しかし、書物も都市もそれを「外側から内側に向かって集約されたもの」と見るか、それとも「内側が外側に押し出されたもの」と見るかによって、その相貌が異なってくる。」
(松岡正剛の千夜千冊ベンヤミン「パサージュ論」http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0908.html)
雨模様の中12時半発のaveというスペイン版新幹線でマドリッドのアトウチャ駅からバルセロナのサンツ駅へ。
マドリッドからバルセロナまで直線距離で420~30キロくらいか。約3時間。
列車は時速300キロを超えていた。
早いのは良い事かもしれないがおかげで車両が揺れ過ぎ。パソコンで作業するつもりが気持ち悪くなり中断してしまう。
宿はサンツ駅のそばで大変便利である。
いつも苦労しながら宿選びをしてくれている妻に感謝。
マドリッド、アトウチャ駅.中が温室、ヨーロッパで最もお気に入りの駅になりました。
バルセロナ、サンツ駅前。
まあどっちにしろ、毎日がmuseo三昧という至福の、かつ結構しんどい日々を過ごしているわけですが、マドリッドも今日で最終日。
朝、やはり宿から近くにあるティッセン・ボルネミッサ美術館へ。ここは世界第二といわれる個人コレクション(ちなみに一位はエリザベス女王)で、ボルネミッサ男爵という人の美術館。
13世紀のイタリアからルネッサンス、フランドル、オランダ、イギリス、フランス、ロマン派、そして印象派、未来派、キュビズム、シュルレアリズム、ポップアートの20世紀まで、膨大なコレクションである。
建物もネオ・クラシックの傑作といわれているらしいが素晴らしいし、展示も良い。作品が時代別、国別にバランスよく配置され、「西洋」美術史を学ぶための教科書のような美術館である。
かなりの見応え。写真は不可なのは残念だけどその方が絵を見る事に集中できるので楽である。
ここは親子二代でできたコレクションらしいが全く想像がつかない。どうしたらたった二代でこのようなコレクションが可能なのか。
1990年代日本のバブル期においても、「日本人が金の力で」有名絵画を買い集めたと何かと話題、揶揄の対象になっていた事を思い出す。
しかし、どう考えてもこれに比べれば日本は赤ちゃんみたいなものだったのですね。
その後、国立考古学博物館に移動。ここは見るからに巨大で、かなりの覚悟で入館したのであるが、工事中なのかどうか分らないがごく一部しか展示しておらず、完全な拍子抜け。
ここではアルタミラ洞窟の壁画を再現しているということに強い期待を持っていたので大変残念である。
その後遅めの昼食をとり一旦ホテルに戻り休息。
スペインにいるうちに私たちもスペイン風シエスタを必要とするようになってしまった。特に昼食にワインなどを飲んでしまうと絶対必要となる。スペインの人々の昼食は2時頃から4時。
夕食のレストランに客が入り始めるのは9時からである。(レストランが始まるのは8時頃)
私たちは夕食には付き合いきれず、夜の9時からレストランに行くという事はほとんどしなかった。
(そんなことをしたら、ますます身体がもたなくなってしまう。あぁ、日本のあっさりした食事が恋しいよ。)
夕方、元気を取り戻しプラド再訪。
2度目でも改めて感動。まだ見足りないがしょうがない。8時に美術館を追い出される。
ティッセン・ボルネミッサ美術館、プラドともに写真不可なので残念ながらイメージはない。
今日は月曜日。ここ数日のトラブルでなかなか行けなかったトレドへ。マドリッドからバスで約1時間。
トレドのバスセンターで市バスに乗り換え丘の上、城壁で囲まれた旧市街、中心部にあるサンタ・クルス美術館へ。
サンタ・クルス美術館。
中庭。
サンタ・クルス美術館の後、アルカサルという巨大要塞の横を通り(内部に入らず)町の中心カテドラルへ。ここはスペイン・カトリックの総本山らしい。1227年着工、1493年完成。壮大であり入り口も5つの門がある(迷いました)。
ここは聖具室がかなり大きな美術館になっていてグレコ、ゴヤ、ベラスケス、カラヴァッジョなどかなりのものがある。
しかし展示の仕方は最悪で絵はとても見づらい。
全体的にとにかく埃っぽく、空気が悪い。思わず「ここは本当にあの有名なカテドラルか」と妻に言ってしまう程だった。入場料もかなりとっているわりにはひどい印象。(だいたいカテドラルは無料のところが多い)
以下、カテドラル。
その後、本日の目的地「サント・トメ教会」へ。
ここはマドリッドで宮廷画家の道を断たれたグレコが死ぬまで40年住んだ自宅そばの教会。
かの有名な「オルガス伯の埋葬」がある。
この一点のためにトレドに来る価値はあるだろうと思う。
その後グレコの家を尋ねるも月曜日で休館なので外から眺めるのみ。
昨秋、リエカで薬師寺さんと話していて「グレコは今一わからん」と言ったら、「寺さん、グレコは凄いよ。スペインに行けばわかるから」と言われていたが、「にゃるほど」本当だった。
彼の空間の変形には全く独自性がある。
グレコをみていると使い古された「デフォルマシオン」という言葉が新たな意味を持って来るように思えた。
全く熱い変形であり視覚的である。
以下トレドからの眺め。タホ川が見える。
夕方マドリッドに戻る。アトーチャ駅外観。
朝早めにアランフェスの宿からマドリッドへ移動。約1時間。
ホテルはプラド美術館の近くなので荷物を置いて早速美術館へ。
フランシス・ベーコン展もやっていたがそちらには目もくれず常設展へ。(ベーコンに興味がないわけではありません。むしろかなり好きな作家ですが。)
この美術館は世界三大美術館の一つなどと言われており、今更僕がどうのと説明するまでもないだろう。ちなみに3つとはエルミタージュとルーブルとここだ。
これで一応僕はこの三つを見た事になる。
実際、傑作が目白押し、なんというか有名性だけではなくて、とにかく全体の質が驚く程高い。
その中でも無理矢理ベスト5を上げてみる。
「ラス・メニナス」を頂点とするベラスケス、
ファン・デル・ウエイデンの「十字架降下」、
ボッシュの「快楽の園」、
エル・グレコの「羊飼いの礼拝」、
フラ・アンジェリコの「受胎告知」
順不同...かな。
リューベンスもデューラーもゴヤもレンブラントもラファエロもブリューゲルもカラヴァッジオもそれぞれ良いものがあるにもかかわらずベスト5に入らないという豪華さ、贅沢さだ。
しかし別の日に来れば全く異なるかも。
一日いて、疲れ切ったが、ぜんぜん充分見たという感じはしない。時間が足りないのと体力も足りない。
再度来る事に。
久々に自分が眼の贅沢をしている感じを味わった。
写真不可なのでイメージはありません。
アランフェスの宿の中庭。今日は朝から雨模様。
プラド美術館。
この日はマドリッドに向かう。(宿はアランフェスのままである)
アランフェスーマドリッド間はバスで約50分なので国分寺から銀座に行くような感じである。
実は当初、今日トレドに行く予定だったのだ。しかしここに来てアランフェス発トレド行きの列車がないことが判明。バスもほとんどない。
原因は私たちのもっていたガイドブックが古かったためだ。それにはアランフェスがトレド行きの起点になると書いてある。実際地図を見ても位置関係からそのはずだと思った。しかし多分ごく最近に路線自体が廃線になったようで、マドリッド周辺の町に行くには必ず、一度マドリッドに行き、そこから向かわなくてはならないようになってしまっているのだ。事情は詳しくは分らないが距離的に言っても何とも不都合、不条理なな感じである。
...ということで今日はトレド行きを中止して急遽マドリッド入城である。
王立サン・フェルナンド美術アカデミー、イコー美術館、ソフィア王妃芸術センターの3つを尋ねる。
王立サン・フェルナンド美術アカデミー。
ここはプラド美術館の分室と言われている所である。
16世紀から19世紀までゴヤ、スルバラン、ムリーリョなどのスペイン絵画が中心。その他はティッツァーノ、ブリューゲル、コレッジオ、リューベンス、アルチンボルトなど。
また館内にゴヤを記念した版画専門の美術館も独立してあって現代版画の作家の展示を行っていた。
スルバラン
イコー美術館入り口。
フランス人建築家ドミニク・ペローの大展覧会が行われていた。
写真は不可。
ソフィア王妃芸術センター
ここは20世紀以降の近現代美術を集めた所である。かなり大きく見応え充分である。
ニューヨークから戻った有名なピカソのゲルニカもここにある。
ミロ、ダリ、ブニュエルなどスペイン出身の作家はもちろんのこと、それ以外の作品も傑作目白押しでかなり刺激を受けた。
またここはブニュエルもそうだが映像作品やドキュメンタリーも各所で映写していて(これは近年のプロジェクターの輝度が随分良くなったせいだが、絵画作品の隣に映像が映写されていたりして)大変刺激的であった。
ここも写真不可なのでイメージはない。
写真は不可なのだが、廊下にあったこればかりはいやがる妻に無理矢理撮ってもらった。巨大なマン・レイのオブジェ。目が開いたりつむったりします。
終日アルハンブラ宮殿。
ここについてはいろいろ感想ありますが、書き出すときりがないので省略。
離宮へネラリフェ、パルタル庭園、王宮、アルカサバ、カルロス5世宮殿というルートで歩いた。
冒頭で感想省略と書いたが、庭に関しての覚え書きを少々加えておく。
ここはかつてローマ人の作った神殿の上に、ムーア人が宮殿を造り、そこにレコンキスタ以降のスペイン人が手を加えている。だから今私たちが見ている庭が少なくともアルハンブラ造営時代のものかどうかが、はなはだあやしい。(ような気がする)
この500年の間にかなりフランス庭園化しているのではないか。
イスラムにとって庭は天国の楽園の象徴だったのでこのことはとても重要である。
私の印象はこの変形がどのようなものであったかを知る必要があるということだ。
現在の折衷された感じの庭は意外にも全然凄いとは思えなかった。
正直な所。
また、してはいけないとおもいつつ、桂離宮や修学院等など、とんでもなく洗練された庭文化を持ってしまった私たちからすれば...?という思いがどうしても去来してしまうのだった。
例のごとく月曜日は美術館等はお休みなので町の散策へ。
夜は町の北東でアラブの統治下にできたグラナダ最古の街並が残るアルバイシン地区を歩く。
以下、町の中心にあるカテドラル。1518年モスクの跡に作られ、工事は1704年まで続いたが未完。折衷様式でプラテレスコ様式というそうだが柱と天井のバランスが大変美しい。またパイプオルガンの巨大さに驚いた。実際演奏されていた。
パイプオルガン
アルハンブラ宮殿の裏側?
向こうに見えるのはシェラ・ネヴァダの山脈。
科学博物館
ガルシア・ロルカ公園
闘牛場
以下、王室礼拝堂
アルヘシラスからバスに乗って40分でジブラルタル海峡に飛び出した岬、ジブラルタルに行く。ここはイギリス領で軍事上の要衝である。一応国境がありパスポートコントロールもある。ここは免税価格で買い物ができる町なので週末にはスペイン人が買い物にやってきて賑わう町だ。だから国境と言っても物々しさは全くない。私たちの目的はこの岬を象徴する岩山ターリクの山に登り、ジブラルタル海峡を見る事であった。少し曇りがちな天候であったがかすかにアフリカ大陸を見る事ができた。
ここからの眺めは絶景である。
その後アルヘシラスに戻り、夕方の5時から町の闘牛場で闘牛を見る事ができた。前にも書いたがまだ季節ではないので無理だと思っていたが幸運だった。
感想は長くなりそうなので省略。
向こうに見えるターリクの山。
この岩山全体は自然公園になっていて野生の猿の生息地として有名である。
向こうに微かに見えるのがアフリカ大陸。
右手がアルヘシラスの港。
山を下りて岬の先端、灯台から山振り返る。
決闘というのか試合というのか戦いというのか、5試合見たのだが、スタジアムが急に冷え込んで来て我慢の限界だったので我々は闘牛場を後にした。
まだ続きそうな感じであった。
またこの日は週末なので町中ではサッカーの試合で盛り上がっていた。
朝から曇りで雨模様。
朝10時の高速艇に乗ってアルヘシラスの港からアフリカ大陸の対岸セウタへ渡る。約1時間(ジブラルタル海峡の幅は15キロ)。
セウタはまだわずかな土地がスペイン領でそこを通り過ぎるとモロッコへの国境がある。
まずセウタ近くのテトゥアンの町を尋ねる。迷路のような複雑なスーク(市場)やユダヤ人街などを歩き回る。昼食。
その後車でタンジェ(タンジール)へ。
ここで絵を描いたマティスのこと、作家のポール・ボウルズ、ウイリアム・バロウズのことを考えながら。
その後、再びセウタまで戻りアルヘシラスへ戻る。
タンジェやテトゥアンは悪質な客引きで有名であるが、エジプトに比べれば全然かわいいものだ。モロッコの人気(じんき)は総じて良いように思う。
約12時間の日帰り旅行であった。
連日の疲れがかなりたまってきた。
このブログの更新も滞っている。
それでも今日は移動日なので昼までホテルで写真の整理などを行ってタクシーでバスセンターへ。
13時のバスでアルヘシラスへ向かう。約3時間半。
アルヘシラスはスペインの最南端に近く、アフリカ大陸への起点となる大きな港町である。
初めはこの後コルドバ行きを予定していたが、考えた末、気が変わったのだ。理由は省略。結果が吉と出るか凶と出るかはわからないけど。
セヴィーリャのバスセンター
途中、相当大規模な風力発電地域があった。
夜、宿のテレビをつけたら映画が放送されていて、あまりにも映像が美しく夫婦で見とれてしまった。スペイン語に吹き替えられているがアメリカ映画であることは分った。見た事のない映画である。しかしその映画がただものではないことは60秒くらい見てれば分るものだ。その後1時間程見たが気になってネットで調べてみた。
「石油掘りの男の映画」で検索すると一発で出た。「ゼア・ウイル・ビー・ブラッド」(これは何と訳すのだろうか?)というタイトルであった。昨年の春以降の日本公開らしいので知らなかったことに納得。日本に帰ったらちゃんと見てみたいと思う。
例によって話はどうだか分らないが撮影がすこぶる美しい。言葉が少ないのも好ましい。
多分若い監督だと思うが巨匠の風格であった。
セヴィーリャの旧市街の外側を流れるグアダルキビル川沿いを歩いて、南にある考古学博物館、民俗博物館に向かう。3~4キロ程だろうか。
途中、3つの橋を見、海洋博物館になっている黄金の塔に寄る。
左手にマエストランサ闘牛場を見る。今は闘牛の季節ではないらしい。
黄金の塔
内部
塔の上から町を見る。右手が旧市街。
広大なマリア・ルイサ庭園内にある考古学博物館、正面。
ここにあるローマ時代のものは多くが先日行ったイタリカからの出土である。
その後昼食を挟み向かい側にある民俗博物館へ。
その後トラムやバスなどの適当な交通機関もないので再び歩いて宿まで戻ることに。
途中バスセンターで翌日の移動の確認、スペイン広場、カテドラルのある旧市街で夕食をとり、ホテルに戻る。
昨日の遺跡歩きも相当なものだったが今日も少し歩き過ぎて足が痛くなる。
全部で12〜3キロくらいだろうか、あるいはもっとか。朝ホテルを出て食事時と時たまの休憩以外はずっと立ちっぱなし、歩きっぱなしである。
以下スペイン広場
朝の列車でリスボンを発ちポルトガルの南端の町、ファーロに向かう。約220~30キロの距離か。電車で約4時間。
今回のポルトガル、スペインの南部諸都市訪問の目的はローマやギリシアの遺跡を見る事も当然あるけれど、ヨーロッパにおけるイスラムの痕跡、イスラムとキリスト教の混交を見る事も目的の一つである。
ここファーロはポルトガルにおけるイスラム勢力の終焉した場所なのである。地中海を渡ればもうそこはアフリカなのだ。
ファーロ沖合に広がるラグーンの航空写真。私たちは町が出来る前のヴェネツィアがこのような状況だったのではないかと想像した。
旧市街の門、アルコ・ダ・ヴィラを内から振り返る。
旧市街の中心。
夕方、僕は散髪に行ったのだがその間妻が撮った夕焼けの写真。
沖合にラグーンの影が見える。
妻の風邪が少しぶり返し、調子が今一なのでホテルに残し、僕は午前中は一人で町を散歩する。ホテルからドゥケ・デ・サルダーニャ広場を通り、ボンバル侯爵広場、ラト広場などぶらぶらと5キロ程歩く。
午後、少し体調の良くなった妻と再びグルベキアン美術館へ。歩いて10分程のところにある。
別館で今日からダーウィン展が始まるので、その為に改めて来たのだ。
展覧会は大変熱のこもった素晴らしいものだった。また改めてここの美術館全体は素晴らしいと思う。設計の中心はリベイロ・テレス(Ribeiro Teles)という人らしいがやはり詳しい事はわからない。ポルトガル初期モダニズム建築の傑作と言われているらしい。私の印象は鎌倉の近代美術館を思わせる落ち着きと佇まいを持つ。
最近、たまたまK先生とベンヤミンをめぐってメールのやりとりをしていて、それはベンヤミン自身のナチスからの最後の逃避行のことについてなのだが、同時にかの有名な「アウラ」というこばをめぐって自分なりに見えて来たものについて語っていたりしていたのだ。その話はまだ続いているのでいつかここでまた触れると思う。
それとは別にK先生とのやりとりで以前に三木成夫さんのことを教えてもらったことがあり、ちょうどそれを改めて読み直したいと思っていたところだったのだ。その本の書名は『海・呼吸・古代形象』であった。三木さんは解剖学者、発生学者なので直接ダーウインとは関係があるのかどうかは知らない。僕にとってのダーウィンは佐々木正人さんやエドワード・リードによる「魂(ソウル)から心(マインド)へ―心理学の誕生 」経由(読みかじり?)なのだ。しかし今の僕の中ではこの三木さんという人とダーウィンが繋がっているのだ。しかも三木さんはモルフォロギアでゲーテに繋がっている。
説明はしませんが。
...ということもあって(話せば長くなりますが)、今回のダーウィン展は大変刺激的でした。
また展示ではかのラマルク「form follow the function」についてもちゃんと触れられていたし、リンネやビュフォンなどの博物学の歴史についても。
リンネ
リンネの分類模型
ビュフォン
ラマルク
ビーグル号
生モノもちゃんと展示してます
これは剥製。
ダーウィンのメモ
この後妻はホテルに戻り、僕はリスボン最後の夜なので町を無目的に彷徨う。
リベイラ市場。
二階には大きな書店とワイン・ショップがあった。そういえばポルトガルで特筆すべきはワインのおいしさである。しかも大変安い。コストパフォーマンスが大変高いことに驚く。
CCBはベレン・文化・センターの略称。
設計はイタリア人グレゴッティという人。劇場、会議場、ギャラリー、レストラン、ショップなどの複合施設。大きさの割には外壁の石の色のせいか威圧感はない。大ギャラリーでは現代美術(1940年以降)を中心にした展覧会を行っていた。
国立考古学博物館。
ここは広大なジェロニモス修道院の西棟部分にある。この修道院は大航海時代のポルトガルの栄光を偲ばせる大建築である。
エントランス。内部は撮影不可であった。
展示は大変凝ったもので、ポルトガルの底力を感じる。
海洋博物館。
ジェロニモス修道院の西の端に入り口がある。素晴らしい博物館であった。
ここはさすがに船の模型が凄い。質量ともに圧倒される。
海洋博物館のミュージアム・グッズは意外な事にこれまでに行った全てのミュージアムの中で最も良いと思った。とてもオリジナリティのある品揃えである。このショーケースなんか全部買い占めたいと思ったものだ。もちろんそんなことはしませんが。しかしそんな気にさせること自体が今までにないことでした。
これまで見て来たミュージアム・グッズはどこもアメリカかフランスの有名ミュージアムをお手本に(単なる真似)しているせいか似たり寄ったりでつまらない所が多いのだ。
今日の目的はユーラシア大陸の西の果て、ロカ岬である。
詩人カモンイスが「ここに地果て、海始まる」と詠んだところ。
まずは途中のシントラまで電車で行く。シントラはリスボンの西28キロ、電車で約40分。
山の中に王宮や別荘が点在する町である。
ここからさらにバスに乗って西に約40分でロカ岬に到着。
この旅のはじめの頃のアイルランド、ディングル半島を思い出す。
天気は晴天だが風が強い。
1時間程してシントラに戻る。
シントラには14世紀の王宮、7~8世紀に作られたムーア人の城跡、ペーナ宮殿などがあり町からそれぞれを巡るバスが出ている。
ペーナ宮殿を作った(作らせた)のはあの有名なドイツのノイシュヴァンシュタイン城を作ったルードヴィヒ二世のいとこ、フェルディナンド二世である。
血は争えないというべきか、笑ってしまう程のキッチュさである。1850年に完成。
何故こうもキッチュに見えるのか、多分本来ならば石や大理石で作られるべきところにコンクリを多用している所ではないかと。
ロカ岬
大西洋。彼方はアメリカである。
以下シントラ、ペーナ宮殿。
ムーア人の砦。
シントラの町。
午前中に歩いて近くのグルベキアン美術館へ。ここはアルメニア人の石油王の残したコレクションからできた美術館である。建物はモダニズム・スタイルで近代建築のお手本のような素晴らしい空間と思う。3人のポルトガル人建築家の共同らしい。
ここの建築にまつわる本もあったがポルトガル語だったのでよくわからなかったのは残念。美術館のカフェからの眺めなど周辺環境もとても良い。
コレクションの幅もエジプトからギリシア、イスラム、日本、ヨーロッパ美術と多彩かつ質が高い。さりげなく置かれていたが日本の蒔絵は特に突出して素晴らしい。多分大英博物館のコレクションにも劣らないのではないだろうか。
その後地下鉄と市電を乗り継いで国立古美術館へ。
ここは撮影禁止なので画像はない。ポルトガルを代表する美術館と言われるところだ。
14~19世紀のヨーロッパ美術、インド、中国、日本、アフリカなどかつて関係のあった国々の美術、そしてポルトガルの絵画と彫刻の三本柱で構成されている。
特に工芸品の量は膨大である。
ボッシュの「聖アントニオの誘惑」は特に印象深い。駄作のないボッシュの中でも最高の部類であると思う。
もうひとつは南蛮屏風が凄かった。
狩野派おそるべし、と思った。
桃山文化の最高傑作というのもうなづける。これは昔から画集で何度も見て良いとは思っていた。しかし本物の凄さというのは全く違っていた。これだけでもポルトガルに来た甲斐があったと思う。
夜、バイシャ地区にあるファドハウスに行き、食事をしながら念願のファドを聞く。7時半から結局11時半まで。
以下グルベキアン美術館。
そういえば。ここリスボンで思ったことではないが、ここで今まで記したことがなかったけれど、この旅で日本の伝統工芸美術がいかに素晴らしいかを思い知らされた。これは僕にとってこの旅の本当に特筆すべきことの一つであった。
国立古美術館からテージョ川を見る。
ファドに関するコメントは書き出すと長くなるのでやめます。
