった。港から駅までの距離、所要時間もよく分からない。
タクシーで駅に移動し、7時50分の列車に乗ることができた。
これを逃すと次の列車は12時頃になってしまうのだ。

ローマに12時少し前に無事到着。宿に荷物を置いて市街へ出る。
あいにくの雨となった。
テルミニで遅めの昼食をとり、息子は初めてなのでまずは大雑把に街を見て歩くことにした。
ヴェネチア広場からコルソ通りを歩いてコロンナ広場へ。
ここで翌日(土曜日)のサッカーの試合のチケットを購入。
歩いてパンテオンまで行き近くの、サン・ルイージ・デイ・フラチェージ教会でカラヴァッジョの傑作3点連作を見る。やっぱり何度見ても素晴らしい。
次に国立アルテンプス宮で彫刻を見る。(ルドヴィシの玉座のあるところ)
ナボナ広場に出て、広場に面したサンタ・ニェーゼ・イン・アゴーネ教会に入る。
ここは初めて内部を見る。
次にバスでコロッセオに行き、外観をながめる。
最後にテルミニ駅のスーパーで買い物をして宿に戻る。
今回は前回とダブるので写真は少なめです。

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アンコーナの港

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ローマ再訪。

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コロンナ広場にある、サッカーチームローマのチケット売り場。

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パンテオン、天窓から雨が降っていた。

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国立アルテンプス宮

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サンタ・ニェーゼ・イン・アゴーネ教会
早朝、まずスプリットの北5km、市街からもほど近いソリン(solin)、かつてサロナと呼ばれた遺跡に行く。
ここはローマ帝国ダルマチア(バルカン半島西岸地域)の州都であったところである。
ジュリアス・シーザーの時代ここはローマに組み入れられたのである。

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向こうに見えるのはスプリット市街。

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向こうに見える山と遺跡の関係から、ローマ人が都市を建設する場所のパターンが分かるような気がする。

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サロナ遺跡の後、以下スプリット考古学博物館へ。
ここはクロアチアで最も古い博物館で1820年の開館である。
他のミュージアムにも言えることでかつ特筆すべきと思うのはここスプリットのmuseum はどこも古い建物と新しい内装のバランスが大変良い。クロアチアの中でも頭抜けて洗練されているように感じる。多分理由はあるはずだが現時点の私には分からない。

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穴空きのサンダイヤル。初めて見ます。

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ここからまた宮殿内に戻り散策。

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前庭のドーム。

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20世紀のスプリットの人々。
ここからは宮殿内にある民俗学博物館。ここも内装、展示ともレヴェルが高い。

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こういうのを見せられるとバルカン半島に限らずいかにオスマントルコの影響がヨーロッパに強くあったかということになると思われる。にもかかわらず現在のヨーロッパの人々はそれを忘れ去りたい過去にしようとしている気もする。
なにせ今やユーロに加われば勝ち組ですもの。
湾岸戦争以降の出来事もそのような文脈で読み直す必要があると思いました。僕個人の感想ですが。

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これは特別展。最近アドリア海で発見された青銅のアポロを修復した記念展。その様子が詳しくドキュメントされていた。

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僕は歴史学の専門家ではないが、歴史とは固定化されたものではなくて今の発見から(あるいは未来の新たな知見から)常に更新されるべき世界だと考えると、とても魅力的な学問だと思えます。

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海底に沈んでいたアポロ。

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ここからまた宮殿内散策。

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城壁

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港。

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ここからアンコーナへ向かうフェリーの船上。

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9時にスプリットを出航。

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今日は僕の51回目の誕生日。僕の知らない間に妻と長男が用意してくれたプレゼント。

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モバイルのサンダイヤル!
これは私がいかに方向音痴であるかを示しています。
また東京にいる次男からもうれしいお祝いの言葉をもらいました。
本当に有難いことだと思います。
しかし、この年齢になって(情けないことに僕は)誕生日というのは人から祝ってもらったりする日ではなく、自分を生み育ててくれた両親に感謝すべき日なのだと「やっと」実感するようになりました。
今日はプリトヴィッツェから南下し、クロアチア第二の都市スプリットへ向かう。
バスは予定を30分遅れてやってきた。結局1時間程待たされる。10時15分に出発。
バスは西南に向かいアドリア海の港町ザダールに出た後、湾岸沿いに南下していく。
途中の景色は大変美しい。やはり世界遺産でもある、美しいシーベニックの港も通り過ぎる。
このあたりは世界で最も美しい海岸としてバーナード・ショーやヒッチコックなどが誉め讃えていることでも知られる。
冬の気候から一転して再び夏に戻る。
予定より1時間遅れて4時にスプリットに到着。

港町スプリットの旧市街は、かつてのローマ皇帝ディオクレティアヌス(ローマ帝政後期)が隠居するために作った宮殿が中世以降そのまま街となったところで、城壁に囲まれ内側は215メートルから180メートルのこじんまりとした空間である。(その成り立ちのユニークさから世界遺産となった)

私たちは着いてすぐにこの街が気に入った。

理由はこの街のベースがキリスト教以降ではなく、それよりも以前にある点だと思う。

ローマ時代の遺構はかなり破壊され、あるいはかなりの部分が中世以降の建築物に覆われているものの、古代の雰囲気が充分残っていることによる。

クロアチアの一都市というよりもあきらかに地中海のギリシア人による植民都市的な印象が強く感じられる。

むしろ地形、自然ともにトルコの西南岸、ギリシアのポリスを彷彿とさせる。

宿は旧市街つまり宮殿内にあったので荷物を置き、早速迷路のような宮殿内を散策。

大聖堂(ディオクレティアヌスの霊廟)、宮殿の地下(イスタンブールの地下宮殿ほどではないにせよ、ここもかなりの規模でありしかもしっかり残っている。)、その後夜の9時まで開いている市立博物館へ。


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プリトヴィッツェ、バス停そば。


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やっぱりこの風景はギリシア、トルコを思い出させます。


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ここからスプリット。


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ディオクレティアヌスの宮殿


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地下宮殿の一部。ショップになっている。


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宮殿復元図。約1700年前


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以下地下宮殿


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大聖堂(ディオクレティアヌスの霊廟)と鐘楼。


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鐘楼の鐘


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鐘楼からの眺め


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大聖堂内にある宝物庫


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大聖堂内部は素晴らしい構造体であるが撮影不許可なので天井のみ。


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礼拝室天井


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ここから宮殿内にある市立博物館


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宮殿、城壁


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港。


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朝6時、バスセンター発のバスでプリトヴィッツェ国立公園へ。途中、ミニバスへの乗り換え等があり、当初3時間と聞いていたが結局4~5時間を要する。
ここクロアチアは交通事情に関しては正直に言ってかなり劣悪である。まず鉄道があまり発達しておらずしかも貨物がメインなので普通の旅客便が大変少ない。その点はトルコ、ギリシアと同様であるが、替わりに長距離バス網が発達しているのに比してクロアチアは全く貧弱であり、またそのルートは大変分かりにくい。
例えばプリトヴェッツェに行くにしても観光地(世界遺産)にもかかわらず、リエカからは朝6時のバス一本しかない。そんなはずはないだろう、乗り換え等を含めれば、本当はあるはずだと思いバスセンターやインフォメーションでもさんざん調べたり聞いたりしたがどうやらやっぱり一本しかないようなのだ。

10数年前のユーゴスラヴィアからの独立戦争の影響がまだ残っているせいなのかよくは分からない。


今回行くプリトヴィッツェもその戦場となった世界遺産であり危機リストにも加えられていた。途中、廃墟になった住宅がいまだに痛々しく残っている。

この国立自然公園は約400メートルの高低差の中に(階段状に)大小16の湖があり、それらを92カ所の滝が結んでいるのだ。途中、ボートとエコロジーバスを利用するが約7時間のハイキングである。

ここはバルカン半島の内陸部に位置するため、いきなり気温は10度以下となった。日本で言えば12月の気候、時折雨がぱらぱらと降るあいにくの天気であったものの湖は大変美しく変化に富み見応えがあった。

湖のそばのムキエネ村の宿に泊まる。

夕食には大きな川魚が出た。


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内戦の傷跡


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町に出てバスセンターとフェリー会社に行き切符を購入。

終日、明日からの旅の支度。

息子のリエカでの滞在もこの日で最後となる。 


終日、次の旅の準備に追われる。
息子は一人でクルック島へ。

ここではいつも「旅の準備」と簡単に書いているものの実際は、宿やバス、列車、フェリー、飛行機などの予約や確認作業はとても煩雑で手間がかかる。しかも日本国内と異なりほとんどが英語でやりとりしなければならずそれも面倒である。
この作業は僕は信用されてないので普段は妻がやってくれている。

今回、当初決めていたクロアチアのスプリット〜アンコーナ(イタリア)のルートをソボルさん達の強い勧めもあって今週になってドブロブニク〜バーリに変更したのだった。それにあわせて宿の予定もキャンセルし新たに探すという作業も行う必要が生じた。
その作業を今日やっていて、ほぼ終わった段階になって、僕らが予定していた日に限りフェリーが運行していないことに妻が気づいたのだった。(もし気づかないままで出発していたらどんなことになっていたか考えただけでぞっとします)
それから大慌てで対策を講じることになった。例えば日程を一日ずらすとか、フェリーをあきらめて飛行機の便を探すとか。こうなると時間的にメールでは間に合わなくなり直接電話するしかない。またその変化にあわせて宿の予約とキャンセルを再々度やり直さねばならない。
そんなこんなで半日が潰れてしまった。


8時頃帰って来た息子とともに近所にある名物レストラン(我々も行くのは初めてである)に行って夕食。
終日調べもの、資料の整理、読書。 
夜、インターネットで吉本隆明さんの昔の講演テープを聴く。約130分。テーマは「思想としての聖書」。
吉本さんの声を聞くのも始めてだったし、話し言葉を目を閉じて聞くという経験も久しぶりで大変新鮮であった。

次にここを発つのは16日の予定である。
プリトヴィッツェ国立公園に行きクロアチアを南下しフェリーでアドリア海を渡る予定である。古代のギリシア人やローマ人のつもりになってみたいのだ。

ヴェネツィアで壊してしまったカメラの代わり(これまで使っていたものと全く同じ機種。ヨーロッパでは手に入らない)を東京にいる大田君に頼んでいたのだが、今日無事に到着した。16日の出発までに間に合うかどうかヒヤヒヤだったがなんとか間に合った。
大田君は何かトラブルがあるといつも迅速に軽やかに対応して助けてくれる。彼は私たちの旅を見守る守護天使の一人である。天使は子供とは限らないのだ。ヴィム・ヴェンダースの映画に出て来るブルーノ・ガンツやピーター・フォークの例もあるように。
終日調べもの、次の旅の準備。
息子は一人でポレチュへ。

恩師からメールでカメラ事故お見舞い(+励まし)をいただいたのだが、同時にリンツでショーダさんに会った折、(今回、旅で)行けなかった展覧会の記録写真をもらった。
こちらリエカに戻りゆっくり拝見させてもらっている。
とにかく強烈なインパクトを受けている。
展覧会会場の記録写真でしかないので肝心のディテールは見ることができない。(多分今日可能な印刷技術をここまで使い倒しているものはないのだろうと推測はできるけれども)
しかしこれを見ていると何か「僕は今ここでこんなことしていていいのか?」と妙に落ち着かなくなってくる。
しかし当然、今更引き返す訳にはいかない場所にいて「いやとにかく色々考えるのはこの旅を全うさせてからだ」とも思うのだが、正直気持ちが乱れるというか何と言うか...。
結論としては「今やれることをもっと徹底的にやらねばならない」ということになったのだが。
...支離滅裂なようですが分かってもらえる人には分かってもらえると思います。
多分これを現場で見た人(デザイナーや先生の教え子)の多くは僕と同じように感じたのではないかと想像する。
旅半ばにしてここには書けないが年相応にそれなりに悩み、のたうっている自分には、言葉をこえた強烈なカンフル剤となった。
しかしこのカンフル剤は取り扱いに注意が必要です。
だってこれだけの集積をいきなり見せられたら上空2000メートルを飛んでる飛行機を見上げるようにリアリティがなくなってしまうから。
先生もこれらを日々こつこつと積み上げてきたのだと思うことにしよう。
自分は地面の上をただ歩くしかないスピードだったとしても。

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それにしてもこのオブジェはどう見えるのだろう?現物を見たいものです。
昨日のうどんパーティーの後、ソボルさんが明日是非連れて行きたいところがあると言って来た。行き先は言わなかったがとにかく翌日朝、迎えに来たので黙ってついていった。
連れて行ってくれた先はリエカの町の中心地にあるビルの一階である。隣はセルビアの大使館であった。
ここは新しくできる曼荼羅文化センターであった。ソボルさんは「私たちのドージョー」と言っていた。日本でいえばいわばお寺ができたということだ。この十数年、ソボルさんが真言密教の修業を始めて、最も望んでいたのは拠点であるこのお寺をつくることであったのではないかと推測する。
ここはリエカの市長のバックアップもあり、借りることができたのだそうだ。
とても広い空間である。
この空間をこれから2〜3年かけて修業の場所に作っていくらしい。これも全てソボルさん達の手弁当で行われるという。
「おめでとうございます」というととてもうれしそうにうなずいていた。おそらくヨーロッパ最大の真言密教の拠点になるのだろうと思う。

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その後息子と妻はオパティアへ。
僕は自宅で調べもの。

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今日は日頃お世話になっているソボルさんマイーダさん夫婦とその両親(我が家の大家さん)であるダリンカさん、ユーリッチさんを招待してお昼の食事会(3時頃だが)を開く。
ソボルさんがこのところ忙しいらしくこの時間となった。
メニューはソボルさんが好きだといううどんと寿司である。
まず朝早く妻と慧(息子)はバスで町の市場に行って新鮮な魚を探し、その後、僕と息子でスーパーマーケットに酒の買い出しなどに行く。

日本では何の問題もない簡単な料理でもいざここでやるとなると種々細かい問題が発生しそれなりに大変である。(妻はこの夏帰国したおりそれなりの食材を買って来てくれたのだが)前にも書いたが水の味の違いや、お米の違い、魚の匂いや新鮮度、みりんや酢等の調味料、すべてにわたって日本との微妙な違いがどうしても気になる。日本では当たり前のことが実行できないと何か重大な問題のように感じるのだ。

結局はソボルさん達はそもそも日本に来たことがないのだし、その違いはどっちみちわからないのだからあまり気にするのはやめようという(アバウトな)結論に達したのだが。


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市場


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マーケットに行く途中


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歩いて30分くらいのところにあるマーケット。


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ユーリッチさんは実は大型船の設計者でユーゴスラビア時代、しょっちゅうロシアに行って船を造る仕事をしていたらしい。ソボルさんは前にも書いたがプラハのロシアンスクールの卒業だし、僕がリシツキーの研究をしていることを知っているマイーダさんはあなた達はまるでロシアン・マフィア、KGBねと冗談を言っていた。それならば僕の弟の方が筋金入りだという話にもなった。(弟はロシアー日本史が専門で嫁さんがロシア人なので)マイーダさん驚いていた。


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ダリンカさんは寡黙な人なのだが(私たちがお互いしゃべれないからかもしれないが)とてもしっかりしたお母さんという印象。夫のユーリッチさんはのんびりしたというか、とても大らかな優しい(何と形容したらいいのかわからないのだが)人で何とも言えない素晴らしい人柄を醸し出す。

いろいろ話を聞けたのだけど、私たちが住んでるこの家について。

2〜30年前ここトルサットは人が住んでなくて馬が放牧されていたようなところだったらしい。(今は高級住宅地になっているけれども)そのころここに土地を買ってユーリッチ夫妻は自分たちの家具製作をする工房を作ったのだと。

それが今私たちの住んでいる家の一階部分であったと。この家もそれから少しずつ手作りで現在の三階建てのものになったということが分かった。基本的には手作りなのである。

以前話したユーリッチさんの船もそうだが、実はどんなすごいデザインにもまして彼らのそのような自分たちの環境を手作りで作っていく感覚に僕は強い影響というか感銘を受けているように思う。日本でもそのような人は何人か知っているが、社会全体からみれば本当に廃れてしまっている。

ここクロアチアは社会システムからいえばいろいろ問題もあって、住んでいると不満も沢山あるのだけれど、自分の住む家は自分で作るの当たり前という感覚とそれを金と他人に迷うことなく任せるという感覚の違いは大きいですね。

モノツクリの人間としてはこのことは深く考えさせられます。






9月5日のリンツで登場した武藤君のホームページの紹介を失念していました。興味のある方は参照下さい。

http://mutoh.imrf.or.jp/


朝から荷物の整理、壊れたカメラからのデータ救出、メールの送信、たまったブログの更新等で一日過ごす。


息子はこれから一週間程ここに滞在する予定である。

今日は妻と近所のトルサット城や街を散策に出た。


我が家にはもう一人息子がいるのだが、昨年の夏からプロ棋士になったのでお兄ちゃんよりも早く社会人になっている。

私たち親にとって全く未知の世界にいる。

今回の旅も短期間でも来るか?と誘ってはみたものの、全く関心を示さず、またそれどころじゃないということで来ない。

ちょうど今回私たちが旅している同時期には、中国の杭州という所に行って碁を打っている。

滞在期間中、9日間朝から晩まで囲碁を打ち、一日だけ観光日があるそうな。


私も妻も囲碁はほとんどわからない。

この夏妻が一時帰国したおり、クロアチアで暇なおり二人で囲碁の勉強をしようと簡便な囲碁盤を持って来てくれた。

やる時間があるかどうかわからないけれども。

朝7時57分の列車でリエカへ向かう。約10時間の行程である。
バスもありそちらのほうが早いのだが月曜日にはその便がないのだ。
列車の出発駅を僕が勘違いし、地下鉄の電車の中で気がついて慌てる。
なんとか出発8分前にたどり着く。
実際走ったのだが本当に冷や汗ものだった。

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ヨーゼフ・シュトラッセ駅前の公共自転車

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日本の新幹線ならば2〜3時間で着きそうな距離だが列車は緑の中をとろとろと走る。

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夕方、無事リエカ到着。

二日目。
時間があまりないのでつい欲張りな旅になる。(いつものことか。)
今日も息子を引き連れ街を駆け巡る。
結局先にバテてしまったのは僕の方でした。

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朝トラムでリングへ。フォルクス公園を歩いて新王宮へ。

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新王宮

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国立オペラ座の横を通ってケルントナー通りを歩く。

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シュテファン寺院へ

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日曜朝のミサの時刻なので奥には入れず。

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シュテファン寺院斜め向かいにあるハンス・ホライン設計の「ハース・ハウス」を見学。
ホラインは(写真を取り損ねたが)「シューリン宝石店」という小さな店舗も見た。
ハンス・ホラインは学生時代から好きな建築家であった。

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ペーター教会

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内部。ヴィヴァルディが鳴り響いていた。やはり音楽の都である。

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アドルフ・ロース設計、ロースハウス。現代建築のエポックとなったもの。
建てられた当初のスキャンダルが信じられない程周りの街並にとけ込んでいる。

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再びフォルクス公園に戻る。
この日は街のお祭りらしくとても賑やかなイヴェントがあちこちで行われていた。

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公園のイヴェントは見るからに楽しそうだったが、誘惑に負けず最初の予定通り自然史博物館へ。
期待通りの素晴らしい博物館である。
息子の携帯電話カメラで激写(?)してもらった。

彼は私が何を撮りたいか理解しているのでディレクターとカメラマンは阿吽の関係です。「見る」だけに専念することがこんなに楽なんて。


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カメレオン・プロジェクト・メンバーに捧ぐ-1


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ここにある一連のオーム貝の化石の美しさには息をのんだ。


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この博物館がすごいのはこの再現実証映像(一万年前の石像を一万年前の技術で再現する)である。

説得力満点である。


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ドイツとはまた異なった模型のセンスである。


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カメレオン・プロジェクト・メンバーに捧ぐ-2

http://chameleon.musabi.ac.jp/


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博物館でお茶休憩の後、シェーンブルン宮殿へ。室内を見た後公園を散策。


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宮殿内にある温室。ロンドンのキューガーデンに匹敵する。


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ここで博物館での激写がたたって(?)息子の携帯の充電がきれる。

このあとトラムで産業技術博物館へ向かう。閉館まで一時間ちょっと前。僕は疲れ果て入館しなかったが息子は入館する。僕はエントランスでメモなどをとる。博物館から出て来た息子が興奮した面持ちで「お父さん、ここ見なきゃ駄目だよ!」とその素晴らしさをまくしたてる。

またウイーンには来るのでその時再訪しようと思う。

一旦ホテルに戻り20分程携帯の充電をし、地下鉄で5駅程離れているフンダートヴァッサーの「ゴミ焼却場」へ向かう。



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焼却場隣りの建物


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夜遅くお店も開いてないのでケバブ屋でサンドウイッチなどを買ってホテルで夕食。

夜大雨。暑い一日だった。


しかし、ウイーンという街は見るべきものが目白押しです。
ここは旅全体の中でも重要中継地点の一つなのでまた来ることになるだろう。
午前中にリンツから列車で向かう。この旅二度目のウイーンである。
前回滞在した地下鉄ヨーゼフ・シュトラッセの近くの同じホテルなので交通に関しては心配がない。
荷物を置いてトラムでリングへ。
息子は美術史美術館に行き、僕はミュージアムクオーターという美術館複合施設の中のMUMOKルードヴィヒ財団近代美術館へ。(常設展シュレンマー、ナギ、カンディンスキー、モンドリアン、デュシャンとここは近代芸術が大変充実)加えて他の二つの意欲的な特別展「Bad Painting Good Art」「Expand Mind」が行われていた。前半に時間を取られすぎて後半は駆け足となってしまった。

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ヨーゼフシュトラッセ駅そば。

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息子の見たムンカーチ。ティエポロに次いで気に入ったらしい。同じような浮遊感覚。

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美術史美術館

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こちらは僕の行ったMUMOK。写真は不可なのでイメージはないが(そもそもカメラがない)建物も展示も素晴らしい。

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息子と合流しレオポルド美術館へ。ここはエゴンシーレ、クリムト、ココシュカが中心。途中オーストリア19世紀絵画のコーナーがあるがそれはかなり他と比べてレベルが落ちる。

そこに時間をとられすぎて最後のシーレが閉館のため駆け足になってしまったのが大変惜しまれる。圧倒的にシーレは良かった。


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フンダートヴァッサーの建築を見る為にトラムを二本乗り継いで移動。途中郵便局の外観、ドナウ川を見る。


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大田君から「先生は嫌いかもしれませんが(笑)」と紹介してもらったフンダートヴァッサーハウス。特に嫌いじゃありません。むしろなかなか興味深かったです。ウイーンの街におけるコントラストに何とも言えないものがありますね。

異和しているようだけど、逆に最もウイーン的な感じがします。

似ていないけどハンスホラインも同様ですね。


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数分歩いて同じくフンダートヴァッサーのクンストハウスウイーン。

閉館時間だったので中には入れない。

傍で夕食(息子はでかいシュニッツェル、僕はスープとパンとビール)をとり帰宅。


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ここリンツに来たのは欧州で最も伝統のあるアルス・エレクトニカというメディアアートのイヴェントに行く為であり、またそこに今回は1999年度の卒業生、武藤君がコンペ部門で受賞し、作品を展示しているからであった。
出不精の僕はもし8月頃彼からの連絡がなければ行かなかったかもしれないが、彼からのメール連絡を受けて行かずばなるまいと思ったのだった。イタリアの滞在を予定よりも短めに切り上げて息子と二人でリンツに向かった。この後せっかくなのでウイーンに寄る予定である。
以下今日は長い一日です。

朝6時、車掌に「着いたよ。次でおりなさい」と言われ降りたら何と!一つ手前の駅であった。なんということか。

しょうがないのでその駅で顔を洗い、次の列車に乗る。

結局リンツに到着したのは7時過ぎとなった。


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リンツ、ドナウ川


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駅で朝食をすませ、駅から少し遠いホテルに荷物を預ける。ブルックナーハウスでイヴェントを見る為あらかじめ予約しておいたワンデイチケットを発行してもらう。


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コンペティション部門展覧会場で無事武藤君、正田さんと再会。

武藤君は学生時代ムトゥーと呼ばれていた。多分そのころ何故か踊るインド映画がブームだったせいだと思う。この4月にイギリスで会ったユミッペと同級である。現在は国際メディア研究財団の研究員で、科学技術振興機構さきがけの研究者でもある。この夏はロスで行われているシーグラフにも作品が招待され大活躍中である。となりのショーダさんも7年前の卒業生で現在勝井先生の事務所でデザイナーをしている。二人は夫婦であるが僕らは学生のときの名前のままショーダさんと呼んでいる。今回僕がカメラを駄目にしたというとすかさず彼女は「私のを使って下さい」という(彼女のカメラも僕が使っていたのと同機種なのであった)。ここらへんの臨機応変の心使いがさすがです。ありがたくカメラを一日借りることに。

まずはOKセンターという建物でコンペ部門のその他の受賞作品も含めてムトゥーに案内してもらう。


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武藤君の作品。

以前東京で見せてもらったものに比べ格段の改良が加えられ(プロダクツの完成度と、そのオブジェの動きに合わせて外環境の色彩のウオールがアナログで視覚的に変化することを加えて)ぐっと良くなっていました。このレヴェルになるとコンセプト云々はむしろ邪魔(説明的になってしまうの)で作品の完成度のみが問題なのだと実感できました。

とにかく展示物の中でも完成度が図抜けて高いことに安心しました。


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以下入賞したその他の作品。

世界各国からかなりの数のエントリーがあり、その中でも日本人作品が4〜5点はあった。日本勢はかなり頑張っている方だと感じた。ただ大賞作品はデンマーク人だったか、かなり政治色が強いもので、審査はかなり国際的なバランスが配慮されている印象を受けた。国際コンペはそのような性格を持たざるを得ないのかもしれない。

全体を見て大変興味深かったし、思う所あるけれども長くなるので省略します。

ただ誤解を恐れずに言えば視デのライティングスペースの作品もコンセプトレヴェルでいえば全然負けてないなあという印象は持ちました。

問題は多分、教師を含めてこういう場所に出て行く気になるかどうかなのだと思う。そのつもりならば大学の支援体制も含めて考えなければならないことが沢山あるように思った。

ただ僕の興味はコミュニケーションにあってアートではないから。

そこらへんは今回ムトゥーと一日中歩き回りながら、「いったいメディアアートって何なんだ?」を巡って喧々諤々語り合いました。


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ドイツ在住、彫刻家出身の日本人の作品。音を体感する装置。


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これは武藤君の同僚の作品。鳥のコミュニケーションを学習する装置。


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これはかなり面白い。ことばによる説明は難しいけれども。


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デジタル一辺倒ではなくこのようなアナログインタラクティブな作品もある。というかムサビでも実感していることだが、むしろテクノロジー礼賛からアナログ見直しにシフトしているのかも知れない...。


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これは従来のメディアアートの王道のような...。すごくかっこいいのだが、それはインターフェイスがものマニアックな所為でもあって...。


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肘の骨を通してドレスデン大空襲の音をドナウ川で聞くという、かなりコンセプチュアルな作品。僕自身この間ドレスデンに行ってこのブログにも記したけれど、やっぱり戦争の傷跡を感じずにはいられなかったので、この作者の気持ちはよくわかりました。


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この他大賞作品はよく分からなかったので写真を撮り忘れました。(確かこの左奥の作品です)あとアニメーションでかなり素晴らしい作品がありました。


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会場のOKセンター。この近くで4人で昼食。

その後アルスエレクトロニカセンターのビルにある19歳以下のメディアアート作品や歴代のメディアアートの常設展などを見る。


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そろそろ、メディアアートという言葉の再定義が必要な時期なのだろうと思う。


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川沿いにあるレントス美術館に向かう。

常設のクリムト、シーレ、ココシュカの他、写真の歴史をたどる展覧会が行われていた。空間も広く気持ちのよい美術館であった。


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オスカー・ココシュカ。先ほどのOKセンターとは彼の名前からとったものである。多分。


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日本人科学者の宇宙に紙飛行機を飛ばそうというプロジェクト。息子が強く反応。


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その他リンツ芸術大学で行なわれている日本の超有名某国立大学大学院の展示が3フロア借り切りで行われているのを見た。

コメントは遠慮しよう。


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その後4人で古本屋をまわりお茶。


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一旦ホテルに戻りチェックイン。シャワーを浴びて夕方8時に再び街の広場へ。


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夜は国際メディア研究財団をここ20年以上実質的に率いている大野さんも合流して下さり共に食事をする。大野さんには歴代の卒業生が随分お世話になっています。


今回は沢山の刺激を受けました。やっぱり現場には行くものですね。

とにかく何らかの刺激は受けるものです。

普段、出不精がちの自分を反省。

武藤夫婦には一日中お世話になりました。

これからもがんがん頑張って下さい。


ドナウ川沿いを30分ほど息子と歩いてホテルまで帰る。


ヴェネツイアを訪れたのは24年前に次いで二度目だけれども、改めてここの運河と島と空の光、織りなす光景もやはり特別なものだと思わされる。
光景に関してはアイルランド、イギリスもスペシャルだった。そして次に尋ねるつもりのオランダのデルフトがある...。

今日はもう移動の日である。朝、宿を出て荷物を駅に預け、ヴァポレットでジューデッカ島に渡り散策。ここは岡田君の推薦であった。確かにこちら側から見る、対岸の本島の眺めは素晴らしい。僕はカメラがないのでスケッチをする。そして隣のサン・ジョルジョ・マッジョーレ島に渡る。

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ジューデッカ島

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サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の鐘楼からの眺め。

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向こう側がジューデッカ島

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サンマルコ広場の鐘楼

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サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会

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その後サンマルコに渡りサンマルコ寺院を見学。

内部は撮影禁止なので床のタイルのみ。この床を見ただけでも一時期のヴェネツイアがいかに豊かであったかがわかる。


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その後、街をぶらぶら歩きながらサンタルチア駅に向かい、ひとりで一足先にリエカに戻る妻を駅で見送る。

息子と二人で遅めの昼食をとり、アカデミア美術館へ。ここは14~8世紀の北イタリアの絵画が中心である。特にヴェロネーゼ、ティントレット、ティツアーノ、ジョルジョーネなど。息子はジャンバティスタ・ティエポロが気に入ったようである。(撮影不許可なので画像はない)今回のヴェネツイア滞在は出来る限り船に乗りこの島の様子を見ることが主眼なので基本的には美術館はここだけであった。


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この間いろんな美術館でカナレットを随分見たせいか、現実の風景からカナレットの絵を思わず想起してしまいます。


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町中の現代美術のギャラリー


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その後サンマルコ広場のカフェで一時間ほどお茶。息子の数学における抽象的な美と表象された美との関係に関する小難しい質問をめぐり会話をする。

話をしながら直接は関係ないのだけれど、「そういえばどうしてここにあの偉大な人文主義者アルダス・マヌティウスの博物館がないのだろうか?」と考えた。

ヴェネツイアの人たちはある意味グーテンベルクよりも偉大ともいいうるこの同国人を忘却したのだろうか?まさか。

多分僕が知らないだけなのだろう。どなたか知っている方がいたら教えていただきたいものだ。

ここには冬にもう一度来るつもりなので。


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再び夕暮れの中ジューデッカ運河をわたりサンルチア駅に戻る。

7時から30分程のクルージングであった。

陽がほとんど落ち光がグレーに染まる残照の中、ジューデッカ運河の中央あたりを波を切って進む船。

運河と両サイドに島影を見ながらドラマチックに変容する空、そして空間全体の色彩を見る(体感する)という、まことに言葉にもならない至福の視覚体験であった。


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私たちは8時半の夜行列車でオーストリアのリンツに向かう。

以下携帯電話のカメラで息子が撮影したもの(解像度は悪いが何とか撮れていた)。

午前中、ヴァポレット(水上バス)でリド島に行く。最初各駅停車だったので小一時間かかる。しかし大小の運河、島の様子、観光客や島の住人など見ていると飽きることはない。


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ヴァポレット乗り場


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リド島へ


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リドに着いた後陸上のバスでヴェネツィア映画祭の会場に移動。写真は会場受付、切符売り場。

見れる映画には上映時間の関係などから限られたものになってしまった。

もちろん僕が見たかったのは「崖の上のポニョ」であったが上映はされていなかった。

息子は宮崎駿も押井守も既に日本で見たと言っていたが。


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本会場正面


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赤い絨毯に金のライオンのディスプレイ


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ポスター


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ヴィスコンティのあの映画で有名な砂浜。


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付近を散策したあと映画祭の為に設営された大型テントで午後の上映を観る。

ロシア映画の「paper soldier」監督はアレクセイ・ゲルマンJr.。映画はロシア語で、大きな字幕がイタリア語、画面外の下に小さな字幕で英語という環境なので良くは理解できなかったが、あまり好きな映画ではなかった。昔のタルコフスキー的な芸術映画を少し気取りすぎているような印象を受けた。もっとシンプルでもいいのにやたらとカメラのフレームが凝りすぎていて監督の「僕は芸術家です」的な気持ちがうるさい印象。(昔は僕もタルコフスキーは大好きだったのだが最近はどうも枯れて来たせいかもしれない)

例えばウエス・アンダーソンの映画は言葉が仮に全然わからなくても面白いじゃないですか。そういった映画ならではの上手さというのが感じられなくて。言葉、言葉、言葉ばかりで映画的ではなくて文学的。

しかし後でこれが銀獅子賞を受賞したことを知る。

うーん。少し納得できないなあ。

そう、後で改めて考えたのは要するに「タルコフスキーを今やる古くささへの違和感」だったのだ。

勝手な印象ですいません。


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その後一旦サンマルコ広場へ戻り、船を乗り換えてムラーノ島へ。

ここはガラスで有名なところである。


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宿の近くにある中華料理屋で食事。


リエカに戻った後確認したら9月2日分までのカメラのメモリカードのデータは生きていたので以下写真をアップします。 

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ブレラ絵画館(ミラノ)にて

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ミラノ北駅外観

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ホテル傍

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ここからヴェネツイア

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鐘楼からの眺め

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右手に鐘楼、正面がサン・マルコ寺院

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サン・マルコ広場

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この空間についてエドワード・ホールが「隠れた次元」で言及しているのを思い出しつつ。

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夜(息子の携帯写真より)



ミラノからヴェネツィアへ移動する日。

午前中にトラムでブレラ絵画館へ向かう。ここはミラノで最も大きな絵画美術館である。北イタリアのルネッサンス初期のものから18世紀のものまで。

マンテーニャの「死せるキリスト」は有名な絵であるけれど実物を見るまではそれ程とは思っていなかった。その他ベッリーニ、ティントレット、ヴェロネーゼ、ピエロ・デラ・フランチェスカ、ラファエロ、そしてカラヴァッジョもあった。なかなか見応えあります。大学(アカデミア)と併設しているらしく、同じ建物の中にアトリエや教室が見えた。建物の中のカフェで休憩。

その後歩いて街を散策しながらミラノ中央駅まで戻り13時55分の列車でヴェネツィアへ。16時15分ヴェネツィア、サンタ・ルチア駅到着。宿は駅の近くローマ広場の近くなのでまず荷物を置いて街の散策に繰り出す。

今回私たちの滞在はちょうど、ヴェネツィア映画祭とぶつかったわけだが、これは始めから意図していたわけではない。全くの偶然である。ミラノでテレビをたまたま見ていると、宮崎駿さんと「崖の上のポニョ」の映像が結構長く映っていたので「これは何事か」と思い「あー。今やっているのか」と気づいた次第である。もちろん、ヴェネツィア映画祭が行われていることや、宮崎さんや押井守、北野武の映画がエントリーされているという一般情報は知っていたのだが、それが自分の旅と関係するなんて考えもしていなかったのだ。宿が異常に高く、かつ予約がとりにくかった理由が今更ながらわかった。(分かっていたらここは避けたかもしれません)

映画祭の拠点はリド島なのでヴェネツイア本島の町中が映画祭一色とは全然なっていない。フェスティバルに関連した上映をやっている映画館は探してみたが本島では一カ所だけであった。


ローマ広場からリアルト橋、サンマルコ広場まで迷路のような街を歩き、ちょうどサンマルコ広場で夕日が落ちる時間帯に鐘楼にのぼり、夕暮れるラグーナとヴェネツィアの街を小一時間程眺める。途中頭上で鐘が鳴りだした。(結構うるさい)

サンマルク広場ではカフェ専属のミュージシャンたちが映画祭に合わせてか映画音楽を演奏していた。

その後サンマルク広場とリアルト橋の間で食事をし、暗くなった街(9時くらい)を歩いて帰る途中、道に迷った。まあ街自体が迷路みたいなものなので三人で行ったり来たりしていて行き止まりに来た。

その後ちょっとしたアクシデントに見舞われた。(詳細省く)...それでカメラが水浸しになってしまったのだった。(事件に遭遇したとかではないので心配しないで下さい)


ということでこの日一日撮影した画像が全て駄目になるとともに明日から写真が撮れなくなってしまった。これは僕にとって大変大きな痛手である。今回、妻はカメラをリエカに置いて来ているので代わりもない。代わりにあるのは息子の携帯(!)のカメラのみである。


ということもあり、これ以降の交信はリエカに戻った後数日後になりそうです。


※※※※

上記は9月3日に書いた日記である。で今このブログを更新しているのは9月6日、ウイーンにいます。この間ヴェネツイア、リンツと滞在してきたがネット環境が悪いので更新が遅れました。

また上記の深刻な理由で写真がないので9月3日以降の日記はリエカに戻って更新します。


とにかく私たちのような旅行者にとって日曜日と月曜日をその旅程の中にどのように入れるかが大変重要なポイントとなる。

言うまでもなく月曜日はどの美術館も休みとなるからであるし、日曜日はお店が休みだったり、早く閉まったりするので要注意なのだ。

昨日のダ・ヴィンチ記念博物館閉館ショックが癒えないまま、今日は月曜日なので私たちは街歩きをするしかない。トラムでガッレリアに行きここのインフォメーションでいくつかのことを確認。