今日は月曜日なので例によって町巡りの一日となる。
私たちの宿は市の北部、カンポ・ペケーノというところで傍に大きな闘牛場がある。
リスボンの市内交通は地下鉄、バス、トラム(市電)、ケーブルカーがある。どれにも乗れる一日券でどこにでも行ける。よく言われるようにリスボンは坂の町である。せまい坂道の石畳を小さな市電がゴトゴト、ぐいぐい走って行く。
コメルシオ広場、リベイラ市場、フィゲイラ広場、サンタ・ジュスタのエレベーター、バイロ・アルト周辺、アルファマ周辺、テージョ川沿いの発見のモニュメント、ジェロニモス修道院など。
リスボンの町の規模や位置関係、市電、地下鉄、バスの路線がだいたい分る。
朝起きたらホテルの前に三島のポスターが。残念ながらもう終わってましたが。
「発見」という自己中心的な言葉には当然異議はありますけど。せめて「出会い」くらいにするべきだよね。21世紀にもなって。
ただ本当の意味で日本の近代を覚醒させたのは幕末の黒船なんかじゃなくて、それよりもずっと前のポルトガルの種子島到着だったことは間違いのない事だと思う。
暖かく(10度くらい)雨模様の朝、10時20分にリエカを発つ。
ユーリッチさん、ダリンカさん、マイーダさんとお別れ。
ダミールさんの車でヴェネツィアのマルコ・ポーロ空港まで送ってもらう。
いつもならば朝6時のバスでトリエステまで出て列車でヴェネツィア、バスで空港というルートだが今回は妻が病み上がりということもあってダミールさんに運転をお願いしたのだ。
さすがに車で行くと早い、トリエステまで1時間半(バスならば2時間半)。
途中余裕ができたのでヴェネツィア近くの町のトラットリアで昼食。
2時20分に空港到着。4時発予定のポルトガル行きの飛行機は2時間の遅れとなり結局リスボン空港に降り立ったのは8時半。
10時頃宿に無事到着。日本との時差は9時間となる。
マルコ・ポーロ空港からアドリア海とヴェネツィアを見る。
宿に着いた後、夕食の為にレストランを探して近辺を探すもほとんどの店が閉まっていた。
諦めかけていた頃にやっと見つけたのが「ピザハット」であった。
霧雨模様。
鳥の鳴き声、虫の声からなんとなく春の訪れの気配を感じる。
2月はもう少し厳しい寒さを予期していたので意外な感じのここ数日です。多分また何度か寒い日もぶり返すのだろうけれど。
実は今週あたりからリエカ最大のお祭り、仮装行列による大フェスティバルが本格化するのだが、残念ながら私たちは見る事ができない。この祭りはすでに近隣各地の村々で始まっていてそれが徐々に盛り上がっていくものらしい。
春を迎えるこの祭りは、はるかキリスト教以前からの土着のものが起源ということだ。約3週間後にリエカの中心街で行われるパレードでピークを迎えるとの事。
妻は見れない事を残念がっている。
午前中、町に行き両替などをする。
午後、私たちの名前がついたオリーブの樹をダルマチア、プリモシュテンにあるユーリッチさんのオリーブ畑に植樹するためのセレモニーを行う。名札を刺して樹が元気に育ち実を沢山つけるようにお祈りし土をかけ、そして皆でウオッカで乾杯する。
私たちはこの樹のゴッドファーザーとゴットマーザーだとのこと。
これからユーリッチさんたちはオリーブ畑に行く度にこの樹に「トモコサン」「テラヤマさん」と声をかけるんだという。ユーリッチさんらしい別れの挨拶。
終日、大掃除に追われる。
夕方やってきたマイーダさんとの会話。
彼女は現在新しく作っているリエカ市のウェブサイトの編集ディレクターをしていることを昨日はじめて聞いたのだった。彼女はそこで様々な提案をしているらしく、今日はその為の重大な会議があると言っていた。ここの市長はすでに8年続いているリベラルな人で市民からは信頼されているらしい。5月には選挙もあるので、選挙のストラテジスト(戦略家?)やザグレブのデザイナーなどもやって来るという。
「今日の会議はどうだった?」と僕が尋ねると
「問題なく完璧に行きました。」とマイーダさん。その会議の中で
「この前撮影したテラヤマさん夫婦のリエカ市へのメッセージビデオを見せて紹介したら、市長がぜひディナーに招待したいので伝えてくれと言って来たの。」
「へえー。」
「でもテラヤマさんは明後日にはリエカを発ちます。と答えたら」市長から
「何で昨年の4月から今までこの僕に紹介してくれなかったんだ。と言われたわ。」
「だってテラヤマさんは自分はシャイだと言ってたし、そもそもこうゆうポリティカルなこと嫌いでしょ。」
「うん。そりゃそうだ。でももしそれがソボルさんやマイーダさんにとって必要だったならば多分どこへでも行ったと思うよ。」
彼女は笑っていた。
旅の記録
10月26日以降2月頭まで。クロアチア、スロヴェニア、フランス、オーストリア、ドイツ、イタリア、エジプト、ヨルダン。
【museum/library 美術館/博物館等】
ステューデント・センター(美術館)(ザグレブ)/1930年万博会場跡(ザグレブ)/ルーブル美術館(パリ)/パリ・フォト(パリ)/T.A.F(パリ)/ポンピドゥー美術館(パリ)/科学技術博物館(ウイーン)/旧総督邸(文化歴史博物館)(ドブロブニク)/クロアチア芸術協会美術館(ザグレブ)/イムホテップ博物館(エジプト)/ヌビア博物館(エジプト)/ルクソール博物館/エジプト考古学博物館/聖カトリーナ修道院(図書館)/レッド・ドット・ミュージアム(デュッセルドルフ)/シオルフェライン炭鉱跡(デュッセルドルフ)/クンスト・パラスト(デュッセルドルフ)/エーレンホーフ文化センター(デュッセルドルフ)/K21シュテンデハウス州立美術館(デュッセルドルフ)/グーテンベルク・ミュージアム(マインツ)/マチルダの丘(マインツ)/芸術家コロニー美術館(ダルムシュタット)/ドイツ映画博物館(フランクフルト)/ドイツコミュニケーション博物館(フランクフルト)/シュテーデル美術館(フランクフルト)/建築博物館(フランクフルト)/応用工芸美術館(フランクフルト)/モダン・アート・ミュージアム(フランクフルト)/シーオルガン(ザダール)/リエカ近現代美術館(リエカ)/フォルマ・ヴィヴァ屋外石彫美術館(ポルトロージェ)以上30カ所
【camii/temple/church 教会/寺院/城/近代建造物等】
聖母被聖天大聖堂(ザグレブ)/トルサット城(リエカ)/ドブロブニク大聖堂(ドブロブニク)/ドミニコ会修道院(ドブロブニク)/スポンサ宮殿(ドブロブニク)/フランシスコ会修道院(ドブロブニク)/アスワン・ダム(エジプト)/アスワン・ハイ・ダム(エジプト)/スクオーラ・ダルマータ・サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ教会(ヴェネツィア)/サンティッシマ・ジョバンニ・エ・パオロ教会(ヴェネツィア)/ペンラート城(デュッセルドルフ)/結婚記念塔(ダルムシュタット)/ロシア教会(ダルムシュタット)/オルブリヒ自邸(ダルムシュタット)/ベーレンスハウス(ダルムシュタット)/ハウス・ダイタース(ダルムシュタット)/グリュッケルト・ハウス(ダルムシュタット)/ケルン大聖堂/フランシスコ会修道院(ザダール)/聖ストシャ大聖堂(ザダール)/聖マリア教会修道院(ザダール)/聖ドナド教会(ザダール)/聖ユーリ教会(ロブラン)/聖ユーリ教会(ピラン)/ピラン城壁 以上25カ所
【city/nature 街並/自然景観等】
オパティア市街/モトブン市街/ドブロブニク旧市街/カイロ市街/ナイル沿岸(エジプト)/ナセル湖/スーク/バフレイヤ・オアシス(白砂漠、黒砂漠。クリスタ/シナイ山/ダハブ市街/アカバ港(ヨルダン)/死海(ヨルダン)/サン・マルコ広場(ヴェネツィア)/リド島(ヴェネツィア)/メディエンハーフェン(再開発地区)(デュッセルドルフ)/デュッセルドルフ旧市街/ケルン市街/バカール市街(クロアチア)/ザダール市街/ロブラン市街(ロブラン)/ピラン旧市街(スロヴェニア)/ポルトロージェ市街/ポストイナ市街/ポストイナ鍾乳洞 以上24カ所
【ruins遺跡等】
クフ王、カフラー王、メンカウラー王のピラミッド(エジプト)/スフィンクス(エジプト)/ジェセル王のピラミッド・コンプレックス(エジプト)/ウナス王のピラミッド(エジプト)/アブシンベル神殿(エジプト)/イシス神殿/コム・オンボ神殿(エジプト)/ホルス神殿(エジプト)/ルクソール神殿(エジプト)/王家の谷/王妃の谷/メムノンの巨像/ハトシュプスト女王葬祭殿/カルナック・アムン大神殿/ペトラ遺跡(ヨルダン) 以上15カ所
【academic ivent/university 大学/学会/イヴェント】
ザグレブ大学建築学部デザイン学科(ザグレブ)/マリンコ・スダッチ邸(ザグレブ)/FH.Dデュッセルドルフ応用科学大学コミュニケーションデザイン学科(デュッセルドルフ)/鈴木武アトリエ(デュッセルドルフ)/ダルムシュタット工科大学(ダルムシュタット)/リエカ大学応用美術アカデミー(講義)/ザグレブ大学建築学部デザイン学科(講義) 以上7カ所
来週26日に予定しているリエカ美術大学での講義が近づき緊張感たかまる。
もともと日本でも沢山の学生の前で話すのは苦手だし、これは何年経験しても変わらない。
こればっかりは慣れっちゅうのはないような気がする。
特にあの講義室の雰囲気がだめだ。
ゼミ室などで学生と向かい合っている時は全然OKなんだけど。
多分、ただ気が小さいだけなんだろう。今更でかくなりたいとも思わんが。
しかもこの旅ですっかり学校の事を忘れていて、今更ながら悪夢の感覚が蘇っているところである。
15日に書いた朦朧覚え書きのC.S.パースについてみぎわさんからメールがあった。
僕の旅を見ながら思い浮かべたパースの言葉があったとして以下のテキストを送ってくれた。
「......身体がなければ、多分われわれは情態というものを持たないだろう。......情態は全て認知的であり、感覚であり、感覚は心的記号あるいは言葉である。......そこで人間が動物的情態だとすれば、言葉はまさに同じく書かれた情態である」
「私は、この「ライティングスペーストラベラー」というタイトル、初めは単純に寺山さんがライティングスペースを旅しているのだと受け止めていましたが、パースの言葉を思い出してからは、寺山さんというライティングスペースが旅しているのだと思うようになりました。」
このパースの言葉もとても奥深いものがあります。「情態」という言葉がすごいですね。
またみぎわさんのタイトルへの指摘は僕も実感していたことで、最初は僕も単純にwriting spaceを巡る旅と何気なくつけたのです。しかしどうもそんなに単純な主客二分化などはできないと感じていたのです。つまり自分と世界が入れ子になっているという感覚でしょうか。それを言葉にしてくれたものでした。
かつてK先生と視覚伝達デザインの研究会の名前を「カメレオン」・プロジェクトにした時の記憶も蘇って来た。
...もしも私たちがカメレオンのように自分の身体が受容器であると同時にプロジェクション機能を持っていたとしたら...。
いや多分カメレオンのようにあからさまに目に見えなくてもそれが意味するところは同じ事なのだ。
以下妻の写真機より。凍った水の中に浮かぶ蛇口。
ロヴラン。
ポストイナはピランから北東へ直線距離で60キロ程のところにある。
スロヴェニアの首都リュブリャナとリエカを結ぶ鉄道駅のあるところである。
写真を見比べれば分るがたった60キロしか離れてなくても、内陸部に入ればいわゆるアルプス(の地中海側)となり全くの冬景色となる。観光ガイド風に言えばこのスロヴェニアやクロアチアは自然の風光の多様さでは本当にヨーロッパの中でも群を抜く所であると思う。
帰路にここを選んだのはこのあたりには有名な鍾乳洞が点在しているので一応見ておこうと思ったためである。ポストイナ駅のそばにはヨーロッパ最大のポストイナ鍾乳洞があり、そこから33キロ離れたところにはシュコツィヤン鍾乳洞もある。こちらは世界遺産となっていて地底に250メートルの大渓谷があって凄そうではあるが、例のごとく交通の便が悪いし、無理してはしご(?)をしてまで鍾乳洞を見たいわけではないので、今回はポストイナ鍾乳洞のみを訪れた。
この右手には大きなホテルやショッピングアーケード風な場所もあるのだが冬期休業中であった。
このトロッコに乗って2キロ程進む。
この鍾乳洞は10万年くらいの間に地下水が石灰岩を削ってできたものという。
全長は27キロとのこと。トロッコをおりた後は2キロほどガイド(英語)の説明を聞きながら歩く。約2時間。
ポストイナ駅。
鍾乳洞を見終わった後は町を散策しようと思っていたのだが美術館などの公共施設は全てクローズド。しかも土曜日の為かマーケットなど全ての店が閉まっていた。レストランだけは2件開いていてなんとか昼食を食べる事が出来たけれど。
まるでゴーストタウンというか、時が止まってしまった町のようでスティーブン・キングの小説を思い出しました。
夕方、例の一日一本の列車に乗って無事リエカに帰還。
まず非日常的といえる程の膨大な絵、図像、文字、風景などを見ている時、感じて理解したり認知したりする時に自動的に働く思考プロセスである。それは上に述べたような帰納的なプロセス。何か類似物を想起したり、別の記憶を重ね合わせたり、新しい関係物を発見したりすること。アナロジーやメタファーなどの稼働。
そしてまた、うまく言葉化できないけど存在する、単なる理解や納得を超えたある新しい出会いのようなものの遭遇感覚。一般論のためではない帰納的な帰結。
やっと普通の感覚が戻って来た実感を得る。
今回のことで普通の状態=健康がいかに大切か思い知らされた。
これから無理せず少しずつ体調を整えていこうと思う。
(ご心配をおかけした方々すいません)
この間中川さんから前回1月5日に掲載した以下の物件についてのコメントをいただいた。
ともかく以下引用させていただきます。
あれはね、ヤドリギ(宿り木)ほかの木に寄生する植物。
常緑で冬でも葉の緑が鮮やかで、赤い実がつくことでクリスマスには喜ばれる植物です。
あの宿り木の下では誰にキスをしてもいいと北欧ではいわれています。
種の皮が硬く、その実を鳥に食べられても消化されず糞の中でそのまま排泄され、ほかの植物の木の股などで発芽 し、親木の養分をいただきながら生活する、"パラサイト"。
でもこれがたくさんつきすぎて枯れてしまった親木というもはあまり見たことがないなあ。
何か親木にもメリットがあるのかなあ。
...とのことでした。さすが僕のアウトドアの師匠。なんでもご存知なのだ。
中川さんの肩書きは写真家であったが最近はむしろ作家である。しかし僕の中ではアウトドアというか自然と遊ぶというか、生活することというか、その道の達人なのである。20年程前、中川さんと塩野米松さんの本をデザインしたのがお付き合いの始めであった。
取材と称しては現場にご一緒させてもらいそれ以降随分お世話になった。なにしろカヌーやシーカヤックは日本でも草分けだし、釣り(フライ・フィッシング)やスノー・クロスカントリー、星空観察、野外料理、キャンピング、植物や鉱物にも詳しい、(基本的に必要な道具は自分で作ってしまう)とにかく達人なのである。ちょうど子供たちも小さかったので影響を受けやすい僕はよく家族でキャンプに行くようになった。自分たちだけで行くと僕の場合はどっちかというと難民キャンプみたいになってしまう何とも全くダメな弟子であったが、自分にないものを持っているこの方には随分教えられることが多かった。最近は釣りはイギリスの田舎の川をも主戦場にしておられるようだが、木の上に家を造ったり田んぼを借りて仲間とお米を作ったり、海のそばで子供たちにアウトドア生活を教える学校をNPOで作ったりと活動は全く衰えない。
以前ここにも書いたようにクロアチアでユーリッチさんのアウトドアライフやもの作りスタイルにも感心したが、日本の僕の知り合いで真っ先に思い出したのが中川さんであった。
で、ここまで書いてみて気がついたことだがデザインを通じて仕事をする楽しさは「アウトドア」にもちろん限らない「文学」や「建築」等など、様々な「その道の達人」とその都度ご一緒できるであることは間違いない。
しかし僕はこれまでそれらは「その人の道」でありあくまでも僕の「デザイン」の道とは異なると思い込んでいた。しかしよく考えればそれらとの出会いは自分にとってデザインとはそもそもどんな存在意義があるのかを考える重要な鍵、そして糧になっていたのだと改めて気づかされるのだ。
以下は中川さんのブログです。
http://blog.goo.ne.jp/bossokashira
朝方、大学が冬休みになって僕の九州の実家に帰省した長男のセッティングで、小倉の両親の自宅とスカイプがつながった。4月の出発以来はじめて両親、帰省している姉ファミリーとも肉声で話ができた。この旅のあいだ、このブログが手紙代わりということでメールもたまーにしか送ってないので久々の交信である。
いくらしゃべっても電話代がかからないなんて、どうもピンとこないですね。
ともあれ久々に声がきけ、元気そうなので良かった。
親はこちらがいくつになっても親で、ハラハラしながら旅を見守ってくれていることを痛感。
記憶に残っている親父のひと言は「夫婦仲良くしろよ」でした。
夕方ザグレブからトレンツさん一家が車で無事来訪。途中、高速道路は凍結していたそうで心配する。
ミランさんはクロアチアでコミック作家、アニメーターとして活躍後ニューヨークに移動、彼の地でもイラストレーター、絵本作家として活躍。現在はザグレブに戻り、活動のかたわらザグレブ芸大、アニメーション・ニューメディアコースで映像ディレクションの教授をしている。映画「ナイトミュージアム」の原作絵本の作家としても有名である。今回大学から無理をして資料を送ってもらったのも、このミランさんを通してザグレブ芸大とクロアチアのアニメーション協会などとアニメーションや映像教育に関する交流を行う為であった。(旧ユーゴスラビア時代からここはアニメーションが盛んなところなのです)
奥さんのアキコさんは前回ここにも書いたが11月4日ザグレブのHDLUクロアチア芸術協会美術館のフランチェスキさん、コレクターのスダッチさんを訪ねたおり通訳をして下さった方である。
http://www.esporre.net/terayama/2008/11/
始めはアキコさんの旦那さんがトレンツさんであるとは全く知らなかったわけで、全く不思議なご縁を感じます。リエカもそうだがザグレブも僕にとって不思議な出会いに満ちた都市である。
アキコさんには正月のザグレブ芸大での僕のレクチャーでもまた厚かましくも通訳をお願いしている。
前回から話に出ていたザダールのシーオルガンを見に行く計画が今回実現したのだ。
とっくに届いているはずの荷物が届いてない事に昨日から憂慮している。1月のこちらでの講義の為に送ってもらった資料である。
昨日、今日と東京のN先生にメールし確認してもらう。先生が確認した結果、送付を頼んだ大学のある部署が、なるべく早く確実にと依頼したにもかかわらず、普通航空便で送った事が判明。これでは現在荷物がどこにあるのか確認もできないのだ。中には大事な書籍やDVDに納められた映像作品もあるのに信じられないことでショックを受ける。
年末にザグレブ芸大のアニメーションを教えている先生に会う予定で、そのためにもかなり以前から依頼していたものだったのだ。
その後、今日になって経過を知りあきれたN先生とゴンちゃんがなんと再度荷物を梱包し送付し直す作業をして下さったと連絡が入る。
彼らが僕にとって今年のサンタさんになってしまった。全く申し訳なく、言葉もないとはこのことだ。
夕方ザグレブからやってくる森田さんをリエカ駅に迎えに行く。
以前ここにも記しているが森田さんとはリンツで出会い、ベルリン芸大サウンドデザイン科を訪ねた際お世話になっている。彼は今回ザグレブで行われた「TOUCH ME HERE」というユニークな展覧会に招待され23日まで展示していたのだ。その展覧会を今日撤収し我が家に寄ってくれるのだ。
森田さんの作品がポスターになっていた。随分人が来て熱気のある展覧会になったそうだ。
午前中トラムに乗って、モダンアートミュージアムへ。ここの建築はホラインである。常設展が目的だったのだが、何と全館を使用して村上隆氏の大展覧会をやっていた。実は僕は彼の作品をこれまでほとんど見た事がない。こういう機会でもなければ見る事はないだろうから結果的には良かったと思う。(全く自慢にはならないが僕は普段日本では出不精の上、ここ10年近くの日本の現代美術の動向に全く疎いのである。)
その後、応用工芸美術館、建築博物館を見る。
フランクフルトには他にも自然史博物館、前史先史博物館、シルン美術館、世界文化博物館と面白そうなミュージアムがあったのだが、まあ二日ならばこんなところであきらめるしかない。
......グーテンベルク博物館にもう一度行くべきだったかもしれない。
以下モダンアートミュージアム。最初見た時MURAKAMIという名の商社ビルだと思いました。
左手はシルン美術館。マグリットをやっていた。
以下応用工芸美術館。家具などのモダンデザインとアジアを含めた世界の工芸の紹介。
以下建築博物館。ここは期待が大きかっただけにちょっと...。建物は3つの階層に分かれ2007年度の高層建築世界一のコンペ、エコロジーと建築をテーマにした100の提案、最新のヨーロッパ各都市の都市計画といったものであるがどれも中途半端というか、雑誌の特集を読まされているような気がした。
常設展らしいところで世界の都市の歴史の模型を展示しており、これはおもしろいかと思ったが途中で尻切れとんぼになってしまった。今回の旅で私たちの行った場所の模型があったのは個人的には興味深かったが。
疲れ果てて足を引きずりながらの帰路となった。
橋の向こうがシュテーデル美術館、ミュージアム通り。
フランクフルトにも見るべき場所は多い。またここもデュッセルドルフ同様日本人を数多くみかける。ホテルでたまたま話した年配の夫婦はドイツのクリスマス・マーケットを見るという目的で来ているとの事。
僕らも行く先々でマーケットは覗いてみたがそういう目的を持った旅もあるのだと変な感心をした。
朝マイン川を渡り川沿いにあるシュテーデル美術館に行く。この通りは美術館通りと言われていて沢山のミュージアムが並んでいて私たちのような旅行者にはとても便利な場所である。
シュテーデルはドイツ国内でもかなり立派な美術館である。中世から近代までバランスよく作品を収蔵している。フェルメール、ヤンファンアイク、デューラー、ホルバイン、クラナッハ、ボッティチェリ、フランジェリコ、ティエポロ、ラファエロ、レンブラント、ボッシュ、ルノワール、モネ、マネ、ベックマン、キルヒナーなど。特筆すべきは特別展で謎の多い画家といわれるファン・デル・ウェイデンをやっていたことだ。周辺の画家、ヤン・ファン・アイクなどを同時に配置した素晴らしい展示であった。
その後ドイツコミュニケーション博物館、ドイツ映画博物館(両方とも書き出すと長くなるので詳細省略)を見て、美術館を出たら7時であった。
昨日に引き続きかなり疲労困憊する。
腰の調子が少しおかしい。
以下シュテーデル美術館
ファイニンガー
クレー
キーファー
リヒター
トーマス・バイルレ。バイルレさんは14-5年前になるが特別講師として学校に来て頂いたことがある。
バイルレ
バイルレ
以下ドイツコミュニケーション博物館。ここは「子供の城」(青山)と通信博物館が合体したような内容であった。
以下ドイツ映画博物館
日本にゴジラがあるように、ドイツにはメトロポリスのあの...。
朝、早めに宿を出て電車でダルムシュタットへ向かう。約40分ほど。小雨まじりでかなり寒い。
ここダルムシュタットの工科大学でエル・リシツキーは建築を学んでいる。
彼はサンクトペテルブルクの芸術大学を受験したがユダヤ人という理由で入学できず、ここダルムシュタットに留学したのだった。1909年頃である。彼はここで建築家のヨーゼフ・マリア・オルブリヒに学ぶことになる。
ダルムシュタットの街の中心にある工科大学をさらに丘の方に昇ると、19世紀末から20世紀初頭にダルムシュタット大公ルードウィヒが、ドイツ各地から芸術家を招聘し作った芸術家村がある。それらの中心にいたのがオルブリヒである。この丘の中心はルードウィヒの結婚を記念して作られた結婚記念塔であり、その横に芸術家コロニー美術館がある。周辺にはロシア建築家ベノイの造ったロシア教会、オルブリヒの自邸や彼が設計した住宅、ペーター・ベーレンスによるベーレンスハウスなど、ドイツにおけるアール・ヌーボー様式=ユーゲント・シュティール建築の見本市のような場所である。
リシツキーはここで多感な学生時代を過ごしている。彼は学生時代、電車と自転車で遠くパリにまでエッフェル塔を見にいっており、既に卒業のころはオルビリヒの影響を脱してベーレンスによるユーゲント・シュティール後、つまりモダニズムの影響を受けていたようである。結局1914年に勃発した第一次大戦の混乱の中ロシアに戻る事になるのだが...。
結婚記念塔横の美術館では「ロシア1900」という展覧会が行われていた。図録が大部だったのでDVDを購入した。
本当はダルムシュタットとマインツを一日ずつ訪問しようと考えていたのだが、いつもの「月曜日問題」にぶつかる為、一日で二つの街に行く強行軍となった。
マチルダの丘
ロシア教会
結婚記念塔
塔上からの眺め。
我々が訪ねた時ちょうど結婚式が行われていた。
今回の旅は何故かカメレオンに縁があるようだ。
オルブリヒハウス
ハウス・ダイタース(オルブリヒ)
グリュッケルトハウス(オルブリヒ)
ベーレンスハウス(ベーレンス)
現在のダルムシュタット工科大学。考えてみればリシツキーがいたのは100年前で、そのあいだに第二次大戦もあり、ここダルムシュタットも相当な戦災にあっているからその当時の面影はもう見えないのかもしれない。しかし、それを求めて彷徨う私だった。
ダルムシュタットのマチルダの丘の後、電車で40分程のマインツに移動。
マインツはグーテンベルクミュージアムを訪ねることが目的である。まあローロッパに来てここに来ないと何となく落ち着かないので、何と言うか僕にとっての「お伊勢参り」「富士山登頂」のようなものでしょうか。僕は富士山には登った事はありませんが。
美術館は5時に閉まったため2時間では到底充分ではなかったがまあやむを得ない。外に出ると暗くなっていたがクリスマスの市で街は賑わっている。皆が飲んでいる飲み物を頼んだら「ホットワイン」のようなものだった。
かなり歩き回ったのでくたびれた。
ここは写真撮影ができなかったのでイメージはない。却って良かったかも知れない。写真撮影が可ならば予定を変えて「明日また来る」と言っていたであろう。
マインツのクリスマス・マーケット。各都市ごとに見ているので私たちはクリスマスマーケット評論家になれそうである。
デュッセルドルフを午前中に出てフランクフルトへ向かう。電車で約2時間半。
フランクフルトを拠点にしてマインツとダルムシュタットを訪れるのが今回の目的である。
ホテルは駅の側で、到着して外に出ると雨模様で薄暗い。
街の中心部まで歩き、クリスマスの市を見る。
実はデュッセルドルフでの美術館で最も楽しみにしていたのはクンスト20、K20と呼ばれる州立美術館であった。ここはクレーやピカソなど20世紀美術が充実していることで有名である。しかし何と、今年の4月から来年の秋まで改築の為閉鎖されていた。
うーん...調査不足であった。
残念であるがしょうがない。ここの名作は今日本の名古屋の美術館に行っているようだ。
それでもうひとつの美術館、K21に行った。ここはその名の通り未来志向(?)の現代美術の展示をしているところである。大体1980年以降の作品に絞っているようだった。建物はK20と裏腹にこちらは古い建物を改築したものであった。この改築はとても優れたもので感心した。
また現代美術の展示はこれまで訪れたところの多くが、何故かぞんざいな印象を受け、うんざりさせられることが多いのだがここは違った。ひとつは普通よくあるように大空間に膨大な数を羅列せず(建物が古いせいか)こじんまりした部屋に少しずつ展示している所が落ち着いていてとても良かった。名前の知らない作家幾人か、イリヤ・カバコフ、クリスチアン・ボルタンスキーが特に印象深かった。(作品は撮影禁止なので写真はない)
K21エントランス
途中、クンストアカデミーの横を通る。
その後エーレンホーフ文化センターにある美術館クンストパラストに行く。ここは古典から現代美術までを展示していたが、時々ドイツで見かける時間軸を壊して異なる時代の作品を併置する(ドレスデンの美術館がそうであったが)僕の嫌いなタイプの展示をしており、あまり感心しなかった。ただオットー・ディックスの版画のみの特別展をやっておりこれは、第一次大戦の悲惨さを告発したものでその迫力に圧倒された。もともとオットー・ディックスは好きな作家ではあったがこれによってさらに見方が変わった。これだけでも来て良かったと思ったが、その後ガラス博物館に行って驚いた。この美術館はむしろガラスがメインだったのだと知らされた。エジプトやローマ時代のものからアールヌーボーを経て現代までこんなにガラスが充実した美術館は初めてであった。ガラスをやっている人は必見の美術館だと思う。あまりにも多すぎて時間内に見切れなかったのが残念である。(ここも撮影禁止なので写真はない)
エーレンホーフ文化センター周辺。
クンストパラスト。いくつかの美術館の複合施設らしい(全部は見れなかった)
エントランス。
今日はもうデュッセルドルフ最後の夜となってしまった。
鈴木さんとご家族には何から何までお世話になってしまい本当にありがたかった。
しかも今日は最後の夜ということで、またしても鈴木家でごちそうになってしまった。
つい最近リエカでの食事についてブログにうかつなことを書いてしまい、私たちの貧困な食生活を随分心配して下さったようだ。まったく厚かましい事で恥ずかしくまた申し訳ないと思いつつ、楽しい最後の夜を過ごさせていただいた。
私たちにとって(これまでの苦しくも楽しかった旅の思い出や鈴木さんのデュッセルドルフでのお話を酒の肴に)楽しい忘年会になりました。
ブログはこれから会う方に気を使わせてしまうという問題があることに気づきました。これはある面、どうしようもない問題ですが、少なくともこれからは食生活などに関する弱音ははかないようにがんばります。もう旅も残り少ないのだから。
朝、雨の中6時半に家を出てタクシーでバスセンターへ向かう。
ザグレブ空港からケルン・ボン空港。
ケルンから電車でデュッセルドルフに4時過ぎに無事到着。
デュッセルドルフは知り合いの鈴木さんからぜひ来るようにと誘われていたのだ。
前回のドイツ旅行の際は鈴木さんの日本行きとすれ違いになってしまい、お会いできなかった。
鈴木さんは40年以上前、東京芸大の院を卒業した後すぐに日本を出て、ユーラシア大陸を渡りドイツに向かったのだ。キール滞在を経てここデュッセルドルフにアーティストとして暮らして30年以上になる。
以前日本でお会いした時、色々なお話をしたのだが、その中でデュッセルドルフのアカデミー・クンストで6年勉強されたこと、その理由がかつてここのアカデミーでクレーが教えていたことなどを興味深く伺っていた。またここではボイスやリヒターが学生だったり、教えていたことでも有名である。
そういうわけで僕の中では「デュッセルドルフ=鈴木さん=クレー+現代美術」となっており、是非訪ねたかったのだ。
ホテルに到着後、鈴木さんに電話すると早速車で迎えに来て下さった。
夜は鈴木さんご一家に温かなおもてなしを受けた。鈴木さんの手料理(和食)は全くプロ並みで妻ともども、こちらヨーロッパに来て何と「初めての!」本格的日本料理に感動。
デュッセルドルフは日本人がヨーロッパの中でも最も多い町としても有名だそうだ。日本の食材もかなり手に入るらしくリエカと比べると思わずため息が出てしまう。
ケルン上空。
鈴木家にて。鈴木さん、家内、maiさん、ペトラ夫人と。
maiさんはデザイナー、奥さんは写真家である。
鈴木さんの家にはペットが沢山いた。立派なカメレオンも二匹いてびっくり。
彼の名前はdiegoである。ソボルさんと一緒だ。
14日からのドイツ旅行のスケジュールがほぼ決まる。
自宅でひたすら英文作成。リエカとザグレブでの講義のために既にある30枚か40枚ほどの日本語の原稿を英語に置き換えていく作業。リエカではソボルさんがその英文からクロアチア語に同時通訳してくれる予定である。前にも書いたがソボルさんは翻訳家であり言語に関しては天才的なところがあるので、問題はない。問題は私が自分の考えを未熟であっても正しく彼に伝えられるかにかかっているのだ。ザグレブも含めて講義は来年の予定だが今週末のドイツ旅行の前にまず第一稿を渡さなくてはならない。
この翻訳translationという作業はとても面白く考えさせられる。実際やってることはもちろん大したことではないけれど、ノイラートの言ったtranslaterだとか、ボイスのtranslationという言葉の意味とか、単に右のものを左に持って来るというものではない。
今の僕はいかにシンプルな、基礎的な語彙を用いるかを考えざるを得ない。そうすると同時に元の日本語を添削する作業になる。日本語だと適当に書き流したような文章も1センテンスごとに吟味することになる。そもそも言いたかったことは何なのかを相対化するということ。その結果、日本語では気づかない意味がまた浮かび上がってくる。そこが何とも言えず不思議な感覚である。
造形に関するテキストなのでなおさらのことかも知れないが、身体とか自己とか環境とかをめぐって考えていると、簡単な言葉が哲学的な意味を帯び出したり...。
日本語が自由に話せるということは、ある面では言葉を意識化しないということなので、自由なようでいて実はそうでもないのではないかと思えてきた。
やむを得ずの作業だけれど日本にいては忙しさにかまけて、こんな経験をするチャンスがなかったことを思えば僕にとって「言葉」を考えるとても良い機会である。
10時のヴェネツイア、サンタ・ルチア駅発トリエステ行きの電車に乗る。
トリエステでバスに乗り換え、何事もなくリエカへ。
11月11日パリ行きに始まった今回の約3週間のショートトリップも何とか無事帰還することができた。
私たちの為にマイーダさんが暖房を入れておいてくれたが、思った以上にリエカの夜は底冷えがする。
妻は風邪気味で寝込む。
恐らく旅の心労と疲労のせいであろう。
朝ホテルの中庭にて。
サンタルチア駅前
今日は空港傍のホテルからバスでヴェネツイアのサンタ・ルチア駅近くの宿に移動し一泊する予定であった。
朝テレビのニュースを見ているとヴェネツイアが大浸水している様子が映し出されたいた。
建物のグランドフロア(一階)部分まで完全に水浸しだったのでそもそもホテルがやっているかどうか、大丈夫かと不安になる。
とにかく行って確認するしかない。
私たちがサンタ・ルチア駅近くのローマ広場に着いた10時頃にはかなり水も引いていた。
サンマルコ広場にはなお水が残っていたが駅前は何とか普通に歩ける状態となっていた。
移動したホテルは外見はこじんまりしているが、中に入ると堂々としたヴェネツイアンスタイルで、とても気持ちの良いホテルであった(今はオフシーズンなのでこのようなホテルに泊まることができるのだが)。
荷物をおいてチェックインまで時間があったのでバポレットでムラーノ島まで行ってみる。今年は夏以来二度目である。
曇り空のせいもあって、もう3時には暗くなり始め、4時には夕暮れる。
暗くなってから二つの教会を訪ねる。
スクオーラ・ダルマータ・サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ。スキアヴォーニはダルマチアのことでかつてのクロアチア人の為の教会である。ここにはカルパッチョの連作がある。暗くて見にくいのが難点であるが素晴らしかった。
もうひとつはサンティッシマ・ジョバンニ・エ・パオロ教会。ここはヴェネツイアの中でもかなり壮麗な教会で、ベッリーニの多翼祭壇画、ヴェロネーゼの絵画連作、ヴェロッキオの彫刻等傑作がある。
エジプトのムスリムからカトリックの世界へ。
死海とヴェネツイア、二つの場所を行き来したことに感慨を感じながら...。
道に打ち寄せる海水。
海水が残るサン・マルコ広場
午後4時のカイロ発の飛行機でウイーンを経由して夜9時、ヴェネツイアに到着。
タクシーで空港近くのホテルへ。
飛行機、タクシー、ホテルと当たり前のことが当たり前にスムーズにいくことにこんなに感動するとは...!。
昨日というか日付が替わった今日の夜中にターバを出てカイロには朝の6時過ぎに到着。
車中は異常に寒くほとんど眠れず。途中トラックの複数の追突事故で少し渋滞をした。
宿で眠る。
ヨルダンの旅は短いものの大変素晴らしいものとなった。にもかかわらずやはり旅の最後の最後でだめ押しのようなエジプト的被害にあってしまった。
全く残念であった。
昼間起きたが、外には出ず宿で記録の整理などをする。
明日はエジプト脱出?である。
旅を始めて今日で240日目、私たちのこの長旅全体の3分の2が終わる。
中盤最後の山場であったエジプト行は波乱含みであったが、なんとか無事に終了しそうである。
ホテルにタクシードライバーで案内のジャミールが訪ねて来る。
朝8時半に宿を出て北上、死海を目指す。
ここヨルダンは南北に長い国境をイスラエルと接している。国民の多くはかつてパレスチナ(現イスラエル)に住んでいた人々である。この国境線上に死海もある。
またペトラから死海に向かう岩山が連なるヨルダン高原の途中にはネボ山がある。これはユダヤ民族を率いてエジプトを脱出し、シナイ山で十戒を授かりシナイ半島を横断し40年かかって約束の地カナン(現エルサレム)を目指し、それを目前にしたモーゼが120才で亡くなったといわれる場所である。
この死海までのドライブは視覚的にも大変変化に富み、ペトラのあった高地からはるか向こうにイスラエルの大地を見下ろす地点など忘れられない光景であった。
ヨルダンとイスラエルが上のような地理的、歴史的関係なので行ってみるまではさぞや危険な場所かと思っていた。しかしヨルダンとイスラエルは1994年に平和条約をかわして以降は基本的に平和な関係が続いているらしい。ヨルダンは王国でいわゆるイスラム原理主義ではない。ジャミールは石油もないし貧乏な何もない国と言っていたが天然ガスや鉱物は豊富にあるらしく、また国民性というか僕らが接した多くのヨルダン人はこう言っては何だがエジプトの観光客ずれした人々よりもはるかに好ましい印象を受けた。
5時間ドライブで死海に到着。ヨルダン川沿いの大平原+砂漠(低地)地帯に降りる。この一帯は農業が盛んだという。
死海で2時間程過ごした後それこそ国境沿いの道にそって南下、再びアカバの港を目指す。
ジャミールから途中温泉があるから寄るか?と誘われたが温泉は日本に帰ってからのお楽しみなので断って、そのかわり途中途中好きな所で止まって写真を撮りたいと頼んだ。
夜無事にフェリーでアカバからターバまで到着するもこの旅最後のトラブルが待ち構えていた。
本当ならば港に私たちをカイロまでダイレクトに連れて行ってくれる出迎えが待っているはずであった。
しかしそれが現れず、遅れて現れたドライバーが私たちをヌエバに連れて行きそこから乗り換えてカイロに行ってもらうという。全く遠回りになるのでそれはおかしいと抗議する。
そこからの経緯詳細はばかばかしいので省略するが私たちは3台のミニバスに乗ったり降りたりさせられたあげく夜の何もない港で結局3時間待たされ夜中の12時になって予定通りのルートでカイロに向かうことになったのだった。
あまりにもひどいので私が最後は日本語で怒鳴りまくったことは言うまでもない。
ホテルから見下ろすペトラ渓谷。
ペトラの町
廃墟になっている昔の石と土でできた家屋。
死海とその向こうに広がる「約束の地」パレスチナを見下ろす。
かつて3000年以上前にモーゼ達も同じ光景を見たのだろうか。
低地に降りる。
死海dead sea。
死海で泳いでみた。不思議な体験であった。
中央高い山の右がネボ山。
アカバの港町
朝ダハブの宿にドライバーが迎えに来て1時間程でターバの港へ到着。
ここはアカバ湾を囲むようにエジプト、イスラエル、ヨルダン、サウジアラビアの国境がほとんど接する形で集中しているところである。陸路をイスラエルを通っていけば簡単なのだが、おそらく宗教的、政治的な理由からイスラエルを経由せずにフェリーでヨルダンのアカバ港へ行くルートである。目で見える対岸のアカバまで約40分の航行である。
船上で出入国審査を受けヨルダンに入国。
ヨルダンは50万年前(!)から人類が住み着き1万年前に人類最古の農業が営まれたといわれる場所である。
アカバからツアーバスでヨルダン高原を北上する。周りの客はほとんどがペトラ遺跡を見ての日帰りらしく軽装である。
2時間かけてペトラ遺跡に到着。
ペトラはギリシア語で岩を意味する。ここは紅海に近く砂漠を行き来するキャラバンの中継地点であり昔から中東における要衝の地であった。このあたりには3200年前から人が住み着き、紀元前1世紀には古代ナバテア人の都市として栄えていた。その後ローマの属州となっている。
ヨルダン高原を走る。
霧。まるでストレンジャーザンパラダイス(ジャームッシュ)のような...。
以下ペトラ遺跡。
石畳を敷設したのは当然ローマ人であろう。
朽ちかけてはいるが印象深い彫刻。
岩盤をくり抜いてこういう巨大な円形劇場を造ったのも後から来たローマ人だと思う。
前日書いた理由で、やむを得ずダハブで一日を過ごす。
前日はほとんど寝ておらず、結果的には私たちにとって久々の休養日となった。
ホテルの部屋で朝から昼過ぎまでかかってたまりにたまっていた日記を書き、更新が遅れているブログの為に3日分の写真の整理をする。
これらの作業は結構集中力を要するのだ。
昼間はせっかくなのでビーチで少し泳いで久々の読書。
カイロの宿から持って来た藤沢周平。
しみじみ...。
夕方町まで行ってインターネットカフェでブログを一日分だけ更新。
しかしせっかく書いたテキスト(日記)がいざ更新しようと思ったら全く失われてしまっていたのだった。このソフトは自動保存が勝手に出て来て両方とも保存をかけたにもかかわらずきれいに失われていた。かなりのショック。
もし私たちが自分で探していたら絶対に選択しないであろう(サイードが決めた)ホテル。
結局彼は最後まで私たちの希望を理解してくれなかった。
ここ2-30年の間に世界中のリゾート地に造られたアメリカ資本の自称高級ホテル。
インドネシアのバリにも似たようなのがあったがでかくて青いプールをつくれば客が喜ぶとかたくなに信じているようである。
世界中どこにもある点ではマクドナルドとそっくりだ。
昨晩は結局なかなか寝付けず1~2時間の睡眠の後1時起床。
真夜中の2時に宿を出発する。
同行するのは私たちの宿のオーナーであり、旅行エージェンシーをやっているサイードとドライバーである。前半の旅のトラブルを反省したのかしらないが、オーナー自身が私たちが無事ヨルダン行きのフェリーに乗れるまで付き添うと言って来たのだった。
カイロから1時間ほどでスエズに到着。
スエズ湾のある紅海はアジア、アフリカ、ヨーロッパの交差点である。サイード達はここを渡るとアジアに来たと感じるといった。同じアラビア圏なので私たちからすると不思議な感じがするが彼らには彼らの空間地図があるのだろう。日本人にとって朝鮮半島までの距離が実際よりも遠く感じられるのと同じかもしれない。
長いトンネルでスエズ運河をわたりシナイ半島に上陸。
スエズ湾沿いに南下しシナイ山のふもとの聖カトリーナ修道院へ8時頃到着。
ここは言うまでもないが旧約聖書でモーゼが十戒を神から授かった山である。こちらの名前はガバル・ムーサ、モーセ山という意味である。標高は2285メートル。このふもとにモーゼが聖なる山に入る時に見た燃え尽きない「燃える柴」があったところを中心にできた礼拝堂がセント・カトリーナ修道院である。
ここシナイ半島に来た目的はこれまで間接的知識でしかなかったユダヤ教やキリスト教、イスラム教が実際に誕生した場所に身を置いてみることと、ここカトリーナ修道院にある図書館に行くことであった。
先にここがアジア、アフリカ、ヨーロッパ文明の交差点であったと書いたがそれは、文字の流通という意味においても当然言えることなのだ。
アルファベットの成立もここ紅海と地中海を自由に商活動したフェニキア人によって徐々に形成されていったと言われている。
このカトリーナの図書館は当時、聖書の翻訳センターでもあったのだ。重要な写本は大英博物館にあるとはいえ、ここにもまだ膨大な数の写本が残されている。書庫にはもちろん入れないが展示されているものを今回見ることができた。
写真は不可なので残念だがアルファベット・カリグラフィ=タイポグラフィの歴史書には必ず載っている写本書体のオリジナルを見ることができた。
言語はギリシア語、シリア語、コプト語、ペルシア語、グルジア語、アルメニア語、アムハラ語、教会スラブ語(バシュカ文字!)、アラビア語などである。
その後半島の東、アカバ湾側に出てダハブに到着。ここは1960年代イスラエルが占領していた時代にできたリゾートの町である。ダイビングで有名なところでかのクストーが世界で最も美しいダイビングスポットがある場所と言った所でもある。
昔ダイビングの本を何冊かデザインしたことがあって、その時はフィジーに取材に行ったのだが、たしかに紅海の海はダイバー達のあこがれと書いてあったことを思い出した。