オペラではないが本日スカラ座である公演のチケットが手に入るかもしれないと期待して切符売り場に行くも今日はこの秋シーズンの初日とあって満席。やっぱり駄目だった。

どうも時期が悪いのか全てにわたってタイミングが悪すぎる。


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ガッレリア


気を取り直しつつ、とりあえず最初の予定地ドゥオーモへ向かう。これはゴシック建築の傑作である。恐らく長い時間をかけて修復をしたのだろう、大体どこにでもあるようなゴシック建築独特の黒ずみがきれいに取り去られている。元の大理石の色が戻り輝かしいまでに白い建造物に生まれ変わっていた。エレベーターで屋上に行けるのだがこれは結構スペシャルな視覚体験ができる。


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以下ドゥオーモ


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地下宝物庫


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屋上の手前


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屋上


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ドゥオーモ、正面ディテール


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その後トラムを何本かはしごし、街を散策。結構暑い。


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王宮

ガッレリアのそばで遅めの昼食をとり唯一開いているギャラリーのある王宮へ行く。

ここは特別展が行われていて最初、最後の晩餐に関する映像が上映されていると聞いても全然期待していなかった。

すると何とその展示はピーター・グリーナウェイによる映像インスタレーションだったのである。

王宮はこの街のかつての統治者ヴィスコンティ家の館で大変広大である。

そのインスタレーションとは王宮の中の大きな部屋に立体的にサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の「最後の晩餐」の部屋が原寸で再現され、空間の中央に最後の晩餐のテーブルが原寸で(立体的に、多分石膏で)再現されている。(そのディテールとサイズがなかなか興味深いのだが)観客はこのテーブルのまわりに立って見ることになる。映像は主に最後の晩餐の画面部分とその反対側壁面に投影され、部屋のライティングが映像とシンクロして変化する。約30分弱の上映である。

これが大変に素晴らしく驚いた。一つは高精細のダヴィンチの最後の晩餐が完全に3次元化され、そこ(最後の晩餐の画面上の空間)で自在に様々な光が変化するのだ。例えば昼間からだんだん夜に変わっていくように。またその光が画面こちら側の現実空間にも同時に投影される仕掛けだ。

そして同時に反対側の壁には(最初はダ・ヴィンチのその他の絵も投影されるのだが特筆されるべきは)最後の晩餐をマクロ撮影した高解像度画像が流れるのである。絶対肉眼では見ることのできないディテールが画面を舐めるように見れるのである。(よくこんな撮影を許可したものだ)

音楽はいつもグリーナウェイとコンビを組んでいるマイケル・ナイマンではなかったがとても良かった。


見終わった後は少し呆然とする。グリーナウェイらしい灰汁の強さと実験的な遊び心が横溢している。

このインスタレーションを経験するために今回のミラノ旅行はあったのかもしれないと少し思った。


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インスタレーションパンフレット


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昨日のレオナルド博物館休館ショックを引きずり、このような本を購入。


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ここミラノに来たのは「レオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学技術博物館」を訪ねる為であった。今回一緒に旅する息子の興味が、どちらかといえば理科系なのでこの博物館ならば良かろうと思い、随分以前から合流地点としてわざわざここミラノを選んだのであった。

ここで一日過ごすつもりで行ってみるとなんとこの3ヶ月、館内システム改変の為に休館中なのであった!!(そんなこと想像だにしていなかった)。

9月16日から再会すると言われても...。

これにはこの旅の早々、絵に描いたように出鼻を挫かれた私たちであった。


...考えてみればそもそも10日程前リエカから電話でサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に電話し「最後の晩餐」見学の予約を入れた時、既に予約が一杯で駄目だった時から暗雲が立ち籠めていたのかもしれない。

「最後の晩餐」に関しては実は別にどうしても見たいとは思っていなかったので「しょうがねえなあ。」くらいで済ませていたのだが。

こっちの博物館がだめだったことはかなりショックであった。


やむを得ず、その日一日いろいろうろつき回りましたが最初のこの失望はなかなか晴れませんでした。


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レオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学技術博物館前。おかしいのはわざわざ切符売り場までは開いていて、来た人にいちいち閉館の説明をしていることだ。


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サンタン・ブロージョ聖堂


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文字の入ったグラス。市立考古学博物館


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市立考古学博物館


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ミラノの最も古い城壁の一部が市立考古学博物館となっており、その中に上記のような遺構がある。


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旧ミラノ城壁模型、左上アクリルの直方体が上の遺構です。


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アンブロジアーナ絵画館の中庭。ここは撮影禁止なので以下の画像はイメージです。これらの他にも小品ながらボッティッチェルリの色彩の大変美しい作品やラファエロの「アテネの学堂のデッサン」があった。これはバチカンのタブローの原寸大デッサンである。このデッサンの為に大きな薄暗い部屋が用意されている。さすがのラファエロ嫌い?の僕もこのデッサンには感動しました。これは大変素晴らしいと思いました。


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ダ・ヴィンチ「音楽家」


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カラヴァッジョ「果物籠」


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レオナルド像


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ヴィットリオ・エマヌエーレ二世のガッレリアに一旦戻る。


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以下スフォルツァ城市立博物館


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ミケランジェロの遺作「ロンダーニのピエタ」


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中庭


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天球儀


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地球儀


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ドレスデンの城と同様、王様の為のウンダーカマー(の部屋)があり秘宝(?)的なものがここにも沢山あった。


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博物館の窓から


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11時にマイーダさんの車でバスセンターに送ってもらう。

12時発リエカートリエステ間は珍しく渋滞のため50分遅れて15時着。

15時28分ミラノ行きの列車に乗る。ミラノ北駅20時50分。約5時間半。

ホテルは駅の傍である。

東京からやってきた妻と息子は既に到着しており無事合流する。


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ミラノ北駅、夜。


荷造りと部屋の片付け、大掃除に追われる。

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リエカ残照。日本は大雨だと聞いた。
30日から次の移動が始まるのでその準備に追われる。
街のバスセンターでチケットを購入したり、ついでに食料品の買い出しなど。

気持ち的には夏はもう終わっているのだけれど、街に出るとまだまだ暑い。日本でもそうだがこの気持ちと現実のギャップというのは結構こたえるものだ。残暑お見舞いとは本当に良く言ったものだと思う。
まあ、しかしそのうちこの暑さが恋しくなったりするのかもしれないが...。

次の旅はミラノーヴェネツィアーリンツーウイーンーリエカーザグレブーリエカープリトヴェッツェースプリットーアンコーナーローマーベルギーーオランダーリエカというこれまでにない変則行程である。約1ヶ月。
そのうち3週間は夏休み中の息子(大学2年生)が合流する。
終日自宅で過ごす。たまっていたブログの更新など。
ここ2〜3日、睡眠不足である。3〜4時間寝ると目が覚める。自覚はないのだけど何か緊張しているのかもしれない。
8月はこちらに戻って来て以降充電期間にあてた。そろそろ後半の旅が始まる。
何となく無意識の中で緊張が高まっているのかもしれない。

サンシンはいつも人の顔を見たら食べ物を要求する。かなりの量のキャットフードをやっているのに、ちょっとおかしいと思い観察していると彼女の餌を近所の猫が横取りしているのが分かった。サンシンはマイーダさんによればかなりの年でそいつを排除できないでいるのだった。
彼女が食べ終わるまで横でガードする仕事が増えた。もう一心同体の関係である。
ダリンカさんは30日まで帰ってこないらしい。

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リエカ早朝。6時頃。
郵便局とバスセンターに用事があったので街に出る。
用事を済ませ、ついでに博物館(正式にはクロアチア沿岸の海洋歴史リエカ博物館)と市美術館へ。
前にも書いたが今まで四度ほど訪ねたにも拘らず全て何らかの理由で閉まっていたところ。博物館は特別展の準備中であったがとりあえず入れた。ここは建物はえらく立派であるが展示内容はお世辞にも良いとは言えない。多々問題あり。多分、人もいないしお金もないという理由だと思われる、
市美術館はクロアチアの約100年前という展覧会で写真で各都市のパノラマを展示していた。
また3階の特別展では第二次大戦末期から戦後にかけてのリエカの歴史を写真、模型、映像で展示していた。ここリエカは4月26日ダヌンツィオのところでも書いたが20世紀前半、列強の中で特異な歴史を経た場所なので興味深いものがあった。

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市美術館

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これは100年前のドブロブニク

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「戦災復元模型」ニュルンベルクの市博物館にもありました。
江戸東京博物館にはあったかなあ?
過去の記憶を世代に渡って繋いでいく事を考えさせられる。それはコミュニケーションデザインにとってとても大事な役割のひとつだと思う。

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今私が住んでいるトルサットです。

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終日自宅で過ごす。

調べものはやり出すときりがない。今回の場合それは大きく三つに分かれる。まずは自分がこれまで行って来た場所、見て来たものなどを対象にそれが何であったかを改めて検証したり確認したりする作業。これはそれこそ途方もない分量があってしかも「きり」というものがない。調べれば調べる程なんというか水が濁るようにさらにいろいろ分からない所も出て来るし。だから今はあまり執着しすぎるのも良くないかと思っている。

もうひとつはこれから訪ねる場所についてのあらかじめの情報集めである。
この二つのパターンしか最初は考えていなかったのだが三つ目が旅の途中から浮かび上がってきた。

それはここクロアチアおよびユーゴスラヴィアの近代デザインについてである。
これは当初ほとんど予期しなかったことだが、ザグレブで偶然「ツェニート」復刻に遭遇したり、ソボルさんマイーダさんがたまたまこちらの美術やデザイン関係者と親しいというのもあって、成り行き上始まったことである。しかしどうしても会話の壁があって興味はあるものの少し腰が引けていたのだ。そもそも日本語でさえ僕は知らない人といきなり話をするのがすこぶる苦手である。
しかしソボルさんやマイーダさんがそんなこと気にするなとしきりに言うので、重い腰がすこし持ち上がったところ。
どうなるか分からないが9月にはザグレブを再訪することにした。

ウォーミングアップを兼ねて久々の散歩に出る。
全く無目的で。丘を降りて海へ。 

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海岸ではまだまだ夏が頑張っています。

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ここで5月7日にこの奥にある廃墟にソボルさんに連れて行ってもらった時、電池切れで写真が撮れなかったことを思い出す。

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第二次大戦中、このコンクリートの中に兵士が入れられて鉄砲を撃っていたという。

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何日か前に東京の大田君からメールでノイラート展一周年記念パーティーをするので先生スカイプで交信して下さいという連絡があった。ノイラート展に関しては以下を参照して下さい。

http://www.otakio.net/neurath/

http://www.vcd.musabi.ac.jp/%7Ekurokawa/070910_neurath/neurath.html

確かに去年はこれで大変な一年だったよなあとか、まだ一年しか経ってないのかとか思いつつ、苦楽を共にした仲間からの要請なので、昼夜逆転して寝不足であったが東京と交信することになった。

こちらは昼の1時。向こうは夜の8時である。もう大分前からパーティーは始まっているらしく酒も入り盛り上がっている様子だ。しかし予期していなかったのはこちらの画像を向こうの教室の大スクリーンに写していたことであった。大田君はそのような段取りに関しては何の連絡もしてくれなかった。こちらには小さなパソコンの小さな画面しか写らない。当然向こうもそうだと思っていたのだ。メンバーたちは私の寝ぼけたでかい顔を見ただけで喜んでいた様子であるがこれはかなり不公平である。まるで地球と交信する宇宙飛行士の孤独というのでしょうか、そんな気分になりました。

しかも何か責任を感じてそこにいる全員と話さなきゃと思いましたが一対多数の会話というのはなかなか難しいものです。つい「○○さん、お元気ですか?会社の仕事慣れましたか?」といったばかな質問しか出てこない。

しかも向こうは酒が入っているのにこちらは素面だし、それがこちらの孤独感を増幅させます。大田君と黒ちゃんはこの企画の思いつき自体に満足したのか話そっちのけで何かもぐもぐ食っているし。

何故か「先生、お休みしないのですか?」と皆、似たような質問を繰り返す。

「いやだから、この旅自体が長いお休みをもらっているようなものだから、お休みのお休みはないのだよ」と答える僕。

「あ、そうなんだ...。」


要するにこのブログを読んで僕の体調のことを心配してくれているのですね。

交信中は恥ずかしくて言えませんでしたが、ありがとう。かなり元気になってきましたよ。後半もがんばっていきます。

皆も僕のでかい顔を画面で拝めたことだし、弱音をはかず社会人がんばりなさい。


話ながら時差というのは距離のことなのだと当たり前の事ながら思った。

時間は空間であるということがリアルである。

谷川俊太郎さんの詩に四千億光年の孤独というのがあるが、僕の場合この日は7時間分の孤独をちょっぴり感じました。

相変わらず家に籠り調べもの、時々ネットでオリンピックを覗く。

この旅以前はインターネットのニュースを読む事などほとんどなかったのだが、今回初めて真剣にネットでオリンピックのニュースをいろいろ読んだ。
が残念ながらどれも中途半端でつまらない。文章も杜撰である。ネット上のニュースのあり方というのはもっと改良されても良いような気がする。(これまた簡単ではなさそうだけど)特に大手新聞社のネットニュースには失望させられることが多かった。まあネットに力を入れすぎると新聞本体が売れなくなるからだろうか。
また、ニュースに対して個人が勝手に意見を書き込んでいるのを読んでいると今度はあまりにも下品すぎて気持ちが悪い。ここには自由を身勝手だと勘違いしている人だらけである。
そのうちスカイプのようにインターネットとテレビが接合すると変わって来るのかもしれない。多分次のオリンピックの頃か。

唯一、今の現状でネットらしくて面白いと感じたのは糸井さんが主催しているネット新聞くらいのものだった。ちょっと変化球かもしれないけれど。やっぱり書籍と同じで情報にはちゃんとした編集とディレクションがなければだめなんだなあと痛感する。(もちろん書籍と同じという意味ではなく、そのメディアならではの)

サンシンとだんだん仲良くなって来た。
彼女も僕が命綱だということが分かって来たらしい。

終日家に籠り、調べもの、データの整理、読書で過ぎていきます。

一昨日の日記で「自炊を楽しんでる」などと軽卒にも書いた罰が当たったかもう大変である。とにかく作るのはまあいいとして後片付けが...。要するに要領が悪いのだと思う。いちいち「さあ、つくるぞ」とか「さあ、かたづけなきゃ」とか意気込まなければ行動を起こせない質なのだ。(普段やってない証拠ですね)これに洗濯や水まきが加わるともう勉強の合間に家事をやってるのか、家事の合間に勉強やってるのか分からなくなって来る。どっちかというと後者。今までは家にいる時、勉強の息抜きに家事のお手伝いをさせてもらっていたということに気づかされる。
カミサンのありがたみを痛感しております。
また昼飯を作っていると(だいたいいつも3時くらいだが)ビールが無性に飲みたくなって来る。監視員がいないことを良い事に、ついつい誘惑に負けてしまう(こともある。)

まるでそれを見透かしたかのごとくえびりんから久しぶりに以下のメールが来た。
「自炊楽しみすぎて大きく育たないようお気を付け下さいませ」

全く女性の洞察力というのはおそろしい。

まあ、こういう日々が今年の僕の夏休みということで...。


終日調べものなど。

マイーダさんに質問したユーゴスラビアのアヴァンギャルドの歴史について興味深い本を教えてもらった。その中のひとつ。Misko Suvakovic"The Impossible Histories"(MITプレス。これまでの私たちの視線の外側にあった東欧、中欧のアヴァンギャルドの今日までの展開。当然単純な「戦後共産主義下、社会主義リアリズム路線になってアヴァンギャルドはなくなりました」という話ではない。20世紀美術とデザインの見直しが本格的に始まったという印象を受ける。


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近所を散歩していてやたらと目につくのが改装中というか増築中の家だ。我が家のバルコニーからも3件見える。おもしろいのはその行程でこの春以降ほとんど進捗していない家が何件もあるのだ。中には2〜3年放置しているようなものまで。手作りなのだろうか。日曜大工の感じだろうか。素人の僕が見てもなんか危なっかしい気もするが逆に単純でわかりやすい。コルビジェの近代建築5原則だかで有名な柱と床の構造体だけコンクリで作ってあとはレンガ。まるでレゴのようです。日本のように短期間に工務店が覆いをかけてさっさとやってしまうのとは大違いである。


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この家は住みながら改築が進行している。春からの主な変化は冷房装置が取り付けられた点だ。


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屋根にレンガが置いてある。これから二階を作るつもりらしい。でもそれじゃ構造的に無理がないかなあなどと他人事ながら心配している。僕がここにいる間には多分完成しないだろうけど。要チェック物件です。


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全ての家に使われていると言っても良いレンガ。中は細かい空洞である。


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これは歩いて10分くらいのところにあるリエカ美術大学の新築工事現場。かなり大々的な工事が行われている。大学の授業はどこでやっているのだろう。今は夏休みだが。ソボルさんからは大学の先生を紹介するよと言われているが今の所まだ「大学」に近寄る気がしないので訪問していない。「まあそのうちぼちぼちと」というニュアンスの英語がしゃべれる訳がないので多分伝わってないだろう。

そのうち授業風景などを見せてもらうことになるだろうと思う。


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多分リエカ美術大学の正門。


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昼間歩くと汗だくになるほど暑くても、夜が冷えるので何となく木々の色に秋の気配である。


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妻は無事19日夜(日本時間)東京に到着した。

「日本は異常な蒸し暑さでリエカの夜の北風が夢のようです」というメールが届いた。

終日、自宅で過ごす。

大家のユリッチさん夫婦もいないので静かである。毎日の庭と菜園の水やりは僕がするしかない。これが結構時間がかかる。太陽の沈む直前7時半から8時半の間に行う。またここの飼い猫サンシンの餌をあげなくてはならない。この猫(雌)の名前はソボルさんが命名したらしいが仏教の言葉からとったらしい。三信?三新?散心?どれだかわからない。私はどうしても三振を思ってしまいます。(名前といえばワクリだよなあ。視デの卒制で言語哲学はハイブロウすぎたよなあなどと今更思ったりする。すいません。分かる人しか分からない内輪の話です)この猫はちょっと変わっていて人間から触られるのを極度にいやがる。飼い主のダリンカさんにもそうらしい。だから猫としてはちょっと可愛げがないが餌をもらう時だけ鳴きながら近寄って来る。ちなみにソボルさん家の飼い猫の名前はカミ。これは紙ではなく神。うーん、これも日本人ならば絶対つけない名前だよね。刑事コロンボの「うちのカミサンが」ならわかるけど。サンシンとそっくりだが血縁関係はないとのこと。


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食事はしっかり自炊しています。今の所楽しんでいます。


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サンシン


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昼間は外に出れば30度を超えやっぱり暑いが家の中にいると終日ゆるやかな風が流れ最高に気持ちがよい。夕方からは写真のカーテンのように家の後の丘からの北風(海風?陸風?そういえば風の名前に関してはシバケンだったと去年の卒制を思い出したりする。あれは素晴らしい作品だった。これも内輪話です。)が吹きTシャツだけだと寒いくらいの温度になる。


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朝5時半にバス停まで妻を見送りに行く。彼女は6時のバスでトリエステまで行き、そこから列車でミラノに行く予定であった。しかし6時に電話があり何とバスが満員で乗れないという。次のトリエステ行きのバスはなんと12時。これでは飛行機にまにあわないということであわてる。結局バスセンターで交渉の結果、7時発のスロヴェニアのコーペル乗り換えでトリエステに行けるバスルートがあることがわかり結局それには無事乗れた模様。前回乗った時はがらがらだったので安心しきっていたのだ。クロアチア語もよくわからないし、こういう冷や汗もののトラブルはここでは日常である。


昼間、近所に散歩を兼ねて買い物に行った以外は終日自宅で調べものなど。


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明日、妻が一時帰国するので、そのための準備など。
1年間まるまる東京の家を空けるのは何かと不都合なこともあり、問題処理のため10日程の帰国予定である。東京ークロアチアは直行便がないため今回はミラノから成田に向かう。
8月末にミラノで落ち合う予定だが、その後あちこち移動するのでどうするか確認をしておかねばならない。
加えて日常生活がそもそも妻にかなり依存しているので洗濯機の使い方(クロアチアの洗濯機は操作が複雑なのだ)をメモしたり、牛乳はこれを買えと指示を受けたり。
慌ただしい中にも夕方、ソボルさんとマイーダさんが彼らの日本の知人(師匠)に智子から渡して欲しいという土産を持ってきたのでささやかな茶会となる。
マイーダさんはことのほか抹茶が気に入ったみたいである。
よかった。

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17日早朝

昼間は次の旅の準備、読書、時々オリンピック。
夕方、ソボルさんマイーダさん家のディナーに招待される。ソボルさん家に行くのは意外にも今回が初めてなのであった。街から7キロ離れた所にあり我が家よりも海沿い、アドリア海がすぐそばに見える。
細かく書き出すときりがないので省略するがとにかく私たちは縁あってこのクロアチアのリエカを拠点にすることになった。私の今回の旅の目的が地中海周辺だったので最初はイタリアを拠点にするつもりでいたのがひょんなことからリエカになったのだ。ここに来るまでクロアチアのことなど知らなかったし、ましてやこうやってお世話になっているソボルさんやマイーダさんがどんな人か全く分からずに来たのであった。我ながら無謀な展開である。このブログを最初から読んで頂いている方には理解していただけると思うが望外なことにというか幸運なことにこのソボルさん、マイーダさんに私たちは大変お世話になっているのだ。しかし私たちはトルコやギリシアなどこれまで小旅行を繰り返し、リエカ滞在が短くてゆっくりソボルさんの家を訪問する機会がこれまでなかったのだ。
ソボルさん、マイーダさんは前にも書いたと思うが真言密教の修業者でそれぞれ法海、慈海という名前を持つ立派な(仏教のことはよくわからないのですいません推測ですが)お坊さんでもあるのだが二人で出版社を営んでいる。今日は彼らの出版物を沢山見せてもらう事ができた。仏教書だけではなく僕も知っているケン・ウイルパーなどのトランスパーソナル心理学や文化人類学関係の翻訳書、変わった所ではリエカラジオ放送局50年史とかトルサット聖母教会の歴史とかも出版している。(ソボルさんは聖母教会の大僧正は友人なんだと言っていた)またリエカで最初のタウン情報誌(フリーペーパー)も彼らが始めたそうである。またマイーダさんは以前ここでも書いたマルコ・イリイチ展などリエカの近代美術館の仕事も多く、今回新たにクロアチア、旧ユーゴスラビアの近代デザイン、建築に関する興味深い話が沢山聞けた。また興味深い展覧会の立派な図録を見ていてそれらの出版が可能になったのは意外にもオランダ政府の援助からだという話、ヨーロッパでも特殊なオランダの文化政策の話等にもなった。ヨーロッパにおけるこのような文化的交流に関しては初めて聞く話でとても興味深いものがあった。
要するに彼らはここリエカとザグレブの文化的ネットワークの中にいるということがわかった。僕のほうも自分の関心や大学で行っている事等(つたない英語で)話したりもした。
その他諸々面白い話が沢山できて良かった。久々の「知的興奮」?で帰宅後なかなか寝つけなかった。家に帰っても英語で考えている自分がいて苦笑。こういう生活を毎日していればひょっとして英語がしゃべれるようになるのかもしれない。(勝手な願望?)

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ソボルさん家からアドリア海を見る。

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我が家の大家ダリンカさんユリッチさん夫婦(マイーダさんの両親)。約40年前。

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ソボルさん達の仕事場。

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最後に記念撮影ということになったのだがカメラの機能がよく分からず...。

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何度やってもうまくいかず...。

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あきれる三人。

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ソボルさんはこのトラブルの間にTシャツを着替えている。
最後やっとうまく収まる。

この日もクロアチアは祝日である。日本では終戦記念日、お盆である。この聖母被昇天祭はクロアチアだけではなくヨーロッパの他の国も祝日となっているところが多い。週末とあわせて日本のお盆と同様、帰省やこの夏最後のバカンスの人々か分からないが、テレビでも込み合う高速道路の様子を映していた。
聖母といえばクロアチアでは私たちの住むトルサットにある聖母教会が最も有名である。マイーダさんからまずいつもの「食料はちゃんとありますか?」の注意の後、この日はリエカ中の人がトルサットに押し寄せ、たくさんのバザールができ、大賑わいになると知らされた。大家のユリッチ(これまでユリックJuricさんと思っていたがよく聞くとユリッチなので以降改めます)さんはこの騒ぎが嫌いなので、もともと両親の実家で現在は別荘のように使っているダルマチア地方に行くと言って朝6時頃出発していた。
我々はここ数日家にこもっていたので久々の外出となった。(歩いて数分だけど)
ひとまずトルサット教会に行き周りの人と一緒に聖堂の内陣裏(いつもは入れない)でお参りしてきた。時刻は2時過ぎなので恐らくピークはかなり過ぎていたのだろうと思う。
でお祭りの方だがマイーダさんの話で私たち二人は勝手に日本のお祭りを想像し(小金井祭り)少しわくわくしながら行ったのであった。確かにいつものバス停前は歩行者天国になっておりたくさんのバザールもあったのだが...。
何と言うか日本のお祭りに比べて少々盛り上がりに欠けるのですね。勝手にたこやきとか焼き鳥とか焼きそば等(そんなのあるわけない)とビールを片手にとイメージしていた自分がアホなのだが。それに浴衣姿もないし提灯もないしお囃子などのBGMもない。なんか静かなただのバザールでした。
私が住んでいる近所の小金井公園ではしつこいくらい(梅、桜、夏、秋、お月見など)大小様々なお祭りがあり散歩がてら良く行っていた。昔の田舎の夏祭りに比べれば静かだし何て事ないと思っていたが、ちょっと考えが変わりました。日本のお祭りは重要無形文化財であると思う。クロアチアの人に日本のお祭りを見せてあげたいと思いました。(大きなお世話かもしれないが)でもこれは農耕民族のDNAがないと理解できないものかも知れない。


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終日、家で過ごす。
前にも書いたが8月になってやっと自由に自宅でインターネットにアクセスできるようになった。そのせいかどうか分からないがオリンピックの結果を知りたくて夫婦二人でインターネットにかじりつくことになった。
クロアチアのテレビは6つ放送していて、オリンピックを放送しているのはその中の1局のみである。それも当然ながらクロアチア中心なのでテレビで見れるのはバスケット、ハンドボール、水球などである。野球はもちろんのこと柔道もほとんど中継していない。日本勢の情報をクロアチアのテレビ局に求めるのがまちがっているのは承知の上だが、たまに水泳などで北島が映る時もある。
ネットが繋がっているとどうしても日本がどうなったのか知りたくなってくる。

テレビで見る限りバスケットやサッカーなどクロアチアはスポーツが盛んで結構強いのだがオリンピックのメダルでみると全く目立たない。それと比較すると日本はスポーツ大国なのだと思ったりもする。

夕刻、妻がマイーダさんの紹介で町の美容院にいった。

旅の次のスケジュールを考えながら過ごす。
その他読書。
主にギリシアについて。
終日家を出ず。

本当にぼちぼちだが体調が回復してくると気持ちも前向きにというか元気になって来るものだ。当たり前といえば当たり前のことだろうけど。こういった事はこれまでの東京での生活でも言えたことだ。しかし東京での生活は事務所でのデザインワークや大学での仕事などあまりにも多忙だったので自分の体調と精神状態の関係など考えてる暇などなかったのだ。とにかく全ては「どさくさ」に進行していた。そこに自分の体調など考慮する余地はなかったのだ。ここに来るとこれまで経験した事のないシンプルな状況なのであたかも他人事のように自分の様子を観察することが可能だ。これもささやかだがこの旅の恩恵である。

そういえば昔、子育てをしていた時(こういう言い方は変かもしれないが)つまり長男が幼かったころぐずついたり、泣いたりした場合、最も良い解決方法はぐずる原因を探り解消してあげることだと気づいたことがあった。例えばおなかがすいているとか、睡眠不足とか暑いとか寒いとか。そうすると大抵の場合息子はご機嫌であったように思う。この法則を発見したとき少なからず感動した記憶がある。

結局子供が大きくなってもその「こつ」だけが子育てを通して僕が学んだことであった。

後どうするかは本人の問題なのだ。

それは子供時代だけじゃなく大人になった自分自身にもあてはまるということですね。

ついでに思い出したのは次男の場合は小学生の時、原因不明の病気で2~3年入退院を繰り返したこともあった。この時ばかりはただ神様にすがるしかなかったけれど。

ということで少しずつ旅の整理を初めているところ。


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旅の最中に手にした資料や購入した本を読んでると実際は整理とは別の、カオス方向に思考は遊んでしまうのだけれども。

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今までの旅の整理や調べものも手つかずだが、同時に次の予定もたてねばならない。

これまでの経験から交通、宿の手配は移動の1月前にはある程度決めてないと、大変な目に遭うことをこの僕でも少しは学習しているのだ。

何はともあれそれをやっとかなきゃと。

これが結構プレッシャーである。


また9月はイタリアとクロアチア周辺を動く予定であったが、月の前半に卒業生の展覧会がオーストリアのリンツで行われる。これに何とか行く為のルートをあれやこれや考えねばならない。

ネットによる鉄道、バス、飛行機のタイムスケジュールの見方、チケットの予約など少しずつは分かって来たがまだまだである。そのうちユーロ圏内でもっとすっきり分かりやすい交通情報網が構築されそうだが現時点ではまだまだです。

結構頭かかえているが何とかなるだろう。

ギリシア、中欧の旅の疲れがどっと出てきたのだと思う。実は寝たり起きたり状況である。しなければならない旅資料の整理も遅々として進んでいない。ましてや調べ物や読書もできない。気持ちはあるのだけれど。
リエカに帰宅して以来おかちんがいた間はまだ少しは気が張っていたのだろうがここ2、3日は夫婦とも全然駄目である。夜寝ていると突然脚がつるし、朝起きてベッドから床に足をつけるとアキレス腱が痛む。グぅガっと言いながら立ち上がりよろよろ歩いてリビングまで行き、ソファに30分程横になった後じゃないと朝食のテーブルにつけない。

昨日はこんなことじゃかえって身体がなまると思い無理にミルコさんの展覧会に行ったわけだが、帰って来て寝込みました。
旅している最中は連日酷暑の中を歩き回って、われながらすごいなあと感心していたがやっぱり帳尻はどこかで合わせないといけないようだ。年相応に。
昨晩の嵐のような雨があけて今朝のリエカは空気が一変した(ような気がする)。視界がクリアになり秋の気配が何となく感じる。街に出るとあいかわらず暑かったけれども。今日はマイーダさんが紹介してくれたミルコ・イリイチの展覧会に行く。リエカの近代美術館で開催されている。マイーダさんは英語の翻訳などで関わっていたらしい。クロアチアで最も有名なグラフィックデザイナーとのことである。見た印象はグラフィックデザイナーというよりはイラストレーターであるが1956年生まれなので私より一才上である。若い頃はコミックも書いていたようだ。タッチは大友克洋風である。イタリアでの仕事を経て30代からニューヨークでタイムズとかニューズウイークのアートディレクションをしている人だ。

その後リエカの町を散策。重いスイカを買って帰る。

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美術館の階段、掛かっているのはミルコのポスター。

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奇妙な行き止まりの階段。映画「薔薇の名前」のセットのようだ。

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閉館してしまった映画館1

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閉館してしまった映画館2

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今日も旅の記録などの作業の予定。

テレビで北京オリンピックの開会式が3時(クロアチア時間)から始まるので見る。旅の途中さほど関心はなかったが、クロアチア語の興奮した中継を聞きながらオリンピックって世界中の人間が見てるのだなあと実感する。

オープニングは最近の荒唐無稽な中国スペクタル映画みたいだった。槍とかは降ってこなかったが。開会式は全体的に長過ぎてだれた。

オリンピックを見ながら思い出したのは以前ヨーロッパ旅行の最中に、ケルンのホテルでロス五輪を見た記憶があるので僕のその時の旅は正確には今から24年前だった。1984年の夏だ。

お昼に海でロビンソンクルーソーのような生活を終え、大家のダリンカさんユーリックさんが帰って来た。お土産は立派な魚である。

早速いただきました。

夕方から空がにわかにかき曇り大雨となった。


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終日外に出ず、家でデータの整理などの作業のつもり。
久しぶりにのんびり過ごす。街に出なければ終日風通しが良いこの家はとても気持ちが良い。
やらねばならない仕事、旅の記録や整理、手紙を書く事、あちこちへメールの返信などたくさんある。
しかしやらねばと思いながら何もしていない一日。
一日があっというまに過ぎて行く。
3日、おかちんとクロアチアに戻る列車で偶然私たちのいるコンパートメントに「ここ空いてますか?」と入って来た人がいた。アジア人の若者で聞くと台湾の美術大学のファインアートを学ぶ学生であった。少しの時間だが話をした。彼がドイツを旅している理由は自国の歴史に対する向き合い方を学びたいという理由であった。
「台湾では過去に対してちゃんと向き合っていないと思うのです」と。彼はこの後台湾で兵役を終えた後ドイツに留学したいと語っていた。
彼の話を聞きながらちょうどおかちんと同期でその後視デの大学院に進学した荘(ツァン)君のことを思い出した。僕が修了論文の指導担当だった。彼のテーマは台湾のグラフィックデザイン史1895年〜1995年であった。台湾にはこれまでそのようなテーマの本格的な研究がなく、私自身も疎かったがとにかく資料を集めようということになって、荘君は何度も台湾と日本を行き来したものだった。実際特に戦前の資料を集めるのは難しく、また戦前を知る人へのインタビューも困難を極めた。台湾はスペイン、中国、日本と植民地化された歴史があり、その歴史に対する認識は大変複雑である。例えば台湾にも1930年代にモダニズムの運動はあったがそれはヨーロッパからの影響ではなく日本を経由したものだった。そういった明らかな事実関係をちゃんと記述するだけでも充分意味のあることなのだと彼をはげましながら、僕自身も教えられる事、考えさせられる事が多々あった。何度も挫折しそうになったが何とか荘君は論文を書き上げ卒業し今は台湾のニューウエーブデザイナーとして活躍している。(2年程前に原宿のスパイラルで作品が展示されていた)彼の論文はこれまで誰も書く事のなかった台湾のグラフィックデザイン史となった。何故か視デの他の先生方はあまり興味を示さなかったが私の中では個人的に「優秀賞」ものの力作であった。今でもそう思う。
そんなことを思い出した。
歴史に自虐的でも放漫でもなく向き合う事は確かに難しい。それがギリシアやトルコで見たもののように6000年とか3000年前のものならばそうでもないが、100年、200年というスパンでは急に難しくなる。今回ドイツを旅していてそれを強く感じた。確かに台湾の若者が語ったようにドイツ人の歴史に対する態度は徹底している。それが博物館や美術館のディレクションに明確に現れていることは確かだ。
ドイツに限らないと思うが20世紀の前半、ノイラートたちが夢想した博物館のあり方とそのこと(現在の状況)は無関係であるはずがないのだ。彼らの掲げた夢想というか理想は第二次大戦という悲惨な状況を乗り越えて今に生き続けているのではないか。
ノイラートは「言葉は世界を分ち、絵は世界を繋ぐ」と語っている。

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おかちん。ヴェネツィアに向かう前の別れの朝。彼とは久しぶりに沢山話せました。とても立派に成長していて驚きました(見た感じは変わりませんが)。ニューヨークという街で様々な国の人々と切磋琢磨しているからこそなのだと実感できました。
「学生時代に求めていたもの、デザインのスキル、プログラムのスキルそしてコミュンケーションに対するアイデア、それらが最近やっと手に入ったような気がします」という言葉に感慨深いものがあったよ。この旅の後いよいよ修了制作の1年が始まるがその成果が楽しみです。
このブログを見て彼に興味のある人は以下を参照して下さい。
http://okada.imrf.or.jp/

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おかちんをバスセンターまで送った後、ソボルさんとマイーダさんが滞在許可証の申請のため一緒に警察まで行ってくれた。

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朝食後おかちんは家を出てポレチュへ(http://www.esporre.net/terayama/2008/05/5052.php)。
終日旅の整理、後半たまっていたブログの更新など。
今日はクロアチアの祝日らしく小さなマーケットも含めて全てのお店は休みだという。以前祝日だと知らず買い物に行って困ったことがあったので昨日もマイーダさんが「明日は祝日です。食料はちゃんとありますか?」と心配してくれていた。クロアチアはしょっちゅう祝日があるような気がする。
旅の疲れとれず、終日家で過ごす。
夕方おかちん無事に帰宅。今日も暑かったそうだ。夕食をとりながら夜遅くまでいろいろ話す。明日彼はここを発ちイタリアのヴェネツィアに向かう。

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今回の旅の前に私たちの為にとダリンカさんが菜園で育ててくれていたトマトがしっかりできていた。この他那須やバジルなど。とてもありがたい。ちなみにダリンカさんとユーリックさん夫婦は例の船でアドリア海クルージングの旅に出ていて不在である。
娘のマイーダさんの説明によって船は10年以上かけてこつこつと作ったユリックさんのハンドメイドであることが分かった。ユリックさんは若い時工科系の学校と造船関係の学校を卒業しているのでその技術があるらしい。10メーター弱の小型船らしいが寝泊まりができ、夫婦で魚を釣りながらマイーダさんにいわせれば「ロビンソン・クルーソーのような生活」をしているらしい。マイーダさんもしきりに誘われているらしいが彼女は船酔いが嫌いなので行きたくないらしい。僕はちょっとうらやましいと思いました。ドリームスカムズトゥルーですね。