今の僕にはほとんど関係ないけれど。
ここに一泊し、翌日ターバという港からヨルダンに行くつもりであったが、フェリーが欠航になりここで二泊するはめになった。
本当に欠航なのかどうかははなはだあやしいのであるけれども。
スエズ運河で新月を見る。
シナイ半島を南下する。左手には岩山が延々と続く。ここも、サウジアラビアも山が赤く見えることが紅海の名前の由来らしい。
半島を東に折れてシナイ山に到着。
聖カトリーナ修道院
モーゼが見た燃え尽きない柴
モーゼの昇った山
ダハブの海岸沿いのレストランにて。左はドライバーのアルシャミル、サイード。後ろは紅海。
朝バフレイヤの町を少し散歩した後、10時のバスに乗ってカイロに戻る。
途中バスの調子が悪くなり砂漠の真ん中で30分ほど停車。バスのクーラーもとまり車内はサウナ状態に。
一時はどうなることかと思ったが無事カイロまで戻る。
翌日からこの旅最後の冒険、シナイ半島、ヨルダンのペトラと死海行きが控えているので夜はその準備。
早めに眠る。
バフレイヤオアシス
泊まった宿。
朝顔のような...。
危なっかしいテレビ台
朝7時過ぎに宿を出てバスセンターまで車で送ってもらう。
バスセンターから西方(リビア)砂漠にあるオアシス、バフレイヤ行きのバスに乗る。ピラミッドのあるギザを通り巨大なカイロの町の外に広がる砂漠の一本道をひたすら走る。
約5時間半かけてバフレイヤに到着。
ここで昼食をとり4WDのジープ(トヨタのランドクルーザー)に乗り換えさらに南西の白砂漠を目指す。途中ピラミッドの形をした山のある黒砂漠、小さな山全体がクリスタルでできているクリスタルマウンテンを通る。
運転手は夕日までには着いて白砂漠を見せたいからとひたすらオフロードを飛ばす。
日没の30分程前に無事白砂漠に到着。ここはマッシュルーム状の3メートルから10メートルほどの石灰岩の巨石が林立している。地面の石灰岩部分も真っ白である。
そこに沈む夕日は確かに全く美しい。
奇岩ということではトルコのカッパドキアを思い出すが広大な360度の砂漠の中にあるところなど、全く異なる印象だ。あっというまに日は暮れて周囲は瞬く間に暗闇になる。
感動したのは音である。
無音室にいるような不思議な感覚があった。
その後遅れてやってきたグループ、カナダ人、アメリカ人、博多から来た4人娘と合流し砂漠にカーペットとマットを敷いてたき火しながら夕食をとる。博多の4人はばりばりの博多弁で楽しい娘たちだった。二人は4ヶ月の世界旅行中で、そこに友人の二人がエジプトで合流したらしい。
砂漠の満天の星(天の川を視認したのは40年ぶりではないかと思う)を見た後私たちだけ暗闇の砂漠を2時間程走ってバフレイヤの宿に戻る。
ドライバーは「宿はキャンセルOKだから砂漠に泊まれば」と勧めてくれたが、他のメンバーは皆2~30代なので砂漠に毛布で寝ても平気だろうがさすがに私たちは歳なので遠慮した。朝日の中の白砂漠も見てみたかったけれども、これ以上睡眠不足が続くのは後々を考えるとやばいと判断したからでもあった。
砂漠の夜は本当に寒いのだ。
砂漠の中の休憩所
黒砂漠
クリスタルマウンテン
白砂漠に到着
昨晩11時半にルクソール空港を飛び立ち、カイロの宿に戻ったのが夜中の2時近くであった。
朝9時から旅行エージェントとの話し合い。
あまりにもこの前半、言ったこととやることが異なるトラブルが多かったのでしっかり時間をとって説明してもらうためだ。
あまりにも対応が悪い場合は後半すべてキャンセルするつもりでもあった。午前中を全てこれにさいた。
全てに納得できたわけではなかったが、結局はまあ乗りかかった船だし、問題が起こった時のエジプト的対応の仕方も分かってきたので後半もほぼ予定通り旅を続けることになる。
カイロのエージェントの言い分は今までこんなケースはほとんどなかったこと。
問題はアスワンのムハンマドにあったこと。
カイロのエージェントからの抗議でムハンマドは昨日クビになったことなどだ。
「えー?クビ!」僕らがしてほしかったことはそんなことじゃないんですけど...、と思ったりもしたが全くエジプト人(旅行代理店)の行動パターンは理解を超えている。クビにするんじゃなくてちゃんと教育しろと思いましたが、多分そんな風にはなっていないのだろう。
6車線分の道を右3車線、左2車線分車が駐車していて残された1車線を人と車が通る。端の車は多くが廃車であった。
午後やっと世界的にも有名なエジプト考古学博物館にいく。
当然のことだが収蔵品には素晴らしいものが多々ある。
しかし展示のあまりの劣悪さに驚いた。
ライティング、展示方法、解説、部屋の割り振り(導線)全てにおいて良くない。
これは全く信じられないことであった。
ツタンカーメンのマスクのある一帯だけ別の美術館の様にまともになるのだが、それが違和感に拍車をかけている。
皮肉屋のリチャードならば遺物は大英博物館にあったほうが保存の点からも幸せなんじゃないかという冗談を言いそうである。
写真撮影は禁止なので画像はない。
午前中にボートをチェクアウトしていると、アスワンとはまた別のムハンマドが現れて私たちを次のホテルに連れて行くという。この日我々は夜遅くの飛行機でカイロに戻るのでそれまで荷物を置き休息などをするためのデイユースである。
このムハンマドもかなり胡散臭い男であった。
後で分かったことであるが私たちの一連のトラブル続きのアスワン、アブシンベル、ルクソールの旅行を仕切っていたのはどうやらこの男だったのである。この日の時点では我々はそれを知らない。
ホテルのチェックインの後、ルクソール博物館にまずは行きたいと我々が言っているのに土産物屋に連れて行こうとしたり、博物館は小さいから時間なんかかからないと言って食事を誘ったりするのだ。しかも博物館とは反対方向に随分歩かされた。いい加減頭に来てここからは自分達で行動するからあんたは帰っていいときっぱり言った。
ルクソール博物館は展示数こそ少ないものの傑作ぞろいであり、展示の仕方もエジプトの中でも数少ない真っ当なものだった。4時頃、博物館で遅めの昼食をとってホテルに戻る。
ホテルの近くのマーケットの中にインターネットカフェをみかけたので、久方ぶりにメールを確認し一日分だけブログを更新する。ナイルクルーズしている間ネットは全くできなかったのだ。
エジプトでの旅行エージェントとのやりとりにいささか辟易し、殺伐とした気持ちになっているところへK先生から絶妙なタイミングで我々を気遣うメールをいただいていた。妻とふたりそれを見ながら思わず泣きそうになりました。
先生のメールにはジョセフ・アルバースの言葉からの引用があった。
無断ですが以下、引用させてもらいます。
...
芸術とは
はじめに表現があるのではなく、
まず視覚を提示することなのだ。
芸術における視覚とは
洞察力、生命を見抜くこと。
だから芸術とは
対象ではなくて
経験なのだ。
そのことに気づくために
私たちは感受性を磨かなければならぬ。
それゆえ芸術は
そこにあり
そこで芸術は
私たちをとらえる。
...
朝ルクソールに到着。
他の乗客の多くはこの日で下船するらしい。リチャード達ともお別れだ。
私たちは翌日にルクソールをもう一日見るつもりなので、もう一泊する。
午前中にナイル西岸の砂漠に行く。
メムノンの巨像、ハトシェプスト女王葬祭殿、王家の谷、王妃の谷をミニバスで移動しながら見て歩く。さすがに太陽がきつく32~3度くらいにはなっているようだ。夏はとんでもないことだろう。
メムノンの巨像
王妃の谷
ハトシェプスト女王葬祭殿
王家の谷
墓の内部構造。内部は撮影を禁じられているので画像はない。
一旦船にもどり昼食をとって東岸に向かう。
カルナック、アムン大神殿はさすがに時間がかかり、途中で日が暮れてしまった。
次のルクソール神殿に着いた時には真っ暗でここはライトアップされた状態で見るしかなかったのが少し残念である。
真夜中の3時に出発した船は6時ころにコム・オンボ(アラビア語でオリンポスの丘)に到着。朝食の前に神殿を見学。ホルス神とソベク神を祭っているので二重構造になっているところが興味深い。
午後にエドフに停泊。馬車に乗ってホルス神殿へ。
ここは全体的に壁面のレリーフが素晴らしい。その膨大な文字と画像を見ていると建築がひとつの書物(writing space)であることがひしひしと伝わって来る。
以下コム・オンボ神殿
一旦ボートに戻る。ボートからの眺め。古代墳墓。
午後エドフにてホルス神殿を見る。
私たちの乗ったクルーズ船(現地の人はボートと呼んでいた)はアスワンからルクソールまで約200キロを三泊四日かけて、ゆっくり北上する。船は途中遺跡がある町で停泊する。食事は朝昼晩と船でとるので初めての町でどこで食べるかあれこれ心配することもない。移動するホテルだ。船は全く揺れないしエンジンの音も煩くないので大変快適である。
これまでトルコやギリシアの遺跡巡りでハードな移動をしていたことに比べると、すこぶるラクチンである。こんなにラクチンしていいものか?という気持ちになる程だ。
しかし今のエジプトは実際問題としてテロの影響で旅行者が勝手に行動するにはあまりも制限が多いのだ。特にこのあたりはムスリムとコプト教(古くからあるキリスト教)が混在する地域なのでなおさらのようだ。
後になって分かったことだが船が停泊した後の遺跡を見に行くツアーは船のサービスではなくて旅行エージェンシーがその都度手配した現地のガイドが船まで迎えに来るのだ。
だから同じ船に乗っていて同じ場所を見に行く場合でも別々に行動するということが起こる。このあたりがそもそも理解しづらいところである。
船にはフランス人、アメリカ人、イギリス人、オーストラリア人、スイス人、イタリア人などのグループがいてで日本人は私たちだけであった。日本からの団体ツアーはこのタイプのボートとは異なるようである。乗客には遺跡を見ることを主な目的にしているタイプと、一日中船のプールに寝転んで夜騒ぐリゾートタイプとの二つに大きく分かれるようだ。それぞれの行動パターンというかお国柄がはっきり分かれているのが見ていて可笑しい。
私たちはここでイシス神殿で一緒だったイギリス人夫妻と偶然再会し、食事の席も隣合わせたので話をするうちに親しくなった。
夫のリチャードはロンドンで金融証券の会社に勤めており、おとなしい奥さんは今は子育てで休職中だがBBCのドキュメンタリー部門のプロデューサーであった。リチャードは最初は気難しい感じがしたが、エジプトの遺跡の出土品の多くが大英博物館にあるという話をしていた時「英国は貴国(日本)からはお宝をあまり分捕ってないので幸いです」など自虐的なユーモアを好む典型的なイギリス人であった。僕の旅の目的について簡単にしか話してないにもかかわらず、コム・オンボ神殿で僕が撮影に夢中でガイドの説明を聞き漏らしていたら、わざわざ探しに来て壁面に刻まれたエジプトカレンダーについて「これはあなたにとって重要だと思うから」と言ってわざわざガイドにかわって説明してくれるような男だった。
朝10時に再びコンボイを形成してアスワンに戻る。
バスを降りると来ているはずのムハマンドがいない。今日はナイルを下るボートにチェックインし、エドフに向かうはずだった。カイロのエージェンシーに電話をすると別の男が現れてムハマンドの代わりだと言って私たちをボートに案内した。チェックインをしているとムハマンドが現れ、今日ボートは出発せず、明日の明け方3時に出発するという。全く聞かされていた話と異なるのでついに妻が切れる。この旅の予定は彼女がクロアチアにいた時からメールなどでやりとりしながら立てたものだった。ここまであまりにも頻繁に予定と異なる事が続いたのでさすがの妻も頭に来てカイロのエージェントに全てをキャンセルすると強く抗議する。
ムハマンドともう一人の男たちはあわてる。
その後いろいろやりとりがあったが省略。
とにかく旅は進めるしかない。
彼らはその後お詫びにといって私たちをヌビア人の帆船フルーカに乗せたいから来てくれという。こちらはただ当たり前に約束通りのことをして欲しいだけで半分有難迷惑であったがこれもエジプシャンウエイとあきらめフルーカ乗り場に行く。昨日ナイルでフルーカが気持ち良さそうに奔るのを見ていた。しかし今日は全く風がないためエンジン付きのボートになってしまった。アスワンにある中州で最も大きなエレファンティネ島の周りを走る。貸し切りであった。
その後、出発が延びたためヌビア博物館に行く。幸いここは9時まで開いているのだ。
収蔵品も展示もエジプトの中でも突出して良かった。
ヌビア人はアスワンから南にかけて支配していた民族で黒人である。
ローマに関する歴史などにはヌビア人は重要だがあくまでも脇役として(例えば傭兵)登場するが彼らはエレファンティネ島に先史時代から住み着いており大変興味深い文化を持っていたのだということがわかる。彼らが自らをエジプシャンでもなくアフリカンでもなくヌビア人だと言う強い自負があるということも頷ける。
こういった感触は書物では学べないもので、やはりここに来なければ感じられなかったことだと思う。
ヌビア博物館
※
以下は既に一回更新したのであるがソフトの不具合で消えてしまったので再度、更新する。
日にちがずれてしまったのはその為である。
※
列車で簡単な朝食をとり10時半にアスワン到着。カイロから直線距離で600キロ強南方のナイル川沿いである。ムハンマドという男が駅で出迎えてくれ、駅から近くのホテルへ。そこで彼と日程の打ち合わせをし昼食。 ここエジプトでは駅、ホテル、博物館、町中などいたるところにに自動小銃をもった兵士がいてホテル、博物館、遺跡など建物の入り口には空港にあるのと同じX線の壁を通過させられる。イスラム過激派によるテロに対する防備策であろう。列車では私たちのコンパートメントの二つ隣にいた人物が要人か何からしく(見た感じはマフィアのボス風)私服の自動小銃を持った男がその周りをうろうろしているので最初は何事かとびっくりさせられた。 ムハマンドとその旅行エージェンシーにはこの後何度もバスや船での出発時間の変更を突然告げられたり、予定とは異なるホテルに連れて行かれたりと、私たちは混乱させられることになるのだが、彼らやドライバーはそれを軍の命令で安全のためだと説明するのだが本当かどうかはあやしい。 その他諸々、私たちはエジプト的時間、エジプト的お金の計算を少しずつ学ばざるを得なくなって行くのである。(まともな人間もたまにはいるがこれまでの経験上3:7でかなりひどい) トルコも大変だったけどエジプトはトルコ以上だ。
2時から小型バスでアスワン・ダム、アスワン・ハイ・ダム、イシス神殿を見に行く。イギリス人の夫婦と我々4人のツアーで英語のガイドがついた。 ダムは当初、ナイルをコントロールし豊かさをもたらすものとして作られたものだが、結局の所異常気象をもたらし、洪水がなくなった事で農地は現在塩害が深刻になったという。 その後に訪れたイシス神殿、そして明日行く予定のアブ・シンベルも含めて多くの遺跡がこのダムのために水没しているのだ。イシス神殿やアブ・シンベルは移築されたので現在もかろうじて見る事ができるが移築されなかった遺跡は今もナセル湖の湖底に沈んでいる。 イシス神殿も本来の聖なる島から移動して現在のアギルキア島にある。 詳述は避けるがこの移築が良かったのかどうかははなはだ疑わしいと感じた。本来あった場所と構築物の関係はおそらく絶対的なものだったと思う。現代技術の粋を尽くして移築したことを自慢げに語っているのを見ると強い違和感を覚えざるを得ない。ここには典型的な近代技術への過信がある。移動してしまったら本来あった最も重要な何かが失われることに現代人はあまりにも無神経だ。言っても詮無い事だけれど。 でも正直に言うとその落胆の方が感動を実は上回っていたことも事実なのだ。 そんなことはありえないかもしれないが何百年か後に未来の人間がダムを元の川に戻すまで遺跡はそのまま湖底で眠っていた方が良かったのではないかという夢想に駆られてしまった。 ともあれこのイシス神殿はエジプト王朝末期からローマ時代、初期キリスト教(コプト教)にかけての遺構が混在している場所である。
アスワンハイダム
ダムによってできた巨大なナセル湖
普通イメージする垂直に切り立ったダムではない。
下流のアスワンダム
ボートでアギルキア島にわたる。
ナイルに戻る。
夜中の2時に起きて3時30分発の小型バスでアブ・シンベルに向かう。アブ・シンベルはアスワンから280キロ南でエジプト最南端の地点。スーダンの国境はすぐ近くである。アスワン・ハイ・ダムによってできたナセル湖のほとりにある。
ここに行くのは前後を軍の兵隊が乗ったバスにはさまれて全ての自動車がコンボイを組んで移動する。勝手な移動は許されないらしい。その多くは大型の観光バスで全部合わせると4~50台くらいか。エジプトは今冬で観光のハイシーズンである。
途中砂漠に昇る朝日を見る。
約3時間半後、8時前にアブシンベルに到着。多くの観光客はここで2時間程見学した後同じバスでアスワンへ戻るようだ。私たちはここで一泊する予定なのでまずはホテルに移動。
当初聞いていたホテルと全く異なるところに連れて行かれるトラブルが発生。カイロとアスワンのエージェンシーと電話のやりとり、交渉、再移動に2時間近く時間を消費。
ムハマッドやムスタファやアミーゴや訳の分からん人間が電話をかけてきてそれぞれ異なる事をエジプシャンイングリッシュで言う始末でこちらも大変消耗する。言うべき事をかなりはっきりしつこく言わないと彼らは動いてくれない。エジプシャンウエイオブライフ?やれやれ。
当初予定のホテルに荷物を置いてアブシンベルに向かえたのはやっと11時近く。
ゆっくり見学する。
ここでの感想は昨日のイシス神殿での印象と同様なので省略。
大神殿の内部は写真が禁じられていたので画像はない。
小神殿
小神殿内部
奥が至聖所
一旦ホテルにもどり昼食をとって仮眠。昨晩ほとんど寝ていないので。
夕方5時半にホテルを出て再びアブシンベルへ。ホテルからアブシンベルの神殿まで歩いて10分くらいなので今度も歩いて行こうとしたら今度はエージェンシーが車で送り迎えするという。全くあってもなくてもよいサービスなのだがホテルの手違いを詫びる気持ちでそうしているのかどうかもよく理解できず。ライトアップされたアブシンベルと音と光のショーを見る。約30分暗闇の中ふたつの神殿が築かれた人工の岩山をスクリーンにしてユネスコによる移築の経緯から始まって、この神殿を作ったラムセス二世とエジプトの歴史が詩的な台詞と音楽とともにスライドで投影される。
ちなみにこの神殿は19世紀末にイタリア人によって発見されたもので1960年代のユネスコの移築キャンペーンで世界的に有名になったもの。
移築に関する違和感は一昨日書いたので省略。
その後ライトアップされた神殿を再び見てホテルにもどる。
私たちが滞在している場所はナセル駅のそばでカイロの新市街の中心部にある。
朝7時からタクシーをチャーターしてピラミッド巡りをする。まず最初にカイロから西に14キロ、ギザにあるクフ王、カフラー王、メンカウラー王の三つのピラミッドを見る。クフ王のピラミッドでは内部見学。その後同じエリアにあるスフィンクス。ちなみにクフ王のピラミッドは約4550年前のもの、エジプトの初期王朝の成立は約5000年前。
ギザの南へ約10キロ移動しサッカーラ地域のピラミッド群へ。ここはカイロのピラミッド群の中でも最も興味深い場所であった。最も古い(4650年前)ジョセル王のピラミッドコンプレックス(ピラミッド+複合施設)は階段状ピラミッドであり、周壁で囲まれた敷地の中にピラミッドとセド祭殿などの遺構の複合した空間が良く残っている所。ウナス王のピラミッドは内部にピラミッドテキストと呼ばれる貴重なヒエログリフが残っている事で有名であるが残念ながら内部には入れない。外側からはかなり崩れかかったように見える。その後イムホテプ博物館へ。これは階段ピラミッドを設計した建築家でありジョセル王の当時の宰相でもあったイムホテプを記念したもの。入場したものの停電らしく真っ暗闇の中、持参した懐中電灯で展示物を見るはめになった。20分程して回復。
写真はイムホテプ博物館が先になってしまった。
その後少し南下してメンフィスへ。ここは古王国時代の首都である。現在はそのイメージはない。横たわった全長15メートルのラメセス2世像と美しいスフィンクスがある。
美しいスフィンクス
その後遅めの昼食をとってカイロに戻る。
夜、地下鉄でギザ駅まで行き、8時45分発のルクソール経由、アスワン行きの夜行列車に乗り込む。これは鉄道マニアの人がわざわざこれに乗る為にエジプトを訪れるほどだと聞かされ、当初飛行機の予定を変更したもの。老朽化した列車ではあるが二人ずつのコンパートメントになっており確かに悪くない。夕食、朝食は部屋まで運んでくれる。
これまで夜行列車、夜行バスで碌な目に会って来なかったがこの夜行列車は初めて良いと思った。
午前中10時発の飛行機でカイロへ。3時間強のフライトである。さすがに遠い。
時差が1時間減る。日本とは7時間となる。
空港で待っていたドライバーの車で宿へ向かう。空港から1時間程。
トルコ以来再びアジア的な、あの喧噪、あのカオスの世界に突入したと最初に実感させられるのは、暑さ、スモッグ、車の乱暴な運転である。
車の運転は全く無茶苦茶である。車線や交通ルールなどなきに等しい感じ。信号はおろか横断歩道がほとんどない。交差点にはいたるところに警察官がいるが全く何をしているか不明である。
まあ今回のこのドライバーはその中でもよりクレージーなやつだったらしいが。
カイロの人口は1200万人。
宿について日程について色々相談した後、夕食に出る。
昨日書いた理由でこの日はフリーになったので前回、夏に来た時疲れ果てて入らなかった科学技術博物館に行く。夏同行していた息子が後から「お父さん、あそこは見るべきだよ」と言ったところである。
確かにミュンヘンのあの博物館に比べれば展示数は少ないものの、ここウイーンの科学技術館も大変レヴェルの高いものだった。詳述しだすときりがないが、例えばミュンヘンと比べると数が少ない分厳選しているということが言える。その分見やすい、理解しやすいということ。
展示、ディスプレイが大変優れている。
そして極めつけはやっとここにきてノイラートに触れた展示が見れたことである。
ノイラートの扱いが充分かといえば全くそうではないが、都市の諸問題について触れたコーナーにあったことだけでもかなりましな方だと思う。また残念ながらノイラートに関する説明文はありきたりというか特別目新しいものはなかった。「自国人なんだからもっと突っ込んだ紹介せんかい」と思いました。大きなお世話だろうけど。
しかし謙虚に考えればトータルなヴィジュアルコミュニケーションに対する意識はこちらの方がやっぱり大人だなとも思いました。
歴史の厚みは必要なのだ。
宿からの眺め
科学技術博物館
ディファレンス・エンジン!