朝ゆっくり起きて朝食をとり(おかちんも長旅でそろそろ疲れているのでゆっくりしようということになったのだ)簡単にリエカの町を地図で説明したあと一緒に家を出る。近くの教会や城、バス停の位置を確認しつつ、ペタルクジッチの階段(http://www.esporre.net/terayama/2008/04/422.php)を降りて町の中心へ。両替やバスの乗り方などを説明したあと、おかちんは一人で散策に出る。今日は近くのオパティア(http://www.esporre.net/terayama/2008/04/426.php)に行った後リエカを探索して帰宅する予定だ。僕はその後一人でデパートと市場で買い物をして帰宅する。今日のリエカは強烈な暑さでめまいがする程であった。海の近くのオパティアはさぞ暑い事と思う。
我が家は前にも書いたが丘の上にあり風が通るので帰ってくれば気持ちいいのだが。
自宅では妻が大量の洗濯や荷物の片付けなどを行っていた。荷物の整理をしなければと思うがなかなか気力がわかず、ただバッグからものを引っ張りだすのみ。
そういえば特筆すべきことはこの旅のあいだにダリンカさんが自宅でワイヤレスでインターネットにアクセスできるようにしてくれていた。これでブログの更新の為に階段をおりてコンチネンタルホテルのカフェに行く必要もなくなった。
夕刻おかちん無事に帰宅。ソボルさん夫妻が偶然訪ねてきてくれたので、おかちんの明日の行動についてアドバイスを受ける。

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最初はソボルさんお勧めの世界遺産にもなっているプリトヴィッツェ国立公園(私たちもまだ行っていない)に行くルートを探したのだが結局交通が不便で日帰りは無理ということになり、最終的にはポレチュに行く事に。

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おかちんのニューヨークでの生活や研究の状況を聞きながら。

朝7時にミュンヘン中央駅でおかちんと待ち合わせ、7時26分発のベオグラード行きの列車に乗る。オーストリアの山岳地帯を縦断し13時半ころスロベニアの首都リュブリャナに到着。ここでリエカ行きに乗り換える。乗り換え時間が1時間弱あったのでおかちんは駅から少し離れている町の中心部を見学に行く。首都とはいえあまりの小ささに驚いていた。その後2時間半でやっとリエカに到着。駅の近くのスーパーでとりあえずの食料などを購入しタクシーで我が家へ。夕刻無事到着。
私たちのギリシア、ウイーン、プラハ、ドイツ東部を巡る34日間のハードな旅が一応終わる。
いや後半は本当に疲れました。


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ミュンヘンも暑かったがこの日も相当暑い一日であった。一応急行電車のはずだが冷房はなく、西日にうだるおかちん。

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アルテ・ピナコテーク、モダン・ピナコテークは同じ場所にある美術館である。
アルテでは18世紀までのヨーロッパ絵画が展示されている。デューラー、レオナルド、ボッティッチェルリ、ブリューゲル等など。ここは名作揃いである。しかし閉じられていた部屋が何室かあり、クラーナハ、ホルバイン、グリューネバルトはどうもそちらの部屋にあるらしく見れなかった。グリューネバルトを見損なったのは残念である。
モダン・ピナコテークで特筆すべきは一つのミュージアムの中に現代美術、建築、デザイン、写真、映像を統合的に展示していることだろう。日本にそのような美術館があるだろうか?
今回は建築はアアルトの展示をやっていたがそれはイマイチだった。

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以下アルテ・ピナコテーク

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以下モダン・ピナコテーク

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かなり究極的な透明のエレベーター

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もし、世界で最も好きなテーブルはどれか?と問われれば(そんなこと聞く人はいないかもしれないが)迷う事なく僕はこれです。リートフェルト。使いにくそうだがそんなことは関係ないのだ。

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イサム・ノグチの椅子。

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アアルト展。

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さすがメルツェデスの国だけに...。

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かつてこの人がムサビに講義で来る、来ないで大騒ぎになったものだ。約20年程前か。

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アルンツの友人、ヤンケル・アードラーのタブローが展示されていた。

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ジョージ・グロッスのこのような絵もめずらしい。

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同じくアルンツと関係のあったノイエザッハリカイトの中心人物、オットー・ディックス

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ドナルド・ジャドの部屋

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ウオーホルのレーニン

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レジエ

ついに昨晩今回の旅の最終地点、ミュンヘンに到着。この小旅行がスタートしてもう一ヶ月が過ぎるのだ。僕も同行している妻もかなり疲労していてボロボロである。無事にここまで来たので気が緩みそうになるがお互い励まし合いつつ旅を続けている。そういえばミュンヘンは暑い。

朝、街の中心部を通ってトラムでドイツ博物館へ。昨日に続きここも最高の博物館の一つだった。視デの学生達に見せてあげたいと思った。課外旅行で来れるとよいのだが。しかし中身について詳述しだすときりがないので省略します。ただ言える事はここは僕が知りたかった多くの事があったということだ。僕の大きな目的は大雑把に言って世界を人間はどのように記述(視覚化)してきたかということにつきる。もちろん美術、あるいは美意識も重要なファクターだがそれだけではあまりにも狭い。ひとつには記号論を軸とした視覚言語があるがそれはここでは置いておくとして、もう一つ、カオティックな世界を記述する為のテクノロジーと自然科学と視覚(変換)化の関係であった。この博物館にはそれらの歴史がほとんど現物と一緒に丁寧に展示されている。東京にこの博物館を持ってきたいくらいだ。

もうひとつの印象。この博物館全体がディドロとダランベールの百科全書をそのまま博物館化したような場所であった。

写真で何とか感じてもらえたらと思う。

本当はもう一つ別の美術館に行く予定だったがここ一つで一日を使い果たしてしまった。実際丁寧に見だせば一日どころか数日はかかる場所であった。

夜はかねてからの予定通り卒業生で僕と同じwriting space travelersであるゴンちゃん、フジナミさん、オカチンとミュンヘン駅前で待ち合わせし、ビアホールの本場でビールとソーセージの夜となった。


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新市庁舎


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ドイツ博物館正面


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ドイツ博物館の庭にはこのようなアトラクションが。


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屋上。プラネタリウム横。サンダイヤルの歴史が徹底的に見れる。


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ここにも螺旋階段とプリズム装置。


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ストーンヘンジの仕組み図解模型。向こうにあるのが太陽。


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地図を作り出す道具について


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計算をする道具について


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ファクシミリの原型


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テレコミュニケーション関係図。


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博物館を出ると街はミュンヘン850といって何かのお祭りだったが突然の雨。


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左はゴンちゃん(谷田幸さん)僕と同じ大学の短期海外研修で1ヶ月弱ドイツを旅することに。視覚伝達の助手である。昨日フジナミと一緒に飛行機で着いたばかり。明日はベルリンに移動しその後印刷三昧の旅をする予定。今日は僕らと遭遇できるぎりぎりのタイミングであった。右はおかちん(岡田憲明君)現在ニューヨーク大学の院生で夏休みのヨーロッパ旅行の最中である。彼はパリからここへやって来た。この後私のいるクロアチアに寄ってイタリアに渡る予定。



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フジナミ(藤波洋子さん)現在某デザイナー事務所に勤務。ゴンちゃんと一緒にベルリンに向かう予定。さすがに社会人は厳しく仕事が待っているので一週間で東京に戻らねばならない。もったいないけどしょうがない。


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3人とも同期で6年前の卒業生である。こうやって呑んでるとミュンヘンも東京も変わりませんなあ。皆それぞれの目的を持ったwriting space travelerのmeetingである。



この日は夕方ニュルベルクからミュンヘンに移動する予定である。

昼間は博物館(museum)三昧の一日となった。最初に訪れたのはDB博物館(ドイツ鉄道博物館)である。ここは偶然、宿泊した宿の隣にあった。初めての訪問である。子供が小さかった頃、とにかく鉄道や乗り物博物館と名前がつくものは日本では随分見たものだった。しかし僕はいわゆる鉄道ファンではないし、この博物館に関する予備知識も全くなく「まあ、時間があるから行ってみるか。近いし。」ぐらいの気持ちであった。しかし行ってみて実際驚かされるはめになった。まずその規模の大きさ、収集している物の多様さである。これまでにも何度か触れてきたが物の収集、整理、復元、模型に対するドイツ人の執念は生半可なものではないが、ここではそれが徹底的に実行されていて凄みがある。さらに私を驚かせたのはその展示デザインのレベルの高さであった。物そのものに加えて空間も照明もグラフィックも映像もインタラクションによるインストラクション(説明)も私がこれまでみてきたmuseumではベストであった。実際見ながら鳥肌がたった。こういう経験は僕の場合(こことは違った観点だが)パリの「自然史博物館」以外にはなかったことだ。(大英博物館もスペシャルな場所だが総合的な展示デザインという意味においてはそこまでいかない)そういえば旅行前に日本でも新しい鉄道博物館がオープンし人気だというニュースを聞いた事を思い出した。その関係者は恐らくここを視察したに違いないので今度帰国したら行って比べてみたいと思う。博物館にはその国の文化とデザインに対する見識のレベルがはっきり現れるので。

ここで感動したのはさらに二つある。博物館を作る上でのコンセプトについてなのだが、鉄道を社会の中のメディアだと位置づけ徹底している点にある。鉄道を紹介するためのその外部環境、例えば産業、通信、文化などの説明が鉄道と同等に徹底されている点である。つまりそのことによって単なる趣味の人やオタクのみが楽しめる場所を大きく超えているのだ。

さらにここを訪れる様々な年齢、子供はもちろんだがあらゆる関心層に対する目配りの繊細さである。

次に行ったのはゲルマン国立博物館である。ここは25年前に訪れその収集料の膨大さ分野の広さに驚いた所である。内容について書き出すときりがないので省略するがここも素晴らしい博物館であった。


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後で辞書で調べるとここは大きくは「運輸博物館ニュルンベルク」でありその中に「ドイツ鉄道博物館」と「コミュニケーション博物館 電話と通信」があるのだった。通信系が充実している理由がこれでわかった。しかし来場者からみると全く一つの博物館に見える。


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ドイツ最初期のタイムテーブル。


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輪切りの車両。見学者は装置を触りながら蒸気機関の仕組みがわかるようになっている。


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訪れた子供の為の遊具施設も0歳から小学生までかなり細かく分けられ十分なスペースが与えられていた。


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ワークショップスペース


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ここから通信の展示。歴代の全ての電話のタイプをその仕組みとともに見る事ができる。


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特別展は「エルビスインジャーマニー」唐突だが鉄道とからめた展示だった。


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以下、ゲルマン国立博物館。あまりにも膨大かつ多岐にわたるので画像は適当にピックアップした。


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この街は25年ぶりの再訪となる。大学院生の時、当時版画研究室の助手をされていた小沼さんにデューラーの「メランコリア」の銅版復刻を見せられて「これはニュルンベルクのデューラーハウスに行けば買う事ができるよ」と聞いたのがきっかけだった。それは精密で完璧な復刻だったので絶対欲しいと思いそれだけの為にニュルンベルクに来たものだった。
その時はただその絵に魅せられただけでデューラーがどのような人なのかもよくわからなかった。しかしその後視覚芸術を考える上でデューラーは僕にとって最も重要な人物の一人となったのだ。(「ネーデルランド旅日記」が翻訳されている)そのような意味で若い時の訳も分からず直感的にシビレル感覚というのは貴重だと思う。
またその時訪れたニュルンベルクの街もとても興味深いものであった。ここはナチスの党大会があったり、戦争中はドレスデンと同様にかなり徹底的に破壊された所で戦後はニュルンベルク裁判が行われた所である。東側に属したドレスデンと異なりこの街は戦後いち早く復興し以前の街並を取り戻したところだ。当時はそのことに感心しつつもかなり違和感を持った記憶がある。当時僕が坂口安吾の「日本文化私観」に強い影響を受けていた所為だと思うが何の迷いもなく過去を徹底的に取り戻そうとするドイツ人の気持ちがよく理解できなかったのだった。
その事に関してまた考えた事もあるが長くなるので省略。
ともあれニュルンベルクの街は地下街が出来ていたり、ショッピングセンターがあったりとかつてとはやはり変わってはいるが古い街並はそのままだった。ほとんど忘れていた記憶が歩きながら蘇ってくるのは面白い経験だった。

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ペグニッツ川


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フラウエン教会


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以下フェンボーハウス(市立博物館)。ここにはニュルンベルク市の歴史が展示されている。


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1900年代の歴史も写真でたどる事ができる。


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模型好きのドイツ人の例に漏れずここにも大量の復元模型があったが、これは戦後すぐの破壊された町の復元模型。


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カイザーブルク(城)から見た街並


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カイザーブルク(城)


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城内の建物


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デューラーハウスの前で


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以下デューラーハウス(博物館)。


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おそらく営業用に制作したステンドグラス。あの有名な自画像(ツェッペリンのジミーペイジ似の)も肖像画の営業のために制作したものらしい。


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デューラーハウスの後、おもちゃ博物館を訪ねる。ここもかつて訪ねたところ。おもちゃ博物館といって馬鹿にできない。何でも徹底的に集め分類し見せる事の好きなドイツ人だから相当なレベルの展示である。写真不可なので館内のイメージはなくこれらは建物外の中庭。


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おもちゃ博物館正面。


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同中庭。


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ブリューゲルの絵にある遊びの分析。


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ペグニッツ川


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デューラーの「黙示録」復刻版


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この日は午後遅くワイマールからニュールンベルクに移動する日である。
まず「城」という名の美術館に行く。ここはワイマール公の城でゲーテはここで働いていたのだ。城というにはそぐわない建築物の印象である。ここにはご当地のクラナッハが沢山あったが撮影不可なのでイメージはない。
次も撮影不可であるがゲーテ国立博物館に行った。横がゲーテの家である。ゲーテに関する資料がかなりあるので研究者や好きな人にはたまらないところだろう。しかし私はドイツ語が全くわからないので猫に小判のような感じであった。また期待していた色彩論がらみの資料は思ったよりも少なくちょっとがっかりした。ただ写真のように建物の螺旋階段上の天窓の光を一階のレンズで受けてプリズムに反射させている仕掛けがゲーテの色彩論をしのばせる。まあこれはニュートンの有名な実験でゲーテはニュートンの色彩論に激しく対立したので何故あえてここでこの装置を設置したかは不明であるが。
その後バウハウス大学のライブラリーがあったので少しのぞかせてもらった。この大学は町中に他にも何カ所かライブラリーを持っているようだ。

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城美術館

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中庭

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ここからゲーテ国立博物館。

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またもや螺旋階段に遭遇。今回はギリシアでの遺跡も含めてやたらと階段に縁があるような気がする。私は階段がなぜか好きなので(上り下りじゃなくて視覚的に。階段フェチ?)うれしいが。

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バウハウス大学ライブラリー

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ワイマールに来た大きな理由を改めて考えてみると昔フォトモンタージュやデザインの歴史を調べていた時、ドイツのこの街がとても重要である印象を持ったからだ。第一次大戦から第二次大戦の間いわゆる黄金の30年代、ドイツにおいてベルリンと並んで最も重要な都市の一つだったのだ。かの有名なワイマール憲法もここで発布されたものだ。またここはゲーテが長く住み仕事をした場所としても知られている。実際来てみると驚く程こじんまりした街なのである。人口は5万人である。ドレスデンやライプツィヒの十分の一である。しかしバスに少し乗っているだけで街にはゲーテ広場、シラー通り、ショーペンハウアー通り、グロピウス通り、フンボルト通りetcと僕らが良く知っている名前がつけられた通りがいくつも存在し、ここがドイツ人の文化的故郷でもあることが否応なく感じられる。またドイツルネサンス最大の画家クラナッハはここを拠点に活動したし(画家であると同時に薬局も経営し市議会議員でもあった)またいうまでもなくバウハウスが最初に誕生した場所でもある。



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国民劇場広場。ゲーテの「ファウスト」が初演されリスト、シューマン、ワーグナーらが活躍した劇場であり、ここで1919年にワイマール憲法は採択されている。劇場の中までは入らなかったが印象はとても質素というかこじんまりしたものである。


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劇場前のゲーテとシラーの像。シラーは歌劇「ウイリアム・テル」の作者だそうだが私は全く読んだ事がない。ゲーテが彼をこの街に招き死ぬまでの5年間この街ですごしたらしい。

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国民劇場の向かいにあるワイマール・バウハウス博物館。

バウハウスは1919年にワイマールで発足した。その後1924-5年に市と対立し(社会民主党が与党から野党に転落したのをきっかけに)デッサウに移転している。いわばここでは初期のバウハウスを見る事ができる。その後ここは別の保守的な工芸学校となり、東西ドイツ統合後はバウハウス大学となっている。この間の様々な政治的、造形的理念の対立などの変遷はここでは詳述できないが、とにかく複雑な印象を持った。少なくとも今更バウハウス大学とネーミングする感覚が理解できない。僕の勉強不足かもしれずこの間の事情は分からないが、経歴詐称じゃないがうさんくさい感じがする。


しかしなによりもここで想像を超えて良かったのはヨハネス・イッテンであった。表現主義的で機能主義バウハウスに反するとしてグラフィックのファイニンガーとともに追放(?)された人としてまた色彩学の権威として知られる人だが、今回見る事のできた彼のドゥローイングが凄かった。(撮影は不許可だし図録にも掲載されてないので画像はありません)これは後で日本でじっくり検討するつもりである。ドゥローイングとタイポグラフィの合体したデッサンは本当にただものではないと感じた。多分バウハウスで続かなかったのは、造形上の主義の違いというより人間関係なんだろうなあとも思いました。イッテンはとにかく「あく」が強いというか、天才型で協調性には欠けていたのだろう。絵からはそのような印象を受ける。しかし滅茶苦茶鋭い。


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イッテンによる色彩のオブジェ


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イッテンのドゥローイング


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バイヤーのユニバーサル


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工芸はビーダーマイヤー、分離派の伝統をしっかり受け継いでいる事がわかる。


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クレー

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クラナッハが活動した市教会。


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クラナッハによる祭壇画。クラナッハの最高傑作だと思う。


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ヴァン・デ・ヴェルデの館を訪ねるも残念ながら修復中であった。


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ヴァン・デ・ヴェルデの館の向かいにバウハウス当時の校舎(現在はバウハウス大学)がある。ヴァン・デ・ヴェルデの設計である。


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正面


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裏側

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一階エントランス

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左右にヴァン・デ・ヴェルデとグロピウスの肖像。

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学生の作品。多分建築科の基礎授業だと思うが、律儀に初期バウハウス(あるいはロシアアヴァンギャルドのシュプレマティズム)に似てる所がかわいいというべきか、古くさいというべきか。どうも微妙。


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アトリエ

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ヴァン・デ・ヴェルデ記念室のようなところ


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教室階段


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正面吹き抜けの階段。


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バウハウス校の道をはさんでリストの家。

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街に貼られていたヴァン・デ・ヴェルデのポスター


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シラーの家。

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宿からワイマールの街を望む。

今日はライプツィヒからワイマールへ移動する日である。日曜日の朝、街はとても静かである。一旦駅でワイマール行き切符の手配をしたあとライプツィヒの街を散策する。

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ライプツィヒ駅舎。ヨーロッパで最大級だそうな。

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昨日外観だけ見たニコライ教会に入ってみる。東西ドイツの壁が崩れたのはここでの集会がきっかけであったと言われているのでとても気になっていたのだ。日曜朝の礼拝の最中であったが入れてもらえる事ができた。もともとは11世紀に建てられた教会らしいがご覧のように内部の装飾は大変変わっている。かなり大きく音響も良く荘厳な雰囲気がある。

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ここは造形博物館。とても巨大である。作品はクラナッハなどの古典とベックリンなど近現代のものもある。まずは建築がひどいと感じた。まず様々な細部のスケール、など人にやさしくない。建築家は新しいと思い自己満足しているのかもしれないが現代建築のひどい見本のような建物だ。こんなにいやな印象をもつのもめずらしい。なので当然のようにこんな所には悲しいかな美のミューズは降りてこないのだ。
キュレーターが建築家に輪をかけたように最悪で、例えば15世紀の作品が並んでいる中に突然現代の作品を挿入したりする。「同じ静物画という主題で現代と比べたらどうでしょう」という意図かどうかは知らないが常設展でこんなバカなことをやるなんて信じられない。美術館の巨大な空間がひたすら空しい。また監視員がひどい。ちゃんと写真許可のお金をはらい、カードをぶらさげているにもかかわらず、いちいち近くに寄って来てにらむのだ。何か文句あるの?と笑いかけると(この旅で微笑みながらけんかを売る事を覚えた)どっかに行ってしまうのだがまた別のがやって来る。ドイツの女性のある典型について言いたい事があるが問題を起こしそうなのでここには記しませんが。とにかくここはお勧めしない。やなものを見ると身体によくない。一個一個の作品に罪はないのだけれど。

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こんな空間、どこか(ムサビ?)で見た事があるような。今の流行なんでしょうか。

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ベックリンの有名なこの絵はここにあったのですね。

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めずらしく、わりと好きなセガンティーニが二点あった。

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次ぎに行ったのは前日行ったバッハの本拠地であったトーマス教会向かいのバッハ博物館。本館は現在改築中で入れず、横にある臨時の会場で譜面などが見れた。ここの受付の女性はとても感じが良い人だった。バッハの直筆が写真に撮りたかったので写真を撮っても良いですか?と聞くと笑いながら見猿の真似をして私は外にいるからといって、トーマス教会の前でバッハを演奏している旅芸人のところに行ってしまったのだ。帰りがけにもちろんダンケシェーンと言いました。言葉はうまく話せなくても温かな気持ちは通じる。横で見ていた妻が「本当はだめだったのね。でもやることが憎いわね」と言っていた。たまーにこういう感じの女性もいるのだ。ドイツ女性は大きく二つのタイプに分かれるようだ。(すいません。勝手な感想です)

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街の至る所にバッハ関連のポスターが。

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メードラーパッサージュというショッピングアーケード。16世紀からの酒場で学生時代のゲーテや森鴎外も通ったらしい。地下まで降りて入るかどうか迷ったが電車の時刻が迫って来たので断念。

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ここの地下。左がファウストとメフィストテレスの像。

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その後電車で1時間半、ワイマールに到着。マルクト広場、クラナッハの家の前にて。

このブログを見ている人からは今回の私の旅は、ウイーンではオットー・ワグナー、ヨーゼフ・ホフマン、プラハではチェコ・キュビズムにアール・ヌーボー、そしてビーダーマイヤー、ライプチヒでは印刷博物館とまるで計画したように近代デザイン史をたどる旅をしているように見えるかもしれない。それに今日行くバウハウスを加えればあまりにも出来過ぎとも言えるだろう。しかし実際の私の気持ちというか意図は意外かもしれないがそうではない。ビーダーマイヤーもキュビズムも印刷博物館もたまたま来てみたらそこにあって、ただ私が反応しているというに過ぎない。


そういえば話はちょっとそれるが以前ウイーンで書き忘れていた事がある。それはウイーンにオットー・ノイラートの博物館がないことの理不尽さについてである。この事実だけみてもウイーンの人間がノイラートの凄さと重要性を未だに理解していないことを示している。自国が生んだ20世紀デザインにおける最も重要な人間を忘却するなんて。ノイラート以前だけでも充分観光資源としては成り立つからだろうか。そもそも、最も敏感であるべき美術館のディレクターがそのことを理解していないから、だからデザインミュージアムもだめなのだなと改めて思った次第。


話を戻すと今回旅をしながら今更バウハウス詣でもないのではないかという気持ちがどうも心の中に居心地悪くあったのだ。

かつて25年前(私は26才だったが)はこのデッサウに来たくても簡単には来れなかった。だから当時はバウハウスといえば西ベルリンにあったバウハウスアッシブに行くしかなく、それはそれで感動したことを覚えている。25年前にはライプツィヒにしてもドレスデンにしても(旧東側)自由に旅が出来るなんて思いもよらなかったのだ。その時はベルリンの壁もアメリカとソビエトの対立もずっと続くだろうと思えたのだ。この間の25年は大きい。同様に私の中でバウハウスに対する考え方も大きく変わったのだと思う。少なくとも単純な礼賛ではなくなっている。

ともあれ今回、迷った末一人でデッサウのバウハウスに行って来た。電車で約1時間。校舎も、教員の宿舎も1997年ころの大修復によって完全に元の状態に復元されていた。(これはさすがにドイツ人、相当大変であったことが想像されるが立派な修復である。モダニズムの修復だから簡単だと思うのは素人なのだ)

この間考えたことを書くと長くなるし、この旅の途上では何か語る心境にはならない。

現在の簡単な印象だけいえばとにかく行って良かったなと思いました。

修復されたことでディテールが見れたこと、ディテールのなかに言葉ではなくて深く感じるものがあったことなど。

また、ここはグロピウスたちが作ったひとつのユートピアであったが、短期間のうちにハンネスマイヤーに学長は代わり、ナチスの圧力で閉鎖されている。

1924年の夏ここにリシツキーが来、マイヤーの招聘でノイラートもここで講義をしたのだと思いながら一日を過ごした。とても暑い日だったが真空のような一日だった。


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デッサウ駅前


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あのバルコニー


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大修復の模様を展示していた。


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マルセル・ブロイヤーの椅子が素晴らしい。


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正面が小舞台で奥が食堂


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アトリエの一部


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外灯


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展覧会場(写真は撮れず)


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半地下のカフェ


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グロピウス通りを通ってマイスターハウスへ。


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以下マイスターハウス


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トーマス教会にあるバッハの墓

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ニコラス教会


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バウハウスから戻り夕刻、ライプチヒの街を散策。

最後に本屋でここゆかりのレクラム文庫を一冊記念に購入。チャンドラーの「大いなる眠り」と迷った末ポール・オースターの「ムーン・パレス」に。英語版でドイツ語の注釈付きである。7.2ユーロ。


午前中ドレスデンを出てライプツィヒまで移動。特急で1時間10分。ドレスデンの人口は約50万人、ライプツィヒも同様でドイツでは大都市である。(しかしドレスデンとライプツィヒからは全く異なる印象を受ける。多分理由はあるのだろうが私には分からない)

今回ライプツィヒに来た理由はかなり曖昧である。まずここが歴史的に印刷が盛んな都市であり、岩波文庫がお手本にしたレクラムという有名な出版社がある事、バウハウスのデッサウに近いことなどいくつかあった。しかし初めてなのでとにかく来てみなければわからない。

ドレスデンのように来てはみたものの何となくしっくりしない街もある。さてライプツィヒはどうなるだろうか。

宿は駅の側でまず荷物を置いてインフォメーションセンターに行く。ここでは造形博物館という大きい美術館があるがそこには行かずに、ガイドブックにはなかったけれどもインフォメーションの人に印刷博物館はないのかとまず聞いてみた。

そしたらちゃんとありました。トラムに乗って20分くらいのところ。詳しい説明なしで写真を見て下さい。だいたいどんな所かわかると思います。ここは保存されている印刷機等すべてのマシーンが稼働するように整備されていた。そして技術者が何人かいてなんでも親切に答えてくれる。目の前で実演してくれる。僕らがいる間も美術大学の学生らしい人が何人も来て技術者に相談していた。まあ、僕にとってはディズニーランド(?)のようなところでした。


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ドレスデン駅


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電車はガラガラで一両独占状態。


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以下、印刷博物館


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このリト版はどのように製版したのだろうか。


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木活字


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大判リトグラフ印刷機


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インク撹拌器


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昔の活字鋳造機


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楽しそうに実演をするおばさん


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モノタイプ自動活字鋳造機の説明。

僕があまりにもおもしろがるし、「ライノタイプがどうのこうの」と独り言を言っていたらあんたはプロフェッショナルかと聞くのでいや違うと答えるとこのおばさんがわざわざ別のおじさんを連れて来てライノタイプの実演をしてくれた。


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ライノタイプ自動活字鋳造機の実演


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博物館中庭にて


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ドレスデンはかつてのザクセン王国の首都で壮麗な街だったところだが、第二次大戦の空襲で一夜で破壊された町として知られている。廃墟のままであった聖母教会を残されたがれきの破片を地道に組み合わせて最近(2005年)修復したのは日本のテレビでも放映されていたのでご存知の方も多いと思う。

戦災にあった街に共通であるが基本的に街は全体にのっぺりしていて、戦後の共産主義下のビルがほとんどで、街の中心のツヴィンガー宮殿などが修復されているのだが全体としては何となくちぐはぐな感じを受ける。あくまでも一旅行者の感想ですが。

観光の街のはずだが、他のドイツ、ヨーロッパの街のような雰囲気、旅行者が気軽に入れそうなキオスクやマーケット、カフェが驚く程ない。水を買おうとして歩いても歩いてもお店が見つからず少しあわてたりとか、なんとなく不気味な感じがある。25年前訪れたことのある東ベルリンの雰囲気に似ている。宿は中心からトラムで15分くらいのところで、エルベ川ぞいであるがやはり周りにはタバコ屋すら見当たらない。

ここの滞在の主たる目的はフェルメールが二点あるツゥインガー宮殿内にあるアルテ・マイスター絵画館に行く事であった。その他クラナッハ、ホルバイン、デューラー、レンブラント、ボッシュ、ボッティッチェルリ、ラファエロ、リューベンスなど傑作がかなりある。また風景画の巨匠カナレットの作品がここには多くその特別展をやっていてカメラオブスキュラと風景画の関係を中心に展示をしていたのが少し興味深かった。

同じ宮殿内の陶磁器コレクション、武器博物館などを見ても、ザクセン王国のかつての繁栄を偲ばせる。その他ドレスデン城では王様の財宝、工芸の展示をみたが(写真は撮れずイメージはないが)その贅沢ぶりはものすごいものがある。いわゆる博物館の元である王様のウンダーカマー(脅威の部屋)を実感するにはもってこいである。趣味的には全くあわないので心は全く動かなかったが。



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黒く見える石は戦災で焼けたことを示している。


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ツゥインガー宮殿

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クラナッハ


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ホルバイン

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デューラー


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レンブラント


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これはカラヴァッジョではありません。

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ボッシュ

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ボッティッチェルリ

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苦手なラファエロの有名な?部分

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苦手なリューベンスはどこにいってもある。

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カナレット


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陶磁器コレクション、武器博物館

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今日はプラハを去りドレスデンに向かう予定である。正直プラハは予想していたよりも、はるかに気に入ってしまったので本当はもう2〜3日滞在を延ばしたいのだが。結局、図書館にも行けなかった(ここはアポイントメントなしには見せてもらえないだろうが)。またチェコではブルーノにも行けなかった。ここはミースのトゥーゲンハート邸があるし、グラフィックのビエンナーレでも有名な街だ...。
しかしここチェコには縁があればまた日を改めて来る事もあるだろう。そんな予感がする。
ということで午前中、初日に行った時閉まっていたチェコキュビズム博物館(別名黒い聖母の家)に行く。チェコキュビズムについては思う所あるが...。とにかくこの美術館は小さいけれどとても良い。しかもここで初めて知ったある建築ザイナーの図録を購入したが、その時レジのお兄さんがプラハの現代デザインの見所をあれやこれや教えてくれた。もうドレスデン行きの電車のチケットを買ってしまったというのに。全く後ろ髪をひかれるとはこの事か?

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オットー・ノイラート、ゲルト・アルンツを調べていても思ったが雑誌、デア・シュトルムとディ・アクツィオーンはドイツというよりは中央ヨーロッパにとって重要な雑誌であることが分かる。

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キュビズム・タイプフェイス?らしい。

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1〜2階はカフェ。1階はブックショップなど、キュビズムの家具や食器も売っていた。

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この写真もまるでキュビズムのような...、でしょ。

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ドレスデン駅

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ドレスデンは第二次大戦において最も空襲の激しかった街のひとつで東京と同じように一旦は廃墟になっている街である。

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宿の窓から見える夕暮れ。

こうなってくると毎日は苦行僧のようである。どんなに疲れていてもホテル住まいなので朝はしっかり起こされる。ホテルの朝食をしっかり食べ頭と身体をとにかく叩き起こす。そしてまた街に出て行くのである。
今日も本当にハードな一日であった。(途中眼鏡紛失事件もあったが無事解決。)

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今日は国立博物館がメインでまずここでじっくり過ごす。ここでは人工物ではなく自然の記述を楽しむ。(人類の足跡展という特別展もやっていた)

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人類の足跡展。企画はおもしろい、がディレクションが...。

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骨のサイコロ?

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自然の記述
僕がこのようなものに強い興味を持つようになったのはもう10年以上前に遡るが、勝井先生の視覚伝達デザイン論を6年間通しで聴講したことによると思う。この授業では何度も目から鱗が落とされたが何よりも、デザインを行う前の世界に対する態度とその構造を理解するための先生の好奇心の強烈さに影響を受けたと思う。どうデザインするかの前に対象は何かを自然科学的に知る事の大切さといってもよい(「土の記憶」などはその中の一つだ)。その後僕がその授業を引き継いだ(先生に比べれば情けないくらいへなちょこだが)のだが、今回の旅はそのまんま授業で思考したことの現物確認の旅ともなっている。
その先生からさっき「旺盛な知的好奇心と行動力に感心しています」というコメントをいただいた。恐れ多い事だ。

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その後、カレル庭園を通り、国立美術館に向かったのだが途中でプラハ城riding-schoolというところでビーダーマイヤーbiedermeier art and culture in the bohemian lands 1814-1848という興味深い展覧会に出くわす。躊躇せずに入る。大変素晴らしい展覧会であった。写真不可なのでイメージはないが。19世紀前半のこの中央ヨーロッパの豊かさがよく分かる。ウイーンのゼツェッション(オットー・ワグナーやヴァン・デ・ヴェルデ)など、そしてもちろんドイツ工作連盟もビーダーマイヤーの歴史的バックボーンの上に成立していることがよくわかる展覧会であった。装飾的だが過多ではなく、構造的で今日的とすら言える。日本で言えば元禄時代か。日本のデザイン史は通史がまともにないが、同様であろうと思う。つまり日本のグラフィックデザインが今日豊かさを持っているのは江戸の歴史の厚みがあるからだ。

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カレル公園

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ビーダーマイヤー展

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本当はこれだけで疲労困憊だったがどうしてもデューラーの大作を見ずには済むまいと思い無理を押して国立美術館へ。ここも写真不可なのでイメージはない。
その後昨日書いたクレメンティヌムのカテドラルで7時からコンサートを聴く。7人編成のチェンバロオーケストラであった。モーツァルト、アルビノーニ、バッハ、ヴィヴァルディ、スメタナ、チャイコフスキー、ドボルザークの曲が演奏された。7時から約2時間程か。プラハに来たんだからドボルザークが聴きたいと妻に言っていたのだが、はからずも実現し感動。疲れていたので眠るかと思っていたが全然平気だった。アルビノーニのアダージョでは思わず泣きそうになった。ウイーンのヨハンシュトラウスといい音楽もヴィジュアル作品同様それが生み出された場所で聴くというのは良いものだとしみじみ思いました。

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一日の終わりに虹が。




今日は月曜日で美術館等はお休みなので主に街を歩く。プラハは初めてである。ここは美しい街であると同時に街が建築や工芸を学ぶ者にとってそのまま博物館、教科書のようなところだ。モダニズムとはまた別のデザインの伝統がしっかりあることがひしひしと感じられる。1日や2日では到底この街を見たとは言えないということがすぐに分かった。要するに予想を超えて街は素晴らしく、楽しかったし、興味深いのだが詳述は省く。長い一日。


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今回とてもお世話になったトラム。一日券を買っておけば好きに乗り降りできる。

たまたま偶然この写真に映った女性は12頭身くらいだろうか。日本ではほとんど見る事のできないバランスである。これも私たちから見れば異形ですね。何事も過ぎたるは及ばざるがごとしか?