ふたりのオットー、ワグナーとノイラートの接点も調べる必要あり。
その後ウイーンの町を散策。ステファン寺院、オペラ座、新市庁舎など。新市庁舎ではクリスマスシーズンの前夜ということで飾り付けができていた。
ホテルで翌日からの準備。
朝10時、地下鉄に乗ってアンヴァリッドへ。
エアーフランスのビルがありそこのカフェで朝食。
ここからオルリー空港へのシャトルバスに乗る。
パリからウイーンへの飛行時間は2時間。
ウイーン空港からシャトルバスでウイーン南駅まで約30分。
4時過ぎだが雨のせいで外はほとんど真っ暗である。駅傍のホテルに無事到着。
夜10時、リエカから列車でやってきた妻を駅に迎えに行く。
今回、今日明日とエジプト出発までウイーンでわざわざ二泊予定したのはまさかの列車の遅延、飛行機の搭乗トラブルに備えてのことだったが、二人とも無事到着で何より。
午前中、末松君とポンピドーに行き駆け足で見て回る。
作品は知っていたがどんな人か未知のジャック・ヴィレグル(Jacques Villeglê)の展覧会をやっていた。
これが大変素晴らしい。
また「パリの未来派」展もやっていて、これもさすがポンピドーという感じのセレクションでとんでもなく面白かった。
その他常設展は本当に駆け足になる。
マドレーヌ教会
ポンピドーそばの公共自転車。このシステムはウイーンにもあった。
ポンピドーからの眺め
ジャック・ヴィレグル
2時からルーブルのピラミッドの地下でパリフォトがスタートする。
パリフォトには世界の写真専門のギャラリーが出品する一種の写真の見本市のようなものだ。
例えば150年前のニエプスやマーガレット・キャメロンなどの古いオリジナルプリントから今日の写真の動向までランダムではあるが様々な状況を見る事ができて面白い。特に今年は日本特集の年で若手が紹介されていた。
日本のビッグネーム(木村伊兵衛以降)の作家は日本特集とは無関係にアメリカやフランスなどのギャラリーから出品されている。
写真に関しては1992-3年の頃、大島さんと「写真装置」復刊を目指していた頃まではかなり関心を持って見ていたがここ10年程、自分の領域の仕事に追われていたこともありあまり関心を払ってなかった。
ここ数年の貧血気味?の写真の流行にあまり関心が持てなかったこともある。
今回そういった経緯も含めて、これだけ集中的に大量のオリジナルプリントを新旧取り混ぜてみる事ができたのは良かったと思う。
自分の中の写真史の再構築、再確認の機会となった。例えば二十歳の頃自分がいかに石元泰博さんの「シカゴ、シカゴ」に影響を受けていたか、そしてそれがいかに今日まで続いているかなど。
他思う所たくさんあるけれども省略。
会場では何人かの作家やキュレーターの方とも出会えた。パリで作家活動をしているオノデラ、アキ・ルミ夫妻など。アキ・ルミ氏は昔クロアチアを放浪しザダールに一時住んでいたということで興味深い話も聞けた。3月に再びパリを訪れる予定なのでまたその時にゆっくり話がきければと思う。
また前回アムステルダムで触れたまーさんが会場にいて久しぶりに会えて話ができたことも偶然の幸運であった。まーさんは3つの欧米のギャラリーから作品が出品されていた。
時間が経つにつれ会場は人で溢れかえり、7時からまーさんがインスタレーションのパフォーマンスを行うということだが、昨日お会いした十文字さんの展覧会を今日中に見る必要もあり、残念であったが7時前に会場を出てマレ地区にあるイイヅカさんの画廊T.A.F.へ。
十文字さんは初めての個展ということなので当然レトロスペクティブな展示も行っているだろうと思っていたのだが、何とほとんど新作だったのには驚かされた。
前向きな作家の強い意志を感じ、感銘を受けた。
T.A.F.
末松君が「いやあ、こうしてこの年になってユーサクとパリの町を歩き回るとはなあ」と言っていたがそれは俺も同感だよ。
リエカから6時のバスでザグレブへ行きバスセンターで乗り継いで空港に9時過ぎに到着。
ここからハンガリアン航空でブタペスト経由、パリ行きの飛行機に乗るべくチケットををインターネット予約していた。しかし何が問題なのか現時点で不明であるがとにかく「あなたのチケットは昨日キャンセルされている」と言われチケットが発行されない!。
今更電車では到底今日中にはパリに行き着けない。
やむを得ず、ハンガリアン、ルフトハンザ、エアフランス(この3社しかない)の窓口で当日券があるのかどうかを聞く。元々予約したはずのハンガリアン航空はビジネスの往復券しかなく(片道は売ってくれない)、ルフトハンザはミュンヘン乗り換えルートがあり、エアフランスは一つだけ席が空いていた。皆ほぼ同じ値段(正規運賃)で当初予約した運賃の4倍!である。目眩がした。
一瞬、もうパリ行きは諦めてリエカに戻ろうかという考えが頭をよぎったが友達との約束をすっぽかすわけにはいかない。エアフランスの直行便で行く事に。
パリでは無事、友人末松君(普段はお互いファーストネームを呼び捨てにしてるがここでは名字を書くことにする)に空港で会う事ができた。
高速近郊鉄道でパリ市内に入る。地下鉄を乗り換えてマドレーヌへ。
宿はお互い歩いても行き来できる距離である。
荷物を置いた後、末松君の知り合いで主にウエブデザインの仕事をしている市田さん夫婦のアトリエを訪ねる。市田さんはもう10年近くパリで仕事をしている。近く永住権ももらえるらしく、超有名な某化粧品会社のウエブサイトのデザインなどをしていることからも彼が特殊な技能を持っている事がわかる。この後パリ滞在中はご夫妻には本当にお世話になりました。
夜、市田夫妻らとともに、パリフォト関係者と夕食。パリで画廊をやられているイイヅカさん夫妻、ちょうど今その画廊で個展をされている写真家の十文字美信さん、最近十文字さんが出された作品集の編集者の鎌田さん...その他の方々総勢10名以上のにぎやかな食事となる。信じられない事だが十文字さんはカメラ会社のギャラリーを除いてこれまで個展をしたことがなく今回が初めてとのことだった。明日訪ねる予定である。
また某女優さんも来ていた。太宰原作の映画に出たばかりだと言っていた。(かなり有名らしいが僕は知らなかった)彼女の出演作の話題から永井豪の漫画論の話になる。
今日は日曜日。
食料など日常品の買い出しに行かねばならない。
昼過ぎにいつものように荷物を運ぶためのキャリーバッグをごろごろ転がしながら
30分くらいのところにあるスーパーにのんびり向かう。
1時頃そこに我々が到着したとたんに店内の電気が消える。
いったい何事か、と思っているとこれで閉店なのだと知らされる。
「えーっ、何で日曜日のこの時間に閉店なの。今日は祭日でもないでしょう」
とか思っても始まらない。
これがクロアチア生活なのだ。
あきらめてそこからさらに2~30分かけて丘をおりてセンタービルにある大型スーパーで買い物を済ます。
荷物が重いので帰りはバスを二つ乗り継いで帰宅。
タクシーを拾いたくてもここには「流しのタクシー」というものがない。
日常の何ということのない買い物がここでは半日仕事となる。
アントワーヌ・ポンペ設計 ファン・ネック博士の診療所
今はダンス、音楽スクール
途中寄り道。
以前ここにも書いたが大学時代からの友人、菅谷君と奥さんのあやさん(ふたりともムサビの同期であやさんはグラフィック・デザイナー)が何かあった時のためにとブリュッセルの知人の連絡先を紹介してくれていた。
今回の荷物紛失事件で図らずもそのUさんと電話で話すことになった(電話が繋がった時には事件は解決していたのだが)。その折、カメラマンである旦那さんが今、展覧会をやっていると伺ったのでこれも何かの縁と思い尋ねることに。オルタ美術館の近くである。かなり大きなギャラリー。写真とハイヴジョン映像によるアフガンのドキュメンタリーで内容は大変ハード、質の高い作品群であった。
ヴェルデ設計 オトレ邸
ポール・アンカール設計 シャンベルラーニ邸
アルベルト・ロー設計 メゾン・ペルソネル
オルタ設計 ホテル・タッセル
道すがら。
旧オルタ自邸 オルタ美術館
外部に比べて内部は圧倒的な迫力がある。この時代にのみ奇跡的に実現したと思わせるような。
撮影は不可だったので以下はイメージである。
ホテル・ソルベ
その後、かなり離れているのでトラムに乗ってヨーゼフ・ホフマン設計 ストックレー邸へ。
夕方、トラムで旧市街に戻る。証券取引所。
アール・ヌーボーの意匠を残すカフェ・ファルスタッフで夕食
王立美術館は15世紀から18世紀にかけてのフランドル派絵画の宝庫であり、また19世紀末から20世紀前半にかけてのコレクションもすばらしい。
オランダの静物画、ルーベンス、ダヴィッド「マラーの死」、ボッシュ、ブリューゲル「イカロスの墜落」、クラナッハ、メムリンク、ゴーギャン、スーラ、クノップフ、カルダー、アンソール、マグリット、デルボー、キリコ、エルンスト等等。美術館全体の雰囲気も大変ゴージャス?な感じである。
ベルギー・バンド・デシネ・センターはその建築がアール・ヌーボーの巨匠、ヴィクト
ール・オルタによるものである。(元はデパート)
フランス語に翻訳された日本の漫画も見ることができる。
タンタン
タンタンの登場人物相関図
この後、昨日荷物が届かなかったので最悪の場合(当分届かないか、紛失)を覚悟し、必要最低限の衣類などを買いに行くことにする。(着るものがほとんどないのだ)
はじめはガイドブックにあるデパートに行ったのだが靴下が一つで2500円くらいするので、「ふざけるな」と思い町を歩いて勘で探すことに。ベルギーのユニクロのようなところを探して(ユニクロよりも4倍くらい高いが)を見つけてなんとか購入。
でホテルに戻ると
なんと!荷物が戻って来ていた。
買い物は無駄となった。まあ得てしてこういう間が悪い時はこんなもんだよねと妻とため息。
後で電話で話をしたベルギー在住の方に話を聞くとベルギー空港は一日で100個荷物がなくなっているとのこと。
シンジラレナイ。
それで今回アリタリア航空倒産ショック(イタリアの国営にもかかわらず!)の混乱もあるのではないかとのこと。
2日で荷物が戻って来た僕らは幸運だったということらしい。
いや、本当に「やれやれ」ですわ。
しかし今後の最悪の場合を想定して日程を若干変更。
予定よりも一日早く、今日はゲントに行くことにした。
バーフ大聖堂
東フランドルの中心地、ゲントはブリュッセルの西にありICで40分の距離である。
訪問の目的はバーフ大聖堂にあるヤン・ファン・アイク作「ゲント祭壇画」通称「神秘の仔羊」を見ることにある。これは油絵の具による絵画史上最高の部類に入ることはまちがいない。これはヤンの兄、フーベルトとの共作であるがフーベルトは謎の人物でほとんど知られていない。ヤンには他にも傑作が残されているがフーベルトはこの一点のみである。
今日一日この絵一点だけだとしても充分以上だと思える程の傑作であった。
聖バーフ教会も建築、装飾、空間ともにかなり素晴らしい。
地下にある博物館も想像以上に充実していた。
写真は当然撮れないのでこれはイメージです。
その後繊維ホールにある鐘楼に昇る。
鐘楼の巨大なオルゴール。
町の中心を流れるレイエ川にそって、中世からギルドによって栄えた町並み、市場を見、フランドル伯居城まで歩く。
大肉市場内部
フランドル伯居城
ゲントのデザインミュージアムを偶然見つけたが時間がなく入れなかった。
その後駅に歩いて戻る途中、1936年に建てられたアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデのゲント大学図書館を見る。正面に見えるのが図書館の高層部。
最後は駅の近くにあるゲント美術館へ。
この美術館も展示空間、展示物ともに豊かである。
ボッシュ、アンソール、クノップフ、マグリットなどを見る。
しかし特筆すべきは特別展で何とピラネージの大展覧会をやっていたことだった。
まるで長旅をする私の為に用意されたような展覧会であった。ローマを巡りながらずっと「帰国したらピラネージをちゃんと見なきゃ」と密かに思い続けていたのだ。
ここでも何度か書いたがローマ人がローマに気づいた最初の人々の中に確実にピラネージはいたのだ。
これだけまとまったオリジナル(といっても大半は銅版画であるけれど)ピラネージを見ることはもうないのではないかと思う。
ピラネージ
「神秘の仔羊」といい、ピラネージといい至福の一日となった。
しかしこの日、失われた荷物は届けられなかった。
3時発の飛行機でベルギーのブリュッセルへ。約2時間の飛行である。
空港で大トラブルが発生。
なんと預けた二つの荷物のうちの一つが出てこない。これで空港に1時間以上足止めをくらう。
「多分、ローマで荷物が飛行機にちゃんと載せられていないのだろう、遅れて到着したらホテルまで運ぶから明日まで待て」という説明なので一応、明日を待つことにする。
そのバッグの中身はほとんどが衣類で、本当の貴重品は入ってなかったのは不幸中の幸いであった。
ブリュッセルはさすがに寒くしかも小糠雨である。
ホテルにチェックインした後、もう7時半になっていたが、とにかく元気を出してグラン・プラスまで散策し途中夕食をとる。
明日、荷物がちゃんと届くことを祈ろう。
フィウミチーノ空港
雨でしかも肌寒く、傷心のブリュッセル第一日目となった。
グラン・プラス
この街も24年ぶりである。
一緒にいる間は別にどうということもないのだが、いなくなると急に寂しくなるものですね。
午後からはローマから東30kmのところにあるティボリという街へ行く。
ここは山の上にできた古い街である。
ティボリからの眺め。
ティボリの街よりもはるか昔、ふもとにヴィラ・アドリーナというローマ皇帝ハドリアヌスの別荘が作られた。今回はそこが目的地である。
ハドリアヌスはローマがまだ質実剛健だった時代の皇帝であり、ローマがもっとも広大に世界を支配した時代の人である。戦争と領土視察に明け暮れた人だが、とても広大な敷地にかつて自分が見た建築や景観(ギリシアやエジプトなど)を再現しようとこの別荘の建築を始めている。
復元模型
哲学者の間、読書室だったらしい。
島のヴイラ(海の劇場)
彩色回廊。ここは柱廊に囲まれていた。
右上側が彩色回廊
小浴場
大浴場
博物館
カノプスと呼ばれる池と神殿
ニンフェウム(セラーピスの神殿)
倉庫、商店、兵舎
大浴場内側
養殖池と消防士の宿舎
ドーリス式付柱の門
皇帝の宮殿からティボリの丘を見る。
皇帝専用図書館。この他にギリシア語図書館、ラテン語図書館が別にある。
皇帝の食堂
皇帝のテラスからの眺め。
いかにもいわくありげなボルジアの階段を通って、トラヤヌスのマーケットに入る。この遺跡はトラヤヌスの記念柱、トラヤヌスのフォロ(広場)と近接し幸運にもかなりよく保存修復されたところである。遺跡の中に作られた博物館も大変よく設計されていると思う。
トラヤヌスのフォロ(広場)、トラヤヌスの記念柱
その後昼食をはさんで、フォロ・ロマーノへ。前回ここは上から眺めただけなので、今回はゆっくり歩きながら見た。
これ程の巨大な遺構の上(中?)に暮らしながらローマ人自身が19世紀の考古学的発掘がなされるまで、このローマの中心を忘れ去っていたとは本当に信じ難いことである。
エミリアのバジリカ
クーリア(元老院)
セヴェルスの凱旋門
サトゥルノの神殿
ユリウスのバジリカ
アントニヌスとファウスティーナの神殿、後世に作られた後ろの教会はなんとも無粋である。
マクセンティウスの巨大なバジリカ
その後パラティーノの丘に昇る。ここは二度目となるので写真は省略。
フォロ・ロマーノを再び通ってコロッセオに入る。前回来た時に工事中だった闘技場の床の部分的な再現がほぼ完成していた。
その後バスでサンタ・マリア・マッジョーレ教会に行く。
かなりハードに歩き回った一日であった。
息子のヨーロッパ滞在も今日までである。明日は飛行機で帰国する。
地下鉄のフラミニオ駅そばで夕食をとりトラムに乗ってサッカー・スタジアムへ。約20分ほど。
ローマ対レッジーナの試合は3対0でローマの勝ちであった。
港町スプリットの旧市街は、かつてのローマ皇帝ディオクレティアヌス(ローマ帝政後期)が隠居するために作った宮殿が中世以降そのまま街となったところで、城壁に囲まれ内側は215メートルから180メートルのこじんまりとした空間である。(その成り立ちのユニークさから世界遺産となった)
私たちは着いてすぐにこの街が気に入った。
理由はこの街のベースがキリスト教以降ではなく、それよりも以前にある点だと思う。
ローマ時代の遺構はかなり破壊され、あるいはかなりの部分が中世以降の建築物に覆われているものの、古代の雰囲気が充分残っていることによる。
クロアチアの一都市というよりもあきらかに地中海のギリシア人による植民都市的な印象が強く感じられる。
むしろ地形、自然ともにトルコの西南岸、ギリシアのポリスを彷彿とさせる。
宿は旧市街つまり宮殿内にあったので荷物を置き、早速迷路のような宮殿内を散策。
大聖堂(ディオクレティアヌスの霊廟)、宮殿の地下(イスタンブールの地下宮殿ほどではないにせよ、ここもかなりの規模でありしかもしっかり残っている。)、その後夜の9時まで開いている市立博物館へ。
プリトヴィッツェ、バス停そば。
やっぱりこの風景はギリシア、トルコを思い出させます。
ここからスプリット。
ディオクレティアヌスの宮殿
地下宮殿の一部。ショップになっている。
宮殿復元図。約1700年前
以下地下宮殿
大聖堂(ディオクレティアヌスの霊廟)と鐘楼。
鐘楼の鐘
鐘楼からの眺め
大聖堂内にある宝物庫
大聖堂内部は素晴らしい構造体であるが撮影不許可なので天井のみ。
礼拝室天井
ここから宮殿内にある市立博物館
宮殿、城壁
港。
10数年前のユーゴスラヴィアからの独立戦争の影響がまだ残っているせいなのかよくは分からない。
今回行くプリトヴィッツェもその戦場となった世界遺産であり危機リストにも加えられていた。途中、廃墟になった住宅がいまだに痛々しく残っている。
この国立自然公園は約400メートルの高低差の中に(階段状に)大小16の湖があり、それらを92カ所の滝が結んでいるのだ。途中、ボートとエコロジーバスを利用するが約7時間のハイキングである。
ここはバルカン半島の内陸部に位置するため、いきなり気温は10度以下となった。日本で言えば12月の気候、時折雨がぱらぱらと降るあいにくの天気であったものの湖は大変美しく変化に富み見応えがあった。
湖のそばのムキエネ村の宿に泊まる。
夕食には大きな川魚が出た。
内戦の傷跡
終日、明日からの旅の支度。
息子のリエカでの滞在もこの日で最後となる。
日本では何の問題もない簡単な料理でもいざここでやるとなると種々細かい問題が発生しそれなりに大変である。(妻はこの夏帰国したおりそれなりの食材を買って来てくれたのだが)前にも書いたが水の味の違いや、お米の違い、魚の匂いや新鮮度、みりんや酢等の調味料、すべてにわたって日本との微妙な違いがどうしても気になる。日本では当たり前のことが実行できないと何か重大な問題のように感じるのだ。
結局はソボルさん達はそもそも日本に来たことがないのだし、その違いはどっちみちわからないのだからあまり気にするのはやめようという(アバウトな)結論に達したのだが。
市場
マーケットに行く途中
歩いて30分くらいのところにあるマーケット。
ユーリッチさんは実は大型船の設計者でユーゴスラビア時代、しょっちゅうロシアに行って船を造る仕事をしていたらしい。ソボルさんは前にも書いたがプラハのロシアンスクールの卒業だし、僕がリシツキーの研究をしていることを知っているマイーダさんはあなた達はまるでロシアン・マフィア、KGBねと冗談を言っていた。それならば僕の弟の方が筋金入りだという話にもなった。(弟はロシアー日本史が専門で嫁さんがロシア人なので)マイーダさん驚いていた。
ダリンカさんは寡黙な人なのだが(私たちがお互いしゃべれないからかもしれないが)とてもしっかりしたお母さんという印象。夫のユーリッチさんはのんびりしたというか、とても大らかな優しい(何と形容したらいいのかわからないのだが)人で何とも言えない素晴らしい人柄を醸し出す。
いろいろ話を聞けたのだけど、私たちが住んでるこの家について。
2〜30年前ここトルサットは人が住んでなくて馬が放牧されていたようなところだったらしい。(今は高級住宅地になっているけれども)そのころここに土地を買ってユーリッチ夫妻は自分たちの家具製作をする工房を作ったのだと。