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ユダヤ教のお寺(シナゴーク)


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正面は国立博物館


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キュビズムの外灯


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ペトシーン公園(街を見下ろせる丘にある)天文台横のモニュメント。


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ペトシーン公園展望塔より市街を見下ろす。


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ペトシーン公園展望塔。パリのエッフェル塔に模したらしい。


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チェコといえばパペットでありまたアニメーションでもある。人形のお店がたくさんある。街には人形劇の劇場もあった。


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プラハ城から旧市街を見る


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大司教宮殿。左隣奥に地味な国立美術館がある。


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シュヴァルツェンベルク宮殿(ルネッサンス様式らしいが、壁の凹凸の錯視的な装飾がおかしい)


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聖ヴィート大聖堂(プラハ城内)


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フランツ・カフカ博物館


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カフカのサイン


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カフカのドゥローイング


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カフカへのオマージュとしてのインスタレーションや映像など、展示はかなり好き勝手にやっていた。その意気や良し。しかし出来はイマイチ。ディレクションが青臭い。カフカ=暗いとか、=不条理とか不協和音とかゆがむ映像とか、それをやったら当たり前すぎてつまらないじゃないか。

...どうしてもこのようなものを見るとつい、俺だったらこうするよな的なデザイナー根性が出てしまいます。イカンとは思いますが。


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プラハ城側のカレル橋橋塔


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カレル橋の彫像


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旧市街側の橋塔


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クレメンティヌム。元対フス派(新教徒)の為のイエズス会の教会。現在はチェコ国立図書館の一部で550万冊!?の蔵書があるらしい。中には入れず。しかし翌日ここの礼拝堂でのコンサートに行く事にした。


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一応観光名所の天文時計


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旧市庁舎


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ヤン・フス像


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チェコキュビズム博物館。旧市街にある。別名黒い聖母の家。ここは本日は閉館なのでまた来る事に。


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黒い聖母


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1-2階はカフェ。カフェの椅子もキュビズムである。


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市民会館。ここはミュシャ(最近ではムハと言うそうな)を筆頭にチェコ・アールヌーボーの本拠地だ。


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市の南部ヴィシェフラド地区にあるキュビズムのアパートメント。現役です。


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同じくキュビズムの家。ヴルタヴァ川沿いにある。夕方8時頃、人は住んでいない感じだったので堂々と庭に入って近くで見ていたら「窓に人影が...」と妻が言うのでびっくりして出てきました。


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同じくヴルタヴァ川沿いのキュビズムの家。ユースで使用しているようだった。


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前日のコンサートについて。ヨハン・シュトラウスとかワルツとか食わず嫌いで勝手に甘ったるいイメージを持っていたのだが(ニューイヤーコンサートなんてブルジョワ趣味的だし)、今回初めて生で聴いてみて「いやあなかなかのものですなあ」と思いました。クラシックにおいてもジャズ演奏と同様、スゥイング感と間、音の遠近感が重要なのだと実感できる演奏であった。


ウイーン南駅から13時半に電車に乗ってチェコのプラハに向かう。約4時間(+20分の遅れ)。夕刻プラハ到着。ここはユーロに入ったので通貨もユーロになってると思い込んでいたらそうではなかったので少しあわてる。宿が少し分かりにくい場所にあった為、たどりつくまで時間がかかる。夕食は宿のそばの中華料理屋に行く。ここはわりとまともな中華だったので安心する。(かつてリュブリャナで店に火をつけたくなる程のひどいのを食べさせられた記憶があるので中華といっても安心はできないのだ)

夕方、かなり強く雨が降る。街を濡らす雨に何故か感動。ギリシアの乾燥がまだ頭と身体にこびりついているようだ。


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ウイーン南駅


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プラハの夕暮れ。9時頃。奥正面の白いビルが私たちの泊まった宿。交差点にある。


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宿から見た交差点。日本ではほとんどの都市で廃止にしてしまったが、路面電車のある街は素敵である。過去にタイムスリップしたような気になる。

ウイーンに来る直前に2~3年前ここを精力的に歩いていた大田君にメールで情報をもらっていた。(あきおくん、ありがとう)しかし今回はちゃんと歩き回れるのは今日一日だったので、結局25年前に歩いたところをもう一度訪ねるに止まってしまった。次(秋)のエジプトはここからの出発なのでその時もう一度時間をとりたいと思う。25年前は同行していた斉藤君がトラベラーズチェックを摺られたり、宿がひどかったりとあまり良い思い出がなかったが今回来てみてウイーンがこんなに素晴らしい街だったかと改めて感動している。道の幅や公園など都市の基本的な部分がとても豊かである。何のかんの言ってもさすがハプスブルグ家の都なのである。都市は土台が大切と思いました。こればっかりは簡単には作れない。

今日歩いた場所は市庁舎、美術史博物館、オットー・ワグナーの郵便貯金局と水門。応用美術博物館、クアサロンであった。最後のクアサロンは19世紀にできた立派なサロンでヨハン・シュトラウスがここの為に曲を書き下ろしたりした場所である。ここでモーツァルト、ヨハン・シュトラウスをアンサンブル・オーケストラで聴いた。モーツァルトはドン・ジョバンニ、アイネクライネナハトムジーク、シュトラウスは青きドナウなど。演奏も音も大変良かった。


応用美術館は写真が撮れないのでイメージがここにはない。ウイーン工房、ヨーゼフ・ホフマン、オットー・ワグナー、ヴァン・デ・ヴェルデなどの家具など、さすがに見るべき物はたくさんあったし、リベスキンドのベルリンユダヤミュージアムの模型など、意外な物も見れてよかったのだが、デザイン・ミュージアムとしては古いというか中途半端な感じがした。日本のもそうであるがデザインミュージアムで素晴らしいと思える物に僕はまだ出会った事がないような気がする。要するに安易にバウハウスやモリスに頼らず、尚かつそれらの歴史を踏まえた上で20世紀をちゃんと総括し、かつ未来に向かったあるべきミュージアムのコンセプトをたて、実現するということを誰もまだできてないということなのだろう。もちろんそれが簡単でないことは承知の上だが。だからとにかく物だけ集めていますという感じにどうしてもなる。見せる側に何故今これを見せたいのかという本気の切実な自省がない感じがするのだ。

20世紀前半のデザインや芸術において既に世界は物じゃなく、関係だというコンセプトが自明であったにもかかわらず、現在のデザインが古色蒼然、後ろ向きに見えるのは何故だろう。

本当の意味での新しいデザインミュージアムは俺が作るしかないのか?とふと思いました。


自然史博物館(ここは昔行ったが)、ミュージアムクオーター、ゼツェッション、シュタインホーフ教会、ウイーン工作連盟ジードルンク、カール・マルクス・ホーフ、その他のオットー・ワグナー、今回あまり気が進まなかったクリムトやシーレも次のお楽しみとなった。


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国会議事堂


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街頭のポスター


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フォルクス公園。誰もが入れる普通の公園なのだが手入れの気合いが違う。


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昨晩シネマフェスティバルを行っていたノイラート、ダイヤグラムチームゆかりの市庁舎に改めて行くも土曜日で入れず。正面玄関の回廊。


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美術史博物館


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自然史博物館。美術史博物館の向かいにある。今回は時間切れで入れず。間にマリア・テレジア像がある。


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マリア・テレジア像


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以下美術史美術館。ここは写真が可だったのでメモ代わりに。ここの美術館は世界的に見ても突出して優れた作品が多い所である。レンブラント、フェルメール、デューラー、ホルバイン、クラナッハ、ファン・エイク、ブリューゲル、カラヴァッジョ、ベラスケス等など。また幼い頃ノイラートが影響を受けたエジプト部門もわりと充実している。


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以下オットー・ワグナーの郵便貯金局。ここも以前来た時は郵便局として機能していたが現在は歴史建造物になっていた。感慨深いものがあった。大学院の修了制作を別々の作品だがコラボレーションとして建築家の菅谷君と共同でやったことを思い出す。


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以下オットー・ワグナーの水門


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クアサロン入り口


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コンサートの幕間に



今日は昼の便でアテネからウイーンへ移動する。
何故ウイーンなのかは説明がいるかもしれない。私たちの持っている航空券はヨーロッパー日本間の往復オープンチケットではなく地球一周用のチケットなのである。これは途中12度飛行機を乗り降りできるのでその分往復チケットよりもリーズナブルなのである。つまり最後はニューヨークを通って東京まで戻るということになる。しかしこのチケットの欠点は同じ空港を二度使えないのだ。一筆書きの原則。だからクロアチアに戻る場合ザグレブ空港はもう使えないのだ。それで今回はリエカとの交通が比較的楽なウイーンにしたのだった。
でウイーンからクロアチアにバスなり電車なりローカルの航空機なりで戻っても良かったのだがせっかくなので今回はウイーン、プラハ、ドイツの東部を見てクロアチアに戻る予定である。卒業生と8月の頭にミュンヘンで落ち合うことにしているが果たして無事に行き着くだろうか。あと二週間弱だが旅は続く。

ウイーンは大変涼しく、街には革ジャンを来た人が歩いている。これまでのギリシアからは想像もつかないことだ。ギリシアから持ってきた麦わら帽子が浮いている。
まるで沖縄から軽井沢に移動した感じだ。(沖縄には行った事がないので想像ですが)
正直言って身体が喜んでいる。ほっとするというか一息つける感じ。ギリシアの暑さと日の光の強烈さは尋常じゃなかったから。あそこは神々とゆばあば(千と千尋)のような女達の住む場所だ。人間はまるで陽炎のようだ。
どの場所でもそうだが訪れた場所と季節の関係は記憶の中で強く結びつくだろうと思う。僕にとって春先のアイルランド。夏のギリシア。

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アテネ。飛行場へ向かうバスから。

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ウイーン。25年ぶりである。

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宿に荷物を置いて街を散策。トラムに乗ってカールプラッツの昔の地下鉄駅舎へ。オットー・ワグナーの設計である。前に来たときは駅として機能していたと思うが今回博物館のようになっていた。中には入れなかったが。

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芸術家の家。工事中だった。

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オペラ座。

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シュテファン大聖堂。

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オットー・ノイラートゆかりの市庁舎ではシネマフェスティバルが行われていた。はじめはこの正面の建物が市庁舎とは気づかなかった。

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何と2000人近い人々が集まっていた。

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シネマというから映画かと思ったら音楽のライブ映像で、この夏私たちも行ったローマのカラカラ浴場を舞台にしたオペラ映像の上映であった。オリジナルのオペラではないのに何故こんなに人が集まるのか少し不思議だったが、さすがにウイーン、音響は抜群であった。
他の日は音楽のアニメなどもやるようだ。

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ただ、あまりにも寒く途中で帰宅することに。


この日は一日この博物館で過ごす。前回見落としたもの、ゆっくり見れなかったものなど。

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まるでマティスのような...。

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ツアー中はネット環境が悪くブログの更新はもとよりメールすら見れない状況が続いた。ここアテネでも今一つ不便でゆっくり考えながら更新することができない。限られた時間の中でデータをとりあえず、載せている状態が続く。

ギリシア(アテネ)を自由に歩き回れるのはあと二日だけとなった。


この日はアクロポリスを中心に歩き回る。パルテノン神殿、イロド・アティコス音楽堂、ディオニソス劇場、アドリアヌス門、ゼウス神殿、アドリアヌスの図書館、ローマン・アゴラ、風の神の塔、古代アゴラ、ヘファイトス神殿、アタロスの柱廊博物館などなど。

旅の途中なので直感的なことしか書けないが、ここはこれまで見てきた遺跡とは異なる印象を受けた。それはまず単純に遺跡が町中、しかも巨大都市の中にあるということによると思われる。最初アテネに到着してホテルの屋上テラスから見たアクロポリスの丘は、それ以外の喧噪に包まれた町と比較して頼りなげというか、単なる文化遺産だから残してます、観光名所だしという感じを受けた。しかし今日歩き回ってみて感じたのは、表層はそう見えるのだが、実は第一印象と全く異なっている事に気づいたのだ。

この町には神殿が建てられたころからあった磁場がそのまま強烈に残っていると感じられる。

都市の中にある遺跡ならローマだってあるじゃあないかという話にもなるのだろうが、ローマははっきりいってここほどの磁場はない。ローマはローマ人の都でもあったがむしろ、キリスト教徒の都であり、ルネッサンスであり、なによりバロックの都なのだ。ローマ人もギリシアを見倣って神殿を作ったがここに来てみるとローマ人とギリシア人の神殿に対する構えと言うか何と言って良いかわからないが(本気度?)、とにかく異なると感じるのだ。異質というよりもギリシア人の方が空間の聖性に対する感受性が圧倒しているのではないかと思えた。ギリシアを支配下に置いたにもかかわらず、(実際、武力、経済、政治と多くにおいて優っていたローマが)こと文化に関する事はずっとギリシアに対して謙虚であり続けた理由が少しだけ分かったような気がした。

これは少なからず新鮮な感動であった。結局、異教(キリスト教や回教)、近代産業社会、消費社会と町を覆っているものは替わっていくのだが、それでも簡単に消えないものを作った人々に改めて強い関心を持った。

それを可能にしたものは何だったのだろう。

そういえば歩きながらかつて学生時代に読んだ多木浩二さんと前田愛さんの空間のコスモロジーに関するテキストが頭に浮かんだのであった。またこの場所はギブソニアンならば「ヴィスタ」について考えさせられるのではなかろうか。


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メテオラは奇岩群の頂上にある修道院で有名である。ここの修道院は14世紀頃から作られたギリシア正教であり、様式はビザンチンである。現在は5つの修道院に人が住んでいるらしい。私たちはこの中のルサヌーとアギオス・ニコラオスの二つを訪ねた。

その後ひたすらアテネを目指し、夕方6時頃アテネに帰還する。だいたい800kmのバス旅であった。

慣れないツアーなので気疲れしたせいか体調を少し壊した。ツアーの後半から主治医(?妻の事)の命令もあり禁酒生活に入る。

4月からこっちセーブすることなく、ずっと元気に酒は飲んでいたので、いい加減節制しろというゼウスのお告げだと思った。


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午前中デルフィの遺跡を見る。ここはアポロンが信託をしたところとして、またアテネからも日帰りで来れる所でもあり、観光客も多く有名である。古代にはギリシアだけではなく世界の中心とされていた場所である。そういえばアイルランドにも世界の中心はあったが。

ここは雄大なパルナッソスの連山の中、山の斜面を利用して作られた巨大な聖域である。すそ野にはオリーブ畑が広がり、あまり高くはない糸杉(ジプレッツェーン)が印象的である。遠くにはコリンティアス湾も見え、とにかくロケーションが素晴らしい。神話が信じられる雰囲気が充満している。あのオイディプス王の悲劇も、ここでの神託によるものだ。私たちの今回の旅はトルコのディディム(アポロンの神託した聖域)といい、ディロス島(アポロンの生まれた島)といいアポロンに縁が深いと改めて気づかされた。

午後はメテオラに向かう為に北上するのだが、途中で添乗員が変わったり、バスの乗り換えがあったりのかなりの混乱であった。全くやれやれという感じである。団体行動に我慢を重ね、メテオラの近くのカランバカという町に宿泊。

この日に合流した人の中に日本から来たカップルがいた。夕食時、久々に日本の様子などを聞く。ガソリンの値段のことやそれにともなって様々な物が値上がりしている話。医療制度が変わって混乱していることなど。(この二人は医療関係者だったのでその情報は特に詳しかった)地震の予知の話や今年は東京が43度になるという予言の話も。

本当ですか?


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混乱の予兆。予定していたバスが来れなくなって急遽、このような乗り物に乗ってデルフィの町見学。


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2日目はオリンピアの遺跡と付設の考古学博物館を午前中かけて見た。スポーツを古代の人がどのように考えていたかとても考えさせられる場所であった。空気がとても清浄であった。古代オリンピックの哲学というか魂というか。

その後午後はほとんど移動時間である。パトラを通過してリオというところからコリンティアコス湾に架けられたアンティリオン大橋を渡りギリシアの中部へ。次の目的地デルフィで宿泊。

夕方にデルフィの博物館へ行った。1時間と少ししか時間が与えられず大変不満ではあったがここの博物館はとても素晴らしかった。

青銅の御者の像、勝利の女神ニケやヘルメス!の像(ギリシア彫刻の傑作群)など。


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以下オリンピアの遺跡。


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以下考古学博物館。


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アンティリオン大橋


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アンティリオン大橋記念博物館


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以下デルフィの博物館


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これは単なるお土産。

今回のギリシア旅行の日程は今年の3月に日本で決めておいたものだ。島々は宿だけ決めて自分たちで勝手に動き回ったが、ペロポネソス半島とギリシア中部は交通が不便と聞いていたので旅行会社の三泊四日のツアーに参加する事にした。

1日目はアテネを出発。コリント運河を渡りペロポネソス半島に入り、エピダウロス遺跡の古代劇場を見る。ここでは古代の医療、ヒーリングの聖地で医神アスクレピオスがまつられている。劇場、音楽、スポーツ、医療、浴場が合体しているのだ。ナフプリオンの町を通過し、アルゴス平野をわたりミケーネ遺跡へ。ここはバルカンから南下したギリシア人がクレタ文明を引き継いで独自化しミケーネ文化を築いたところといわれている。

その後バスで西に移動し、メガロポリスを通ってオリンピックの発祥の地オリンピアで宿泊。

あらかじめ覚悟していたことだが、遺跡や博物館では見学の時間を制限され、せかされ精神衛生上はとてもよくない。(そのくせ土産物屋での滞在時間が長いのだ)英語だがガイドがつくし、宿の心配、交通の心配をしなくて良いのはらくちんではあるけれど。


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この日は丸一日この博物館に時間を割く。約7時間程いたがさすがに後半は集中力がきれる。いつもはこのブログではなんとかその場で編集して写真を選ぼうとはしている。しかし情報量が多くて短時間では無理である。

この日の分はランダム(=適当?)にさせてもらう。


明日からペロポネソス半島とギリシア中部に移動するのでここにはその後再度来てもう少しゆっくり見ようと思っている。


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この日はアテネへの移動日である。午前中、宿でブログの更新などをして空港へ。(空港まではイクラリオンから20分程度。大変便利である)しかしトラブル発生。日本で予約したバウチャーを持って航空会社のチケットカウンターに行くとこの便は6月の終わりにキャンセルされている。電話連絡をとったが応答がなかった。またリコンファムもされなかったので残念ながらあんた達の飛行機はないと言われる。「エーッ??」と言うと(それ以外言葉が出てこない。そこで私たちは英語が得意じゃないのでもう一度ゆっくり説明してくれと言ったが結果は同じであった)しかし4時間後の飛行機があるからそれには乗れますという。全く信じられないが確かに私たちの予約した便そのものはなくなっていた。予約をしたのは3月だったと思うが、このようなことがあるとは。誰に文句つけて良いかわからないし、あきらめる。広くて人も少ない空港の待ち合い室で手紙を書いたり、記録をしたり読書で時間をつぶすことに。


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この日はイクラリオンから最も遠くにある遺跡、フェストスへ向かう。あの神秘のディスクが発見されたところである。イクラリオンから63km南、島の反対側にある。クレタの島は高低差が激しく万年雪を抱えた山もある。植生もそのせいで多様であるという。フェストスまでこの高低のある山道を1時間半くらい走る。フェストスの遺跡が作られたのは4100年前、その後一旦地震で崩壊し、400年後に再建された物が現在の遺跡である。

遺跡からの帰り道(バスで30分くらい)にゴルティスの遺跡があるので寄った。ここはガイドブックなどにもそっけなく1行しか書かれてない所であったが実際は大変興味深いところであった。ここは古代からローマ時代(ローマ支配時代の首都)中世のビザンチン教会までが混在している場所であった。丘にはおぼろげながらかつての劇場の形が残っている。実際は広いのだが発掘中らしく、見学できる場所が限られていたのは残念である。ここは大きなオリーブの樹が印象的だったが、入り口のおじさんの説明だと1200年前のオリーブと言っていた。本当かどうか、信じられないけど。

またここで特筆すべきなのはゴルティン・ロウ(law code of gortyn)が思わず見れた事だ。これは紀元前5世紀頃ここにあるローマンオデウム(劇場)に残されたもので縦3メートル横8,5メートルの石盤にびっしりと文字が刻まれている。文字は古いギリシア語らしい。英語の解説書があったので詳しくは帰ってからになるがアルファベットの変遷を確認する上でとても貴重な資料であった。

バスの温度計は40度を示していた。日の照りつける遺跡はもっと暑いような気がする。これほど高温のお湯になったペットボトルの水を飲むのは初めての経験である。


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以下フェストスの遺跡


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フェストスのディスクの発見場所。


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珍しく記念撮影をした。


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ここからはゴルティスの遺跡。


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イクラリオンの町の復元模型。ベネチアが支配していた時代。

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模型と同じ遺構が見える。ホテルはこの裏手にある。

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ユダヤ後

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カレンダー。18世紀だったと思う。

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ゴルティス遺跡。

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カザンツァキス

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会場の最後の所にとても意外なものが展示されているのを発見。説明しません。分かる人には分かるでしょう。

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最後はとても小さなエル・グレコ公園にて。


昨日にクノッソス遺跡について問題ありと書いた。今日は同じ時代のマリア遺跡を訪ねる。イクラリオンの町から約40kmで海の近くにある。
果たしてここの遺跡の状態はいかなるものかと少し心配していた。ここはギリシア人考古学者が発掘にあたっている。クノッソス遺跡への批判を踏まえた所為だろうか、ここは極めて真っ当なやり方で保存と修復、展示を行っており安心した。また昨日のクノッソスで自分の感じた事がまちがいではないと改めて確認することができた。ここはエントランスのギャラリーに遺跡全体の模型と、復元模型がちゃんと展示されている。
その後、マリアのビーチで海を見てからイクラリオンの町に戻る。
その後クレタ歴史博物館を訪ねた。ここは小さいながらも充実した展覧会を行っており感心した。細かいことには触れられないが現代ギリシアの小説家、思想家であったカザンツァキスの展覧会は特に力がこもっており印象深い。映画「その男ゾルバ」の原作者として日本でも知られている。彼は生涯多くの旅をしたらしくそれを軸に構成した展示だった。こちらも旅の身の上なので感慨深く見た。彼は戦前の日本にも滞在しており「石の庭」という小説を書いているらしい。

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マリア遺跡前

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復元模型

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あくまでも復元ではあるがこれが3700年前というのは信じがたい。ドコモモ

http://www.docomomojapan.com/

にあっても誰も驚かないだろう。


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発掘中の人々


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イラクリオンのベネチア支配時代の遺構。宿のそば。

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クノッソスの遺跡の後、同じ日にイクラリオンの考古学博物館に行ったのだが、クノッソスのエヴァンスに「けち」をつけた以上、同じページに書く気にならず項を改め0707-2とする。実際この前後は同行している妻も僕も体調を壊し(妻はお腹の調子、僕は目が痛くなった)たのだ。まさかエヴァンスの呪いじゃないだろうが。

項を改めたのはもうひとつ理由がある。この博物館がとても素晴らしかったからだ。その中でも特筆すべきなのはフェストス(phaestos)の円盤を見れたことである。今から10年前、ゼミのまとめとしてwriting space design 98/99という本を石塚君やカトケンや中蔵君と苦労しながら作ったのだがその巻頭のページにCDのディスクとこのフェストスの円盤を並べてレイアウトしたのだった。僕はこの二つをつなぐ物がwriting space designを意味していると当時思っていた。(今もそれは変わらない)その時はまさか10年後に自分がそのオリジナルを拝めるとは想像だにしてなかったが。

フェストスの円盤は想像以上のものだった。まだ解読されていない。


10年前の自らの振る舞いが今を決定しているのだ、と改めてグレゴリー・ベイトソンのことを思い出した。


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パンサーです。


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蜂のブローチ


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この文様はミロス王の家紋、もろ刃の斧。ラビュリントスを表しているという。


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水晶でできた器


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クレタを象徴する牡牛


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蛇を持つ女


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ライオネス


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これが単なるフレスコなのかどうか分からない。


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印章


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フェストスのディスク


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昨日の夜クレタ島のイラクリオン(英語表記だとheraklionヘラクリオン)に上陸し港の近くに宿をとった。ここはギリシアの島々の中で最南端、かつ最も大きい島である。300km向こうはアフリカ大陸である。ここはギリシア文明発祥の地といわれる。人が住み始めたのが今から約9000年~8000年前で5000年前から高度な文明が存在し、3800年から3500年前にひとつの最盛期を迎えたといわれている。前日訪れたサントリーニ島もその中に含まれ、これら全体をギリシア文明と呼んでいる。

ここにはクノッソス、フェストス、マリアという三つの重要な遺跡がある。

今日はまず私たちのいるイクラリオンの近く(バスで約20分)のクノッソス遺跡を訪ねる。これはギリシア神話の中でも特に良く知られている場所である。クレタのミノス王が自分の息子であるミノタウロスという怪物を閉じ込める為にダイダロスに作らせた迷宮=ラビュリントスとして。クレタがアテネをも完全な支配下に置いていた時代である。

また、これが単なる神話ではなく実在のものであったことを英国の考古学者アーサー・エヴァンスが1900年に発掘し、歴史上の事実として証明したことでも有名である。

そしてこのことからかつてプラトンの述べたアトランティス文明がここやサントリーニ島であったのではないかという話にも繋がるのだ。

そういった(興味深いが)細かい話を詳述する時間がないし、ここでの目的でもない。とりあえず私たちは写真のようにこのクノッソスの遺跡を訪れた。ここはかなり広大で興味深いものがあり、その重要性はよく理解できた。

しかし(これまでもいろいろ言われていたらしい)残念ながらアーサー・エヴァンスによる発掘と修復にはかなり重大な問題があると思った。私は考古学の専門家でも修復の専門家でもないのでとやかく言う筋合いはないのだろうが、これまで様々な遺跡を見てきた直感で言わせてもらえばエヴァンスは間違っていると思う。彼は修復と称して遺跡をコンクリートで再現(再構築)しているのだ。だから結果として建物の姿など、見る人にとっては分かりやすいのかもしれない。床も平らになって歩きやすい。しかし現地でこれは絶対やってはいけないことだろうと思う。別の場所に再現するならば別だが。だから見ていてどこまでがオリジナルでどこからが手を加えた物かがわかりずらい。しかも本当の修復ならば本来、当時と同じ素材、同じ工法をとるべきなのに例えば本来木であっただろう部分はコンクリートに着彩なのである。まるでへたなアミューズメントパーク化しているのである。しかも修復ではなくて適当な所であいまいに廃墟化しているのだ。まずそのことに驚かされた。どんな基準でそのようなことを行ったか理解できない。

ガイドブックには「約3700年前の宮殿が復元され、想像以上に生々しく保存されているのに驚かされる。...それらは訪れる者のロマンをかきたて、神話の世界へと誘う。」などと書いてあるがこれはとんでもない犯罪行為だと思え実は気分が悪くなった。

遺跡を見るという事は見る側にそれなりの想像力を必要とするものではないのだろうか。 

この遺跡の発掘により、先に述べたようにギリシア文明の存在が決定づけられたことは間違いない。しかし昨日のアクロティリ遺跡などの発掘(これらはエヴァンス以降)から見るとエヴァンスの行為(イギリスの考古学研究所が現在も管理しているらしい)は考古学として超えてはならない一線を超えたのではないかと思えてしょうがない。とても残念に思った。


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これはヨーロッパにおける最古の「道」だと言われている。


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昨日も書いたが、アクロティリ遺跡を見れない事に失望しつつ今日は移動の日である。夕方次の島クレタ島に渡るまで博物館に行くことにした。最初はフィラ考古学博物館である。ここは入り口に紀元前17世紀の大壷があると聞いていた。ちゃんとありました。博物館の多くは撮影自由なので(フラッシュさえ焚かなければ)調子良く撮っていたら壁に「撮影禁止」の張り紙。なので中途半端なものになりました。

そして問題の次の博物館、新先史期博物館へ。これまでのギリシアでの博物館は全体的に規模も小さく(島にあるせいか)見せ方も適当な感じでどうもイマイチな感じがしていたのだが、ここでは良い意味で大きく裏切られた。予備知識もなかったせいだが、ここは新しい博物館で私たちの行けなかったアクロティリからの出土品がメインの博物館だったのである!

全てが今から3700年から4000年前のものなのである!。

写真をご覧になっていただければわかるが保存状態は極めて良い。50年前のものと言われたって信じるだろう。焼き物類を見ながら「ウオーツ。光悦!」とか「宗達!」とか「光琳!」とか「岡本太郎!」とか口走りながら見ました。

凄いです。

そして壁画。驚くべき新しさ(変な形容ですが)というか何と言うか。

圧倒されました。細かい話はあるけど書けない。

そういえばこの日のサントリーニの気温は39度でした。


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フィラ考古学博物館


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例の大壺


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ここは主にティラ遺跡出土なので紀元前9世紀以降のものが主であった。


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レリーフのディテールを見ると西アジア(ヒッタイトなど)の影響が強いように見える。

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新先史期博物館入り口。

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しつこいようですが以下全て3700年以上前のものなのです。トルコ、アンカラのアナトリア文明博物館で受けた衝撃(0513)と似たものがあります。規模はアンカラの方がはるかに大きいのですが。

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テーブルの脚!。

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串置き?

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青銅ののこぎり

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このエロティックな絵はThe Wall Painting of the Ladiesというそっけないタイトルがつけられたものですが、後に掲示するブルーモンキーも含めて初めて見るという人が多いのではないでしょうか。ローマのフレスコにも驚きましたがあれよりも千数百年以上前ですよ。僕はにわかには信じられません。

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壁画。ブルーモンキー

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アクロティリ遺跡の模型の部分。この博物館は収蔵品もさることながら展示の模型、グラフィック等とても良くできていた。

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港でクレタ行きのフェリーを待つ。前回同様しっかり1時間遅れで到着。クレタ到着は9時となった。

この島の名前サントリーニは何故か分からないが近代になって名付けられたもので昔はティラ島と言っていたという(thera寺)。この島への第一の目的は昨日記したように紀元前1500年、つまり3500年以上前の大噴火で埋もれ、再発見されたアクロティリ遺跡を見る事であった。(この間の事情はポンペイと同様だが何しろ火山灰によって保存されたものの年代が桁違いである)ここはつまり4000~3500年前のギリシア文明が封印されているところなのだ。しかしこの遺跡は2~3年程前からクローズドになっている、今回行っても見れないかもしれないよとは聞いていた。あらためて今回現地で確認したのだがやっぱり開いていなかった。アクシデントがあったからという説明だが詳しい事は分からなかった。残念ながらここは断念することに。今後行く予定のアテネの考古学博物館にめぼしいものは展示されているそうなのでそちらを期待することにした。

もう一つの目的地は古代ティラといわれる紀元前9世紀から1000年以上かけて栄えたというティラの遺跡である。ここは島で最も高い嵓山の上にあり、麓までフィラの町からバスで行き、麓でミニバスに乗り換えて8合目あたりまで行く。そこから徒歩で登る。こんな高い山の上の遺跡はめずらしい。ロドスのリンドス遺跡も高かったがタイプはかなり異なる印象だ。

帰りにワイン博物館を訪ねる。すいません。かなり個人的な下心がありました。ここは火山灰質なので土壌がワインに適しているのだという。試飲した収穫後のぶどうを一旦2週間ほど干して作ったワインを購入。

バスで夕方フィラの町にもどり、一旦宿で休憩。夕方の5時から8時まで開いている町中のメガロン・ギジ博物館へ。ここは建物が古く17世紀のもの。展示物は16世紀以降の島の歴史を示す地図、文書、写真などである。50年前の地震の様子を示す写真などが興味深い。


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左下が8合目あたり。ここまでミニバスが来る。


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遺跡の入り口付近にあるギリシア正教の小さな寺院。建てられたのは中世。


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以下ワイン博物館


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以下メガロン・ギジ博物館。サントリーニ島の火山の様子を示す銅版画。


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かつて、この島を支配したオスマン・トルコのスルタンの手紙。


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1956年(私の生まれる1年前)の噴火。


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オールドポート。現在もロバがいて人を運んでいる。


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博物館入り口。


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博物館横の教会。


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昨日と同じ夕日の名所。この真下がオールドポート。


昨日、目的のデロスを見たので今日はゆっくり起きて朝食をとり、ミコノスの考古学博物館へ。BC9世紀から6世紀にかけてつぼ絵が抽象形態(渦巻き)、動物(信仰)、人間(神話)へとはっきり変わって行くのを見る事ができた。

その後エーゲ海洋博物館へ。ここは町中の小さな私設博物館である。収集や見せ方も偏っているが私としてはいくつかの地図とコンパスなど航海器具をまめて見れたのが収穫であった。これもwritingの重要な道具なのだ。

その後、次の目的地サントリーニ島に行く為にフェリー乗り場へ。2時45分の出発予定が1時間遅れる。結局6時45分に無事サントリーニ島に到着。

ここは白い街並が断崖の上にある。それが雪が積もった様と形容されることで有名だ。島の構造がミコノスや他の島々ともかなり異なっている。何故ならばこの島は火山島でBC1500年前の火山で今の形になったという。ここで栄えたかつてのキクラデス文明もその火山によって埋没したといわれる。フェリーポートからはバスで20分程断崖を上ることになる。私たちの宿のあるフィラという町は1956年の火山による地震で崩壊し、その後にできたものだそうだ。

同じ観光地でもミコノスと異なりこの島との相性は良い気がする。

宿に荷物を置き町の散策。有名な夕日を見る。


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以下考古学博物館にて。


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BC7


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博物館中庭


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ここからエーゲ海海洋博物館


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博物館中庭


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サントリーニ島のバス


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宿のテラス。ここは東向き。


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向こうに見えるのが2000年前にできた火山島。


そもそも観光の島ミコノス島に滞在しているのはこのデロス島に来るためである。この島は紀元前1世紀に西アジアの国に滅ぼされて(島民1万人が殺されたという)以来、人は住んでおらず19世紀にヨーロッパ人の(ギリシア人自身の)ギリシア再発見とともに発見された古代遺跡である。ここはアポロンとアルテミスの兄妹が生まれた島として(もちろん神話上だが)エーゲ海の島々の中でも最も中心的な場所の一つである。約2000年来人は住んでおらず、現在は島自体が遺跡として保存されている。なので当然宿泊施設などはなく、ここに行く為にはミコノスから4キロだが船で1時間弱かけて行くしかないのだ。行きのフェリーが午前中3本、帰りが午後に3本あるのみ。私たちは朝一番のフェリーに乗り最終便で帰ってきた。島は日をよける場所がほとんどない。

唯一の建物がディロス博物館である。

さすがに来た甲斐があった。その規模はトルコのハットゥシャシュにほぼ匹敵するだろう。小高い山の上のゼウスのサンクチュアリからの眺めは絶景である。


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ディロス島


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ディロス島博物館にて。


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顔料


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驚くべき文字!


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ゼウスのサンクチュアリ


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復元図


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ミコノスに戻る。


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朝、6時半に宿を出て地下鉄でフェリー乗り場に行く。約30分。フェリーは思ったよりも大きく、埠頭は夏休みの観光旅行客でごった返していた。フェリーも満員。船は7時35分にピレウス港を出発、途中シロス島、ティノス島に寄りながら13時にミコノス島に到着。

島を散策。翌日のディロス行きの準備。インターネットでメールの確認とブログの更新をしようと考えていたがホテルでも町のインターネットカフェでもラップトップの持ち込みでは交信できないことがわかり断念。

夕日から完全に暗くなるまで宿の屋上で過ごす。夕日はさすがに美しい。思った程、星は見えなかった。

ミコノス島はいわゆるギリシア観光の中心の島の一つらしい。それはいわゆるビーチ(ヌーディストビーチとホモセクシュアル?)、ナイトライフ(ディスコ?)に代表されるもので要するに遊ぶ為の島であるらしい。私たちには何の関係もないので、いかにも欧米からのリゾート顔した旅人の中、ああ来た時期が悪かったと思った。例のいやな予感。観光にはおそらくベストの時期なのだろうけど。

悪い予感は大抵あたる。ホテルの住人が夜中に騒ぎながら町に(多分)繰り出し、朝がたに戻り、その度に起されるのには閉口した。

なんて上品なものではなく、実は夜中にあまりにも頭に来てドアをあけて怒鳴ったのだった。ここ二三日あまり眠れてなかったのでよっぽど頭にきたのだ。(翌日は大事なディロス行きが控えているし)何と怒鳴ったか忘れたがもちろん日本語である。あなたは怒るとああいう言葉になるのねと妻は言っていたが。多分九州弁で怒鳴ったのだろう。

ミコノスの印象、最悪である。



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ピレウス港


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途中の島


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ミコノス島の宿のテラスから港を見る。


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教会


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風車。ここは風が強い。


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島にはギリシア正教の小さい教会が無数と言いたいくらいある。


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朝4時半にリエカの家を出て、5時20分発リュブリャナ行きの電車に乗る。8時にリュブリャナ駅到着。バスで飛行場に行き、12時45分初アテネ行きの飛行機に乗る。

時差が1時間減って東京との時差は6時間。

宿に荷物を置き、アテネの町を散策。

翌日の朝早くからから島巡りに出るので、アクロポリスなどアテネの町をゆっくり見るのは旅の後半になる。


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リュブリャナの空港にて。


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宿のテラスから見えるアクロポリス。奇妙に現実感がない。アングルもいまいちと思うのは気のせいかもしれない。


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町中から見上げるアクロポリス。やっぱり現実感少なし。


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国会議事堂前


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ライトアップしてること自体がうさんくさいような。


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旅の準備の大詰め。

年のせいだろうか。ローマの旅の疲れがなかなかとれず、やっと前日になって次の旅への緊張感がたかまる。

諸々、交信の必要にもかかわらず、またしても自宅でネットができなくなり、急遽カフェコントへ。

どたばたの一日。

ソボルさんに借りた本の複写。

翌日朝早いのでなるべくはやく寝たかったのだが寝付けず、結局2時間ほどの睡眠しかとれず。


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旅の準備。

7月後半の宿の手配など。

夜、サッカー「ドイツ対スペイン」観戦。

ちゃんとスペインが実力通り勝ててよかった。

本当は3対0くらいの差なのに1-0なんてドイツはしぶとい。

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終日旅の準備など。

やっと7月後半の旅程が決まる。

買い出し。ダリンカさんに教えてもらった近所の別の小さなマーケットへ。歩いて約20分。ここのパイはおいしい。行くだけで汗だくになるが。

あとはひたすら読書。

「ギリシア神話」の続き。

「ローマ散策」河島英昭著 岩波新書。

8月の旅行の計画など。


以下ローマ覚え書きの付け足し。

ローマには本当に魅力的な本屋がたくさんあった。しかも美術書や映画の本専門である。店の構え、ディスプレイからして美しいのだ。街角を歩いているとそのことは気配からわかるものだ。

また当然ながら各美術館にはミュージアムショップがあってここにも多くの魅力的な美術書がこれ見よがしに(?)置いてある。

しかし!

今回、何冊かの例外を除いて本は買わなかったし、そのような本屋にも意識的に入る事はしなかった。

その理由は一旦入ってしまうと自分が冷静さを失ってしまうような気がしたから。

恐らくバッグに溢れてこの先読みもしない本まで買ってしまいそうな気がしたのだ。

妻は不思議そうに「本屋さんには行かないの?」と聞いたが。

ともかく今は本じゃなくて「実物、実空間!」だろと自分に言い聞かせたのであった。

「...」。

それで良かったかどうかは自分でも分からない。

次にローマに行ったときはどうなるのだろう。

河島さんによれば古本でいえばローマよりもナーポリが凄いらしい...。


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相変わらずの強烈な暑さである。

自宅でひたすら読書。「ギリシア神話」呉茂一著 新潮文庫。文体は少し読みにくくはあるが大変な名著だと思う。ヴィジュアルコミュニケーションに関するこのような本があれば良いのにと思いながら感動しながら読んでいる。

前にも書いたが自慢の船で(実はボートではなくちゃんとした船であった)アドリア海クルーズに出かけていた大家のユリックさんとダリンカさんが夕方帰宅。

夜、ユーロ選手権、ロシア対スペインをTV観戦する。スペインは何となくだが、もし日本が強くなったらこんなチームになるのかなあと思わせるタイプのチームである。全体に小柄だが機敏に良く動き、でかい相手に運動量とテクニカルな戦術で対抗する。でも時として技に溺れがちでもある。(にわか評論家をお許し下さい)ロシアはあのヒディングが率いるチームで前半は健闘していた。僕はこの試合は何となく無骨なロシアを応援することにした。前半は互角であると思われた。ところがハーフタイムの後突然ロシアは乱れだしぼろぼろになって負けてしまった。サッカーとは本当に不思議なスポーツだと思った。結果いよいよ、ユーロ選手権も大詰めでスペインとドイツの一騎打ちとなった。


今読んでいるギリシア神話でもそうだが、これまで旅した中で見たここクロアチア、そしてトルコ、ローマの様々な遺跡の中、競技場つまりコロッセオと劇場というのはどれも印象深いものばかりであった。(当時の人々がいかにそのことを大事にしていたかという意味で)

それで今日スポーツといっているものの意味が、それまでよりも僕にとって別の大きな意味を持っていると感じられ出したのだ。

僕らは子供の頃、スポーツは「余暇」だと教えられてきた。あくまでも普通の日常生活の付け足しの様な扱いであった。同じように学校では美術も音楽もそのような扱いであった。(日本における民主的戦後教育の成果?立身出世とは無縁の?)

しかし本当は違う。美術もスポーツも演劇も余暇なんかじゃない。何を馬鹿な事を...。

と2000年以上前のギリシア人やローマ人が言っている様な気がするのだ。


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今日はクロアチアの祭日である。朝から強烈に暑く、強い日差し。午後、昨日買った切符の再確認の必要が生じ再び駅に行くはめに。町は閑散としている。おそらくこの日差しの中うろうろしている人のほとんどが旅行者だと思う。私たちもついでに四たび博物館へ向かう。しかし何とまたしてもお休み。よほどこの博物館とは縁がないのだろう。博物館の前で愕然としている旅行者を見かける。その後歩いて駅に向かう途中のバスセンターの側の教会に暑さを逃れようと入ると何とここも閉まっていた。ここでもがっくりしている旅人がいた。私たちの近所、トルサット教会は開いているよと教えたかったが大きなお世話かもしれないと思い黙っておく事にした。

クロアチアでは(おそらく他のヨーロッパとアメリカも)6月から小中学校(多分高校も)は夏休みということだ。大学は6月までやっているところもあるらしいが。ともかく夏休みが3ヶ月と長い。日本の子供たちが聞いたらさぞうらやましいと思うだろう。それで町のあちこちにバックパッカーの若人たちを見かける。

夜はユーロ選手権のドイツ対トルコをTV観戦する。

やはりどうしてもトルコを応援してしまう僕であった。ドイツは一時トルコを植民地化していたのでお互いの国民感情はどのようなものかと考えながら見てしまった。(もちろん単純なものではないと思われる)

(にわかサッカー評論家になって恐縮だが)試合内容は実際僕にはトルコの方が好ましく感じた。結構良い試合だと思ったが残念ながら最終的にはドイツのつまらない省エネサッカーが勝った。

ともあれサッカーはどっちかに肩入れするというか応援して見た方が楽しいのだと思った。いつのまにかユーロ選手権の興奮に私たちも知らずのうちに巻き込まれているのかもしれない。このトルコに負けた(後で知ったのだが)クロアチアでは今でもTVのゴールデンタイムであの時こうしてれば的な番組を放送しているのだ。あきらめが悪いというかよっぽどくやしかっただろうなと思う。


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ダリンカさんとユリックさんは旅行で不在なので庭の水やりをする。


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午前中、次の旅のルートなどを調べる。

家の外に出る気が起こらない程、日差し強烈。日本でいえば高気圧の張り出した8月の初めあたりの感じです。そう山下達郎的です。

午後から一人で(妻は自宅で読書)例のごとくコンチネンタルに行きだらだら汗を流しながら23日までのブログの更新を行った後、7月1日のリュブリャナ行きの電車のチケットを購入の為歩いて駅へ。そもそもリュブリャナ行きの電車が動いているかどうかが不明だったのだが、7月1日朝5時20分のリエカ出発が決まる。(駅員はとても親切な女性だった)そのまま即日リュブリャナ空港からアテネへ向かうことになる。

夜、ドイツ、チェコなどの日程を検討。


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バルコニーの日よけの出し方を教えてもらった。


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カフェコント

旅の整理の続き。食料や日常雑貨の買い出しなど。


ソボルさん、マイーダさんが訪ねてきてくれる。私たちのこれからの旅程などを伝える。今後の計画は7月からギリシアに18日、オーストリア、チェコ、ドイツに14日ほどの長旅が控えている。これらの大雑把な計画は出発前に決めておいたものだが、ギリシア以外はルートをまだ決めておらずこれから計画を立てねばならない。リエカに到着してもローマの余韻にゆったり浸る時間がなく、少し慌ただしい。


ローマに関しての簡単な覚え書き。

このブログを読み返すとその場その場で無責任というか勝手でぞんざいな印象を書いていて我ながら恥ずかしいが、まあそれはライブということで保存しておこうと思う。ローマについてはもっと時間が経たないと書けないし、再度、訪れるつもりなのでおいおい書く事になるだろう。


ジェラートはさすがにどこでもおいしかった。いつも食べるのに忙しく写真など思いつきもしないので画像記録はないが。

その他食事のことなど。

ヴィラ・ジュリアで三島由紀夫邸を思い出したこと。

二人のミケランジェロ、ブオナローティとメリージのこと。ミケランジェロその人と通称カラヴァッジョの二人である。

松に代表される植生とそのコントロールの仕方について。相当な強い意志を感じた。これに関しては恐らくちゃんとした文献があるのだろうと思うが...。


朝から掃除や洗濯、旅の荷物の整理など。

サッカーでは一昨日にクロアチアは負けたらしく町は静かである。しかも今日は日曜日で祭日(ファシズム抵抗の日)らしい。午後、コンチネンタルでブログの更新を行う。ローマの旅の最終分である。今回の旅行ではホテルでのインターネット環境は完璧で、スピードも日本と同じくらい(この旅で初めて)で快適であった。しかしここコンチネンタルでは相変わらず交信に時間がかかり、全ての更新が終えるのに3〜4時間もかかってしまう。自宅にネットが敷かれるのは8月からである。今少し不便なネット生活に耐えねばならない。

そういえば前日の出発時、電光掲示板に従ってホームで電車を待っていたら直前になってプラットホームの変更アナウンスが流れ、あわてて移動することになった。イタリア語のアナウンスは全く理解できないので周りの乗客の動きに従ったということだが。

ともかくも夜行電車で無事トリエステに戻る。朝の8時頃到着。やはり少ししか眠れず。ただバスと異なり体を伸ばせるので疲労度は全く異なるし、もう少しで自分の家に帰れるという安心感もあってそうつらくはなかった。トリエステから8時半リエカ行きのバスもあったが遅らせて12時半までトリエステで過ごす。

帰りのバスではパスポートコントロール(イタリアースロベニア間)で入国拒否をされた南アフリカの女性がいて、結構もめていた。土曜日ということもあり、お役所はどこも休みなので彼女(白人)は国境沿いからタクシーで入国地点のトリエステまで戻る事になった。(ようだ)言葉がわからないので詳しい事は不明だがシェンゲンがどうのこうのというのは聞こえた。そのせいでバスは少し遅れたが無事リエカまで帰還。

「ローマは暑い、暑い」と書いてきたがクロアチアはもっと暑くて驚いた。ただここはイタリアよりも幾分湿気が少なく感じる。しかも家は丘の上なので夜になると風が出て温度が急激に下がり、寝苦しいことは全くない。


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トリエステ。駅は町の中心から少し離れている。


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港に向かって広がる大きな広場

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この日は今回のローマ滞在最終日だ。夜の1050分のトリエステ行きの夜行に乗る。

朝レビッビアから地下鉄で出発駅のティブルティーナ駅まで行き荷物を預ける。バスでヴェネツィア広場まで向かい(いつものことながら旅の終わりになって地下鉄やバスの要領が分かってくるものだ)、カンピドーリオ広場の坂を上ってカピトリーニ美術館へ。ここは世界最古の美術館といわれているところ。約540年前の創設だ。ここはヴァティカンを別にしてこれまで見た中で彫刻、絵画とも最も充実しているように思う。昼食をはさんで45時間いただろうか。カピトリーノの丘にあるので、美術館最上階にあるカフェからのローマの街並、フォロ・ロマーノの眺めも絶景である。


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カンピドーリオ広場の坂


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以下、カピトリーニ美術館


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まるでジョセフ・コーネルのような...。


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その後クリプタ・バルビへ。ここは今では地下にあるローマ時代の年の遺構がしっかり保存されており丁寧にみせてくれる博物館である。学芸員の解説付き(ただしイタリア語)。


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その後強い日差しを避けながら(さすがに前日のアッピアウオーキングが効いていて結構疲労してます)、ジェズ教会へ。天井画、バッチャによる。サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会、パンテオン再訪。


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カエサルが暗殺された場所アレア・サクラ(聖域)トッレ・アルジェンティナ広場。


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サンタゴスティーノ教会にてカラヴァッジョの「巡礼の聖母」をみる。

最後の見納めは「ルドヴィシの玉座」をもう一度見ようということになり、アルテンプス宮(ローマ国立博物館)へ。ここの照明は自然光が主なので夕暮れの弱い光で見にくくもあったが、なかなか風情があってよかった。この時間帯(7時頃)には見学者は他にはいない。

ローマにしばしの別れを告げる。

今日は炎天下の中、覚悟の上でアウトドアである。アッピア旧街道をひたすら歩こうと思っていた。しかし実際歩いてみるとアッピア旧街道で昔の風情でゆっくり歩ける場所は限られている事が判明。(狭い上に車が猛スピードで走り歩道はなく両サイドは石壁が続く。茶店等全くない部分がかなりなのだ)途中から慣れないローカル・バスを乗り継ぎながらの旅となった。(よくある行き当たりばったりのパターン)


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まずは前回入れなかったカラカラ浴場。

カラカラ浴場は思っていた以上に壮大である。ローマにいるとどうしても宗教的(カトリック的)荘厳さがこれでもかというほどにあって少しうんざりさせられるが、(というのも禅宗のせいか、我々日本人は宗教上の物質的荘厳さに対してどこか疑いを持ってしまうところがあるように思う)それとは別の純粋な構築物的荘厳さとでいうものがここにはある。宗教の醸し出すそれとは性質の異なる強さがある。

「テルメ小川もお風呂の王様もあんな規模じゃ歴史には残れないねえ」とここに来た日本人ならば皆しみじみ考えるのじゃないかしら(そんなことないか)。例えば今の東京都庁舎の廃墟を2000年後に見せられて昔の日本人は風呂の為にこれだけのものを作ったんですと言われればだれだって驚くと思う。そんな凄みがカラカラ浴場にはありました。変な比喩ですいません。


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アッピア旧街道へ


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サン・セバスティアーノ門手前、ドゥルーゾの門


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サン・セバスティアーノ門


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クインティーリ荘博物館。


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クインティーリ荘

ここはカラカラ浴場から20キロ近く離れているので観光客はほとんどいない。広大な敷地である。ローマのそばとはにわかに信じがたい。とても良いところ。かなり記憶に残る場所。


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チェッチリア・メテッラの墓。ここもアッピア街道沿い。


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アッピア街道を沿って歩く。


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セント・セバスティアーノのカタコンベ(入る気が起きなかったのでパス)


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近くにサレジオ教会があることを地図で発見。ここは観光地でも何でもない。ここ20年来、縁あって東京のサレジオ会(小平市)の教会や児童福祉施設、小中学校のデザインに関するお手伝いをさせていただいた経緯もあったので、ここローマ郊外にその本拠があると知ってしまったからには(?)行かねばならないだろうと思い、往復6キロの杉木立とオリーブの美しい道を歩いて訪ねる事に。

http://www.salesio.or.jp/

http://www.salesio.ac.jp/

いわゆるローマの町中の教会とは全然異なるのでどこが入り口かわからない。周辺をうろついていると普段着だったが神父様とおぼしき方から声をかけられた。かいつまんで訪問の理由をしゃべったがもとよりこっちの勝手な思い入れで来たのだから理解されたかどうかあやしい。しかし彼はニコッと笑うと礼拝堂が見たいかと聞いてきた。「イエス」と答えるとこっちだよと礼拝堂に入れてくれた。疲れた一日だったのでほっとした時間を過ごす事ができた。しかも私たちの為に英語の話せる若い修道士がわざわざ来てくれて何かしてほしいことはないかと聞いてくれた。心から来れてよかったと挨拶をして辞した。


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ドン・ボスコの肖像


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ドン・ボスコとドミニコ・サヴィオ


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ドミニコ・サヴィオの像


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2000年以上前の敷石


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ボルゲーゼ美術館に入館する為にはあらかじめ予約が必要で、月曜日に電話で予約をしておいた。朝宿を出て地下鉄B線、A線と乗り継いでボルゲーゼ公園方面に向かう。

途中サンタ・マリア・デル・ポポロ教会へ。


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カラヴァッジョの礼拝堂。「聖パオロの改宗」と「聖ピエトロの逆さ磔」その他チボの礼拝堂、ピントリッキオのフレスコ画など。ここはかなり充実度が高い。


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ポポロ広場、ラムセス二世のオベリスク。


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ポポロ広場、双子教会(サンタ・マリア・イン・モンテサント教会とサンタ・マリア・デイ・ミラーコリ教会)。


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サンタ・マリア・デイ・ミラーコリ教会内部。


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ボルゲーゼ公園、ナポレオン広場からポポロ広場を見下ろす。


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小金井公園に似ています。


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ボルゲーゼ美術館

ここは名品ぞろい(カノーヴァ、ベルニーニ、カラヴァッジョ、クラナッハ、ラッファエロ、ティツィアーノ、ボッティチェリ、リューベンス他)であることは間違いない。僕の主な目的はやはりここでもカラヴァッジョで「馬丁の聖母」「果物籠と青年」「ゴリアテの頭を持つダヴィデ」「バッカスに扮する自画像」「聖ヨハネ」「聖ヒエロニスム」であった。

個人的な好みで申し訳ないがラッファエロ(前にも書いたが)と同様ベルニーニが苦手です。ロレンツォ・ロットの「聖なる対話」が素晴らしかった。

木本さんからは「美術館情報をしっかり書け」という指示をもらっていますが、言い訳するようで何だがここでは別にまともな美術案内をするつもりはないので皆さんそのつもりで読んで下さい。私の好みなんてコロッと変わってしまいますから。とはいえここの美術館は先にも書いたように予約を要求する上予約料と入場料で軽く2000円以上をとり、2時間たつと入れ替え制で追い出されるのだ。落ち着かない事この上ない。


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当然館内は撮影禁止なのでカラヴァッジョ、クラナッハなど(以下は参考イメージです)


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ロット


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次はヴィラ・ジュリア・エトルスコ博物館。ローマ美術に影響を与えたギリシアとならぶ源泉(しかもローマによって徹底的に破壊されたため残存品が少ない)エトルリア美術に興味を持っていたので期待が大きかった。しかしここは展示、解説ともわかりにくくかなり失望した。ただこの博物館内にある館ヴィラ・ジュリアの遺構は素晴らしかった。


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ヴィラ・ジュリア


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再びボルゲーゼ公園を通り国立近代美術館へ。

ここは19世紀から20世紀にかけての主立った近現代絵画がイタリアを中心にしながら全ての作家あります的な展示だった。内容に関してはかなりムラがあるように思う。全体の印象はあまり強くない。ただデュシャンをまとめて56点見れたのは収穫だった。

 

今日はシンプルな1日である。ヴァティカン博物館にとりあえず1日をさいた。噂に聞いていた入館行列というのはほとんどなくスムーズに入れた。エジプト美術、古代彫刻、エトルスク、ギリシア彫刻といった今興味のあるところに時間をとられすぎ、タペストリー、地図のギャラリーは駆け足で、ラッファエロの間、現代宗教美術も適当に流し、システィーナ礼拝堂でタイムリミットとなった。図書館の回廊、彩色写本や絵画館などはまたの機会となった。前半のエジプト、エトルスク、ギリシア彫刻は文句なく素晴らしい。受験生の時デッサンした石膏のオリジナルを見るのは不思議な感覚である。これは10歳代で見ておくべきだよなと思った。今更ですが。
システィーナ礼拝堂では写真を禁じられているのでイメージはここにはないが、古代のものは別として、ミケランジェロの天井画は突出していた。色も美しいし画面構成も実験的というか本人が楽しくてしょうがない感じが伝わってくる。(伝記や映画等では眉間にしわを寄せて苦しんだことになっているけど画面からはそんな感じはしなかった。とても瑞々しい。私は画面から受けた印象の方を信じる)それに比べれば24年後に描かれた最後の審判の方は驚く程暗い。別人のようだ。しかも観念的な感じすらする。(勝手な感想ですが)この部屋には2時間程いたか。
ラファエロは昔から何故そんなに良いと言われるのか理解できなかったが今回オリジナルを見ても残念ながらその感想は変わらない。
今回、長年見たいと思っていたカラヴァッジョの「キリスト降架」を見損なった。どうしよう?

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エジプト美術館

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スカラベ(ケース)

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スカラベ(中)

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ラムセスの母、トーヤの肖像。

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以下古代彫刻 ピオ・クレメンティーノ美術館、キアラモンティ美術館、新回廊、大燭台のギャラリー。

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アウグストゥス

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ラオコーン オリジナル。もともとロドス島にあったものだ。

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アポロ

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トルソ

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以下エトルスク美術館

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ラファエロの間

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宿を替わる日。これまで滞在した場所はテルミニ駅から10分くらいの所で比較的便利な場所であった。東京駅に対する日本橋とか銀座の感覚である。今後の事も考えて後半は地下鉄で中心部から少し離れた場所を選んでみた。地下鉄B線の最後の駅、レビッビアである。それでもテルミニから15分弱。地下鉄の車両は落書きで表も内部も悲惨な状況である(後で全ての車両ではないことが分かったが)。レビッビアまで来ると完全な郊外の住宅地である。新しい宿は駅から45分なので思ったより不便ではない。一旦荷物を預け再びテルミニ駅へ戻る。

今日は月曜日で美術館関係は休みが多いので、ローマ巡りのバス券(116ユーロ、ダブルデッカー)を購入し、遺跡巡りと町巡りをすることに。このバスは終日、何度でも乗り降り自由でかなり頻繁に走っている。まずは日本語のガイドを聞きながら約1時間半かけてローマの町を一周する。テルミニ駅で一旦昼食後、次はコロッセオで下車、コロッセオ、カラカラの浴場跡、パラティーノの丘を散策。といってもコロッセオには博物施設もあり、パラティーノの丘も同様で、しかもかなり広大で4時間はかかった。真夏の暑さであった。サングラスだけではだめで帽子をしなければ目が参ってしまう程、光がきつい。考えてみればこの季節、日本では梅雨である。ヨーロッパの夏は長いのだと実感する。その後、夕暮れのサンピエトロ寺院に行く。宿に戻ったのは9時過ぎであった。その後0615の更新をして1時就寝。


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バスの車窓から


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コロッセオ。


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コロッセオ内部の展示。なかなか凝っていて好感が持てた。


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コロッセオからコンスタンティヌスの凱旋門を見る。


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コロッセオから松並木(サン・グレゴーリオ通り)を通ってカラカラ浴場跡に向かう。2キロくらいか。


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浴場競技場。入り口を間違えてこの競技場を一周するはめに。


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カラカラ浴場跡。なんと午後2時までで入れず。


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閑静な良い場所だったのでまた機会があれば来る事にしようと思う。


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歩いてまたコロッセオのそばパラティーノの丘へ。以下パラティーノの丘


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スタディオ


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パラティーノ博物館


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パラティーノの丘から東を見る。


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丘から北を見るとフォロ・ロマーノが見下ろせる。この角度からかつての市民たちは皇帝の凱旋を見ていたのだ。


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丘をおりる。


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以下サン・ピエトロ広場と寺院。


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ピエタ


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下に見えるのがピエタ。


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長い夕暮れ


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三たびテヴェレを渡りテルミニへ。


朝8時半に宿を出る。


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マッシモ宮 ローマ国立博物館  9時開館のはずなのに10分以上待たされる。ここはローマを中心にギリシア美術も含む。コレクションはさすがに全て素晴らしい。特にフレスコ、モザイクの多様さは特筆すべきものがあった、


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まるでダリのドゥローイングのような。


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リヴィアの家のフレスコ画。


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円盤投げ ランチェロッティ


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以下ディオクレティアヌスの浴場跡 実はローマ国立博物館。始めは単なる遺跡だと思って入場すると、とんでもない、かなりの規模の考古学博物館であった。特に文字、スクリプトゥムに関する丁寧な展示が行われていた事には驚く。しかしとにかく量が半端ではなく見切れなかった。


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コンパス。このようなディテールの展示が学芸員の意識の高さを示しているように思う。


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こういった展示の仕方もセンスの高さを示しています。


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一階は屋外の展示


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鉄の書物


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珍しく同行していた妻が足が痛いと悲鳴を上げる。たしかに8時半から2時まで歩きっぱなしだもの。ホテルに戻り休憩をとることにする。


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共和国広場 ナイアディの噴水


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サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会。ミケランジェロがファサードのデザインをしたことで有名である。確かに本当に素晴らしいものである。彼は自分の意匠を完全に殺してローマ時代の遺跡が全面に出るようにデザインしているのだ。自己顕示欲の強い人かと思っていたので意外だった。写真の扉デザインはもちろん別人です。


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床には天球図が大理石で埋め込まれていた。


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教会裏手にはローマ時代の遺構が残る。


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ファサード正面。内部と外部のコントラストこそミケランジェロがやりたかったことなのだろう。多分。


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ナイアディの噴水


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以下サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(裏側。こちらを最初に見て閉まっていると勘違いしました)


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妻に言わせれば「ローマで最もありがたみ(?)の感じる教会ということだが、確かにそのような感じがしないでもない。



 

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バルベリーニ広場


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トリトーネの噴水


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スペイン広場(朝)


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船の噴水


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ボルゲーゼ宮


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以下アルデンプス宮 ローマ国立博物館

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天井とフレスコ


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ルドヴィシの玉座 側面


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ルドヴィシの玉座 二人の乙女に海から引きあげられるアフロディーテ


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ルドヴィシの玉座 側面

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(妻を殺して)自害するガリア人


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ナヴォナ広場 ネプチューンの噴水


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ナヴォナ広場 四大河の噴水(工事中)


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以下パンテオン


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ミネルヴァのオベリスク


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サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会(フィッリピーノ・リッピ、アンジェリコ、ロマーノなどの絵があった)


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サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会(外観)


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ドーリア・パンフィーリ美術館

ここはローマ一大きな屋敷の一部が美術館になっているところ。私設である。ライティングも悪いし、収集のしかたが金持ち趣味というか好きな所ではなかったがここにはカラヴァッジョが三点もある。その中でも「エジプト逃避途中の休憩」は傑作中の傑作であると思う。その他、ここにはベラスケスの有名な「イノケンテゥウス十世」、ピッピ、ティッツアーノ、ブリューゲル、メムリンク等等があるがいかんせん、展示の仕方が最悪。平気でカラヴァッジョの贋作を展示しているのだもの。


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「エジプト逃避途中の休憩」


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サン・ルイージ・ディ・フランチェージ教会ここにもカラヴァッジョが三点あります。傑作です。


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聖マタイの殉教


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聖マタイと天使


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そして「聖マタイの召し出し」


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たまたま結婚式に遭遇した。


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テヴェレ河


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スペイン広場(夕刻)

これからも何度も行く事になるであろうイタリアへの最初の旅である。朝5時に家を出てバスで町のバスセンターへ。ハンバーガーを買って6時のトリエステ行きのバスに乗る。トリエステには8時半に到着。実際の距離は車で普通に行けば1時間もかからない距離だと思うのだが、バスは客を拾うため近隣のオパティアなどをまわり、しかも途中でパスポートコントロールなどがあるので2時間半かかってしまう。

トリエステでドキドキしながらバスセンターから駅へ急ぐ。(無謀にも列車の予約をとらずに来たのだ)運良くローマまでの特急券(ユーロスター)をとることができた。しかも帰りの夜行寝台も。受付のお兄さんがとても親切でラッキーだった。

列車は950分発。トリエステからヴェネツィアまで1時間半弱。ヴェネツィアからフィレンツェまで2時間半。フィレンツェからローマまで1時間40分。ローマに到着したのは16時過ぎである。

ローマへは初めてである。25年前、イラストレーターの斉藤君と一ヶ月間ヨーロッパ旅行をした時、ローマまで行く時間がなく、フィレンツェ、ヴェネツィアまでで引き返したのだ。二、三日の滞在をするくらいなら行きたくない(行くべきではない)と思ったのだ。行くのならばちゃんと行かなきゃ、なんて思った記憶がある。それから25年も経つとは思わなかったが。

ローマが近くになるにつれ、「満を持しすぎたかなあ?」と突然不安になる。というのもこの10数年の間、ゲーテの「イタリア紀行」と和辻哲郎の「イタリア古寺巡礼」に始まって塩野七生さんの「ローマ人の物語」(当然全巻読破しました)他、ローマ、イタリア関係の本を随分読んできたのだった。なぜ不安になったかというと文字による妄想があまりにも先行しすぎているかもしれないと思うからだ。

とりあえず宿に荷物を置いて夕暮れの町を散策した。


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トリエステ駅


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駅前


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ユーロスター。もっと立派できれいな車両を想像していました。


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恐る恐るローマを歩く。


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クイリナーレ広場


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フォロ・トライヤーノ


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トラヤヌスの記念柱


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ヴィットリアーノ


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フォロ・ロマーノ


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コロッセオ


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明日からイタリアのローマに短期旅行に行く予定。本格的な旅の準備に追われる。

例のサッカーのヨーロッパ選手権でクロアチアは今度はドイツに勝った模様。このあたりは閑静な住宅街にもかかわらず、家の中にいてさえも、どよめきや爆竹の音が聞こえる。町中はこの前とは比べ物にならないくらい大騒ぎなのだろう。この試合はテレビで見たが確かにクロアチアは強いように思う。良い試合であった。少し前だが同じ大会で土砂降りの中トルコがスイスに勝ったのも少しうれしかった。

ソボルさんと地元の警察に滞在許可証延長の申請に行く。帰りに町で次の旅の準備、ブログの更新等。夜テレビで映画「ブラックレイン」をやっていたのでついつい見てしまう。嘘でもいいから日本が映っていればそれだけで見てしまうのだ。「ああ、ひどい映画だな」と思いつつも「おお20年前のポストモダンが流行っていた頃の大阪だ」とか、健さんの英語力とか。


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近所のトルサット聖母教会につい最近完成したビジターセンター。


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そう、レンガがクロアチア国旗の意匠なのでした。


【展覧会のお知らせ】ここで何度か登場したえびりんとこおおらいさんの展覧会が偶然今開催中で、お知らせします。お近くの方はどうぞ。6月14日(土曜日17:00)まで

おおらいえみこ展 「ヒゲとロバと三日月と」

ギャラリーLa Mer(ラメール) 中央区銀座1-9-8奥野ビル205

03-5250-8108 http://www.g-lamer.com



今度結婚式が行われる卒業生のための祝辞を書く。

このような文章は結構時間がかかるものです。

あとはひたすら読書など。ローマの歴史について。

英語の勉強と称して「草枕」夏目漱石の英訳文を読んでいる。

これで英語の勉強になるかどうかはかなりあやしいけれども。

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不安定な梅雨のような天候が続いていたが今日は晴天である。家にいて読書と勉強。エジプトの歴史について。ラムセス二世の伝記。

久しぶりに、ちょっと目の調子が悪くなり、散歩にも行かず。

トラブル修復のつづき。

インターネット用プリペイドを更新するために丘をおりて30分ほど歩き、センタービルのショッピングセンターへ。ついでに買い物をする。意外なことにここのカフェで出されたコップの水がおいしくて夫婦で顔を見合わせる。前にも書いたがクロアチアの水は私たちにはきつすぎてどうもだめで(ペットボトルの水でさえ)今日は他のペットボトルを試そうと話していたところだったのだ。(ちなみにトルコでは何の違和感もなく水はOKだった)そうだ!浄水器だという話になり、浄水器売り場へ。蛇口に装着式ではなく、貯水式のものを購入。結局これにて水問題は解消した。

その後妻は家に戻り、僕は20分ほど歩いて町まで行き、コンチネンタルでブログの更新を試みる。なんとか復活。しかし、トルコでのカーネルサンダース現象といい、今回のトラブルといい全く原因がわからず、しかし災難は確実に常に忘れたころやってくる。大村嬢にはソフトが無事動いている限り、ネット経由で送られてくるソフトの更新はしないほうが安全ですよと言われていたのでそれも守っているのだが。このレオパルドというOSのせいだろうか。勝手に何かしでかすのだ。この先が思いやられます。またプリペイド方式も面倒なので(ブログの更新やちょっと集中的に調べものをすると250メガなんてあっというまになくなってしまうのだ。その度にシティセンターまで行くのはあまりにも効率が悪い)ソボルさんに電話線を敷く相談をしなければならない。

コンチネンタルのカフェで作業していて、ふと気づくと外は昼間のようにあかるいのだが、8時を過ぎていた。帰ろうとすると、周りの雰囲気が異様なことに気づく。皆レッドスクエアのTシャツを着てそこここでさわいでいるのだ。おそらく何かサッカーの試合でクロアチアが勝ったのだろうとは想像はついた。大通りまで出て帰りのバスを待っていたら目の前を町の中心に向かって走っていく車にはクロアチアのユニフォームを着た人が乗っていて車窓から体を乗り出して旗を振っている。道を歩いている集団も興奮し雄叫びをあげている。そのような車が瞬く間に続々増えだし、全ての車がクラクションをならし、ジグザグ運転を始めたりしている。あっというまに大交通渋滞。しかも発煙筒が焚かれているらしく道の先では煙も漂い、騒乱状態である。おかげでバスは30分以上またされるはめになる。家に帰るとテレビではヨーロッパ選手権かなにかが行われているらしく、クロアチアがオーストリアに勝ったとのことだ。まるでワールドカップに優勝したみたいな騒ぎ方ではないのか?

やれやれ。

雨時々晴れ

そろそろ、精神状態も日常生活に戻り次の旅の準備もはじめなければと思っていた矢先、またもやコンピュータトラブルが発生した。この日は町の市場に食料の買い物に行き、ついでにブログの更新と東京にいる息子とスカイプでチャットをする予定であった。チャットの最中、だんだんとコンピュータの挙動がおかしくなったので、一旦スカイプを切断し再起動をかけた。こちらの異常を息子に伝えるためメールソフトのエントラージュを立ち上げるといきなり、更新(?)されていて、今までの送受信データ全てがなくなってしまっているのだ。アドレス帳にあった情報も全てなくなっている。同じくサファリをみるとこちらも同様、いきなりまっさらな状態に勝手になってしまっているのだ。履歴も何も消えてしまっている。ここにはブックマークにこれまでの旅程で集めた各重要情報のアドレスがあったのだが全てなくなってしまっていた。ここ一ヶ月以上、保存もしていなかったのだが。

全く原因がわからない。

呆然とする。

結局息子とは電話で話すことになる。

帰宅し、やむを得ずエントラージュにメールアカウントを入れ直すと4月半ば以降の受信分を再び読み込み始めた。(それ以前は全て失われたのだろうか?不明である)多くは迷惑メール、宣伝の類いだが大事なメールを救うためには全てを読み込まなければしょうがない。これに夜おそくまでかかる。こちらから送信したものは全く失われたままだ。このおかげでネット用プリペイドを使い尽くし翌日に持ち越す。サファリもどうすることもできない。自分のブログのアドレスやそれに書き込むためのアドレスすらわからないのだ。またしてもアキオ君にメールで教えてもらうこととなる。

終日雨。読書。旅の記録。他。

以下、トルコ旅行中訪ねた主な場所。

museum/library美術館/博物館等】

トプカプ宮殿/アヤソフィア博物館/国立考古学博物館/装飾タイル博物館/古代東方博物館/トルコ・イスラーム美術博物館/アナトリア文明博物館/ハットゥシャシュ博物館/ギョレメ屋外博物館/ゼルヴェ屋外博物館/アンタルヤ考古学博物館/騎士団長の宮殿(ギリシア、ロドス)/考古学博物館(ギリシア、ロドス)/アフロディスィアス博物館/エフェス考古学博物館 以上15カ所

ruins遺跡等】

地下宮殿/ヒッポロドーム/ヴァレンス水通橋/アンカラ城/アウグストゥス神殿/ローマ浴場跡/ハットゥシャシュ遺跡/ヤズルカヤ神殿/カイマクル地下都市/ハドリアヌス門/ファセリス遺跡/ペルゲ遺跡/アスペンドス遺跡/スィデ円形劇場/アポロンとアテナ神殿/リキヤの墓/カシュ古代劇場/パタラ遺跡/クサントス遺跡/レトゥーン遺跡/スミス山遺跡(ギリシア、ロドス)/リンドス遺跡(ギリシア、ロドス)/ヒエラポリス遺跡/アフロディスィアス遺跡/ディディム遺跡/プリエネ遺跡/ミレト遺跡/エフェス遺跡/アクロポリス遺跡(ベルガマ) 以上29カ所

camii/temple/churchジャーミー/教会/寺院等】

スルタンアフメット・ジャーミー/スルタンアフメット一世廟/スュレイマニエ・ジャーミー/トカル・キリセ/スレイマン・モスク(ギリシア、ロドス)/エヴァンゲリスモス教会(ギリシア、ロドス)/我らの聖母教会(ギリシア、ロドス)/オルハン・カーズィー・ジャーミー/イェシル・ジャーミー/ウル・ジャーミー/レッド・バジリカ 以上11カ所ただし小さいジャーミーは省略

city/nature街並と自然景観等】

グランドバザール/古本街/エジプシャン・バザール/ギョレメ・パノラマ/パシャバー地区/アヴァノス/ローズバレー/ウフララ渓谷/クルシュンルの滝/石灰棚/ブルサ・バザール

 以上11カ所


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以下智子の写真機より

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イスタンブール

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ザグレブで見つけた「ゼニート」というアヴァンギャルド機関誌について調べるためどうしても英語--クロアチア語の辞書が必要になり買い物に出る。ついでにコンチネンタルのネットカフェでブログの更新。その他食料や日常品の買い出しなど。

一日はおおむねクロアチア語、英語の勉強と資料の読書や整理であっといまに過ぎていきます。

 

トルコ覚え書き2

このブログにも何度か登場した私の個人的トルコ旅行アドヴァイザーであるえびりん(ちなみに彼女は版画家で毎年、銀座で個展をしています)から聞いた話に以下のようなものがあった。(無断使用をお許し下さい)

かつて120年程前日本を訪れたトルコの使節団(まだトルコにスルタンがいた時代ですね)の船が帰路、台風のせいで不幸にも串本沖で座礁し、打ち上げられた人々を串本の貧しい漁民たちが親身に助けたのだという。その話は伝説としてずっと今日までトルコでは語り継がれていて、彼らの親日感情の背景にはそのことがあるという。えびりんの話で感動的なのはその後で、実に最近の湾岸戦争時の話に移ります。

かのフセインが「イラク上空を飛ぶ飛行機は全て撃ち落とす」と言って、実際何機か撃ち落とされていた時、イラクには逃げ遅れた日本人(商社関係の人など)がいたそうだ。いつものことながら在留邦人には冷たい日本政府は当時、早々に彼らを見放してしまったのだった。これら絶望的な状況の日本人に救いの手を差し伸べたのがトルコ政府で、彼らはその為のチャーター便を飛ばし無事多くの日本人が救われたということなのだ。ひょっとしたら同じ回教徒の国なのでトルコ航空機は撃墜される確率が少なかったこともあったのかもしれない。しかし安全である保障はどこにもなかったはずだ。恥ずかしながらえびりんにこの話を聞くまで僕はこの事実を知らなかった。自国民が関係しているならばいざ知らず全く関係のない日本人に対するトルコのこの行為はかつての串本の日本人に対するトルコ人からのご恩返しだったようだ。実際日本人の商社マンたちは涙を流して感謝したらしい。

...とここまでの話は事実であり美談である。

しかしえびりんの話はこの後、暗いアイロニーへと転調するのであった。何故ならばかつての串本沖で救われたトルコ人とは異なり、湾岸戦争で救われた時には涙を流したはずの日本人は帰国後そういった事実を日本人にはほとんど伝えていないという事実があるからである。もともと、外国を旅する日本人に冷たい日本政府や外務省(そもそも一旦は見捨てたのだから後ろ暗いので)は宣伝するわけがない。しかし、100年以上も前の借りをしっかり返す義理堅いトルコの人と、危機が自分の目の前から去れば恩も忘れる日本人とは何なのでしょうねとえびりんは寂しそうに語ってくれたのであった(勝手に脚色してごめん)。

 

さすがに今回の旅では僕に串本の恩を返させてくれとも、湾岸戦争の借りを返せとも言ったトルコの人はいなかった。しかし「日本人は表面上ではニコニコ笑って親密な態度なんだけど、本当はいったい何を考えているのだろう?日本人は素晴らしいと思うが旅の途中に示す親密な態度は本物なのか、その場しのぎなのか私にはわからない。私は日本人を信じたいのだけれどあなたはどう思いますか」と訴えてくる若者がいたのは事実である。また「日本と韓国はトルコ人から見ると同じに見えるがその関係はどうなっているんだ」(関係=コネクションと彼は言ったのだがそれは2000年にわたるコネクションなのか最近のことなのか、政治的なことなのか、文化的なことなのかよく分からなかった)とか「私たちは英米人から何でトルコ人は日本人や、中国人に対してそんなに親切なんだと言われるくらい私たちは日本人に親近感を持っているのに日本人は私たちに対してどうなんだろう」という結構(人種差別的な問題も含む)複雑な疑問までも投げかけられたのであった。私は旅に忙しい日々を送っていた。しかし夜遅くブログなどを宿の人気の無いレストランなどで一人更新しているとよく話しかけられたのだ。彼らの何気ない質問は仮に日本語で話すにしても微妙で難しい話であった。それを英語で問いかけられたのだからかなり難儀しました。実際僕の答えは無茶苦茶なものとなったと思う。本当はそっとしておいてほしかったのだけど、僕はそんな質問を誘発するような顔をしていたのだろうか?(ひげのせいかもしれないが「お前はこれからジャーミーにお祈りに行くのか」といった冗談を二度程言われた)

しかし僕もご存知のようにこのブログで迂闊にも「トルコ人の考えていること、その真意がどこにあるか分かり辛い」とか勝手なことを書いてしまっていたのだが、苦笑ものだが彼らも日本人に対して同じような疑問を持っていることがわかって興味深かった。またこのような状況下、自分の母国のこと(あるいは母国と中国、朝鮮半島、東南アジアの国々との関係)を母国語以外の言葉で話すという経験は重要なものだとも感じた。

 