それが今私たちの住んでいる家の一階部分であったと。この家もそれから少しずつ手作りで現在の三階建てのものになったということが分かった。基本的には手作りなのである。
以前話したユーリッチさんの船もそうだが、実はどんなすごいデザインにもまして彼らのそのような自分たちの環境を手作りで作っていく感覚に僕は強い影響というか感銘を受けているように思う。日本でもそのような人は何人か知っているが、社会全体からみれば本当に廃れてしまっている。
ここクロアチアは社会システムからいえばいろいろ問題もあって、住んでいると不満も沢山あるのだけれど、自分の住む家は自分で作るの当たり前という感覚とそれを金と他人に迷うことなく任せるという感覚の違いは大きいですね。
モノツクリの人間としてはこのことは深く考えさせられます。
http://mutoh.imrf.or.jp/
朝から荷物の整理、壊れたカメラからのデータ救出、メールの送信、たまったブログの更新等で一日過ごす。
息子はこれから一週間程ここに滞在する予定である。
今日は妻と近所のトルサット城や街を散策に出た。
我が家にはもう一人息子がいるのだが、昨年の夏からプロ棋士になったのでお兄ちゃんよりも早く社会人になっている。
私たち親にとって全く未知の世界にいる。
今回の旅も短期間でも来るか?と誘ってはみたものの、全く関心を示さず、またそれどころじゃないということで来ない。
ちょうど今回私たちが旅している同時期には、中国の杭州という所に行って碁を打っている。
滞在期間中、9日間朝から晩まで囲碁を打ち、一日だけ観光日があるそうな。
私も妻も囲碁はほとんどわからない。
この夏妻が一時帰国したおり、クロアチアで暇なおり二人で囲碁の勉強をしようと簡便な囲碁盤を持って来てくれた。
やる時間があるかどうかわからないけれども。
彼は私が何を撮りたいか理解しているのでディレクターとカメラマンは阿吽の関係です。「見る」だけに専念することがこんなに楽なんて。
カメレオン・プロジェクト・メンバーに捧ぐ-1
ここにある一連のオーム貝の化石の美しさには息をのんだ。
この博物館がすごいのはこの再現実証映像(一万年前の石像を一万年前の技術で再現する)である。
説得力満点である。
ドイツとはまた異なった模型のセンスである。
カメレオン・プロジェクト・メンバーに捧ぐ-2
http://chameleon.musabi.ac.jp/
博物館でお茶休憩の後、シェーンブルン宮殿へ。室内を見た後公園を散策。
宮殿内にある温室。ロンドンのキューガーデンに匹敵する。
ここで博物館での激写がたたって(?)息子の携帯の充電がきれる。
このあとトラムで産業技術博物館へ向かう。閉館まで一時間ちょっと前。僕は疲れ果て入館しなかったが息子は入館する。僕はエントランスでメモなどをとる。博物館から出て来た息子が興奮した面持ちで「お父さん、ここ見なきゃ駄目だよ!」とその素晴らしさをまくしたてる。
またウイーンには来るのでその時再訪しようと思う。
一旦ホテルに戻り20分程携帯の充電をし、地下鉄で5駅程離れているフンダートヴァッサーの「ゴミ焼却場」へ向かう。
焼却場隣りの建物
夜遅くお店も開いてないのでケバブ屋でサンドウイッチなどを買ってホテルで夕食。
夜大雨。暑い一日だった。
息子と合流しレオポルド美術館へ。ここはエゴンシーレ、クリムト、ココシュカが中心。途中オーストリア19世紀絵画のコーナーがあるがそれはかなり他と比べてレベルが落ちる。
そこに時間をとられすぎて最後のシーレが閉館のため駆け足になってしまったのが大変惜しまれる。圧倒的にシーレは良かった。
フンダートヴァッサーの建築を見る為にトラムを二本乗り継いで移動。途中郵便局の外観、ドナウ川を見る。
大田君から「先生は嫌いかもしれませんが(笑)」と紹介してもらったフンダートヴァッサーハウス。特に嫌いじゃありません。むしろなかなか興味深かったです。ウイーンの街におけるコントラストに何とも言えないものがありますね。
異和しているようだけど、逆に最もウイーン的な感じがします。
似ていないけどハンスホラインも同様ですね。
数分歩いて同じくフンダートヴァッサーのクンストハウスウイーン。
閉館時間だったので中には入れない。
傍で夕食(息子はでかいシュニッツェル、僕はスープとパンとビール)をとり帰宅。
しょうがないのでその駅で顔を洗い、次の列車に乗る。
結局リンツに到着したのは7時過ぎとなった。
リンツ、ドナウ川
駅で朝食をすませ、駅から少し遠いホテルに荷物を預ける。ブルックナーハウスでイヴェントを見る為あらかじめ予約しておいたワンデイチケットを発行してもらう。
コンペティション部門展覧会場で無事武藤君、正田さんと再会。
武藤君は学生時代ムトゥーと呼ばれていた。多分そのころ何故か踊るインド映画がブームだったせいだと思う。この4月にイギリスで会ったユミッペと同級である。現在は国際メディア研究財団の研究員で、科学技術振興機構さきがけの研究者でもある。この夏はロスで行われているシーグラフにも作品が招待され大活躍中である。となりのショーダさんも7年前の卒業生で現在勝井先生の事務所でデザイナーをしている。二人は夫婦であるが僕らは学生のときの名前のままショーダさんと呼んでいる。今回僕がカメラを駄目にしたというとすかさず彼女は「私のを使って下さい」という(彼女のカメラも僕が使っていたのと同機種なのであった)。ここらへんの臨機応変の心使いがさすがです。ありがたくカメラを一日借りることに。
まずはOKセンターという建物でコンペ部門のその他の受賞作品も含めてムトゥーに案内してもらう。
武藤君の作品。
以前東京で見せてもらったものに比べ格段の改良が加えられ(プロダクツの完成度と、そのオブジェの動きに合わせて外環境の色彩のウオールがアナログで視覚的に変化することを加えて)ぐっと良くなっていました。このレヴェルになるとコンセプト云々はむしろ邪魔(説明的になってしまうの)で作品の完成度のみが問題なのだと実感できました。
とにかく展示物の中でも完成度が図抜けて高いことに安心しました。
以下入賞したその他の作品。
世界各国からかなりの数のエントリーがあり、その中でも日本人作品が4〜5点はあった。日本勢はかなり頑張っている方だと感じた。ただ大賞作品はデンマーク人だったか、かなり政治色が強いもので、審査はかなり国際的なバランスが配慮されている印象を受けた。国際コンペはそのような性格を持たざるを得ないのかもしれない。
全体を見て大変興味深かったし、思う所あるけれども長くなるので省略します。
ただ誤解を恐れずに言えば視デのライティングスペースの作品もコンセプトレヴェルでいえば全然負けてないなあという印象は持ちました。
問題は多分、教師を含めてこういう場所に出て行く気になるかどうかなのだと思う。そのつもりならば大学の支援体制も含めて考えなければならないことが沢山あるように思った。
ただ僕の興味はコミュニケーションにあってアートではないから。
そこらへんは今回ムトゥーと一日中歩き回りながら、「いったいメディアアートって何なんだ?」を巡って喧々諤々語り合いました。
ドイツ在住、彫刻家出身の日本人の作品。音を体感する装置。
これは武藤君の同僚の作品。鳥のコミュニケーションを学習する装置。
これはかなり面白い。ことばによる説明は難しいけれども。
デジタル一辺倒ではなくこのようなアナログインタラクティブな作品もある。というかムサビでも実感していることだが、むしろテクノロジー礼賛からアナログ見直しにシフトしているのかも知れない...。
これは従来のメディアアートの王道のような...。すごくかっこいいのだが、それはインターフェイスがものマニアックな所為でもあって...。
肘の骨を通してドレスデン大空襲の音をドナウ川で聞くという、かなりコンセプチュアルな作品。僕自身この間ドレスデンに行ってこのブログにも記したけれど、やっぱり戦争の傷跡を感じずにはいられなかったので、この作者の気持ちはよくわかりました。
この他大賞作品はよく分からなかったので写真を撮り忘れました。(確かこの左奥の作品です)あとアニメーションでかなり素晴らしい作品がありました。
会場のOKセンター。この近くで4人で昼食。
その後アルスエレクトロニカセンターのビルにある19歳以下のメディアアート作品や歴代のメディアアートの常設展などを見る。
そろそろ、メディアアートという言葉の再定義が必要な時期なのだろうと思う。
川沿いにあるレントス美術館に向かう。
常設のクリムト、シーレ、ココシュカの他、写真の歴史をたどる展覧会が行われていた。空間も広く気持ちのよい美術館であった。
オスカー・ココシュカ。先ほどのOKセンターとは彼の名前からとったものである。多分。
日本人科学者の宇宙に紙飛行機を飛ばそうというプロジェクト。息子が強く反応。
その他リンツ芸術大学で行なわれている日本の超有名某国立大学大学院の展示が3フロア借り切りで行われているのを見た。
コメントは遠慮しよう。
その後4人で古本屋をまわりお茶。
一旦ホテルに戻りチェックイン。シャワーを浴びて夕方8時に再び街の広場へ。
夜は国際メディア研究財団をここ20年以上実質的に率いている大野さんも合流して下さり共に食事をする。大野さんには歴代の卒業生が随分お世話になっています。
今回は沢山の刺激を受けました。やっぱり現場には行くものですね。
とにかく何らかの刺激は受けるものです。
普段、出不精がちの自分を反省。
武藤夫婦には一日中お世話になりました。
これからもがんがん頑張って下さい。
ドナウ川沿いを30分ほど息子と歩いてホテルまで帰る。
その後サンマルコに渡りサンマルコ寺院を見学。
内部は撮影禁止なので床のタイルのみ。この床を見ただけでも一時期のヴェネツイアがいかに豊かであったかがわかる。
その後、街をぶらぶら歩きながらサンタルチア駅に向かい、ひとりで一足先にリエカに戻る妻を駅で見送る。
息子と二人で遅めの昼食をとり、アカデミア美術館へ。ここは14~8世紀の北イタリアの絵画が中心である。特にヴェロネーゼ、ティントレット、ティツアーノ、ジョルジョーネなど。息子はジャンバティスタ・ティエポロが気に入ったようである。(撮影不許可なので画像はない)今回のヴェネツイア滞在は出来る限り船に乗りこの島の様子を見ることが主眼なので基本的には美術館はここだけであった。
この間いろんな美術館でカナレットを随分見たせいか、現実の風景からカナレットの絵を思わず想起してしまいます。
町中の現代美術のギャラリー
その後サンマルコ広場のカフェで一時間ほどお茶。息子の数学における抽象的な美と表象された美との関係に関する小難しい質問をめぐり会話をする。
話をしながら直接は関係ないのだけれど、「そういえばどうしてここにあの偉大な人文主義者アルダス・マヌティウスの博物館がないのだろうか?」と考えた。
ヴェネツイアの人たちはある意味グーテンベルクよりも偉大ともいいうるこの同国人を忘却したのだろうか?まさか。
多分僕が知らないだけなのだろう。どなたか知っている方がいたら教えていただきたいものだ。
ここには冬にもう一度来るつもりなので。
再び夕暮れの中ジューデッカ運河をわたりサンルチア駅に戻る。
7時から30分程のクルージングであった。
陽がほとんど落ち光がグレーに染まる残照の中、ジューデッカ運河の中央あたりを波を切って進む船。
運河と両サイドに島影を見ながらドラマチックに変容する空、そして空間全体の色彩を見る(体感する)という、まことに言葉にもならない至福の視覚体験であった。
私たちは8時半の夜行列車でオーストリアのリンツに向かう。
以下携帯電話のカメラで息子が撮影したもの(解像度は悪いが何とか撮れていた)。
午前中、ヴァポレット(水上バス)でリド島に行く。最初各駅停車だったので小一時間かかる。しかし大小の運河、島の様子、観光客や島の住人など見ていると飽きることはない。
ヴァポレット乗り場
リド島へ
リドに着いた後陸上のバスでヴェネツィア映画祭の会場に移動。写真は会場受付、切符売り場。
見れる映画には上映時間の関係などから限られたものになってしまった。
もちろん僕が見たかったのは「崖の上のポニョ」であったが上映はされていなかった。
息子は宮崎駿も押井守も既に日本で見たと言っていたが。
本会場正面
赤い絨毯に金のライオンのディスプレイ
ポスター
ヴィスコンティのあの映画で有名な砂浜。
付近を散策したあと映画祭の為に設営された大型テントで午後の上映を観る。
ロシア映画の「paper soldier」監督はアレクセイ・ゲルマンJr.。映画はロシア語で、大きな字幕がイタリア語、画面外の下に小さな字幕で英語という環境なので良くは理解できなかったが、あまり好きな映画ではなかった。昔のタルコフスキー的な芸術映画を少し気取りすぎているような印象を受けた。もっとシンプルでもいいのにやたらとカメラのフレームが凝りすぎていて監督の「僕は芸術家です」的な気持ちがうるさい印象。(昔は僕もタルコフスキーは大好きだったのだが最近はどうも枯れて来たせいかもしれない)
例えばウエス・アンダーソンの映画は言葉が仮に全然わからなくても面白いじゃないですか。そういった映画ならではの上手さというのが感じられなくて。言葉、言葉、言葉ばかりで映画的ではなくて文学的。
しかし後でこれが銀獅子賞を受賞したことを知る。
うーん。少し納得できないなあ。
そう、後で改めて考えたのは要するに「タルコフスキーを今やる古くささへの違和感」だったのだ。
勝手な印象ですいません。
その後一旦サンマルコ広場へ戻り、船を乗り換えてムラーノ島へ。
ここはガラスで有名なところである。
宿の近くにある中華料理屋で食事。
午前中にトラムでブレラ絵画館へ向かう。ここはミラノで最も大きな絵画美術館である。北イタリアのルネッサンス初期のものから18世紀のものまで。
マンテーニャの「死せるキリスト」は有名な絵であるけれど実物を見るまではそれ程とは思っていなかった。その他ベッリーニ、ティントレット、ヴェロネーゼ、ピエロ・デラ・フランチェスカ、ラファエロ、そしてカラヴァッジョもあった。なかなか見応えあります。大学(アカデミア)と併設しているらしく、同じ建物の中にアトリエや教室が見えた。建物の中のカフェで休憩。
その後歩いて街を散策しながらミラノ中央駅まで戻り13時55分の列車でヴェネツィアへ。16時15分ヴェネツィア、サンタ・ルチア駅到着。宿は駅の近くローマ広場の近くなのでまず荷物を置いて街の散策に繰り出す。
今回私たちの滞在はちょうど、ヴェネツィア映画祭とぶつかったわけだが、これは始めから意図していたわけではない。全くの偶然である。ミラノでテレビをたまたま見ていると、宮崎駿さんと「崖の上のポニョ」の映像が結構長く映っていたので「これは何事か」と思い「あー。今やっているのか」と気づいた次第である。もちろん、ヴェネツィア映画祭が行われていることや、宮崎さんや押井守、北野武の映画がエントリーされているという一般情報は知っていたのだが、それが自分の旅と関係するなんて考えもしていなかったのだ。宿が異常に高く、かつ予約がとりにくかった理由が今更ながらわかった。(分かっていたらここは避けたかもしれません)
映画祭の拠点はリド島なのでヴェネツイア本島の町中が映画祭一色とは全然なっていない。フェスティバルに関連した上映をやっている映画館は探してみたが本島では一カ所だけであった。
ローマ広場からリアルト橋、サンマルコ広場まで迷路のような街を歩き、ちょうどサンマルコ広場で夕日が落ちる時間帯に鐘楼にのぼり、夕暮れるラグーナとヴェネツィアの街を小一時間程眺める。途中頭上で鐘が鳴りだした。(結構うるさい)
サンマルク広場ではカフェ専属のミュージシャンたちが映画祭に合わせてか映画音楽を演奏していた。
その後サンマルク広場とリアルト橋の間で食事をし、暗くなった街(9時くらい)を歩いて帰る途中、道に迷った。まあ街自体が迷路みたいなものなので三人で行ったり来たりしていて行き止まりに来た。
その後ちょっとしたアクシデントに見舞われた。(詳細省く)...それでカメラが水浸しになってしまったのだった。(事件に遭遇したとかではないので心配しないで下さい)
ということでこの日一日撮影した画像が全て駄目になるとともに明日から写真が撮れなくなってしまった。これは僕にとって大変大きな痛手である。今回、妻はカメラをリエカに置いて来ているので代わりもない。代わりにあるのは息子の携帯(!)のカメラのみである。
ということもあり、これ以降の交信はリエカに戻った後数日後になりそうです。
※※※※
上記は9月3日に書いた日記である。で今このブログを更新しているのは9月6日、ウイーンにいます。この間ヴェネツイア、リンツと滞在してきたがネット環境が悪いので更新が遅れました。
また上記の深刻な理由で写真がないので9月3日以降の日記はリエカに戻って更新します。
言うまでもなく月曜日はどの美術館も休みとなるからであるし、日曜日はお店が休みだったり、早く閉まったりするので要注意なのだ。
昨日のダ・ヴィンチ記念博物館閉館ショックが癒えないまま、今日は月曜日なので私たちは街歩きをするしかない。トラムでガッレリアに行きここのインフォメーションでいくつかのことを確認。
オペラではないが本日スカラ座である公演のチケットが手に入るかもしれないと期待して切符売り場に行くも今日はこの秋シーズンの初日とあって満席。やっぱり駄目だった。
どうも時期が悪いのか全てにわたってタイミングが悪すぎる。
ガッレリア
気を取り直しつつ、とりあえず最初の予定地ドゥオーモへ向かう。これはゴシック建築の傑作である。恐らく長い時間をかけて修復をしたのだろう、大体どこにでもあるようなゴシック建築独特の黒ずみがきれいに取り去られている。元の大理石の色が戻り輝かしいまでに白い建造物に生まれ変わっていた。エレベーターで屋上に行けるのだがこれは結構スペシャルな視覚体験ができる。
以下ドゥオーモ
地下宝物庫
屋上の手前
屋上
ドゥオーモ、正面ディテール
その後トラムを何本かはしごし、街を散策。結構暑い。
王宮
ガッレリアのそばで遅めの昼食をとり唯一開いているギャラリーのある王宮へ行く。
ここは特別展が行われていて最初、最後の晩餐に関する映像が上映されていると聞いても全然期待していなかった。
すると何とその展示はピーター・グリーナウェイによる映像インスタレーションだったのである。
王宮はこの街のかつての統治者ヴィスコンティ家の館で大変広大である。
そのインスタレーションとは王宮の中の大きな部屋に立体的にサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の「最後の晩餐」の部屋が原寸で再現され、空間の中央に最後の晩餐のテーブルが原寸で(立体的に、多分石膏で)再現されている。(そのディテールとサイズがなかなか興味深いのだが)観客はこのテーブルのまわりに立って見ることになる。映像は主に最後の晩餐の画面部分とその反対側壁面に投影され、部屋のライティングが映像とシンクロして変化する。約30分弱の上映である。
これが大変に素晴らしく驚いた。一つは高精細のダヴィンチの最後の晩餐が完全に3次元化され、そこ(最後の晩餐の画面上の空間)で自在に様々な光が変化するのだ。例えば昼間からだんだん夜に変わっていくように。またその光が画面こちら側の現実空間にも同時に投影される仕掛けだ。
そして同時に反対側の壁には(最初はダ・ヴィンチのその他の絵も投影されるのだが特筆されるべきは)最後の晩餐をマクロ撮影した高解像度画像が流れるのである。絶対肉眼では見ることのできないディテールが画面を舐めるように見れるのである。(よくこんな撮影を許可したものだ)
音楽はいつもグリーナウェイとコンビを組んでいるマイケル・ナイマンではなかったがとても良かった。
見終わった後は少し呆然とする。グリーナウェイらしい灰汁の強さと実験的な遊び心が横溢している。
このインスタレーションを経験するために今回のミラノ旅行はあったのかもしれないと少し思った。
インスタレーションパンフレット
昨日のレオナルド博物館休館ショックを引きずり、このような本を購入。
ここで一日過ごすつもりで行ってみるとなんとこの3ヶ月、館内システム改変の為に休館中なのであった!!(そんなこと想像だにしていなかった)。
9月16日から再会すると言われても...。
これにはこの旅の早々、絵に描いたように出鼻を挫かれた私たちであった。