もちろんたかだか一ヶ月弱の滞在でトルコ人についてとかトルコについて僕が語れるわけは無いしそのつもりもなかったのだ。しかし彼らの質問はそのような僕のありきたりの答えを認めないたぐいの真剣さがあった。例え短期であったとしても意見を求めて来る彼らの直裁さというものは貴重なものだとも思った。例えば日本人が日本に来た外国人に「日本はどうですか?」と聞く儀礼的な質問(はじめから真剣な答えなど期待していない)と彼らのそれとは異なるように思えたのだ。彼らの多くは儀礼的な返答を好まないようだ。実際僕はどこまで話せば良いのか迷いました。それは日本人特有の「良い加減」と彼らの背後にいる「アッラー」のせめぎあいなのかどうかは分からないけれど。

 

少なくとも僕は今回の旅で多くのトルコの人にもらった沢山の(時には不思議な)親切と暖かみを忘れないことくらいはできると思う。


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昨晩は久々にゆっくり眠ることができた。当初、このような拠点(クロアチアにフラットを持続的に借りること)を持つことは少し贅沢なのではないかという気持ちもあった。しかし実際旅してみると、拠点なしの移動(放浪?)生活はあまりにもきついということがわかった。もちろんここリエカでの生活も東京の自宅のように自在とは到底言えないまでも、充分以上にその意味があったことを実感させられている。

トルコで見た様々のものや多くの人と話したことなどが熱をもった大きな一塊となって頭や心に残っており、それらを抱えたままここ数日は過ごさねばならないようだ。整理がつこうがつくまいが、そうしなくてはどうも元の精神状態には戻れないように感じている。それくらいトルコでの経験はインパクトがあった。リエカは今、日本の梅雨のようで雨が降ったり止んだりしている。(僕らが戻る直前までは31度の暑さだったそうだ)

今日は終日荷物の整理などをして一歩も外には出なかった。

 

トルコ旅行覚え書きの前にこの旅のそもそもの目的を記しておきたいと思う。

このブログを見ている方々には気楽な遺跡巡りにも見えるかもしれませんが、私の旅はこれでも一応研修旅行なのです。

【研究課題】

ヴィジュアル・コミュニケーションにおける「文字」「図像」「書物」など「視覚記号」諸要素の起源、歴史的変遷、環境との関係に関する調査と研究。

【研究理由】

私のこれまでの研究テーマは以下の2点である。

1)書物、ダイヤグラム、サイン・システムなどタイポグラフィと図像を軸としたグラフィック・デザイン史研究、およびそれらを今日的視点で再解釈し近代の視覚言語とは何かを問うもの。

2)文字の発生前後からの人類の記述の変遷(History of WRITING)をたどり、その中にヴィジュアル・コミュニケーション・デザイン史を定位し今日的視点からデザイン概念を再構築すること。

[これまでの研究と今回の在外研究との関連]

1)トラヤヌス碑文に見られるインペリアル・キャピタルからルネッサンスを経て今日までリバイバルを重ねた人文主義的タイプフェイスの歴史と変遷(記念碑、墓石から印刷された書物まで)の現地調査と資料収集。

(2)2007共同研究「オットー・ノイラート研究」に関連し、ISOTYPE(International System Of Typographic Picture Education)をヨーロッパにおけるヒエログリフ解読(エジプト再発見)の文脈で考察し、同時に18世紀以降のダイヤグラム、サイン・システムを主とした視覚記号のヨーロッパ各国における展開の現地調査と資料収集を行いたい。

 

以上が(大学に提出した書類の抜粋なので文章が硬くてごめんなさい)私の今回の旅の大きな目的である。もしこれに付け加えることがあるとすれば、出来る限りそれらが生み出されたその場所に行くことであった。

今回のトルコの旅ではまさにトラヤヌス時代の文字が生まれるかなり以前からその前後までの様々な文字(記号)による碑文、粘度板、円筒印章、貨幣、文様、器具、彫刻、装飾品等をかなりまとめて見る事ができた。それらはシュメールによる楔形文字の発生から彼ら独自のアルファベット(表音文字化)への移行、エジプトの象形文字とそのアルファベットへの移行、象形文字と楔形文字の交流と新たな文字の発生(未解読の多くの文字も含まれる)などである。短く見積もってもBC2000年間の変遷がそこにはある。現在の私の中では整理がつかず混乱状態であるものの、少なくともエジプト、シリア、アラブ、ヒッタイト(トルコ)ギリシアといった地中海をとりまく諸地域が商活動、侵略、戦争、民族移動などを通して、かなりダイナミックに交流し、その中で否応なく文字が生成、流通してきたことが実感として理解できた。このことは今後丁寧にトレースする必要がある。

これまでタイポグラフィの教科書にも全く触れられることのなかった「何故、トラヤヌスの時代(要するに今から2000年程前)に既にあれほど完成された書体ができていたのか」(「それをまさか単純にローマ人の功績に帰すだけでは済まないだろう、では誰がどのようにして?」...これこそが私のこの旅の本当の目的であるが)についてのヒントがいくつもあった。またそのことはただ単に文字の形だけを見ていても理解できないような気がする。当時の人々、少なくとも造形に携わった人間たちの装飾品や建築物に対する数学的、幾何学的対比、比率に対する感覚と密接に結びついている事も間違いの無いことのように思われる。この地域と時代は歴史学的にも考古学的にもまだまだ謎が多くこれからの新たな発見などによって文字の歴史もかなり書き換えられていくような予感も感じた。ある本によれば歴史家は文字が生まれてからを歴史時代としそれ以前を考古学的対象と切り分けるそうだが、コミュニケーションという視点からみるとその理屈はあまりにもアカデミズム的でおかしいと思う。考古学と歴史学のもっと統合的で視覚記号論的な歴史生態学が必要なのではないのかという気もした。(門外漢なので勝手な感想ですが)

今回わかったことはこれまでのわたし達に与えられている歴史的知見がヨーロッパにおいてもたかだか18世紀の終わりから始まったということだ。

私自身も自分の整理の為に地道に年表を作ろうと思っているが自由に参照できる資料が手元に無いので、この場所でどこまでできるかわからない。しかしこれからの旅のためにはできる限りのことをしておきたいと思っている。

 

この旅において特筆すべきなのはアンカラのアナトリア文明博物館で見たチャタル・ホユックの遺跡出土品であった。(もちろんアレクサンダー大王の石棺における想像を絶する彫刻の完成度の高さとか、特筆すべきものを言い出せばほかにも目白押しなのだけれど)

これは現在のところ人類最古の集落といわれているところである。紀元前7000年頃以降のもの、つまり今から9000年前である。博物館で見る事のできた紀元前56000年から3000年にかけての土器、家屋の復元、地母神の座像、呪術的な造形物の強さ素晴らしさには全く驚かされた。人類が時間を経るごとに賢く(?)というか進歩、成長しているという発達史的な歴史観はこれをみると簡単に吹っ飛びます。ヒッタイト文明やアッシリアなどの「歴史上の」文明とそれ以前の「考古学的」事実であるチャタル・ホユックとの関係、関連を文字で証明するものがないので一般の歴史書には断絶してしか触れられていないが、場所的にみればどう考えても何らかの関係があるように思える。

またこれはアイルランドに行ったときと同様だが、今日の私たちが考えている造形とはそもそも何なのかとも考えさせらずにはいられない。歴史が新しくなればなるほど繊細さや量的な規模は増大するかもしれない。しかしものに込められた造形上の強さはそれに反比例して弱まっていくものなのだろうか?

 

最後についでと言っては何だけれどももう一つの旅の目的(というよりも野望に近いかも)も書いておこうと思う。(何事も言ってしまえば未来のいつかに実現するような気がするので)今回は諸事情と時間の制約から現在のイラク、シリア、ヨルダン、サウジアラビア、イスラエルといった中東諸国まで足を伸ばすことができない。この1年の旅の後、機会があれば今度は東アジア、東南アジアの側からイスタンブールに向かう旅をしたいと考えている。もちろん1年フルにというのではなく、断片的になるだろうけれども。そうしなければどう考えても自分の中のバランスがとれないだろうと思えるのだ。


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以下智子の写真機より


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朝、宿に荷物を預かってもらい、再びリュブリアナの街をのんびり散策。一ヶ月ぶりにちゃんとしたカプチーノが飲めた。(トルコではひたすらティーだった。へたにコーヒーを頼むとネスカフェが出て来るので)その後1455分発の電車でリエカへ。途中二箇所でパスポートコントロール。電車は緑の中をゆっくり進む。客は少なく六人用のコンパートメントには私たちだけだ。トルコではほとんどバスでの移動だったので久々の電車でのゆったりした移動にあらためて感動。五時半ごろ到着。無事リエカに帰還する。


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リュブリアナの中心はほぼこの模型で収まる規模である。しかも街中への車の乗り入れが禁止されているのでとても気持ちが良い。


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私たちの乗った電車ではないが蒸気機関車が現役で動いていた。

朝、イェニカブの宿からタクシーでアタテュルク空港へ。約30分。オーストリア航空でウイーンに向かいトランジット、アドリア航空に乗り換えてスロベニアの首都、リュブリアナへ到着。リュブリアナはクロアチアのリエカから大変近いのだが(直線距離で約80キロ)バスがない。クロアチアからスロベニアを通ってイタリアのトリエステやウイーンに向かうバスはあるのだが、多分旧ユーゴスラヴィア同士、歴史的に微妙な関係らしい。ソボルさんによれば領土問題も含まれているとのこと。恐らくクロアチアがEUに加盟してしまえばその問題も雲散霧消してしまうだろうとも言っていた。ともかくリュブリアナからリエカには列車が一日に二本しか走ってないのだ。ということでリュブリアナに一泊する。今後この街もザグレブと同様、ヨーロッパの各地に移動する時に通過することもあると思われるのでどのような所か知っておきたいというのもあった。

宿に荷物を預け街をぶらっと歩いた。ここもザグレブと似て落ち着いた緑の多い街である。ただ、まだ頭と身体にはトルコでのハードな日々が刻印されていてかなりボーッとした状態である。トルコでの体験を消化できないままだ。これは当然のことだと思う。とにかくトルコ旅行自体が事故も無く無事であったことにほっとしている。

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リュブリアナ城から街を見下ろす


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イスタンブールのアタチュルク空港から出発は62日に決まっているのでこの日は何としてもイスタンブールまで辿り着かねばならなかった。飛行機も駄目、あてにしていた別のフェリールートもガイドブックに掲載されていたものは既にルート自体がなかったりした。やむなく先日ベルガマからブルサという街まで約8時間、バスの強行軍であった。ブルサはトルコ第四の都市らしい。私個人としては、短期滞在ではあったが、不思議と落ち着いた良い街の印象がある(街の佇まいもそうだが人の雰囲気も)。トルコの大都市の中でも最も気に入った所だった。この日午前中にブルサの有名な寺院を見て、マルマラ海沿岸のヤロワに行きそこからフェリーで(予定した最初の便は何と満員で乗れなかったが)イスタンブールになんとか戻ることができた。この間何人かのトルコの人々と印象に残る話などをしたが、それはまたの機会に。

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ブルサにて

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再びイスタンブールに戻る。この港公園ぞいの夕暮れは最高だ。景色ではなくここを通り過ぎる老若男女の姿が。いつまで見ていても見飽きる事が無い。

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丘からベルガマの街を見る。

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朝、セルチュクの宿の人が遺跡まで車で送ってくれる。距離はだいたい4キロくらい。エフェスは地中海沿岸の古代都市の中でも規模が大きく、観光客の数も例えば昨日に行ったプリエネやディディムと比べて桁違い多い。これまであまり人気の無い遺跡を歩いてきたので、団体客がぞろぞろ続く場所は少し落ち着かない。

 

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オデオン(音楽堂)

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トラヤヌスの泉

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公衆トイレ

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ケルスス図書館。一万二千巻の書物が所蔵されていたという。

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大劇場。山の斜面にそって作られている。

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以下エフェス考古学博物館

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サン・ダイアル

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豊饒神

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拳闘士に関する特別展が行われていた。

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ベルガマの町へ移動。セルチュクからバスで3時間半。

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クズル・アウル(レッド・バジリカ)。かつて古代エジプトのセラピス神(オシリスとアピス-プルトーン神)を祀り、のちにキリスト教の聖堂になった場所。

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今回のトルコの旅もかなり大詰めになってきた。セルチュクに滞在したのは地中海沿岸のクサントスやペルゲ、アスペンドスと同様、ここエーゲ海沿岸にも紀元前10世紀以降の古代都市がいくつもあるからだ。その中でもこの三都市は必ず見たいと思っていたのだがそれぞれ、20~30キロ以上離れておりしかも交通の便は大変、悪い。期待していたバス会社のツアーもない(昨晩、訊いてみると最大手のバス会社にもかかわらず、法外な値段をふっかけられたりしたのだ)。旅慣れてきたせいか(疲れてもうどうにでもなれとやけくそ気分も含まれて)だめで元々なんとかなるさ、自力で行ってやろうじゃないかと宿を出た。最初のディディムまでバスを3回乗り換えて2時間でスムーズに到着。すでに炎天下36度であった。昼過ぎからはドルムシュという小型バスの運行も極端に減るという情報なので、見終わった後、昼食もとらずに次のミレトをめざす。ここがミレトへの分岐点だとバスから降ろされた場所で聞いてみるとここからミレト遺跡までは5キロ、徒歩しか手段は無いと言われる。どうしようかと躊躇していると側に停まっていた車の中から若いお兄ちゃんが良かったら車で送ってあげるよと声をかけてくれた。あまりの幸運にユダヤの民を率いて紅海をわたるモーゼのような気分になりました(少し大げさかもしれないけど)。
ミレトでは一人で旅している日本の中年女性に声をかけられ、次に私たちがプリエネに行くというと、じゃあ一緒に行きましょう、あなた達が見終わるのを待っているわという。この時も次の目的地プリエネに行くバスはなく、一旦ソケという街に戻り、行き直すしかなかったのだ。我々が戻り、じゃあソケに行くしかないかと話していると今度はドルムシュ(小型バス)の運転手が50リラ(4500円くらい)出してくれればプリエネまで行ってやるけどという。バスの運転手がタクシーに早変わりだ。この適当さはトルコならではである。プリエネまでは25キロほどで3人でその値段ならば安いということで話はまとまり、プリエネまで無事に行き着く事ができた。トルコでは至る所重要な観光地にもかかわらず、肝心のところにわざとのように交通機関がない。まったくひどいなあと思いつつ、結局テキトーで親切なトルコ人に助けてもらうほかないのだ。これが今回私がマスターしたトルコ旅行のコツです。この日は結局水やコーラやビールやアイスのみで昼食がとれず、夜の8時にやっと食事をとることができた。いつもなら夜は涼しくなるのだがこの日は夜も暑く寝苦しい夜であった。

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以下ディディムの遺跡
ここはデルフォイとならぶ神託のメッカという。柱の太さや並べ方が間隔が他とはかなり異なる。遺跡面積は狭いが迫力がある。有名なメドゥーサも含め彫刻のディテールがかなり鮮やかに残る。

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以下ミレト(ミレトス)
ここはギリシア文明圏で(ということは世界で)最初に哲学と自然科学が生まれたといわれるイオニア文化の中心地である。紀元前4世紀に作られた大劇場が中心だがここも広大な場所に様々な街の遺構が点在している。ターレスとかソクラテスとかがこの街を歩いたのか!と思いつつ。

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プリエネの遺跡。復元図。
この都市の街並は都市計画においてグリッド(格子)を用いた最古のものであるという。背後にそびえる山の土砂によって19世紀まで埋もれていたという。

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この日はかなりの猛暑であった。予定していた13時のバスに乗れず17時までパムッカレに足止めされた。あまりの暑さに再びパムッカレに登る気もおこらず、近所の週に一回のバザールを覗いたほかは宿でブログの更新などをする。また宿にいるといろんなタイプの日本人旅行者が来て話をする。妻は宿の女性主人(日本人)と一緒に衛星放送で「ニュースセブン」を見ていた。これまで休みの無い時間が続いたので結果的には久々の休養日となった。
セルチュクまではバスで4時間。バスセンターで翌日の移動手段の確認をしたのだが全く要領を得ないまま9時半に宿に到着。夕食抜きで就寝。

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この日はとてもハードな一日。旅前にえびりんからのアドヴァイスにもここアフロディスィアスに行くのはとても難しいと聞いていた。パムッッカレからも100キロ以上あり、公共交通機関がない。レンタカーで普通は行く所だ。昨日移動した先の宿で相談した所、27日の朝になって我々以外にもアフロディスィアス行きの希望者があったためタクシーをシェアして行く事が可能になった。車をかなり飛ばして一時間半かかった。
ここは保存状態も良く、都市全体が残され競技場、神殿、オデオン、劇場、アゴラが点在している。アフロディスィアス博物館にはこの遺跡で発掘された彫刻や有史以前の装飾品も展示されている。苦労して来たかいがあった。アフロディスィアスからの帰還後、遅い昼食をとり宿からすぐのパムッカレ・エリアへ。ここは観光地として有名なので説明の必要はないかもしれない。丘が流れる温泉によって石灰棚で出来ており実際とても美しい。私たちの行った時刻は太陽がまだギラギラする3時頃であった。
ここを登ると丘全体にはヒエラポリスという紀元前2世紀の大都市の遺跡が広がっている。博物館もふくめここを炎天下のなか3時間程歩く。実際日陰になるような場所も無い。遠くには山脈が見え広大な空間のなかにある都市風景は圧巻である。この日は途中でカメラの容量が一杯になり写真が撮れなくなった。急遽妻のカメラで撮影したためここには掲載できないが8時の夕暮れまで丘で待ち、夕日と残照の中の石灰棚を撮影した。8時を過ぎると急激に涼しくなる。
この日宿で出会った韓国人のご夫婦は偶然私たちと同じように大学の海外研修で1年ヨーロッパを旅している人であった。コンピュータサイエンスが専門とのこと。シェンゲン協定の避け方も同じなら、せっかくの1年を外国の大学で過ごすなどまっぴらだという点も、子供の数や年齢もほぼ同じで意気投合する。ただ私と異なるのは彼らは車で全部移動しているとの事。とても冒険的ですねというと、フランスのプジョー社のキャンペーンで安く車をレンタルできたとのことだ。そういう手があったのか。

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アフロディスィアス遺跡

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アフロディスィアス博物館

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博物館外観

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石灰棚

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ヒエラポリス復元図。下の白い部分が石灰棚。

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3200年程昔の貨幣!

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ローマンバスを使用したヒエラポリス博物館

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ここで電池切れ。
ロドスからマルマリスへフェリーで戻る。マルマリスからバスでパムッカレへは5時間程。
パムッカレでは村のペンション同士の客引きにおける仁義なき戦いに巻き込まれ、一泊ずつ宿を変えることになる。(細かい話は省略するが)日本語に堪能なトルコ人も絶対信用してはならないという見本だった。この間日本人女性が妻だと称する男に3人あったが本当にそうだったのは一人だけだった。またここに滞在中には、世界一周旅行をしている人たち(一人旅やカップルなど)に何組か出会って話をする機会があった。皆さんとてもタフでそれを見ていると多分私たちが旅に対してナイーブなんだろうと思う。

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フェリー船上にて。

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パムッカレ

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ロドス考古学博物館

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この博物館はヨハネ騎士団のかつての病院として使われた建物だった。

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パレス・オブ・グランドマスター(騎士団長の館)

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我らの聖母教会

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ロドスは紀元前12世紀頃から人が住み始めカミロス、イアリソス、リンドスの三つの古代都市で有名である。現在はリンドスが町も残り、遺跡も保存が良い。ロドスは海のシルクロードの中に位置している。ローマ帝国、東ローマ帝国、サラセン、ベネチアとその支配者は歴史の中でめまぐるしく変わっている。この島を有名にしているのは島の先端(約900メートル四方の旧市街)が城壁で覆われているところだ。現在でも城壁はしっかり残っている。これは聖ヨハネ騎士団が200年にわたりビザンチン帝国の崩壊後、イスラムに対するキリスト教の前線基地とするためこの島を支配し、築いたものだ。このあたりは塩野七生さんの小説「ロードス島攻防記」に描かれている。攻撃をしたのはトルコのスレイマン一世でこの戦いでは大砲が本格的に使用されている。今でも城壁のあちこちに丸い石が転がっているが大砲の弾である。

400年近いトルコ支配の後、イタリア、ドイツが占領しギリシアに帰属できたのは第二次大戦後である。


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リンドスの町と丘


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遺跡から町を見下ろす


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スミス山(ロドスの町近く)の古代スタジアム


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古代劇場


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アポロン神殿


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城壁に戻る

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24日と25日はお祭りらしく城壁のあちこちでイヴェントが行われていた。


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大道芸の人々。昔、芸祭に来てもらったことのある黒色テントとそっくりのパフォーマンスだった。

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マルマリス湾

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まるで前田大作のような写真だ

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翌日フェリーでギリシアのロドス島に渡る為この日にはマルマリスに到着しておかねばならなかった。パタラからは結局7時間ほどかかった。この移動でも不思議な事があった。途中フェティエという町でバスを乗り換え、4時間ほどかけてマルマリスに向かうのだがバスセンターのおじさんが「あんたらどこに行くの?」(僕はトルコ語はメルハバしか知らないのだけど簡単な質問ならなんとなく分かるのだ)と聞くので「ロドスに行きます」と答えた。するとそのおじさんは動き始めたバスまで追いかけて来てマルマリスに着いたらここにいけとペンションのカードを渡すのだ。すると今回も案の定、マルマリスのバスセンターにアル・ゴアを若くしたようなお兄ちゃんがいて、自分のペンションに連れていくのだ。

でここから先を書くと長い話になるので、結論から言うと夕方の5時を過ぎていたにもかかわらず、翌日のフェリーのチケットも無事手に入り、嘘のようにうまくことは運んだのだ。しかし、私たちにしてみればバスセンターのおじさんやペンションの兄さんやフェリーの切符を用意してくれたおじさん達がどのような意図で、結びついているか理解できず、とても不安でもあり、不思議でもあったのだ。トルコはコネ社会なのだろうか?その日はその宿に泊まっていたトルコのサラリーマンのおじさん達と色々話をした。

クサントス、レトゥーンは二つで世界遺産になっている。そのあと私たちの滞在しているパタラの遺跡にも行ったが、パタラの遺跡は想像していたよりもずっと良い。クサントス、レトゥーンよりも良いのではないかと思った。皆それぞれスケールのでかい遺跡群であった。リキア文明、リキア文字については大変興味深いものがある。リエカに戻って改めて調べ直したいと思っている。


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パタラのメインストリート


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以下クサントスの遺跡

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以下レトゥーンの遺跡

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以下パタラの遺跡

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アンタルヤから2時間ほどかけてカシュに移動する。

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カシュの町

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岩窟墓(リキア時代)


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リキア文字


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古代劇場。向こうには紺碧の地中海。ほとんど人は来ない。


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幸運なことにペルゲ、アスペンドス、スィデの三カ所に行くツアーを見つけた。自分たちの足だけならば一つがせいぜいの距離である。その分かなりハードに動き回ったせいで体中が軋むように痛くなった。

ペルゲは紀元前数世紀以上前からの町である。町全体がそのまま残っている。

アスペンドスは紀元前10世紀からの町である。円形劇場は小アジア最大の規模であり、世界で最も保存状態が良いらしい。


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この辺りには滝が沢山あるそうだ。


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スィデ。ここに来た理由はこの町の名前がsideだからである

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夜行バスは絶対に避けようと思い、カッパドキア(カイセリ)-アンタルヤの航空便を探したがみつからず、また日中に行きつけそうなバス便もないためやむを得ずの強行軍になった。思った通り眠れなかった。これまでの中部アナトリアは春の季節であったが地中海沿岸のアンタルヤは既に夏であった。宿で眠っては却って調子を崩すと思い、真夏の日差しの中アンタルヤ考古学博物館へ。ここには後に行くペルゲ遺跡でみつかった彫刻が多く展示されている。イスラム美術も含めて収蔵品はかなりある。彫刻は2世紀のローマが中心でそれほどでもない。途中意識が朦朧としてきたので人気のない視聴覚室のようなところを探し出し、2人とも30分程仮眠をとる。博物館で仮眠をとったのは始めてである。


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ハドリアヌス門

イスタンブールで既に宿を予約していたため昨日はギョレメからユルギュップという町に夕方移動して宿泊した。ギョレメ屋外博物館を昨日は見れなかった(一昨日に夕方散歩で外からみただけ)ので、朝ネヴシェヒルという拠点の大きな町に行き、その夜の夜行バスの切符を購入、荷物を預け、再びギョレメへバスで(30分ほど)移動。そのユルギャップの宿は値段のわりにひどかったので、こんなことならギョレメに2泊すればよかったのだが。
ここではほとんど触れていないがそういうことは旅にはつきものとはいえ、結構疲れるものだ。

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ユルギュップの町

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ギョレメ屋外博物館はギョレメにある岩窟教会が集中している場所にある、オープンエアーのエコロジカルミュージアムである。ここはカッパドキア観光のハイライトの一つなのであろう、また日曜日というせいもあり大変な人が訪れていた。日本からの団体観光客を3組も見た。これまでトルコで見かけたアジア人の団体は圧倒的に中国でその次が韓国であった。カッパドキアは日本では人気があるのだろう。

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ギョレメ博物館を出てすぐのところにあるトカル・キリセの教会。10世紀後半

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ギョレメ屋外博物館を見ている途中、妻が教会と間違えて入った場所は管理事務所のようなところであった。そこにいた偉そうなおじさんが一人でターキッシュティーをいれていて、お茶に興味のある妻にいろいろ講釈をしてくれた。その人が君らは団体かと聞くのでいや2人で旅していると答えると(その間事務所には部下が何人もやってきてあわただしくなったのだが)トカルキリセの所でサリというやつが君らを待っている。彼が君たちをスペシャルな場所に連れて行ってくれるから行きなさいといってメモを渡してくれた。彼のサインとsaliという名前と20リラと書いてあった。一応サンキュウといってもらって別れたが、これは善意なのか、営業なのか理解に苦しむ所だ。もちろんこれまでの旅の過程でトルコ人は押し並べて親切で人が良く、治安もよいということは分かっているが、当然そこは観光客相手の部分もあり、営業なのか本意なのかそのトルコ的ごちゃ混ぜなのか、まだそこのところの見分けがつかないのだ。(多分ずっとつかないような気がする)
トカルキリセを出たころには我々はそのことを忘れかけていた。すると地味な無精髭のおじさんがやって来て君らをドライブに連れて行きたいがと行って来た。メモを見せてあなたはサリさんかと問うとそうだという。少し迷った末、どうせその日は夜行バスだし、時間はあるし、予定もなかったのでサリさんのオンボロ自動車でドライブに連れていってもらうことにした。行ったのは3カ所であったがガイドブックに載っていない場所で、アシュクバディシとペリバカラルバディシ、アヴァロンの丘の三カ所である。2時間程。最後アヴァロンでは絨毯工場に連れて行かれた。
ここでイソさんという人が出て来て流暢な日本語で解説をはじめた。実は我々は2人とも絨毯好きなのでまずいと思ったのだが、織りの現場から繭から糸の取り出し、染色と丁寧に見せてくれるし、こちらも興味ありありなものだから真剣に聞いてしまう。問題はさっきのことと同じで私たちは現時点で買う気がないということなのだった。そこで途中でイソさんに悪いが私たちは長旅の途中なのでそんな買い物なんかできない、説明してくれるあなたに悪いからというと、イソさんは泣きそうな顔をしながら私は久しぶりに日本語がしゃべれるだけで嬉しいんだ、買わなくてももちろんかまわない。ぜひ最後まで紹介させてくれという。素直に信じた訳ではないが、成り行き上しょうがないのでそうすることに。最後は畳三十畳くらいの部屋に我々をソファにこしかけさせ、イソさんは次々に床に絨毯を部下に広げさせて説明して行く。何十枚も。話しながら興奮している。これは凄いと思うものが確かにあった。(結局は買えないのだけど)イソさんとは握手をして別れた。
後で思ったのは私が絨毯を好きになった原因は少なくとも二つある。一つは小学校3〜4年の頃我が家に新しい絨毯が来た時の母が幸せそうだった記憶。もう一つはコッポラの映画ゴッドファーザーパート2だ。デニーロ扮する若き日のコルレオーネが友人から子供の誕生祝いに絨毯をあげると言われ、いそいそと彼のあとについて行って結局絨毯泥棒の片棒を担がされるというユーモラスなシークエンスがある。またここで絨毯は新しく生まれた命、ファミリーを包むとても重要なメタファーとして表されている。このシークエンスは無声映画のように言葉がほとんどなく映像だけで描かれていて、コッポラの全ての映画の中でも最も冴えきった映像だったと記憶している。(撮影はゴードン・ウィリス!)それに単純な僕は影響されて結婚した時とか子供が生まれた時に絨毯を買ったのだった。(もちろん高級品ではありませんが)

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夜行バスでアンタルヤに向かう。
地下都市も地上都市も穴を掘っている限り同じなのだと思う。モグラと同じで遠近感はなくなるだろう。誰もが「どうして」と思う場所だが、アラン諸島やディングル半島を旅した身からするとそのことは特別なことじゃない。ように思える。人間はもともと穴に住んでいたのだ。ここでは、ただ試しに掘ってみたらその岩が意外にもろく、簡単に掘れたから、掘る事がやめられなくなり、それが遺伝子にまで染み付いたのではないかと勝手に考えた。住居とは何かを考える上ではここは大変興味深い場所である。

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宿のバルコニーから、ギョレメ村を見る。
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ギョレメパノラマ。

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向こうに見えるのはウチサヒルの町。

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カイマクルの地下都市。僕の悪夢パターンのベスト2は高所、穴(閉所)であるがこの日は二つとも現実のものとして味わうことになった。興味深いが絶対に住みたくない場所である。写真は暗すぎてあまり撮れなかった。掲載しているのは比較的広い場所で、ようやく通れる位の穴が随所にある。多分多くは暗闇の中で生活していたのではないか。

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ここは地下5階といわれているがそのようなエレベーション感覚は住んでる人間にはなかったのではないだろうか。

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敵の侵入を阻止する仕掛けが至る所にあるそうだ。ここを襲う敵とはどのような人たちだったのだろう。

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各階をつなぐ通気口。ここには礼拝堂、教室、食料庫、井戸、厨房、ワイン醸造所、ゴミ処理施設、お墓など全てがあり、2万人が住んでいたという。それなりに機能的にできていて、例えば日本のマンションとどこが違うのか?と考えてみると、「同じかも」という感想も出て来るのだ。

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通気口から上を見上げる。

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ウフララ渓谷

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岩の中にある教会や礼拝堂。

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フランス、トルコ、カナダ、オーストラリア、日本、国籍混交のツアー。お昼ご飯。

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ゼルヴェ峡谷。ここがこれまでで一番興味深い場所だった。観光客も少なくゆっくり見る事ができる。

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ピジョンヴァレー(鳩の峡谷)。木にぶら下がっているのは魔除けの目。

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岩に暮らす人々の生業はワインの生産だった。彼らは鳩を飼いその糞を飼料にしていたらしい。

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まるでマグリットの絵のような...。




ハットゥシャシュのあるボアズカレ村はとても良い所でここにもう一泊する予定だったが、これからの移動の時間を考えて、悩んだ末、カッパドキアに向かうことにする。ボアズカレから大きなバスセンターのあるヨズガットには公共交通機関はなく、昨日案内してくれたタクシードライバーの携帯に電話し、送ってもらうことにする。約40キロ。ヨズガットからカッパドキアへのバスは13時からで時間が余ったので、町で一番大きなデパート(4階建て)のインターネットカフェへ。ここで作業中突然「カーネルサンダース現象」というトラブルが発生。サファリが使用不能となる。(その後自動修復したらしく現在は問題なく動いている)カッパドキアのネヴィシェヒルに4時到着、客引きにだまされそうになるが運良く目的地ギョレメ村へのドルムシュを発見。ギョレメ村には夕刻到着。この日は宿を決めてなかったので荷物を引きづり宿探しを行う。夕刻、屋外博物館まで散歩する。カッパドキアには地下都市を見たくて来たが思ったより広大でどう見て行くかしっかりした計画の無かった私たちは少し途方に暮れたのだった。

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ヨズガットのバスセンター。向こうに見える少し高い建物がデパート。
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アンカラのオトガルからバスに乗ってスングルルの町まで約3時間。スングルルから目的地ボアズカレ村までドルムシュという小型バスがあるはずなのだが、何しろ始めての場所なのでバス停の位置も何もわからない。やむを得ずタクシーで向かう。(約20km)この旅ではなるべく公共交通機関を利用しようと思っているがなかなかうまくはいかない。しかしお陰で予定よりも早くボアズカレ村に着くことができた。タクシーの運転手とのやりとりや宿を決めるプロセスもいろいろ事件がありおもしろいのだが時間がないので省略。
ハットゥシャシュは3000〜4000年前のヒッタイト人の築いた王国である。それまでの緑の少ない丘陵の中にここは緑が比較的多く、昔から美しい場所であったことが想像される。遺跡は丘全体に広がり全体を見て回るのに約7キロ歩く。そこから3キロ、北東にヤズルカヤという露天の神殿があり、そこも訪ねる。約5時間で14〜5キロ程(半分は上り坂)歩く強行軍であった。
ここではかつて1万枚もの粘度板が発見されたところとしても有名で、その粘度板によれば2千キロ離れたエジプトと交流があったことがわかっている。ヒエログリフとくさび形文字の交流の跡が見られる。王国の遺跡は大変ダイナミックでかつてここに建っていた状況を想像するだけでわくわくさせられる場所である。何故か観光客は少ない。村には一件の宿しかないのだ。人々は大変素朴である。
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ハットゥシャシュ
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大神殿

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古堅さんに似たタクシードライバーがやってきて小一時間程熱心に解説してくれた。翌日彼にタクシーを頼むことになる。
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ライオン門
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ライオン門の外
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スフィンクス門地下道
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城壁
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スフィンクス門

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ニシャンテベ。古代文字が書かれている。
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ヤズルカヤの神殿へ、谷をおりて再び登る。
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アンカラの目的はこのアナトリア文明博物館に来たかったからだ。アナトリアのヒッタイト時代はもちろんのこと、人類最古の集落と言われるチャタル・ホユックの遺物もある。紀元前7000年の集落である。これをみればほぼ9000年前にいかに高度な文明が存在していたかがわかる。イスタンブールの古代東方博物館とならんでスペシャルなところ。全く期待は裏切られなかった。このあと、その遺物が発掘された場所、ハットウシャシュにいくのだが。ここに掲載した写真はごく一部である。

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アウグストウス神殿跡

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ローマ浴場跡

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アウグストウス神殿側の住居


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旧市街からバスセンター(オトガル)がある新市街へフェリーで行く。料金は安くしかも大変気持ちの良いルートだ。

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アンカラへはバスで約6時間。バス会社は競争が激しくサービス合戦をしているらしい。まるで飛行機のようにスチュワードのような車掌が飲み物やケーキを配る。

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夕方アンカラ到着。ここが首都になって80数年、6万人の都市から320万の都市にしたと聞いてもっとモダンな街を想像していたが、街はお世辞にもきれいとはいえない。排気ガスが結構すごいし、全体的にはカオティックな印象を受ける。

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ひとまず一番高い場所、アンカラ城に行ってみる。

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息をきらして城の中に入るとそこは意外にも町(集落)があった。後でこの家々が一夜建築と呼ばれている事を知る。こどもたちがわらわらと遊んでいる。城は閉まっているときいていたが、子供の一人が城まで連れて行くという。半信半疑でその子の後について迷路のような一夜城を通っていくと確かに城に登る事ができた。(良いのかどうかしらないが)その子はちゃっかり1リラ(約90円)を案内賃として要求してきた。

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城の中でサッカーをする子供達

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丘の上がアンカラ城

色々書きたい事もあるがこれ以上やると旅自体に支障をきたすのでとりあえず写真のみ。
行った場所は国立考古学博物館、古代東方博物館、装飾タイル博物館、アヤソフィア博物館、トルコ・イスラーム美術博物館。

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国立考古学博物館、古代東方博物館、装飾タイル博物館の三館は同じ敷地内にあり、大変素晴らしい。右手は国立考古学博物館、左手奥が装飾タイル博物館、手前に古代東方博物館がある。アレクサンダー大王の石棺の素晴らしさは完全に僕の想像を超えていた。

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大王の石棺
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装飾タイル博物館
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アヤソフィア博物館
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トプカプ宮殿はいわずとしれたオスマントルコ帝国時代の歴代支配者(スルタン)の超有名な居城である。巨大であり、財宝のかたまりである。見て回るのにもかなりの時間がかかる。ハーレムもある。まあ色々、すごいです。が実はここでも一等感動したのは視覚的なものではなくてコーランをずっと読み(詠い)続けている僧侶がいて、その声とメロディなのであった。何故かはわからないが。触覚の次は聴覚か。

その後エジプシャン・バザールを歩き、町中をさまよいながらスュレイマニエジャーミー(中が工事中でステンドグラスは見れず)、シェフザーデバシュジャーミーなどへ。京都の寺周り感覚です。祈りの前に水道で手足を洗う若者が印象的であった。日本の神社ならば手と口を漱ぐくらいだけど、ここの人たちは銭湯で身体を洗っている様子を想像していただきたいのだがもっと真剣だ。その後ローマ時代の遺跡バレンス水道橋を見、古本街からグランドバザールへ。グランドバザールは本当に迷路のようで実際かなり迷ってしまった。

そこでくたびれ果てたころ夕方なのだが、昨日行ったブルーモスクに再訪。

帰路、疲れたのでやめようかと言っていたのだがローマ時代の地下宮殿なる所に行く。ここはたいした所ではないと思っていた。古い家を壊したら地下からローマ時代の柱が出て来ました、くらいのもんではないかと。ところがこれが大間違いで、本当に地下に巨大な宮殿があり、その床は池のように水がたまり魚さえ泳いでいるのだ。ここには28本の列柱が12列、計336本あったそうである(現在見えているのは246本)。4世紀から5世紀にこれは貯水池として作られたという。私たちが昼間見たバレンス水道橋を通って来た水がここに貯水されていたのだ。この空間が千何百年もの間暗闇に眠り続けていたことに不思議な感動を覚える。昨年のゼミ生、荒尾君の時間論を思い出す。この暗闇の時間イメージの不気味さはニュートン的ではなくライプニッツ的である。20年程前に掘り起こされた列柱の台座になっているメドゥーサの首は横向きで恐ろしい。それにしても貯水槽のためにこの規模と構造の空間を作るなんて。この時代その最盛期を過ぎていたにもかかわらずローマ人のやることは凄いなと思わせられる。その後ブルーモスクの下には実はまだ発見されていないローマの宮殿が眠っているのではないかと勝手に夢想してしまった。