...考えてみればそもそも10日程前リエカから電話でサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に電話し「最後の晩餐」見学の予約を入れた時、既に予約が一杯で駄目だった時から暗雲が立ち籠めていたのかもしれない。
「最後の晩餐」に関しては実は別にどうしても見たいとは思っていなかったので「しょうがねえなあ。」くらいで済ませていたのだが。
こっちの博物館がだめだったことはかなりショックであった。
やむを得ず、その日一日いろいろうろつき回りましたが最初のこの失望はなかなか晴れませんでした。
レオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学技術博物館前。おかしいのはわざわざ切符売り場までは開いていて、来た人にいちいち閉館の説明をしていることだ。
サンタン・ブロージョ聖堂
文字の入ったグラス。市立考古学博物館
市立考古学博物館
ミラノの最も古い城壁の一部が市立考古学博物館となっており、その中に上記のような遺構がある。
旧ミラノ城壁模型、左上アクリルの直方体が上の遺構です。
アンブロジアーナ絵画館の中庭。ここは撮影禁止なので以下の画像はイメージです。これらの他にも小品ながらボッティッチェルリの色彩の大変美しい作品やラファエロの「アテネの学堂のデッサン」があった。これはバチカンのタブローの原寸大デッサンである。このデッサンの為に大きな薄暗い部屋が用意されている。さすがのラファエロ嫌い?の僕もこのデッサンには感動しました。これは大変素晴らしいと思いました。
ダ・ヴィンチ「音楽家」
カラヴァッジョ「果物籠」
レオナルド像
ヴィットリオ・エマヌエーレ二世のガッレリアに一旦戻る。
以下スフォルツァ城市立博物館
ミケランジェロの遺作「ロンダーニのピエタ」
中庭
天球儀
地球儀
ドレスデンの城と同様、王様の為のウンダーカマー(の部屋)があり秘宝(?)的なものがここにも沢山あった。
博物館の窓から
11時にマイーダさんの車でバスセンターに送ってもらう。
12時発リエカートリエステ間は珍しく渋滞のため50分遅れて15時着。
15時28分ミラノ行きの列車に乗る。ミラノ北駅20時50分。約5時間半。
ホテルは駅の傍である。
東京からやってきた妻と息子は既に到着しており無事合流する。
ミラノ北駅、夜。
http://www.otakio.net/neurath/
http://www.vcd.musabi.ac.jp/%7Ekurokawa/070910_neurath/neurath.html
確かに去年はこれで大変な一年だったよなあとか、まだ一年しか経ってないのかとか思いつつ、苦楽を共にした仲間からの要請なので、昼夜逆転して寝不足であったが東京と交信することになった。
こちらは昼の1時。向こうは夜の8時である。もう大分前からパーティーは始まっているらしく酒も入り盛り上がっている様子だ。しかし予期していなかったのはこちらの画像を向こうの教室の大スクリーンに写していたことであった。大田君はそのような段取りに関しては何の連絡もしてくれなかった。こちらには小さなパソコンの小さな画面しか写らない。当然向こうもそうだと思っていたのだ。メンバーたちは私の寝ぼけたでかい顔を見ただけで喜んでいた様子であるがこれはかなり不公平である。まるで地球と交信する宇宙飛行士の孤独というのでしょうか、そんな気分になりました。
しかも何か責任を感じてそこにいる全員と話さなきゃと思いましたが一対多数の会話というのはなかなか難しいものです。つい「○○さん、お元気ですか?会社の仕事慣れましたか?」といったばかな質問しか出てこない。
しかも向こうは酒が入っているのにこちらは素面だし、それがこちらの孤独感を増幅させます。大田君と黒ちゃんはこの企画の思いつき自体に満足したのか話そっちのけで何かもぐもぐ食っているし。
何故か「先生、お休みしないのですか?」と皆、似たような質問を繰り返す。
「いやだから、この旅自体が長いお休みをもらっているようなものだから、お休みのお休みはないのだよ」と答える僕。
「あ、そうなんだ...。」
要するにこのブログを読んで僕の体調のことを心配してくれているのですね。
交信中は恥ずかしくて言えませんでしたが、ありがとう。かなり元気になってきましたよ。後半もがんばっていきます。
皆も僕のでかい顔を画面で拝めたことだし、弱音をはかず社会人がんばりなさい。
話ながら時差というのは距離のことなのだと当たり前の事ながら思った。
時間は空間であるということがリアルである。
谷川俊太郎さんの詩に四千億光年の孤独というのがあるが、僕の場合この日は7時間分の孤独をちょっぴり感じました。
終日調べものなど。
マイーダさんに質問したユーゴスラビアのアヴァンギャルドの歴史について興味深い本を教えてもらった。その中のひとつ。Misko Suvakovicの"The Impossible Histories"(MITプレス)。これまでの私たちの視線の外側にあった東欧、中欧のアヴァンギャルドの今日までの展開。当然単純な「戦後共産主義下、社会主義リアリズム路線になってアヴァンギャルドはなくなりました」という話ではない。20世紀美術とデザインの見直しが本格的に始まったという印象を受ける。
近所を散歩していてやたらと目につくのが改装中というか増築中の家だ。我が家のバルコニーからも3件見える。おもしろいのはその行程でこの春以降ほとんど進捗していない家が何件もあるのだ。中には2〜3年放置しているようなものまで。手作りなのだろうか。日曜大工の感じだろうか。素人の僕が見てもなんか危なっかしい気もするが逆に単純でわかりやすい。コルビジェの近代建築5原則だかで有名な柱と床の構造体だけコンクリで作ってあとはレンガ。まるでレゴのようです。日本のように短期間に工務店が覆いをかけてさっさとやってしまうのとは大違いである。
この家は住みながら改築が進行している。春からの主な変化は冷房装置が取り付けられた点だ。
屋根にレンガが置いてある。これから二階を作るつもりらしい。でもそれじゃ構造的に無理がないかなあなどと他人事ながら心配している。僕がここにいる間には多分完成しないだろうけど。要チェック物件です。
全ての家に使われていると言っても良いレンガ。中は細かい空洞である。
これは歩いて10分くらいのところにあるリエカ美術大学の新築工事現場。かなり大々的な工事が行われている。大学の授業はどこでやっているのだろう。今は夏休みだが。ソボルさんからは大学の先生を紹介するよと言われているが今の所まだ「大学」に近寄る気がしないので訪問していない。「まあそのうちぼちぼちと」というニュアンスの英語がしゃべれる訳がないので多分伝わってないだろう。
そのうち授業風景などを見せてもらうことになるだろうと思う。
多分リエカ美術大学の正門。
昼間歩くと汗だくになるほど暑くても、夜が冷えるので何となく木々の色に秋の気配である。
妻は無事19日夜(日本時間)東京に到着した。
「日本は異常な蒸し暑さでリエカの夜の北風が夢のようです」というメールが届いた。
終日、自宅で過ごす。
大家のユリッチさん夫婦もいないので静かである。毎日の庭と菜園の水やりは僕がするしかない。これが結構時間がかかる。太陽の沈む直前7時半から8時半の間に行う。またここの飼い猫サンシンの餌をあげなくてはならない。この猫(雌)の名前はソボルさんが命名したらしいが仏教の言葉からとったらしい。三信?三新?散心?どれだかわからない。私はどうしても三振を思ってしまいます。(名前といえばワクリだよなあ。視デの卒制で言語哲学はハイブロウすぎたよなあなどと今更思ったりする。すいません。分かる人しか分からない内輪の話です)この猫はちょっと変わっていて人間から触られるのを極度にいやがる。飼い主のダリンカさんにもそうらしい。だから猫としてはちょっと可愛げがないが餌をもらう時だけ鳴きながら近寄って来る。ちなみにソボルさん家の飼い猫の名前はカミ。これは紙ではなく神。うーん、これも日本人ならば絶対つけない名前だよね。刑事コロンボの「うちのカミサンが」ならわかるけど。サンシンとそっくりだが血縁関係はないとのこと。
食事はしっかり自炊しています。今の所楽しんでいます。
サンシン
昼間は外に出れば30度を超えやっぱり暑いが家の中にいると終日ゆるやかな風が流れ最高に気持ちがよい。夕方からは写真のカーテンのように家の後の丘からの北風(海風?陸風?そういえば風の名前に関してはシバケンだったと去年の卒制を思い出したりする。あれは素晴らしい作品だった。これも内輪話です。)が吹きTシャツだけだと寒いくらいの温度になる。
朝5時半にバス停まで妻を見送りに行く。彼女は6時のバスでトリエステまで行き、そこから列車でミラノに行く予定であった。しかし6時に電話があり何とバスが満員で乗れないという。次のトリエステ行きのバスはなんと12時。これでは飛行機にまにあわないということであわてる。結局バスセンターで交渉の結果、7時発のスロヴェニアのコーペル乗り換えでトリエステに行けるバスルートがあることがわかり結局それには無事乗れた模様。前回乗った時はがらがらだったので安心しきっていたのだ。クロアチア語もよくわからないし、こういう冷や汗もののトラブルはここでは日常である。
昼間、近所に散歩を兼ねて買い物に行った以外は終日自宅で調べものなど。
本当にぼちぼちだが体調が回復してくると気持ちも前向きにというか元気になって来るものだ。当たり前といえば当たり前のことだろうけど。こういった事はこれまでの東京での生活でも言えたことだ。しかし東京での生活は事務所でのデザインワークや大学での仕事などあまりにも多忙だったので自分の体調と精神状態の関係など考えてる暇などなかったのだ。とにかく全ては「どさくさ」に進行していた。そこに自分の体調など考慮する余地はなかったのだ。ここに来るとこれまで経験した事のないシンプルな状況なのであたかも他人事のように自分の様子を観察することが可能だ。これもささやかだがこの旅の恩恵である。
そういえば昔、子育てをしていた時(こういう言い方は変かもしれないが)つまり長男が幼かったころぐずついたり、泣いたりした場合、最も良い解決方法はぐずる原因を探り解消してあげることだと気づいたことがあった。例えばおなかがすいているとか、睡眠不足とか暑いとか寒いとか。そうすると大抵の場合息子はご機嫌であったように思う。この法則を発見したとき少なからず感動した記憶がある。
結局子供が大きくなってもその「こつ」だけが子育てを通して僕が学んだことであった。
後どうするかは本人の問題なのだ。
それは子供時代だけじゃなく大人になった自分自身にもあてはまるということですね。
ついでに思い出したのは次男の場合は小学生の時、原因不明の病気で2~3年入退院を繰り返したこともあった。この時ばかりはただ神様にすがるしかなかったけれど。
ということで少しずつ旅の整理を初めているところ。
今までの旅の整理や調べものも手つかずだが、同時に次の予定もたてねばならない。
これまでの経験から交通、宿の手配は移動の1月前にはある程度決めてないと、大変な目に遭うことをこの僕でも少しは学習しているのだ。
何はともあれそれをやっとかなきゃと。
これが結構プレッシャーである。
また9月はイタリアとクロアチア周辺を動く予定であったが、月の前半に卒業生の展覧会がオーストリアのリンツで行われる。これに何とか行く為のルートをあれやこれや考えねばならない。
ネットによる鉄道、バス、飛行機のタイムスケジュールの見方、チケットの予約など少しずつは分かって来たがまだまだである。そのうちユーロ圏内でもっとすっきり分かりやすい交通情報網が構築されそうだが現時点ではまだまだです。
結構頭かかえているが何とかなるだろう。
テレビで北京オリンピックの開会式が3時(クロアチア時間)から始まるので見る。旅の途中さほど関心はなかったが、クロアチア語の興奮した中継を聞きながらオリンピックって世界中の人間が見てるのだなあと実感する。
オープニングは最近の荒唐無稽な中国スペクタル映画みたいだった。槍とかは降ってこなかったが。開会式は全体的に長過ぎてだれた。
オリンピックを見ながら思い出したのは以前ヨーロッパ旅行の最中に、ケルンのホテルでロス五輪を見た記憶があるので僕のその時の旅は正確には今から24年前だった。1984年の夏だ。
お昼に海でロビンソンクルーソーのような生活を終え、大家のダリンカさんユーリックさんが帰って来た。お土産は立派な魚である。
早速いただきました。
夕方から空がにわかにかき曇り大雨となった。
ついに昨晩今回の旅の最終地点、ミュンヘンに到着。この小旅行がスタートしてもう一ヶ月が過ぎるのだ。僕も同行している妻もかなり疲労していてボロボロである。無事にここまで来たので気が緩みそうになるがお互い励まし合いつつ旅を続けている。そういえばミュンヘンは暑い。
朝、街の中心部を通ってトラムでドイツ博物館へ。昨日に続きここも最高の博物館の一つだった。視デの学生達に見せてあげたいと思った。課外旅行で来れるとよいのだが。しかし中身について詳述しだすときりがないので省略します。ただ言える事はここは僕が知りたかった多くの事があったということだ。僕の大きな目的は大雑把に言って世界を人間はどのように記述(視覚化)してきたかということにつきる。もちろん美術、あるいは美意識も重要なファクターだがそれだけではあまりにも狭い。ひとつには記号論を軸とした視覚言語があるがそれはここでは置いておくとして、もう一つ、カオティックな世界を記述する為のテクノロジーと自然科学と視覚(変換)化の関係であった。この博物館にはそれらの歴史がほとんど現物と一緒に丁寧に展示されている。東京にこの博物館を持ってきたいくらいだ。
もうひとつの印象。この博物館全体がディドロとダランベールの百科全書をそのまま博物館化したような場所であった。
写真で何とか感じてもらえたらと思う。
本当はもう一つ別の美術館に行く予定だったがここ一つで一日を使い果たしてしまった。実際丁寧に見だせば一日どころか数日はかかる場所であった。
夜はかねてからの予定通り卒業生で僕と同じwriting space travelersであるゴンちゃん、フジナミさん、オカチンとミュンヘン駅前で待ち合わせし、ビアホールの本場でビールとソーセージの夜となった。
新市庁舎
ドイツ博物館正面
ドイツ博物館の庭にはこのようなアトラクションが。
屋上。プラネタリウム横。サンダイヤルの歴史が徹底的に見れる。
ここにも螺旋階段とプリズム装置。
ストーンヘンジの仕組み図解模型。向こうにあるのが太陽。
地図を作り出す道具について
計算をする道具について
ファクシミリの原型
テレコミュニケーション関係図。
博物館を出ると街はミュンヘン850といって何かのお祭りだったが突然の雨。
左はゴンちゃん(谷田幸さん)僕と同じ大学の短期海外研修で1ヶ月弱ドイツを旅することに。視覚伝達の助手である。昨日フジナミと一緒に飛行機で着いたばかり。明日はベルリンに移動しその後印刷三昧の旅をする予定。今日は僕らと遭遇できるぎりぎりのタイミングであった。右はおかちん(岡田憲明君)現在ニューヨーク大学の院生で夏休みのヨーロッパ旅行の最中である。彼はパリからここへやって来た。この後私のいるクロアチアに寄ってイタリアに渡る予定。
フジナミ(藤波洋子さん)現在某デザイナー事務所に勤務。ゴンちゃんと一緒にベルリンに向かう予定。さすがに社会人は厳しく仕事が待っているので一週間で東京に戻らねばならない。もったいないけどしょうがない。
3人とも同期で6年前の卒業生である。こうやって呑んでるとミュンヘンも東京も変わりませんなあ。皆それぞれの目的を持ったwriting space travelerのmeetingである。
この日は夕方ニュルベルクからミュンヘンに移動する予定である。
昼間は博物館(museum)三昧の一日となった。最初に訪れたのはDB博物館(ドイツ鉄道博物館)である。ここは偶然、宿泊した宿の隣にあった。初めての訪問である。子供が小さかった頃、とにかく鉄道や乗り物博物館と名前がつくものは日本では随分見たものだった。しかし僕はいわゆる鉄道ファンではないし、この博物館に関する予備知識も全くなく「まあ、時間があるから行ってみるか。近いし。」ぐらいの気持ちであった。しかし行ってみて実際驚かされるはめになった。まずその規模の大きさ、収集している物の多様さである。これまでにも何度か触れてきたが物の収集、整理、復元、模型に対するドイツ人の執念は生半可なものではないが、ここではそれが徹底的に実行されていて凄みがある。さらに私を驚かせたのはその展示デザインのレベルの高さであった。物そのものに加えて空間も照明もグラフィックも映像もインタラクションによるインストラクション(説明)も私がこれまでみてきたmuseumではベストであった。実際見ながら鳥肌がたった。こういう経験は僕の場合(こことは違った観点だが)パリの「自然史博物館」以外にはなかったことだ。(大英博物館もスペシャルな場所だが総合的な展示デザインという意味においてはそこまでいかない)そういえば旅行前に日本でも新しい鉄道博物館がオープンし人気だというニュースを聞いた事を思い出した。その関係者は恐らくここを視察したに違いないので今度帰国したら行って比べてみたいと思う。博物館にはその国の文化とデザインに対する見識のレベルがはっきり現れるので。
ここで感動したのはさらに二つある。博物館を作る上でのコンセプトについてなのだが、鉄道を社会の中のメディアだと位置づけ徹底している点にある。鉄道を紹介するためのその外部環境、例えば産業、通信、文化などの説明が鉄道と同等に徹底されている点である。つまりそのことによって単なる趣味の人やオタクのみが楽しめる場所を大きく超えているのだ。
さらにここを訪れる様々な年齢、子供はもちろんだがあらゆる関心層に対する目配りの繊細さである。
次に行ったのはゲルマン国立博物館である。ここは25年前に訪れその収集料の膨大さ分野の広さに驚いた所である。内容について書き出すときりがないので省略するがここも素晴らしい博物館であった。
後で辞書で調べるとここは大きくは「運輸博物館ニュルンベルク」でありその中に「ドイツ鉄道博物館」と「コミュニケーション博物館 電話と通信」があるのだった。通信系が充実している理由がこれでわかった。しかし来場者からみると全く一つの博物館に見える。
輪切りの車両。見学者は装置を触りながら蒸気機関の仕組みがわかるようになっている。
ワークショップスペース
ここから通信の展示。歴代の全ての電話のタイプをその仕組みとともに見る事ができる。
特別展は「エルビスインジャーマニー」唐突だが鉄道とからめた展示だった。
以下、ゲルマン国立博物館。あまりにも膨大かつ多岐にわたるので画像は適当にピックアップした。
ペグニッツ川
フラウエン教会
以下フェンボーハウス(市立博物館)。ここにはニュルンベルク市の歴史が展示されている。
1900年代の歴史も写真でたどる事ができる。
模型好きのドイツ人の例に漏れずここにも大量の復元模型があったが、これは戦後すぐの破壊された町の復元模型。
カイザーブルク(城)から見た街並
カイザーブルク(城)
城内の建物
デューラーハウスの前で
以下デューラーハウス(博物館)。
おそらく営業用に制作したステンドグラス。あの有名な自画像(ツェッペリンのジミーペイジ似の)も肖像画の営業のために制作したものらしい。
デューラーハウスの後、おもちゃ博物館を訪ねる。ここもかつて訪ねたところ。おもちゃ博物館といって馬鹿にできない。何でも徹底的に集め分類し見せる事の好きなドイツ人だから相当なレベルの展示である。写真不可なので館内のイメージはなくこれらは建物外の中庭。
おもちゃ博物館正面。
同中庭。
ブリューゲルの絵にある遊びの分析。
ペグニッツ川
デューラーの「黙示録」復刻版