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以下トプカプ宮殿

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宮殿テラスからボスポラス海峡を望む

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エジプシャン・バザール入り口

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ジャーミー巡り。名前を覚えきれず。

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バレンス水道橋

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古本屋街

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再びブルーモスクへ。どこかの美大の先生と学生だ。イスタンブールで古美研も最高だね。

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地下宮殿(実際の見えよりも少し明るい)

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床には魚が泳いでいるのが見える。

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このメドゥーサの頭は逆さまで

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こちらは横向き。結構怖いでしょ。


5時半に目が覚め、6時に宿を出て歩いてバスセンターへ。空港まで30分。ザグレブ空港から9時過ぎ発のプロペラ機でミュンヘンへ。ミュンヘンでトランジットしイスタンブールへ(直行便がないのでかなり遠回り)。今回のトランジットタイムも1時間弱だったが飛行機は遅れも無く無事に到着。空港からのシャトルバスでマルマラ海峡を右手に見ながらアクサライまで約30分(久々の交通渋滞)。トラムに乗り換え3つ目の停留所がスルタンアフメットで私たちの滞在場所である。イスタンブールは大きく旧市街、新市街、アジア側の3エリアあり、スルタンアフメットは旧市街にある。新市街には金閣湾を橋かフェリーでわたり、アジア側にはフェリーでボスポラス海峡を渡る事になるが今回の私たちの滞在目的場所は全て旧市街にある。宿から歩いて78分の所にスルタンアフメットジャーミー(別名ブルーモスク、ジャーミーは寺院)がありここには時間制限(お祈りの時間以外)がないので夕方入ってみる。ここは日本のお寺と同じで靴を脱いで入る。床には絨毯がびっしり敷き詰められている。靴を脱ぐということがアジアとヨーロッパを分けているのだと何となく実感。絨毯の柔らかい触覚がかえってここで冬祈る時の寒さを感じさせる。この地で美しい絨毯が生まれたわけがわかるような気がした。この感覚が意外にもドームの視覚的な凄さ(スペクタクル)よりも印象深いのだ。

この寺院の横は昔のローマの大競技場跡であり、テシオドス一世とコンスタンティヌス三世のオベリスク(石柱)、途中で折れている青銅の蛇の柱がある。

夜は環境の急激な変化と前日のゼニート事件などの影響か、疲れているはずなのに眠れず。ブログの58日分はこの眠れない時に書いたもの。朝方4時過ぎにやっと就寝。朝方街のどこからかコーランの祈りの声が聞こえる。二日続きの睡眠不足は旅の敵である。


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ブルーモスク

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アヤソフィア

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ブルーモスク(スルタンアフメットジャーミー)正面

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オベリスク

9時のバスでザグレブへ。12時到着。さすがに首都だけあってリエカよりはずっと大きい(しかしロンドンや東京に比べれば驚く程小さな首都である)。

博物館や教会など街の主要なものを徒歩圏内で見て回れる。

(ここから先は僕の本に関するきわめて個人的な記録なので興味ない人は飛ばして下さい。)

そして一渡り見た後、古本屋があったので2軒ほど覗いてみた。グラゴール文字について欲しい本があったので訊いてみたが置いてなかった。ザグレブへはまた来る予定もあるし、そろそろ宿に帰ろうかということになってぶらぶら歩いていた。そうしたらいつもの本の神様がまたもや唐突にやってきて奇跡を起こしてくれたのだ。(このことについてはかつて一緒にパリを散歩していて現場を見たことのある陣さんは説明抜きで信じてくれると思うのだが、僕には本の神様がついていて時々必要な場所に思いがけなく連れて行ってくれることがあるのだ)。今回も歩いている途中、通りからたまたま普通ならば入らないような路地がふっと見え、何故かそこにその時だけ吸い寄せられるように入る僕なのであった。妻は突然の僕の不審な行動に何事かと驚く。路地の奥はなんてことのない中庭になっていて地元の人だけが集まるような小さなカフェがあるだけ。何もないし人もいない。ただその向こうにガラス張りのビルの一角が面している。その佇まいが何となく銀座のgggギャラリーを小さくした感じなのだ(わかる人にはわかると思う)。なんの事前情報も無いのだが吸い寄せられるように迷い無くそこに入る僕。するとそこは予感どおりグラフィック専門のギャラリーで、何かの展示のオープニング5分位前だったのだ。人がにわかにごったがえし出し、テレビカメラのクルーもいる。まるでそこに呼ばれたゲストのようにいる僕(多分謎の東洋人に見えただろう)。その奥にメインエヴェントのように飾られてあったのが写真の本である!そばにいたおじさんに自己紹介し、突然でしかも偶然で申し訳ないのだがこれはいったい何の展覧会かと聞く(後で考えればとてもおかしいシチュエーションだ)。そのおじさん(ひょっとしたらクロアチアで有名なデザイナーの一人だったかもしれない)はとても親切に答えてくれる。ここのギャラリーのオーナー(あそこにいるけど今テレビのインタビューで忙しそうだ。ちなみに若い女性)がこのたびユーゴスラビア1920年代の主立ったアヴァンギャルドの雑誌(ざっとみて20冊は下らない)をコンプリートにリプリントし、今日はそのお披露目のパーティーなのだという。そのリプリントの中にはあのリシツキーが表紙をデザインしたゼニートが燦然と輝いているしダダもある。ゼニートについては今までオリジナルを見た事はなかった。そうこうするうちに会場は人で溢れ出すしオーナーの彼女とはどうせゆっくりは話ができそうにないので立派なパンフレットをもらい、トルコ旅行のあとちゃんとアポイントメントをとって来ようと決め会場をあとにしたのだった。

当然僕は興奮していた。

(あのおじさんに)ゼニートは本当にここザグレブなのか?

表紙にはベオグラードって書いてあるじゃないか?

いやここザグレブで発行されたのだ!

1922年という年はリシツキーがモスクワからベルリンに行き二つの正方形の物語やベシチをデザインした輝かしい年だ。ということはベルリンへの途上でユーゴスラヴィアに寄ったのか?それともその後の進歩派芸術家会議によるものか、頭を想像がぐるぐる駆け巡る。

(こういうことを奇跡と言わなくて何と言ったら良いのか?何で彼女は今ここでリプリントをしたのか。そのお披露目が何故今日なのか。何故その日に僕はザグレブにいるのか。なぜあの時間にあそこを僕は通りかかったのか。何故あの路地に何かあると僕は感じたのか。)

12年前パリの古本屋で同じようにリシツキーの「USSRコンストラクション」を発見し、翌々日に「声の為に」に出会いそれがきっかけとなり日本で展覧会を企画し本を作るはめになったのだった。今回大英博物館でパスをもらえたことやグラゴール文字と滞在先の関係など、密かにいつもの本の神様の差配と感謝はしてはいたのだが、まさかリシツキーのゼニートにここで引き合わされるとは!

リシツキーが「もっと研究を深めよ!」と言っている。いやそう言っているのは僕の本の神様か。


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宿のそば

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ザグレブ考古学博物館。ザグレブで最も古いエレベーター。

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ザグレブ歴史博物館

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荷造り作業。気持ち的にはトルコはもう夏ではないかと思えるのだがネットでみると意外にもクロアチアよりも気温が低かったりする。可能な限り荷物の重量を減らす事に腐心する。東京からではなく中継地点ともいえるクロアチアからの旅なのでかなり思い切った軽量化が可能になった。お昼にソボルさんと(結局充電中に床に落として調子の悪くなった)携帯の換わりを購入に街のセンタービルという最も大きなショッピングセンターに行く。その後エスプレッソを飲みながらソボルさん自身についての質問や僕のデザインの事について話をした。彼はいわゆる得度したというのか、相当長期間の修行を積んだ真言密教の立派なお坊さんだったのだ。ヨーロッパ全土で50人以下という。何故とかどのようにについて書くと長くなるのでまたいつか。彼の修行が生半可なものではないことだけは感じる事ができた。

また僕がデザインについて考えてきたことと(その社会的な存在の意味など)彼が何故仏教にひかれその世界にはいったかについてその理由はほとんど同じだね(これはソボルさんの言葉だが)という話になった。ただのモダンでもなく、がちがちの伝統主義者でもなく、伝統を可能な限り深く理解した上で、それと今をいかにクロスさせるかに興味があること、その時重要なのはフォルムではなくて「ホーリスティックな生成している状態」であることなどなど...。

その帰りに「あそこには何があるの」と以前僕が質問したのだがリチエナ河の奥の谷に車で連れて行ってもらった。残念ながら電池切れで写真には残せなかった。ここは近代産業の工場等の廃墟あとで現在はロックコンサートなどが開かれているという。また第二次大戦中の戦争の不気味な遺物もある。ここにこれから5年くらいかけて建築、美術、デザイン、音楽の専門家が集まる芸術地区を作る計画があるそうだ。ユーゴスラビア紛争の後、その傷も次第に癒えてこの街も大きな変貌を迎えようとしているように見えた。

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街にあるクロアチア航空のオフィスで次のフライトのリコンファームを行う。ブログの更新作業。帰りはバスではなくペダル・クジッチの階段621段を登ったがあとで膝が痛くなってしまった。家に着くとマイーダさんが来ていてダリンカさんが庭に作っている菜園の野菜を何でも好きなだけ持って行けという。おかげで今晩の夕食のサラダはいつも以上にごちそうになった。また香草も何種類かいただいた。魚の料理やスープなどに香草は欠かせないが、こちらのマーケットではいまいち分かる香草がなかったので妻は感激していた。また僕たちの為にダリンカさんはトマトを育ててくれているらしく、あなた達がトルコ旅行から帰って来たら出来てるよみたいなことを言っていた。楽しみだ。

リエカでは皆さんのお陰で落ち着いた日々を送る事ができ、また予定通りの日程を消化することができた。他のヨーロッパ諸国へ移動する際にフェリー、バス、電車、飛行機のどれがベストなのかについて等未だに良くわからないとこは沢山あるが実際やってみなきゃわからない事の方が多いのだろうと思う。

いよいよ48日から次のトルコへの旅が始まるのでだんだん緊張感が高まってくる。

今朝は5時半起き、6時過ぎに家を出ました。

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いつも乗っているバス

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イストラ半島中部、ブルサル-オルセラの村

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ロヴィニィ手前のリムスキーフィヨルド。アウトドアスポーツの名所らしい。

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ロヴィニィ到着。今日はあいにくの雨模様である。

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旧市街への入り口バルビ門。かつてはここは海で旧市街は島だったのだ。

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聖エイフェミヤ教会。エウフェミヤはローマ時代に迫害され車輪で拷問されたうえ、コロッセウムでライオンにかみ殺され殉教したといわれる人。塔の先端には車輪とエウフェミヤの像がある。

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港から旧市街エウフェミヤ教会の尖塔が見える。

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バスで約1時間、ローマ時代の古代都市、ポレチュへ移動。あいにくの雨だが濡れた石畳の色が美しい。

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エウフランシス・バジリカ。世界遺産に指定されているらしいが、ビザンチン・モザイク?という感じで始めはあまり興味がわかなかった。そもそもビザンチン美術についてあまり良い印象を持ってなかったので。しかしその考えはかつてリシツキー研究のためロシアのサンクトペテルブルグに行った時ロシアイコンの凄さに驚いたのと同様に、考えを改めさせられた。この教会は美しい。

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現教会床の下にある古いモザイクの床。

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塔の先端に昇る

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ポレチュの街並

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ローマの神殿遺跡。

大掃除。ブログの更新。次の旅の準備など。

昼間、例のごとくコンチネンタルホテルまで出かけて、ブログを更新していたらトラブル発生。せっかく更新した半分がだめになる。いろいろやってみたがうまくいかず急遽、設計者であるあきお君にヘルプのメール。その後、彼の迅速な対応のおかげで無事復旧しました。ありがとう。その他、次回の旅の目的地であるトルコについて、かつてそこで数年暮らしていた後輩のえびりんに色々質問をし有用なアドバイスをもらったりした。とにかく遠く日本を離れてもパソコンとネットワークのお陰で助かることが多い。時々、もし今持って来ているノートブックがいかれたらどうなるのだろうと少し不安にもなる。えびりんは確か僕の4級下の後輩になる。彼女からのニュースによればその1級下の落語家林家たい平(師匠)が今回文部大臣賞なるものを受賞したとの報せが。みぎわさんとお祝いの会に行くそうである。彼が学生当時皆と伊豆の印刷工場見学に行ったのはもう二十数年昔のことなんて信じられないなあ。

この旅の記録をどうするかについては少し迷った。ヴィデオカメラは論外であった。まずどっちみち帰国した後、見直す時間がない。結局、写真機をどうするかに尽きた。ニコン某、キャノン某の高解像度デジタルカメラを買うべきか。あるいは新島さんは僕に「寺さん、プロなら記録はデジタルなんてだめだよ。フィルムでとらなきゃ後で使えないよ」などとプレッシャーをかけるし。しかしデジカメとアナログ両方持って行くなんて箸と筆とマウス以上に重いものを持った事の無い育ちの僕には無理だ。

いや、実際は年のせいですが、とにかく重いものをかついで旅する根性はないなあと思って悩んでいたのだった。結局、一緒に事務所をやっていた大村麻紀子嬢が持っていたかっこいいカメラをみて(昨年)欲しくなって、単にまねをしてそのカメラにしたのだった。それが今回使っているRICOH CAPLIO GX100である。フィルターも何もない。20代の頃はニコンのFEというカメラがいつも鞄のなかにあって自分の身体の延長のようになっていた時期がある。30代の10年は仕事でも写真はプロのカメラマンまかせになり、自分では撮影しないし、もっぱら子供を撮るのに専心していた。そんなこんなで20代のようなカメラ感覚はどんどん薄れていた。そのうち世の中はデジタル化し、そういったカメラも必要にかられて時には使ってはみたものの、かつてニコンのFEを使っていた自分の目の代わり的な感覚は全く失われていたのだ。しかし今回の旅で久しぶりに毎日のようにカメラを手にしていると、それなりに感覚というのは戻ってくるもので面白い。フィルムと違って必要な時にはその場で確かめられるなんて夢のようだ。(もちろんその場で確かめられない良さ!というのもありますが)解像度が問題なのはしょうがないと思う事にしている。使う機能はマニュアルでシャッタースピードと絞りを調整するだけ。デジカメ特有のいろんな機能は全く使いこなせてないが(その気もないせいだが)面白いのはオートにしていると聖堂や博物館などの薄暗い場所でも勝手にカメラが補正して実際よりも明るく映る事だ。だから単なる記録というよりも別の画像を見ている感じもある。僕はカメラについているフラッシュがきらいなので全く使わない。基本的には室内ではロースピードシャッターになる。最初は15分の1で危ないかなあと思っていたが、最近は2分の1秒であまりぶれなくなりましたよ。気合いでしょうか。

そしてここまで書いてようやくふと気づいたのはレンズがニコンFE時代と同じ28ミリであること。今のカメラはズームもついているが必要じゃない限り使わない。当時はTTLと言って露出計を使わずにレンズを通して測光出来る事自体が新しかったし、プロは光の様子から絞りとシャッタースピードが即座に分からないようじゃ写真撮る資格は無いなどと言われていた。学生でズームなんて使っていたら写真の先生に怒られたものだ。28ミリという画角は僕にとって機械的な制約でもあるが、それゆえ自由に振る舞える無意識的な枠だったのだ。これは個人的なことではあるがちょっと感動的な発見である。

この日は読書、洗濯、昼寝!(かなり疲れているのかもしれない)食料の買い出し等。

ついにリエカの西、イストリア・ペニンシュラへ。ここイストリア半島は内陸部がいわゆる山岳都市、沿岸は港町で全く異なる二つの風景を見る事が出来る。山岳都市というか山のてっぺんに古い集落がある場所は一般の観光客が訪れるのはなかなか難しく、ソボルさんがそのうち車で行きましょうといってくれている。この半島はトリュフとワインの産地であるらしい。

半島の南端に近い街プーラへ向かうため朝7時に家を出る。偶然ダリンカさんの夫、ユリックさん(大家さん)の外出と鉢合わせをしたので、バスセンターまで車(ベンツ)で送ってくれた。ユリックさんの英語も私と同程度なのでちょうど良い感じで会話する。70歳だそうだ。自分用の船も持っていて奥さんと釣りに行くのが趣味らしい。(この時はやたらでかい船を連想したのだが、後で自宅にあるヤマハのエンジンをつけた小さいボートを見せてもらうことになる)自宅には2台も車はあるし悠々自適の老後といったところか。娘のマイーダさんは私の幼い頃は「ここ(トルサット)じゃなくて、つまらない労働者アパートに住んでいたのよ」と言っていたが。70歳にしては僕の知っている人から見ると少し老けてみえる。僕の日本での知り合いが皆異常に若いせいかもしれない。

この日はプーラに宿泊して半島西岸のローマ時代の遺跡を追って、ロヴィニィ、ポレチュと回る予定だったが観光客の多さに圧倒されたせいもあり、プーラだけにしてリエカに戻ってきてしまった。リエカが自宅化したせいか変なホテルに泊まるよりも帰ってきたくなったのだ。行きはトンネルを使った高速で半島を途中まで横断して南下。帰りは沿岸沿いのルート。それぞれ2時間と2時間半。日本で言うと自宅から鎌倉への小旅行という感覚に近いか。ドライブ中も風光明媚で見応えがある。美しい海と山の間に宮崎駿のファンタジーに出て来そうな村や港を通る。ユーロ圏の人々が大挙して訪れる訳が分かるような気がした。(しかも幸いな事に日本的な渋滞とは全く無縁である)

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朝リエカのバスセンター

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プーラにあるローマ時代の円形劇場。ローマ、ボローニャに次3番目の大きさと言う。ほぼ完璧な形で円形が見られる。現在でも5000人収容のコンサートが開かれ現役である。往時は2万5千人。地下室が展示場になっていた。

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地下展示場

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ここをかつて拳闘士達が駆け抜けたのだろうか。

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街にいくつか残っているローマ時代の凱旋門の一つ、セルギ門のディテール。

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アウグストゥス神殿。かなりの変形が加えられていてもプロポーションは抜群に美しい。

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聖マリア・フォルモッザ教会周辺。ローマ時代の石の破片がごろごろしている。

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フランチェスコ教会。ここの聖堂は静謐で美しい。

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イストリア歴史博物館(昔の城跡にある塔)から街を望む。向こうにコロッセウムが見える。

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城壁にある朽ちかけた物見の塔。

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古代ローマ劇場跡。上が昔の城壁である。

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劇場としては完璧なサイズだと思える。

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イストリア考古学博物館

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博物館入り口

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帰路

今日はメーデー。ここクロアチアもお休みの日。

携帯電話の調子が悪くソボルさんが様子を見に来てくれる。ささやかなお茶会を開く。水がどうも日本と違うので香りが弱いのが気になる。ソボルさんに水のことを聞くがリエカは背後に山脈をかかえているので水は豊かでおいしいという。水道水ももちろん飲める。日本と比べて水温がかなり低い。ただし岩盤はライムつまり石灰岩なので水質は軟質なのか硬質なのかここでは知る由もないが日本の水とはあきらかに異なるのだ。(それに比してイストリア地方の水は飲めないそうだ)

ところでソボルさんは何と16才の時に「茶の本」を読んだという。それだけではなく「宮本武蔵」と「五輪の書」「葉隠」もだ。(これらは英語経由でクロアチア語訳があったという)全くどういうやつだ。リアリ?

ましてや僕も気になっていた本だが読んでなかったアレックス・カーの「美しき日本の残像」を知っているかと聞く。はじめは原タイトル「Lost Japan」というので分からなかったのだが。これは確か松岡正剛さんが千夜千冊でとりあげていて僕も「読みたい本リスト」にあげてはいたのだが未読であった。ちょっと悔しい。彼から日本の大本教や神道、合気道について矢継ぎ早に質問されたがほとんどまともには答えられなかった。息子が合気道をかじっているので聞いた名前は出て来たが。

「ディエゴ・ソボル 君は何者か?」

彼は小学生から中学生の間、父親の仕事の関係でチェコスロバキアのプラハで4年過ごしている。そこのロシアンスクールに通ったという。そこにはアメリカンスクールや地元の学校もあったが幼少時の教育はロシア式がベストだと思うと言っていた。

人間謎が多い方が楽しい。

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朝は少し雨模様だったが8時に家を出て島に向かう。リエカのバスセンターからクルック島へはバスが何便も出ている。目的は島の最南端のバシュカである。陸から島へは大きな橋で渡る。なんだか眠たくてバスに乗ったら催眠術にかかったように寝てしまった。3時間かけてお昼にバシュカ到着。教会は2時半まではお昼休みだから行っても中には入れないとインフォメーションで告げられがっくりしたが、とりあえず歩いて(2.5キロ程)行ってみる。街からかなり距離があるのであてにしていた教会近くのレストランもシーズンオフらしく閉まっていた。やむを得ず、目的の聖ルキア教会のまわりをうろついていると中から女性が出て来て見せてあげましょうと言ってくれる。まず最初に15分程のヴィデオ解説を見た後に教会の内部へ。

クロアチアも、このクルック島もそうだが陸地自体が石灰の巨大な岩盤でできており、山の上部は植物が生えず岩肌が見えごつごつした印象だ。山口県の秋吉台をもっとスケールアップした感じ(中学、高校の勉強不足がたたって地理的ボキャブラリーが貧困なのはお許し下さい)。平野部分の面積が狭く海岸線から直ぐに山が切り立っている。この教会はそのような岩山を背景に10世紀ころに建てられたもので、その素朴な形にはある種の強さを感じる。素朴ではあるが黄金比などの比率はかなり厳密に適用されていて、とても単純だが美しい。(昨年院生の金那姫さんと一緒にやった研究がこんなところに生きている)グラゴール文字の刻まれたタブレットが最初に発見された場所である。

またバシュカの街自体は細い路地が入り組んだ古い街で大変美しい所だ。近隣には「アパート貸します」のような看板が沢山あったので、夏はおそらく長期滞在のバカンスの客でごったがえすのだろうと思う。

帰りは1時間程バスでもどり、島最大の港町クルックで途中下車し遅い昼食をとる。ここも港に続く城壁に囲まれた旧市街は美しい。クルック島はワインの産地でもあるので一応買ってみる。

夜、岡倉天心の「茶の本」を読み出したら止まらなくなり、最後まで読了。この本は3度目だ。これは英文が収録されているのでソボルさんにあげるつもり。

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バシュカ郊外

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聖ルキア教会

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聖堂のみが残っている

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港町クルック

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城壁

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釣り人

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窓の修理をする尼僧

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帰りのバスの車窓から。リエカ近くの別の港町。

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終日雨らしいので、あんなに意気込んではいたが、朝KRK(クルック)島行きは断念する。この日あたりから一応ネットで天候を調べることにする。何せクロアチア・テレビの天気予報は短い上に分かりにくいのだ(クロアチア語なのだから当たり前か)。終日、次の長旅の準備をしたり(ほぼ旅程の大枠が決まる。見たいものばかりでかなり欲張りな計画を立ててしまったような気が)、日記を書いたり、いつものコンチネンタル・ホテルでブログの更新作業などをして過ごす。

このブログというメディアについて実際やってみると、改めて考える所もあるが長ったらしくなりそうなのでやめる。簡単にいうとこのブログ、あまり深く考えずにスタートしてしまった。つまり本来ならこれはメディアとして一体何の意味があるのかを熟慮すべきではなかったかと。(自分はそういう仕事の専門家のはずだ)また、もしデザイナーとして本気でやるのならもっと考えてスタートしたかもしれないとも思うのだ。

まあそんな小理屈は別にしても、(こうして幸運にも)全てではないにせよ日常の多くの義務やしがらみから一旦身を離すことが許されて、これまでずーっと見たいと思っていたものを見る旅の日々を記録し、一部ではあっても公開するなんてことは、人様からすればどうみたって自慢話にしか見えないよなと思ったのだ。気恥ずかしさの所以はそこにある。

しかしまあ熟考せずに物事にあたるのはきわめて自分らしいことでもある。難しく考えるのはやめよう。身内に手紙を書くような無防備さでいくしかないのだ。

朝、マイーダさんから電話連絡。今日リエカ大学の図書館に彼女が電話をしてグラゴール文字に関した展示室を見れるかどうかを訪ねてくれたのだ。その結果OKが出て図書館に12時に向かう。

グラゴール文字は世界でも数少ない作った人間が特定できる文字である(例えばハングルと同様に)。860年前後にキュリロスとメトディオスという正教会の神父によって聖書をギリシア語からスラブ語に翻訳する為に作られた文字である。話せば長くなるがこの文字はキュリロスの弟子たちによって改良され現在ロシア等で使われているキリル(キリルはキュリロスがなまったもの)文字になった。その後正教会の勢力拡大によってグラゴール文字よりもキリル文字の方が広く使われ、グラゴール文字はカトリックのクロアチアの聖職者によってのみ近代まで用いられたのである。この文字はまずイスタンブールで生まれ、現在のクロアチアへ伝えられ、ブルガリアやマケドニアに広がったという。そのような意味でこの文字はクロアチア人にとっては特に重要なアイデンティティともなる文字なのである。その最も古い石に刻まれたテキストが私たちの今いる所から見えるアドリア海のクルック島で発見されたのである。

図書館の展示はかなり充実したもので歴史的経緯や変遷がよくわかるものであったが一般公開されてはいない。学芸員のアンナさんがつききりで説明しながら見せてくれた。彼女は「私は英語が得意じゃないので」としきりに謙遜するが逆に私たちには大変分かりやすい解説となりとても良かった。石に刻まれた文字は明日クルック島に行くのでまた改めて記する事になるが興味深かったのはまず、マニュスクリプト(手稿本)で、これは1617世紀過ぎまで続けられたという(一般書ではないので活版印刷の方がコストがかかるのだ)。とても美しく印象深いものであった。また活版印刷も行われたのだが最初のグラゴール文字の印刷物は1480年ころには作られている。この本がとても美しいので僕が「ヴェネチアの影響があるのですか?」というとアンナさんは目を輝かせて「そうなんです!グラゴール文字で印刷された最初の本はリエカではなくてヴェネチアで印刷されたものです」と答えた。アルド・マヌティウス、あるいはニコラ・ジャンセンを思わせもする大変シンプルかつ美しいタイポグラフィックな書物なのだ。ただアンナさんは私の質問に対しどこの工房で刷られたか、誰が活字を設計したかはわからないという。ただフランコ・パーリというビショップ(ルーテリアンと言っていたように聞こえたが...)がヴェネツィアから印刷技術とともにグラゴールタイプをリエカに持って来たらしい。とても興味深い話である。ではリエカにはその古い印刷所なりそれらのことを展示したような博物館はないのかと問うと、残念ながらよく分からないのだという答えであった。「何せ古い話だから」と。ただ一つだけ思い当たるミュゼがあるのでマイーダさんに探してもらえとその名前をメモしてもらった。まるで探偵みたいだが次の探索の糸口になるかもしれない。明日はクルック島の奥地まで行って石盤を見るつもりである。

その後昨日に続いて再度(正確には三度目)、旧市庁舎の美術館に行った。ドアは開いていたので中に入ると「まだやってない。明日だ」と言われた。美術館の前の大きな垂れ幕には28日からスタートと明記しているにもかかわらずである。ちょっと信じられない。縁がないのかも。

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マニュスクリプト

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この支持体はペルガモン。

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印刷楽譜

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活版印刷

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フランコ・パーリ像

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点は発掘、発見されたグラゴール文字の石盤、印刷物の場所。

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かなり危険な階段。悪夢に出てきそうだ。

朝、自然史博物館と美術館に向かう。自然史博物館は最初閉まっていると思えた。だって正面玄関は工事中のような有様だしドアも締まっている。あきらめてベンチに腰掛けて愕然としていた。智子は幼い娘連れの父親から何か聞かれ大胆にも「クローズ!」と言っている。その親子も納得したように去って行った。すると背後からへんな若者が物問いたげにやって来る。不気味だがとりあえず覚えたての「ドバルダン(こんにちは)」と言ってみる。よくわからないので彼に英語で「閉っているみたいですね」というと「いや、開いてますよ」という。なんのことかわからず「だってドア締まってるし、あそこ工事中だし」というと「いやこっちです。」といって裏口を案内する。変だなあ、こいつラリっているのかと不安に思いながらもついていくとそこが博物館の入り口で彼はれっきとした博物館のスタッフのようだった。(彼は窓から私たちの事を見ていたのだろうか?)結局彼に一人10クーナ(230円)の入場料を払い無事入る事ができた。入ったら入場者は私たちだけであったが、ちゃんと電気は点いていたし妙にインタラクティブな装置もちゃんと稼働していた。とても変な博物館だ。規模も小さく拍子抜けはしたがなんとなく、素朴というか、かわいいというか憎めない博物館である。だってエントランスに子供の夏休みの科学学習の宿題が飾られているのだもの。蝶を始めとする昆虫の展示は妙に凝っていた。新島さん好みだと思った。

そこを出て美術館に向かうがここは正真正銘の休みだった。日曜日が休みの美術館なんてちょっとないよなあと思いつつあきらめる(ヨーロッパでもたいていの美術館は月曜日が休みである)。しょうがないのでクロアチア最大のフェリー会社に行きタイムテーブルをもらい、バスセンターでバスの時刻表をメモし、マーケットで果物とパンを購入。小さなパン屋の若者が「あなたは何人」と聞くので日本人だと答えると僕は日本に行きたいと思っていると言った。日本の何に興味持ってるの?と聞くと「文化や歴史や全部だ。僕は本気で行く気なんだ」と言っていた。とりあえず「ナイスな考えだね」と答えておいた。

また今日はリエカあげてのマラソン大会の日のようであった。交通量が極端に平日より少ない。急に暑くなったせいか救急車みたいなのに運ばれたり、テントで倒れたりしている人が多かった。クロアチア人は何となく体格からいってマラソンには向いてないように思う。大きなお世話だけど。街の中心ではマラソン参加者や関係者のために大きな鍋で作ったラザニアを振る舞っていた。ラザニアを作っている人がちゃんとしたコック帽をかぶっているだけでおいしそうに見えました。

その後定番になりつつある美しい栗の木の並木のあるホテル・コンチネンタルのネットカフェで昼食と調べものとトルコ行きのホテルの予約等をする。パスタとピザとビール。バスで帰宅。その後読書等。夜テレビではジャッキー・チェンをやっていた。

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自然史博物館正面。右手が正面玄関と思われる。

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どう見ても裏口。

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この日はソボルさんがオパティアを案内してくれる日である。午前中自宅テラスで絵を描いた。

お昼前にソボル、マイーダのカップルが車で迎えに来てくれる。オパティアはクロアチア有数のリゾートである。リエカから車で30分位。他の観光地、ドブロブニクなどと異なるのは歴史上オーストリアのリゾート地であったということだ。もともとはあるイタリア人が瀟酒なヴィラを妻のために海岸沿いに作ったことに端を発しているが100年以上前にオーストリアの王族、つまりハプスブルグ家の人々が避冬地としてここにヴィラを作り、リエカの貴族もそれに続いて、現在ではヨーロッパ有数のリゾートになったのだ。地中海的というよりもウイーン的らしい。海岸沿いに遊歩道がある。ここへの観光客はこれまではドイツ人、イタリア人、オーストリア人、ハンガリー人が多かったが最近はイギリス人とフランス人が多くなったとはソボルさんの解説。またもっと近年にはリッチなロシア人が滞在ではなくヴィラごと買い取っているという話である。もう少ししたら中国人がやってくるかも。

ソボルさんに観光客値段ではない安くておいしいレストランを教えてもらう。(まだオープンしていなかった)夏にでも改めてきてみようと思う。

気持ちの良いテラスでお茶をする。智子はクロアチアの有名なプリンが食べたいと言っていたがマイーダさんにここはウイーン的なところなのでそれはないのだと教えられる。でフルーツケイキにしたのだがこれは大変おいしく、しかもとてもリーズナブルで驚いた。

マイーダさんは美術書の翻訳や編集の仕事をしていて出版に関してはソボルさんと共同していることなどを知る。マイーダさんの知り合いでザグレブ美術館のキュレーターを紹介してもらうことになった。ソボルさんもマイーダさんも当然、美術やデザインに詳しく話が早いのは幸運である。僕の編集したリシツキーの本も見せたのだが、そこからおもしろい話がいろいろ聞けた。(ソボルさんはロシア語が読めるので話が早い)

そのひとつにあなたはダヌンツィオを知ってるか?というのがあった。「いや名前ぐらいなら知ってるけど良く知らない」と答えるとダヌンツィオはイタリア3大詩人の一人であるという。ダンテ、ペトラルカ、ダヌンツィオ、なのだと。で、かれは1919年から1920年、第一次大戦後の混乱の中ここリエカを統治した詩人であり、その時ヨーロッパ中のダダイストや未来派、アナーキストがここに集まっていたのだという話になった。ここリエカは第一次大戦前まではイタリアが占領しており(ソボルさんの母親はイタリア人であるがそれは占領下のリエカに生まれたからだ)、サラエボ事件以降の政治的真空状況の中、イタリアを背負って勝手にリエカを統治したのが文学者であるダヌンツィオだったらしい(イタリア政府は他国に遠慮してダヌンツィオを無視しようとしたが)。彼は日本ではムッソリーニや、何よりもあのマリネッティに影響を与えたファシズム的文学者として知られているし、日本ではさほど重要視もされていないかもしれないがとても興味深い人物であるようだ。当時のイタリアの国境線が私たちの今いるリエチナ河なのである。

ダヌンツイオはその短い統治期間(約2年間)、国家の最高規範は音楽にあるとして、かなり非政治的、文学的な統治を行ったようである。ソボルさんによればそれはクレージーでアナーキーだったが興味深く、ある意味では芸術的な時代だったのだ。

自宅に戻りネットで調べると、彼はドビュッシーとともに作った「聖セバスチャンの殉教」などで三嶋由紀夫に大きな影響を与えたことは周知の事実であったことがわかった。さらに夏目漱石の「それから」の執筆にも影響を与えたらしい。

初日にリエカの街巡りをした時にみた旧市庁舎のバルコニーでダヌンツィオは花火を打ち上げ、ファシズム的で未来派的な詩を朗読し、演説していたのである。(三嶋の市ヶ谷での演説はその模倣であったという説もあるそうな)

私たちの今いるリエカはそのような街だったのか。これもまたあらためてその著作を読まねばならないと思う。私の受けた印象ではその後のムッソリーニやヒトラーのファシズムとダヌンツィオのそれとは根本的に一線を画しているように思えるのだが。多分彼は19世紀的な人ではなかったかと。

ちなみにダヌンツィオは空軍にいた時に片目を失明している。

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元イスラム寺院であった教会

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午前中は掃除や次の旅程の検討や読書など。

市場が13時に閉まるのでそれにあわせて12時に家を出て市場で買い物。デパート等ものぞいてみる。何となく共産主義時代のあか抜けなさというのがただよっている感じがするのは気のせいだろうか?

その後ホテル・コンチネンタルのネットカフェにてブログの更新を行い、東京の息子とスカイプのチャットを使った交信を初めて行う。こちらは昼の3時だが向こうは夜の10時である。何とか無事に交信できた。息子(次男)は17才にして自宅で一人暮らしのはめになっているが何とか元気にやってくれているようで安心する。(ちなみに長男はすでに京都で一人暮らし2年目なので大丈夫のはずである)チャットというのをまともにやったのはこれが初めてだ。

以前にも記したがネットはプリペイドカード方式でやっているのだが、ブログの写真が多すぎるのかどうか不明だが、一回の更新で2000円近くかかってしまうのだ。いつでもどこでもやれる分便利であるが。しかしプリペイド分が無くなるたびにカードを購入せねばならない。それを気にしつつネットを使うというのもなかなか不便かつ不経済なのである。そこでリエカ滞在中のメールの更新や必要な情報摂取はプリペイド送信機で行い、このブログの更新は2〜3日に一度、街のネットカフェで行う事にした。

今回旅をして(市場などに行って)感じる事、今までの自分とは異なるなと思う点はまず、バス代とかほうれん草やパンや魚の値段とか諸々のお金のことに少し敏感になったことだ。東京にいると日常の買い物はしないし、何がいくらでそれが高いのか安いのかあまり考えもせずに生活して来たのだ。旅の中でそういったことを感じながら日々を送る事も今は大事なことのような気がしている。

そもそも私はこれまで日記を3日以上続けた事が無いにもかかわらず(自慢するつもりはないが)このブログ自体、すでにここまで続いている事自体驚くべき事である。(これも自慢するつもりはないが)でせっかくだからこのまま続く限り同じペースで続けてみたいと思っている。

なので、これを読んでる方でもし叱咤あるいは激励?したい方は直接メールで下さい。よろしくお願いします。

terayama@ka2.so-net.ne.jp

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市場

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晴れる。

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朝、まるでエッシャーの絵のような階段発見!

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家から歩いて56分のところにあるトルサット城。昨日に続き再訪。

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城の窓から見下ろすリエチナ河。高所恐怖症の僕はこれでもかなりきつい。

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城廃墟部分。向こうにはローマ式の水道跡が見える。

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地元の小学生達。丘や山のある街に住んでいる子供の特権は自分の住んでいる場所を見下ろすことができることだ。自分も学生の時、小倉から東京に引っ越して来て東京にそのような場所がないことを寂しく感じたことを思い出した。ここの子供達は「コンニチワ」というと元気よく「コンニチハ」と返事をする。日本語を教えているのだろうか?そんな馬鹿な。引率の先生も「コンニチハ」といいながらあなた達中国人?と聞いて来た。?。

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今日はエッシャー階段の日なのかも

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中庭はカフェ

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城の中心の内部は発掘の歴史を示すギャラリーになっていた

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城のすぐ下には聖ジョルジュ教会

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聖ジョルジュ教会を抜けると向かいにはトルサット聖母教会が見える。いつも部屋からここの鐘の音が聞こえるが、ここはカトリックの巡礼地としてとても有名なことを今更知る。亡くなったヨハネ・パウロも訪れた事を記念する像が中庭にある。そして私たちが初日に降りた長い階段はこの教会に行く為に、巡礼者が跪きながら昇る事で有名なペタル・クジッチの階段というのであった。

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この日はバスで街の西のはずれまで行ってみた。向こうの海岸に見えるのは有名な保養地オパティアである。



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朝は晴れていたが途中から雨模様になった。昨日も天候はぐずついていた。気候は日本に近いと思う。少し温度が低いくらいだろうか。

なんとこの日もカメラのバッテリーをまちがえて写真がとれなかった。この日は家の近くにある。城や教会に行った。だんだん自分のいる場所の事が分かって来た。散策以外は次の旅の計画や資料集め、読書をして過ごしている。

泥縄だがクロアチアの事を改めて調べながら同時に次の大きな旅になるトルコのルートをどうするかで悩んでいるところ。テレビは映るがほとんど見ない。

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私たちの住んでいる場所はリエカの港からすぐに切り立った丘の上にある。見晴らしはすこぶる良い。刻々と変化するアドリア海とその向こうに見える山陰はクロアチアで最大の島クルク島である。そのうち探索するつもりだ。しかしまずは足下を固めねばならない。丘にあるということは眺めが良い分、街に行き来する為に坂を昇り降りせねばならずその点大変である。こんな坂の上にあるとは知らなかったので正直びびる。ここにいる間に足腰は鍛えられそうである。坂道は何本かあり、また長い階段もある。またバスが頻繁に走ってもいる。途中にカフェやレストランが何件かあり、ジェラート屋さんもある。わりとおしゃれな場所である。しかし私たちの滞在している場所トルサットがリエカの中でもスペシャルな場所であることにこの時は全く気づいていなかった。

ちなみにリエカという名はかつてローマ人がここに街を造った時、大きな川が流れていた(リエチナ河)のでラテン語の河という意味で名付けたそうである。この日は街を散策、とくに大きな市場に行って買い物をした。カメラの電源が途中で切れて写真はあまり撮れなかった。

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カフェ

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かなり急な坂道

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坂道の途中風景。向こうの丘との間が谷になっていて河が流れている。

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長く続く階段

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階段の終点。ここから街の中心へはすぐである。この階段が有名なペタル・クルジッチの階段だという。この時しらなかった。(後述)

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リエチナ河から丘を見上げる。あの丘のてっぺんあたりに私たちの住居がある。

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市のアルヒーフ。落書きが多く痛々しい。

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自然史博物館。中には入らず。

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現代美術館。ここでカメラのバッテリーが切れる。

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9時にソボルさんが迎えに来てくれる。彼の車でダリンカさんとともに市の警察署へ。ここで滞在許可証をもらう為だ。幸いな事にソボルさんの親戚(女性)が警察に勤めておりそのコネでわずか1時間程で許可証が出た。もしまともなコネも無く私だけで申請したらどれくらいかかるかわからない。ソボルさんとソボルさんを紹介して下さった田中さんに改めて感謝。

その後街のカフェでソボルさんの妻マイーダさんと待ち合わせ。マイーダさんは風邪をひいて前日まで寝込んでいたという。エスプレッソを飲んだ後、ソボルさんに街を一通り案内してもらう。

一旦家に帰り昼食をとった後、再び街に戻りネットをつなぐ為の相談をする。結局自宅にラインを敷くのはあまり合理的ではないという判断をし、ボーダホンの送信機を購入しプリペイド式でやってみることにする。うまく作動するまでにマックのOSの事や何かで結構時間をとられる。またクロアチアにいる間はソボルさんの旧式の携帯を貸してもらいそれもプリペイドで使用する事とする。

この日は歩いて20分くらいの所にあるスーパーに買い物に行く。坂があるので結構きつい。

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ソボルさん マイーダさん ダリンカさん

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これまでも国が変われば勝手も異なり、その空気に慣れるのに時間がかかった。今度は国も変わったがそれ以上に生活のパターンが異なるのだ。ホテル暮らしから日常生活へ移行し、ここで生活の基盤を作らねばならない。要するにモードが変わるのだが当然ながら頭と感覚はついていけず、少しぼんやりして第一日目がスタートする。無理をせず少しずつ慣れていくつもりだ。

ソボルさんがお昼に訪ねて来てくれてダリンガさんとともに私たちの生活が上手く行くように世話をしてくれる。一緒にショッピングセンターに行って生活用品の購入や、地図で街の概要、インターネットのアクセスをどうするか、携帯電話をどうするか、安全な銀行でのお金のおろし方。etc。洗濯機やお風呂の使い方、鍵についてなど細かい事は山ほどあるものだ。

ソボルさんについてはまたおいおい記していくことになると思うが、彼は英語専門の翻訳家であり、出版社を経営している。つまり自分の翻訳した本を自分の会社で出版している。専門は仏教書である。彼は母国語以外に英語とイタリア語とロシア語に堪能で日本語も単語は良く知っている。例えば英語ではblessというクロアチア語を説明してくれた時に(god bless you等)、「日本語ではカジといいますね」と言われ一瞬何の事かわからなかった。「ああ加持祈祷の加持のことですか。」佛教語には詳しいのだ。インドの梵字はほとんど読めると言っていた。

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テラス。向こうにはアドリア海が見える。

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 キッチン

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ディエゴ・法海・ソボルさん。

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近所

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近所。森の向こうがリエカのセンターで港。

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海の向こうに見えるのはKRK島
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これまで不条理なまでに馬鹿高い外食とホテルのブレックファストに辟易していたのだが3週間ぶりに自分たちで好きなように料理を作る喜びを味わう。日本から送っておいた味噌で作ったみそ汁には思わず「ウメエ!」と声が出た。僕はまずトマトソースを作った。これは日本と全く同じレシピで作ったのだが最高においしくできた。トマト自体がおいしいのか、タマネギのせいかはわからない。野菜は日本のものよりもはっきり言っておいしい。味がしっかりしているのだ。

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いよいよ、今日はアイルランドに別れを告げクロアチアへの移動日である。

朝ホテルでチェックアウト。受付で支払いは日本円かユーロかと聞かれ、とっさによくわからないまま日本円にしたが、(クレジットカードなのだが)これは間違いであった。日本円にするとホテルのレートが上乗せされるらしい。旅をしているとこんなことにも、不条理感があり、神経質にならざるを得ない。(このホテルはこれまで泊まった中ではベストであったが)

バスで空港へ。早めに着いたので空港で軽い食事。そしてチェックインカウンターで搭乗券を発行してもらったのだが、(ルフトハンザは)機内に持ち込むつもりの手荷物の重量をしっかりチェックされ、あなた達の荷物はそれぞれ12キロと11キロ、規定は8キロで34キロオーバーしているから機内に持ち込めないとケンモホロロにいわれる。成田でもヒースローでもそんなことは全くなかったのだが(ここらへんがドイツ的というべきか)。この時点で今回の移動における「何となくいやな予感」が発生する。やむなく荷物を預ける。そしてボディチェックをした後、飛行機がすでに30分遅れている事を知ったのだった。

ダブリンからクロアチアのザグレブへは直通便がなく、今回ルフトハンザでフランクフルトまで行き、クロアチア航空に乗り換えてザグレブまで向かう予定である。その乗り換えの為の空き時間は1時間弱しかなかったのだ。このことは実は前日から何となくいやな予感とともに気になっており、頭の中で合理的な乗り換えの仕方をスチュワーデスに聞くための英語をうっすら考えてはいた。フランクフルトは国際的なハブ空港なので広いはずでどのように乗り換えればよいのか見当がつかなかったのだ。(いやな予感は大抵当たるものだ)

結局、飛行機は1時間遅れてダブリンを出発。早速機内でスチュワードにどうすれば良いのか質問したが1時間後じゃないとわからないという。そのスチュワードはその後何のサジェスチョンもくれなかった。機長がアナウンスで遅れているが頑張ってショートカットしているので各方面への乗り換えは大丈夫だ...のようなことを言っているように聞こえる(が、ここらへんが情けないくらいにちゃんと聞き取れないというか確信が持てない)。飛行機はクロアチア航空便が出発する5分前に到着、あわてて空港内をどたばた走って移動するも結局乗り継ぎに間に合わなかった。多分タッチの差くらいであったはず。ここらへんの諸々のドラマは省略。

最終的にはあきらめてルフトハンザのカウンターに相談に行くと、「あなたは正当な理由があるので次の便に乗れる、ついてはあそこにある別のカウンターに行き券を発行してもらえ」といわれる。で、そこに行くと今度は「あんた達が遅れたのではないか」みたいなことをいわれ、ケンモホロロの対応をされる。こっちも疲れている上、かなり頭に来ていたので思わず強い口調で1時間もルフトハンザが遅れたせいじゃないか主張すると、やっと再発行してくれることになる。やれやれ。

しかしここでまたもやアクシデント発生。僕の航空券が行方不明になったのだ(搭乗券はあったのだが)。そしたら「一旦イミグレーションを出てANAのカウンターで航空券を再発行してもらえ。そうじゃないと券は発行しない」という。実際搭乗券その他で私たちが航空券を持っていた事は明らかであるにもかかわらずだ。しかもこの時点で夕方の4時半過ぎである。このままフランクフルトで一夜を明かすのか?はたして私たちはクロアチアに行き着けるのかと暗雲は広がるばかり。しかしなんと妻のバッグのポケットに航空券がみつかり無事、次のチケットをもらえることになる。

しかし次の便は5時間後の945分である。ザグレブの空港に迎えに来ているはずのソボルさんに連絡をとらねばならず、これも大変な作業であった。その後やむを得ず空港のレストランで夕食をとることに。ピザ1枚とシーザーサラダ一皿、生ビール3杯で約6500円。(これにチップをプラス4ユーロ、約650円)日本で150円の水エビアンが600円!であった。空港値段なのかもしれないがドイツもイギリスと同様物価が相当高そうである。ちなみに空港内にあるマクドナルドを見てみるとビッグマックバリューセット(ビッグマックとポテトとコーヒー)が6.5ユーロの1050円、これが相当割安に感じられるのだから他は推してはかるべしだ。

その便も出発が遅れ、結局ザグレブ空港に到着したのは11時半(当初の予定では夕方5時)。預けた荷物は無事に到着していた。今日一日の災難の中ではこれだけでも幸運と思うべきだろう。迎えに来てくれたソボルさんの友人ダミールさんは空港で6時間以上待っていてくれたことになる。そこから高速に乗ってリエカまで約200キロ、2時間弱。満月の夜、ダミールさんお勧めの音楽(カンツォーネとゴスペルを混ぜたようなクロアチアのトラディショナルフォーク)を聴きながらドライブ。ダミールさんは歌をうたいながらかなり飛ばす。(後で分かったことだがクロアチアの人は皆飛ばす。モナコのアイルトンセナのようだ)結局我々のこれから滞在する家に到着したのは夜中の2時前であった。ソボルさんと私たちが借りる事になるフラットの大家(ソボルさんの義母)ダリンカさんも起きて待っていてくれた。ルフトハンザのせいだが各方面に迷惑をかけ恐縮することしきり。とにかく簡単な挨拶と簡単な部屋の使い方を教えてもらい就寝は3時過ぎであった。

まあそれなりに大変なクロアチア上陸であった。時差は1時間減って7時間となる。

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ザグレブ空港

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とにかく到着。真っ暗なので街や周辺の様子などは全く分からず。東京からの荷物は無事に着いていました。

タラの丘とニューグレンジ

タラの丘は映画、小説とも有名な「風とともに去りぬ」に出てくるスカーレット・オハラの「タラの丘へ」という台詞で有名らしい。僕はこの映画を見た事もないし、小説も読んでない。妻は小説は二度読み映画は何度も見てるという。へーえ、そうだったのか。

ニューグレンジにある大古墳は約5000年前のもの。ここでもアイルランドの烈風吹きまくる。日本でいえば奈良の古墳群が想起されるがそれよりもはるかに古い。また世界遺産でもあるが、ちゃんと古墳中部まで入れるようになっている所が日本と異なる。奈良の古墳の中なんて誰も見たことないのではないか。宮内庁管轄のせいだろうか?

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何やら新興宗教の集団のような人々が中心を取り囲み中々近寄れず。一人一人何か唱えていた、女性集団であった。
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コートのはためき加減で烈風の凄さがわかるでしょうか?
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紀元前200年頃アイルランドに追いつめられてきたケルトの故郷
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ニューグレンジの全体模型。
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ニューグレンジ側を流れるボイン河。ここはクロムウエル率いるイングランドとアイルランドとの古戦場。以降イングランドからアイルランドは悲惨な仕打ちを受け続ける始まりとなった場所でもある。
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ニューグレンジ
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アイルランドはどこまで行っても石と風の国なのである。
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紀元前3000年以上前にこのような構築物が出来ていたとは!とても美しい。
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何と凄い造形か!
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入り口。内部は当然撮影は許されなかった。

この日は朝から肌寒い曇り空である。今日はダブリン市内で見るべきものを見る予定である。

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まずオコンネルストリートに面した中央郵便局。ここは1916年のイースター蜂起の時共和国宣言が読み上げられた場所として有名だ。蜂起は鎮圧され建物も破壊され1926年の修復される。。建築は1814年で堂々たる柱廊玄関であるが(昨日の写真参照)内装はアールデコ様式。
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銀行内にある英雄ク・ホリンの像
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アイルランド銀行(1729)。中には入れず。

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ついにこの場所へ。
なんだかんだ言っても僕がアイルランドに行かねばと思った最も中心的な場所がここトリニティ・カレッジである。ここのライブラリーを見る事であり、ケルズの書を見る事である。最大のお楽しみは後半にとっておいたのだ。
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旧図書館の主要閲覧室(ロングルーム)長さ65メートル、約20万冊。
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図書館の外観
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ケルズの書。もちろん撮影など厳禁なのでこれはイメージです。
噂では大学にあるレプリカと同じものが展示されているとも聞いていたので(まさか!)少し心配だったがしっかり本物が2冊(マニュスクリプトなので2ヴァージョン)見る事ができた。
展示の仕方もかなり凝っており、かつ僕としては初めて見る同時代の他のマニュスクリプト、「the book of armagh」「the garland of howth」「the book of mulling」などが見れたのが嬉しかった。またオガム文字ogham scriptの説明も丁寧になされていた。また使われた顔料もすべてわかったのでメモをとった。これらはどの図録にも載って無い。それが残念である。
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オガム文字について(これは国立考古学博物館の説明のメモ)
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まるで鞄のような書物。まわりは牛革で覆われている。こういう形は初めて見るものだ。
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図書館向かいの校舎(指が写ってしまった)
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カッレッジの学食で昼食をとることに。学生は世界中似たようなものだと思う。東京の大学の学生達をふと思い出す。
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次に向かったのはアイルランド国立美術館。ベンソン&フォーサイスの設計。
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最初、順路順に見ていったのだがあるエリアの水準があまりにも低くがっかりしかけたころ、後半になってフェルメール、カラヴァッジオ、ボッシュ、クラナッハ、グレコ、ウッチェロ、リッピ、フラアンジェリコ、ブリューゲル、べラスケス等等、傑作が連発される。作品を絞って半分にすればよいのにと思うのは大きなお世話か。傑作が傑作である事を分からせる為に前半部分があったりして。
カラヴァッジオ、フェルメールの画面から立ち去りがたく。
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美術館のそばに大統領の執務室があるらしく、近所では政治集会のようなものが開かれ、人が続々と集まっていた。
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途中、国税庁の税金博物館に寄る。日本にもあるのだろうか。
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チェスター・ビーティー・ライブラリーのエントランス。
ここは始めは予定していなかったのだが、直感のようなものに惹き付けられて訪れる。これがアタリ!だった。チェスター・ビーティーはアイルランドに生まれ、イギリスを経てアメリカに渡り財産を築いた男らしい(そのようなビデオが流れていた)。ここは彼が個人で集めたものを寄付してできた美術館である。蔵書がどれもこれも半端無く素晴らしい。ヨーロッパのマニュスクリプトも凄いが美しいコーラン、インドの書物、中国や日本の書物などを大量に収蔵しているらしい。展示スペースはさほど大きくない。またパピルスも大量にあり、現存する最古のパピルスの聖書の断片には驚いた。
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外観
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驚く程美しいコーランの数々。(撮影は不可なのでイメージです)
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ただ大変残念な事は先月までやっていた伊勢物語展が終わっていて見れなかったこと。ショップにいた日本人スタッフの方が教えてくれる。伊勢物語なんて日本でもちゃんと見れないのではないか。
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最後に向かったのは国立装飾美術・歴史博物館。あっと言う間に夕方です。
これは元兵舎をミュージアムにしたもの。
戦争の歴史展をやっていたが特筆すべきものはあまりない。
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帰路、チムニー(元ウイスキー蒸留所の煙突を利用した展望台)を見ながら

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ジェイムソン蒸留所博物館も時間切れで外観を見るだけに。
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この日は6時間かけてダブリンへバスで移動。
ダブリンに到着したのは4時過ぎで宿に荷物を置き翌々日のツアーの予約をしたあと、時間があったので街を散策(なにしろ9時近くまで明るいのだから1日が長い)。
最後はパブでアイルランドフォークのライブを聞いた。いつものギネスを飲みながら。聞きながらアメリカのカントリー、フォークのルーツの一つがアイルランド音楽であることに思い当たる。
カントリー・ミュージックはあくまでもアメリカだという思い込みがあった。
ライブを聴いていて昔父親が好きで、よく日曜映画劇場で一緒にみたジョン・フォードやハワード・ホークスの映画の挿入曲がアイルランド・フォークそっくりであることにふと気づいたからだ。
ジョン・フォードはアイルランドの人である。ゲイリー・クーパーもそうではないのか?
そういえばジョン・フォードも片目の人であった。

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キラーニーの宿。ネットも使えず、街からは遠く結構往生した。17世紀の城という言葉にだまされた。おかげでそばに一件だけあるレストランに3日通うはめに。それもまた旅の記憶か。

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ダブリン到着。中央郵便局。
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アイルランド独立の闘士、オコンネル像。
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U2のボノが経営するというクラレンス・ホテル。(ちょっとミーハーですいません。)
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テンプルバー周辺。
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クライスト・チャーチ大聖堂
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聖パトリック大聖堂。工事中で中には入れず。
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イギリス支配の象徴。ダブリン城。
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テンプルバー地区のパブにて。
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女性も思わず踊りだし...。
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8時過ぎ。
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再びオコンネルストリートへ。今回の宿は街の中心部にある。

彫刻家の鈴木さんから良い場所だと推薦してもらったところ。
この半島の雄大さは全く掛け値なしに凄い。日本で言えば阿蘇山周辺に匹敵すると思う(比喩がおかしくてすいません)私たちが訪れた時が好天であったせいかもしれないが、大変おだやかで美しい半島である。空気感があまりにも広大、地球に立っている感覚がある。ギブソンのいう光の肌理とでもいうものを感じる。
ここもゲール語の拠点であり、沢山の神話や伝説が残されているところ。最初の目的は「ダンベックの砦」これは紀元前800年から10世紀まで住居として使われていたもの。もうひとつは7〜8世紀に造られた石の礼拝堂「ガララス礼拝堂」である。船をひっくり返したといわれるこの素朴な建築物だが私たちはこれが見たくてここまで来たと行っても良い。
そして想像通りの美しいフォルムであった。

ディングルは交通の便が悪くレンタカーを利用するかツアーに参加するしかない。 

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ディングル湾に沿って走る
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ディングルの港
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ダンベックの砦
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ガララス礼拝堂
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このカーブが
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ブレーキの壊れた自転車でひたすらサイクリング。
ここはアラン諸島に比べれば天国と地獄のような差である。穏やかな風が流れている。

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ロス城
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とはいえこの樹木の曲がりくねり方(セガンティーニ風)とか森の樹木の高さを比べればその風土の厳しさが自ずと感じられる。

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青銅器時代の住居跡
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どのような環境ならばこのような変形が起こるのだろうか。
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旅先で宿を決めながら移動するのは大変疲れるし、博打的な要素が多分にある。
当たり外れが今の所大変激しいです。
おかげであせって慣れない英語で電話で予約したりするはめになる。旅の最初を英語圏にすべしというのは正しいと思います。サバイバルな状況になると英語は出てきます。多分フランス語やドイツ語はどう転がっても出てこないだろうから。
宿だけじゃない。コインランドリー(約25年ぶりに使用す)のやり方も場所によって異なるし、食事やビールの注文、ツアーの予約、などなど。

ここから先は出発前にあらかじめ旅程を決めていなかったので迷いながら進む事になる。
キラーニーまでは約5時間の移動。
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ちょっと神経症的な(アイリッシュな)いい感じの運転手。
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リムリック

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あまりにもアラン島の印象が強烈だったせいと、多分疲れているせいでゴールウエイでは博物館などを訪れる気がおこらず。街でやっとのことインターネットができる場所を探してメールを確認したりした。

ここでも夜の8時半ころにやっと日が暮れる。海のそばの宿に滞在している。長く続くサンセットは大変美しい。

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アラン島の朝。昨日がうそのように風のない穏やかな朝。

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まるでモネのような。

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うまく言葉にも写真にも現せそうにない。

ストーンヘンジの時もそうだったが巨岩がどうのというよりも、周りの広大な空間と、吹き渡る強烈な風、その目も開けていられないような寒風こそがむしろ強い印象を残したように、さらにここアラン諸島の中の最大の島イニシュモアはもっと強烈なインパクトがあった。簡単にその印象を言葉にできそうにない。
とにかくここにもストーンヘンジとは又別の風が吹きまくり、雨と雹と太陽の光がめまぐるしく交替する。
そして暴力的なまでに岩だらけの大地、3000年近く前から断崖に造られた、塔や壁。皮膚にダイレクトに伝わってくる環境の苛烈さは本当に強烈で写真ではその感覚はうまく伝わりそうにない。ここは一見の価値ありと思った。楽しいとか美しいとかいうのとはまたかなり異なっていて、翌日フェリーでゴールウエイにたどり着いた時は風がなくてほっとしたくらいだけれども、とにかく心に残る環境であった。観光客は多いがその凄さに対してあまり観光地化もされていないように感じた。
烈風のなか坂道を必死で自転車こぎまくったので50才の身にはこたえた。ひざががくがくである。

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ゴールウエイの早朝。太陽は明るい。
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フェリーへ向かうバス。もう雹まじりの雨に変化。
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イニシュモア上陸。朽ちた教会の出迎え。
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この向こうは垂直の断崖だが高所恐怖症の僕はこれ以上近づくことはできない。もちろん下を覗く等はもってのほかである。
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重森三玲はこの風景の事を知っていたのだろうか?
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雨の後に虹が
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かなり完璧なシンメトリーの虹が



展覧会を見ながらふと西脇順三郎のことを思い出した。10代の終わりから20歳代の始めころ西脇の詩に入れあげた時期があったことを思い出したのだ。確か西脇はイエーツの研究を行っていたか、あるいは影響を受けたのではなかったか。イエーツとパウンドとエリオットがほぼ同時代の詩人だったはず。確かな事はもううろ覚えだけれども、思い出したのはそのせいだ。そしてイエーツから何故西脇なのかといえば、今回の長旅の予定の中、一ヶ月以上もギリシアに時間を割いているのは少なからず、30年前の西脇の詩の影響があるように今、ここにいたって思い当たる節があるからだ。ギリシアの神話的古代と現在の侘びた日本の田舎との時空の不思議な交感のようなものを自分は西脇の詩から感じ、大学に入学したての自分は下宿している近所の田舎の木立の中を自転車で走りながらギリシアと自分にとっての神話的原風景である故郷での幼い記憶を重ねつつ西脇のまねをして彷徨ってみたのだった。

永遠の旅人かへらず

(だったか?すいません。これを書いているのはだいたいギネスを飲んだ後か飲みながらなので、いい加減なところがあっても適当に聞き流して下さい)

例えば45歳のころ子供達だけで親に内緒で食べた野いちごの味や、大人のいない切り崩された石灰の真っ白の広大な地面の上、雨の後にできた水たまりを泳ぎ回る無数のオタマジャクシの群れ、その上に映る刻々と変化する夕暮れの空の色などを。

この時、年齢的には幼いはずなのに過ぎていく時間への恐怖を感じた事はしっかり今でも覚えている。

イエーツはアイルランド独立のただ中でゲール語の復興運動を行っていたという。彼も左目を失明している。彼のテキストを改めて読み直してみたいと思った。

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古本屋で12ユーロ。やっぱり少し高い感じはありますね。

まあ、英会話の本を読むより面白いかと...。

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ダブリン、宿泊地そばの公園
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アイルランド国立考古学博物館

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ここは写真が撮れなかった。

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ここは博物館の向かいにある国立図書館内部

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W.B.イエーツに関する大変熱のこもった展覧会が行われていた。
思うところあり。

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イエーツの全テキストの相互関係を示したダイヤグラム

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イエーツの使っていた机(とても小さい)

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バスステーション

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ゴールウエイ



イギリス覚え書き

そもそもこの旅の最初の訪問先にイギリスを選んだのは大英博物館を訪れる為であった。これから行く事になる中東とヨーロッパ全体の場所と時間、文明の見取り図というか大枠をざっくりと俯瞰したく、その為には大英博物館しかなかろうと思ったわけだ。ここを訪れるのは25年前、10年前に続いて三度目となった。今回三日間、時差ぼけをものともせず頑張って通ったが、やっぱりこれまでと似たようなもので「ただざっと見ただけに過ぎないなあ」という印象が残った。本当はもっと長期間じっくり腰を落ち着けて見るべきなのだろう。ただ以前に比べてこちらの知識も増している分、以前より少しはクリアに見えてきたような気もする。

今回、特に印象深かったのは展示物をあちこち移動して見ながら、自分がまるでブラウジングしているような感覚を強く持ったことだ。インターネットにおけるブラウジングと似た感覚である。例えばエジプトエリアを見てギリシアエリアを見た後再びエジプトエリアに戻ったうえで、シリアエリアと比較するなどといった作業だ。パソコンと異なるのは目の前に解像度100%の現物があることと、クリックの代わりにこちらが生身の身体を移動させているということだ。しかし頭で起こっていることは、何と言えばいいか分からないが対象物をインデックス化しているというか、感覚的にはいったんリファランスの状態に持っていっていることは間違いがなく、その点でネット上とさほど差はない。当たり前のことだが現物が本来有るべき場所にあったはずのリアリティはかなり失われている。だからこそ(無駄なことも多分、多いだろうが)この後の私の旅は現地を可能な限りたどっていくことが逆に重要なポイントとなる。(実際、出発前には何人かの人から君の旅は博物館に行けば事足りるのでわざわざ現地に行くのは無駄が多すぎるのではないかと指摘はされた。もちろん僕はそうは思ってないのだが。)

昨年企画したノイラート展と無理に結びつけるつもりはないし、ノイラートやオトレ、ディドロを改めて持ち出すまでもないかもしれないが百科全書とmuseumの登場は必然的に同じものであり、またそれが今日のネットワークの元になったのだと今回大英博物館で改めて強く感じた次第。

今回望外に嬉しかったことが後二つある。ひとつは大英図書館のリーディングルームのパスがもらえたことである。これは一生使えるのだ。その為に今回は二度通うはめになったのだが、二度目に持っていった所属大学の学長名の「こいつの面倒宜しく頼む」的な書類の効き目があったのか、とてもスムーズにもらうことができた。今回は時間が無くそれを有効には使えなかったが(リーディングルームに入っただけでは無意味で、館内に置いてある膨大なリファレンスを使いこなさなければここは意味をなさないところなのだ)今度改めてじっくり準備をして来る事にしたい。ここにあるほとんどの貴重書が直に手に取って自由に見れるなんて信じられない。はっきりいってこんなに嬉しい事はない。世界の財宝を手にした気分だ。始めは厚かましいと思って図書館の特別展示だけ見て帰ろうと思ったのだが妻がだめ元でもパスのこと聞いてみたらと言ったのだった。本の神様が計らってくれたものと信じている。生きている間にこれから何度ここを訪れることができるか分からないが人生の楽しみが増えました。

今回、ロンドンで卒業生の田中(通称ユミッペ)さんに会えたことも嬉しいことの一つだった。彼女はほぼ10年前のゼミの卒業生。私のゼミの二代目の卒業生である。卒業後出版編集の会社に勤務し、その後修士であるロンドンのRCA(ロイヤルカレッジオブアート)のインタラクションデザインコースを優秀な成績で修了、フリーで活躍の後、この5月から北欧に拠点のある某有名企業のシニアディレクターとして働き始めるという。今回話をして大変しっかりしているのを見て感慨無量なものがあった。年をとったせいか私にとっての10年と若い彼女にとっての10年はこうも違うものかという思いもあった。彼女がインターナショナルな仕事環境でデザイナーとして勝負するのはこれからであるが是非頑張ってほしいと思う。今度母校に来て若い学生達に話をしてねと頼んでおいた。それで思ったのはこの旅の直前に送別で来てくれた6年前の卒業生、西沢君はソニーのインタラクション部門、北崎さんはゼロックスのアドバンスデザイン部門でバリバリ活躍している。ユミッペも含めてライティングスペース魂?をもった卒業生が活躍し、それが世界のデザインを変えていくのだなあと実感した。皆まだまだ若いのでこれから苦労は沢山あるだろうけど、初心忘れずに持続してもらいたいと願う。俺も自分なりにがんばらなきゃと思いました。

最後にロンドンの生活について。

噂には聞いていたが本当に(日本に比べると)物価が高い!ホテル、レストラン、地下鉄などは軽く23倍の感覚である。ウイスキーも2倍の感じ。ワインは1.3倍くらいか。唯一安いと思ったのはビール、特にギネス。値段は日本とさほど変わらないがうまさは圧倒的にこちらのほうがうまい。後は良く知られていることだが美術館の多くが無料である事。これは本当に助かった。

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ダブリン市

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キューガーデン駅そば。朝8時半。
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キューガーデン(王立植物園)


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キューガーデンと接するテムズ川

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キューガーデンから戻った後、もう一度V&Aミュージアムへ。

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いつの間にかお茶を飲むスペースになってしまっていたウイリアム・モリスの部屋にて
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最後はヴィクトリア&アルバート音楽ホール






この日は宿を移動した。
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自然史博物館

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ヴィクトリア&アルバートミュージアム(V&A)へ。
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新島さんとずっと探していた雑誌BLAST発見!1915年でした。展示物なので中身は見れないけど感動。



今ネット環境が悪いのでコメントに答えることができません。悪しからず。

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この日のロンドンは激しい雪で始まった。

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田中友美子さんとストーンヘンジツアーへ。

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ソールズベリー大聖堂

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ローマン・バース

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city of bathにて。ジェーン・オースティンの小説世界を感じた。

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最後はパブ雪太郎(john snow)にて打ち上げ。


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バートンオンザウォーターの町
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自動車博物館

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バーフォードの村

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バーフォード教会

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オックスフォード博物館の前

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エドモンド・ハレーの家(ハレーの骸骨)

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オックスフォードの街というか大学の校内というべきか

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とりあえず写真のみ
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天気に恵まれ無事に出発し無事に到着。
詳しいことは後で暇な時にでも追加しようと思う。
飛行機は当然エコノミーだったのだが、エコノミーシートでも上下があり広いシートに座る事ができた。これはとてもありがたいことであった。
たばこは当然我慢したのだったがこの期におよんでやめることのできないことを妻に責められつつ。
3月31日(旅立ちの前日)印刷会社からバイク便で送られてきた。僕がデザイナーとしてかかわった07年度最後のもの。美術館での個展にあわせて作られた。あらかじめ僕の旅行のスケジュールにあわせてスタートとし、当初は「余裕ですなあ」とか言っていたのだが実際はぎりぎりの出来上がりであった。しかし旅の前の最後の仕事としてなんとか間に合ってよかった。彼女は日本で今一番油ののった(こんな表現適切かどうかわからないけど)とても素晴らしい版画家だと思う。人との出会いとは不思議なものだと思う。一緒に仕事ができたことが嬉しい。

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貴殿棋道執心修行し

懈怠無く手段ようやく進む

之に依って初段を免許せしめ

なお以て勉励上達の

心がけ肝要たるべき者なり

よって免状件の如し






今日は大学に行って最後の書類仕事と片付けを行った。本当にぎりぎりまで...。
午後荷物をEMSにてクロアチアに送る。これもぎりぎりまで大変。記念写真を撮る程のことはないのだが、送付先にメールで送る為。ちなみに重さは45キロほぼジャスト。料金は6万円弱。1年間の滞在に対してこの量が適切かどうかに関しては各論あると思う。こんなところで体重計が役に立つとは思わなかった。このTシャツは何グラムなのかとか。むかしブラインドで買い物をしてその金額だか重さだかの合計をあてるテレビ番組があった(基準より少なくて近い人が勝ちでその商品がもらえるという、高度成長経済時代日本のゲーム)のを思い出した。夫婦で梅干しを入れるかどうかで迷った。
中身は本や衣類や本やお醤油や本など。送る中身に関しては1週間程妻とのバトルあり。かなり厳選したつもりの僕の本は半分が妻によって却下された。現実主義者とロマン主義者の戦いは大抵、ロマン主義の敗北あるいは譲歩によって終わる。これは我が家の歴史なのだ。本は向こうで手に入れることに気持ちを切り替えた。そういう意味において象徴的な45キロなのかもしれない。冬物の衣類は全く入ってない。アリとキリギリスの話がふと頭の隅をよぎるがなんとかなるであろう。

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いつもの小金井公園にて。明日は雨が降ると聞いて荷造りを放ったらかして短時間のお花見に。いつもはゼミの卒業生でにぎやかだけど今年は静かなお花見(今年のゼミのお別れ会は僕の旅行の都合で、梅見祭りをしました)。今日は午後からとんでもなく寒くなった。冷蔵庫の中のよう。この気温ならば今年は結構長い間桜が楽しめそうですね。

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アウディとももうすぐお別れだ。

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小金井公園での13回目のお花見。その前の10年は昭和記念公園だった。
夕暮れの少し前、西日さす公園の最も美しい時間帯。あの映画「天国の日々」の監督テレンス・マリックとキャメラのネストール・アルメンドロスの愛したMAGIC TIME。この光で見る桜は最高です。多分おそらくは江戸時代から。

2月から3月にかけてこの間、旅立ちにあたって多くの方々からいろんな場所で声を掛けられ、送別の辞をいただいた。ある時は立ち話であり、ある時は飲み会であり、送別会をわざわざ開いて下さる方もあった。日頃、多方面に迷惑をかけているにもかかわらず、全ての方々が「とにかく無事に良い旅を」と言って下さる。皆さん必ず「うらやましい」ともいいますが。
本当は密やかに旅立ち「そういえばあいつ最近みかけないけど」的に人知れずいなくなりたいと思っていたがそうもいかない。それよりも声をかけてくれる方々の暖かい気持ちがストレートに胸に響く日々でした。(普段お世話になってる方、友達、学生や教え子、先輩や後輩も)「あんたなら楽しい旅になるよ」と励ましてもらいました。それだけでこんなに幸せな気持ちになるとは想像もしていないことだった。旅は始まっていないのに既に何と自分は幸せなのかと。
この強力な愛のシールドがあればたいていの困難も乗り越えられると思っている。そこで今回(大田君の助けを借りて)このブログを始め、赤裸々に状況報告しようかなと思った次第です。ちゃんと持続できる保証はないですが。

今日は恐らく最後の送別会。池袋にあるぶん也にて。藤田、薬師寺、滝口のご夫妻と。旅立てば少なくとも1年間はこんなおいしい和食は食えないだろうというお店でした。いや今までだってこれからだって。妻は素直にこんなおいしいもの食べたことがないと言っていたが、夫として恥ずかしながら実際そうだ。自慢するつもりはないが、こんなお店に連れて行ったことないもの。

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インタビューをしながら感じた事。この自分が生きてきた時間と日本の戦後のデザインが初めてちゃんと結びつく感覚があったこと。実はこれが本当に初めての事。人に教えられるのではなくて(もちろん知らない事は山ほどあるのだが)自分のパースペクティブが持てた感覚。なんと言えばよいかわからないが自分もそこに生きてきた(生きざるを得なかった)感覚とでもいうもの。歴史なんて傍流にいる自分とは何の関係も持ち得ないと思っていたのだ。しかし原弘や粟津潔や亀倉雄策や及部克人や勝井三雄とH.バイヤーの名前が出てきて、自分がH.バイヤーにかなり批判的な気持ちをもって、昨年ノイラート展を組織したことを思えば、それをやった以上自分も結局そのスパイラルから無関係ではないのだと。ましてやそれの大本のリシツキーに自分は触れてもいるのだから。それはこれから解読すべき複雑なパズルを前にした気分だった。片山利弘や勝見勝、浅田孝などその他多士済々の名前がインタビューからこぼれ出た。具体的には帰国後になるだろうがとてもありがたい宿題であった。

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旅の直前に八束先生から10+1最終号が送られてきた。ギリギリ間に合いました。菊池さんや大田君、唯島君など昨年のノイラート展関係者の方々も執筆しています。特集はTokyo Metabolism 2010 / 50 Years After 1960
大変読み応えあります。デザインに対するこれまで誰も触れる事のなかった(少なくとも真正面から)実証主義的な(いや、今ならそれをもっと超えたところの)問いかけがあります。八束先生とのここ2〜3年続けてきた勉強会を思い出しながら読んでいます。今日はその関連で東京計画1960のグラフィックデザイナーに八束さんとインタビューする予定です。

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私の送別会と作品集「永遠の瞬間 越境する身体」の完成(予定)のお祝いを兼ねて銀座三笠会館にて。その後ジャズライブを聞く事ができました!


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3月25日に日本棋院にて入段式がありました。
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