ワイマールに来た大きな理由を改めて考えてみると昔フォトモンタージュやデザインの歴史を調べていた時、ドイツのこの街がとても重要である印象を持ったからだ。第一次大戦から第二次大戦の間いわゆる黄金の30年代、ドイツにおいてベルリンと並んで最も重要な都市の一つだったのだ。かの有名なワイマール憲法もここで発布されたものだ。またここはゲーテが長く住み仕事をした場所としても知られている。実際来てみると驚く程こじんまりした街なのである。人口は5万人である。ドレスデンやライプツィヒの十分の一である。しかしバスに少し乗っているだけで街にはゲーテ広場、シラー通り、ショーペンハウアー通り、グロピウス通り、フンボルト通りetcと僕らが良く知っている名前がつけられた通りがいくつも存在し、ここがドイツ人の文化的故郷でもあることが否応なく感じられる。またドイツルネサンス最大の画家クラナッハはここを拠点に活動したし(画家であると同時に薬局も経営し市議会議員でもあった)またいうまでもなくバウハウスが最初に誕生した場所でもある。
国民劇場広場。ゲーテの「ファウスト」が初演されリスト、シューマン、ワーグナーらが活躍した劇場であり、ここで1919年にワイマール憲法は採択されている。劇場の中までは入らなかったが印象はとても質素というかこじんまりしたものである。
バウハウスは1919年にワイマールで発足した。その後1924-5年に市と対立し(社会民主党が与党から野党に転落したのをきっかけに)デッサウに移転している。いわばここでは初期のバウハウスを見る事ができる。その後ここは別の保守的な工芸学校となり、東西ドイツ統合後はバウハウス大学となっている。この間の様々な政治的、造形的理念の対立などの変遷はここでは詳述できないが、とにかく複雑な印象を持った。少なくとも今更バウハウス大学とネーミングする感覚が理解できない。僕の勉強不足かもしれずこの間の事情は分からないが、経歴詐称じゃないがうさんくさい感じがする。
しかしなによりもここで想像を超えて良かったのはヨハネス・イッテンであった。表現主義的で機能主義バウハウスに反するとしてグラフィックのファイニンガーとともに追放(?)された人としてまた色彩学の権威として知られる人だが、今回見る事のできた彼のドゥローイングが凄かった。(撮影は不許可だし図録にも掲載されてないので画像はありません)これは後で日本でじっくり検討するつもりである。ドゥローイングとタイポグラフィの合体したデッサンは本当にただものではないと感じた。多分バウハウスで続かなかったのは、造形上の主義の違いというより人間関係なんだろうなあとも思いました。イッテンはとにかく「あく」が強いというか、天才型で協調性には欠けていたのだろう。絵からはそのような印象を受ける。しかし滅茶苦茶鋭い。
イッテンによる色彩のオブジェ
イッテンのドゥローイング
バイヤーのユニバーサル
工芸はビーダーマイヤー、分離派の伝統をしっかり受け継いでいる事がわかる。
クラナッハが活動した市教会。
クラナッハによる祭壇画。クラナッハの最高傑作だと思う。
ヴァン・デ・ヴェルデの館を訪ねるも残念ながら修復中であった。
ヴァン・デ・ヴェルデの館の向かいにバウハウス当時の校舎(現在はバウハウス大学)がある。ヴァン・デ・ヴェルデの設計である。
正面
裏側
一階エントランス
左右にヴァン・デ・ヴェルデとグロピウスの肖像。
学生の作品。多分建築科の基礎授業だと思うが、律儀に初期バウハウス(あるいはロシアアヴァンギャルドのシュプレマティズム)に似てる所がかわいいというべきか、古くさいというべきか。どうも微妙。
アトリエ
ヴァン・デ・ヴェルデ記念室のようなところ
教室階段
正面吹き抜けの階段。
バウハウス校の道をはさんでリストの家。
街に貼られていたヴァン・デ・ヴェルデのポスター
シラーの家。
このブログを見ている人からは今回の私の旅は、ウイーンではオットー・ワグナー、ヨーゼフ・ホフマン、プラハではチェコ・キュビズムにアール・ヌーボー、そしてビーダーマイヤー、ライプチヒでは印刷博物館とまるで計画したように近代デザイン史をたどる旅をしているように見えるかもしれない。それに今日行くバウハウスを加えればあまりにも出来過ぎとも言えるだろう。しかし実際の私の気持ちというか意図は意外かもしれないがそうではない。ビーダーマイヤーもキュビズムも印刷博物館もたまたま来てみたらそこにあって、ただ私が反応しているというに過ぎない。
そういえば話はちょっとそれるが以前ウイーンで書き忘れていた事がある。それはウイーンにオットー・ノイラートの博物館がないことの理不尽さについてである。この事実だけみてもウイーンの人間がノイラートの凄さと重要性を未だに理解していないことを示している。自国が生んだ20世紀デザインにおける最も重要な人間を忘却するなんて。ノイラート以前だけでも充分観光資源としては成り立つからだろうか。そもそも、最も敏感であるべき美術館のディレクターがそのことを理解していないから、だからデザインミュージアムもだめなのだなと改めて思った次第。
話を戻すと今回旅をしながら今更バウハウス詣でもないのではないかという気持ちがどうも心の中に居心地悪くあったのだ。
かつて25年前(私は26才だったが)はこのデッサウに来たくても簡単には来れなかった。だから当時はバウハウスといえば西ベルリンにあったバウハウスアッシブに行くしかなく、それはそれで感動したことを覚えている。25年前にはライプツィヒにしてもドレスデンにしても(旧東側)自由に旅が出来るなんて思いもよらなかったのだ。その時はベルリンの壁もアメリカとソビエトの対立もずっと続くだろうと思えたのだ。この間の25年は大きい。同様に私の中でバウハウスに対する考え方も大きく変わったのだと思う。少なくとも単純な礼賛ではなくなっている。
ともあれ今回、迷った末一人でデッサウのバウハウスに行って来た。電車で約1時間。校舎も、教員の宿舎も1997年ころの大修復によって完全に元の状態に復元されていた。(これはさすがにドイツ人、相当大変であったことが想像されるが立派な修復である。モダニズムの修復だから簡単だと思うのは素人なのだ)
この間考えたことを書くと長くなるし、この旅の途上では何か語る心境にはならない。
現在の簡単な印象だけいえばとにかく行って良かったなと思いました。
修復されたことでディテールが見れたこと、ディテールのなかに言葉ではなくて深く感じるものがあったことなど。
また、ここはグロピウスたちが作ったひとつのユートピアであったが、短期間のうちにハンネスマイヤーに学長は代わり、ナチスの圧力で閉鎖されている。
1924年の夏ここにリシツキーが来、マイヤーの招聘でノイラートもここで講義をしたのだと思いながら一日を過ごした。とても暑い日だったが真空のような一日だった。
デッサウ駅前
あのバルコニー
大修復の模様を展示していた。
マルセル・ブロイヤーの椅子が素晴らしい。
正面が小舞台で奥が食堂
アトリエの一部
外灯
展覧会場(写真は撮れず)
半地下のカフェ
グロピウス通りを通ってマイスターハウスへ。
以下マイスターハウス
トーマス教会にあるバッハの墓
ニコラス教会
バウハウスから戻り夕刻、ライプチヒの街を散策。
最後に本屋でここゆかりのレクラム文庫を一冊記念に購入。チャンドラーの「大いなる眠り」と迷った末ポール・オースターの「ムーン・パレス」に。英語版でドイツ語の注釈付きである。7.2ユーロ。
午前中ドレスデンを出てライプツィヒまで移動。特急で1時間10分。ドレスデンの人口は約50万人、ライプツィヒも同様でドイツでは大都市である。(しかしドレスデンとライプツィヒからは全く異なる印象を受ける。多分理由はあるのだろうが私には分からない)
今回ライプツィヒに来た理由はかなり曖昧である。まずここが歴史的に印刷が盛んな都市であり、岩波文庫がお手本にしたレクラムという有名な出版社がある事、バウハウスのデッサウに近いことなどいくつかあった。しかし初めてなのでとにかく来てみなければわからない。
ドレスデンのように来てはみたものの何となくしっくりしない街もある。さてライプツィヒはどうなるだろうか。
宿は駅の側でまず荷物を置いてインフォメーションセンターに行く。ここでは造形博物館という大きい美術館があるがそこには行かずに、ガイドブックにはなかったけれどもインフォメーションの人に印刷博物館はないのかとまず聞いてみた。
そしたらちゃんとありました。トラムに乗って20分くらいのところ。詳しい説明なしで写真を見て下さい。だいたいどんな所かわかると思います。ここは保存されている印刷機等すべてのマシーンが稼働するように整備されていた。そして技術者が何人かいてなんでも親切に答えてくれる。目の前で実演してくれる。僕らがいる間も美術大学の学生らしい人が何人も来て技術者に相談していた。まあ、僕にとってはディズニーランド(?)のようなところでした。
ドレスデン駅
電車はガラガラで一両独占状態。
以下、印刷博物館
このリト版はどのように製版したのだろうか。
木活字
大判リトグラフ印刷機
インク撹拌器
昔の活字鋳造機
楽しそうに実演をするおばさん
モノタイプ自動活字鋳造機の説明。
僕があまりにもおもしろがるし、「ライノタイプがどうのこうの」と独り言を言っていたらあんたはプロフェッショナルかと聞くのでいや違うと答えるとこのおばさんがわざわざ別のおじさんを連れて来てライノタイプの実演をしてくれた。
ライノタイプ自動活字鋳造機の実演
博物館中庭にて
ドレスデンはかつてのザクセン王国の首都で壮麗な街だったところだが、第二次大戦の空襲で一夜で破壊された町として知られている。廃墟のままであった聖母教会を残されたがれきの破片を地道に組み合わせて最近(2005年)修復したのは日本のテレビでも放映されていたのでご存知の方も多いと思う。
戦災にあった街に共通であるが基本的に街は全体にのっぺりしていて、戦後の共産主義下のビルがほとんどで、街の中心のツヴィンガー宮殿などが修復されているのだが全体としては何となくちぐはぐな感じを受ける。あくまでも一旅行者の感想ですが。
観光の街のはずだが、他のドイツ、ヨーロッパの街のような雰囲気、旅行者が気軽に入れそうなキオスクやマーケット、カフェが驚く程ない。水を買おうとして歩いても歩いてもお店が見つからず少しあわてたりとか、なんとなく不気味な感じがある。25年前訪れたことのある東ベルリンの雰囲気に似ている。宿は中心からトラムで15分くらいのところで、エルベ川ぞいであるがやはり周りにはタバコ屋すら見当たらない。
ここの滞在の主たる目的はフェルメールが二点あるツゥインガー宮殿内にあるアルテ・マイスター絵画館に行く事であった。その他クラナッハ、ホルバイン、デューラー、レンブラント、ボッシュ、ボッティッチェルリ、ラファエロ、リューベンスなど傑作がかなりある。また風景画の巨匠カナレットの作品がここには多くその特別展をやっていてカメラオブスキュラと風景画の関係を中心に展示をしていたのが少し興味深かった。
同じ宮殿内の陶磁器コレクション、武器博物館などを見ても、ザクセン王国のかつての繁栄を偲ばせる。その他ドレスデン城では王様の財宝、工芸の展示をみたが(写真は撮れずイメージはないが)その贅沢ぶりはものすごいものがある。いわゆる博物館の元である王様のウンダーカマー(脅威の部屋)を実感するにはもってこいである。趣味的には全くあわないので心は全く動かなかったが。
黒く見える石は戦災で焼けたことを示している。
ツゥインガー宮殿
クラナッハ
ホルバイン
デューラー
レンブラント
カナレット
陶磁器コレクション、武器博物館
今日は月曜日で美術館等はお休みなので主に街を歩く。プラハは初めてである。ここは美しい街であると同時に街が建築や工芸を学ぶ者にとってそのまま博物館、教科書のようなところだ。モダニズムとはまた別のデザインの伝統がしっかりあることがひしひしと感じられる。1日や2日では到底この街を見たとは言えないということがすぐに分かった。要するに予想を超えて街は素晴らしく、楽しかったし、興味深いのだが詳述は省く。長い一日。
今回とてもお世話になったトラム。一日券を買っておけば好きに乗り降りできる。
たまたま偶然この写真に映った女性は12頭身くらいだろうか。日本ではほとんど見る事のできないバランスである。これも私たちから見れば異形ですね。何事も過ぎたるは及ばざるがごとしか?
ユダヤ教のお寺(シナゴーク)
正面は国立博物館
キュビズムの外灯
ペトシーン公園(街を見下ろせる丘にある)天文台横のモニュメント。
ペトシーン公園展望塔より市街を見下ろす。
ペトシーン公園展望塔。パリのエッフェル塔に模したらしい。
チェコといえばパペットでありまたアニメーションでもある。人形のお店がたくさんある。街には人形劇の劇場もあった。
プラハ城から旧市街を見る
大司教宮殿。左隣奥に地味な国立美術館がある。
シュヴァルツェンベルク宮殿(ルネッサンス様式らしいが、壁の凹凸の錯視的な装飾がおかしい)
聖ヴィート大聖堂(プラハ城内)
フランツ・カフカ博物館
カフカのサイン
カフカのドゥローイング
カフカへのオマージュとしてのインスタレーションや映像など、展示はかなり好き勝手にやっていた。その意気や良し。しかし出来はイマイチ。ディレクションが青臭い。カフカ=暗いとか、=不条理とか不協和音とかゆがむ映像とか、それをやったら当たり前すぎてつまらないじゃないか。
...どうしてもこのようなものを見るとつい、俺だったらこうするよな的なデザイナー根性が出てしまいます。イカンとは思いますが。
プラハ城側のカレル橋橋塔
カレル橋の彫像
旧市街側の橋塔
クレメンティヌム。元対フス派(新教徒)の為のイエズス会の教会。現在はチェコ国立図書館の一部で550万冊!?の蔵書があるらしい。中には入れず。しかし翌日ここの礼拝堂でのコンサートに行く事にした。
一応観光名所の天文時計
旧市庁舎
ヤン・フス像
チェコキュビズム博物館。旧市街にある。別名黒い聖母の家。ここは本日は閉館なのでまた来る事に。
黒い聖母
1-2階はカフェ。カフェの椅子もキュビズムである。
市民会館。ここはミュシャ(最近ではムハと言うそうな)を筆頭にチェコ・アールヌーボーの本拠地だ。
市の南部ヴィシェフラド地区にあるキュビズムのアパートメント。現役です。
同じくキュビズムの家。ヴルタヴァ川沿いにある。夕方8時頃、人は住んでいない感じだったので堂々と庭に入って近くで見ていたら「窓に人影が...」と妻が言うのでびっくりして出てきました。
同じくヴルタヴァ川沿いのキュビズムの家。ユースで使用しているようだった。
前日のコンサートについて。ヨハン・シュトラウスとかワルツとか食わず嫌いで勝手に甘ったるいイメージを持っていたのだが(ニューイヤーコンサートなんてブルジョワ趣味的だし)、今回初めて生で聴いてみて「いやあなかなかのものですなあ」と思いました。クラシックにおいてもジャズ演奏と同様、スゥイング感と間、音の遠近感が重要なのだと実感できる演奏であった。
ウイーン南駅から13時半に電車に乗ってチェコのプラハに向かう。約4時間(+20分の遅れ)。夕刻プラハ到着。ここはユーロに入ったので通貨もユーロになってると思い込んでいたらそうではなかったので少しあわてる。宿が少し分かりにくい場所にあった為、たどりつくまで時間がかかる。夕食は宿のそばの中華料理屋に行く。ここはわりとまともな中華だったので安心する。(かつてリュブリャナで店に火をつけたくなる程のひどいのを食べさせられた記憶があるので中華といっても安心はできないのだ)
夕方、かなり強く雨が降る。街を濡らす雨に何故か感動。ギリシアの乾燥がまだ頭と身体にこびりついているようだ。
ウイーン南駅
プラハの夕暮れ。9時頃。奥正面の白いビルが私たちの泊まった宿。交差点にある。
宿から見た交差点。日本ではほとんどの都市で廃止にしてしまったが、路面電車のある街は素敵である。過去にタイムスリップしたような気になる。
ウイーンに来る直前に2~3年前ここを精力的に歩いていた大田君にメールで情報をもらっていた。(あきおくん、ありがとう)しかし今回はちゃんと歩き回れるのは今日一日だったので、結局25年前に歩いたところをもう一度訪ねるに止まってしまった。次(秋)のエジプトはここからの出発なのでその時もう一度時間をとりたいと思う。25年前は同行していた斉藤君がトラベラーズチェックを摺られたり、宿がひどかったりとあまり良い思い出がなかったが今回来てみてウイーンがこんなに素晴らしい街だったかと改めて感動している。道の幅や公園など都市の基本的な部分がとても豊かである。何のかんの言ってもさすがハプスブルグ家の都なのである。都市は土台が大切と思いました。こればっかりは簡単には作れない。
今日歩いた場所は市庁舎、美術史博物館、オットー・ワグナーの郵便貯金局と水門。応用美術博物館、クアサロンであった。最後のクアサロンは19世紀にできた立派なサロンでヨハン・シュトラウスがここの為に曲を書き下ろしたりした場所である。ここでモーツァルト、ヨハン・シュトラウスをアンサンブル・オーケストラで聴いた。モーツァルトはドン・ジョバンニ、アイネクライネナハトムジーク、シュトラウスは青きドナウなど。演奏も音も大変良かった。
応用美術館は写真が撮れないのでイメージがここにはない。ウイーン工房、ヨーゼフ・ホフマン、オットー・ワグナー、ヴァン・デ・ヴェルデなどの家具など、さすがに見るべき物はたくさんあったし、リベスキンドのベルリンユダヤミュージアムの模型など、意外な物も見れてよかったのだが、デザイン・ミュージアムとしては古いというか中途半端な感じがした。日本のもそうであるがデザインミュージアムで素晴らしいと思える物に僕はまだ出会った事がないような気がする。要するに安易にバウハウスやモリスに頼らず、尚かつそれらの歴史を踏まえた上で20世紀をちゃんと総括し、かつ未来に向かったあるべきミュージアムのコンセプトをたて、実現するということを誰もまだできてないということなのだろう。もちろんそれが簡単でないことは承知の上だが。だからとにかく物だけ集めていますという感じにどうしてもなる。見せる側に何故今これを見せたいのかという本気の切実な自省がない感じがするのだ。
20世紀前半のデザインや芸術において既に世界は物じゃなく、関係だというコンセプトが自明であったにもかかわらず、現在のデザインが古色蒼然、後ろ向きに見えるのは何故だろう。
本当の意味での新しいデザインミュージアムは俺が作るしかないのか?とふと思いました。
自然史博物館(ここは昔行ったが)、ミュージアムクオーター、ゼツェッション、シュタインホーフ教会、ウイーン工作連盟ジードルンク、カール・マルクス・ホーフ、その他のオットー・ワグナー、今回あまり気が進まなかったクリムトやシーレも次のお楽しみとなった。
国会議事堂
街頭のポスター
フォルクス公園。誰もが入れる普通の公園なのだが手入れの気合いが違う。
昨晩シネマフェスティバルを行っていたノイラート、ダイヤグラムチームゆかりの市庁舎に改めて行くも土曜日で入れず。正面玄関の回廊。
美術史博物館
自然史博物館。美術史博物館の向かいにある。今回は時間切れで入れず。間にマリア・テレジア像がある。
マリア・テレジア像
以下美術史美術館。ここは写真が可だったのでメモ代わりに。ここの美術館は世界的に見ても突出して優れた作品が多い所である。レンブラント、フェルメール、デューラー、ホルバイン、クラナッハ、ファン・エイク、ブリューゲル、カラヴァッジョ、ベラスケス等など。また幼い頃ノイラートが影響を受けたエジプト部門もわりと充実している。
以下オットー・ワグナーの郵便貯金局。ここも以前来た時は郵便局として機能していたが現在は歴史建造物になっていた。感慨深いものがあった。大学院の修了制作を別々の作品だがコラボレーションとして建築家の菅谷君と共同でやったことを思い出す。
以下オットー・ワグナーの水門
クアサロン入り口
コンサートの幕間に
ツアー中はネット環境が悪くブログの更新はもとよりメールすら見れない状況が続いた。ここアテネでも今一つ不便でゆっくり考えながら更新することができない。限られた時間の中でデータをとりあえず、載せている状態が続く。
ギリシア(アテネ)を自由に歩き回れるのはあと二日だけとなった。
この日はアクロポリスを中心に歩き回る。パルテノン神殿、イロド・アティコス音楽堂、ディオニソス劇場、アドリアヌス門、ゼウス神殿、アドリアヌスの図書館、ローマン・アゴラ、風の神の塔、古代アゴラ、ヘファイトス神殿、アタロスの柱廊博物館などなど。
旅の途中なので直感的なことしか書けないが、ここはこれまで見てきた遺跡とは異なる印象を受けた。それはまず単純に遺跡が町中、しかも巨大都市の中にあるということによると思われる。最初アテネに到着してホテルの屋上テラスから見たアクロポリスの丘は、それ以外の喧噪に包まれた町と比較して頼りなげというか、単なる文化遺産だから残してます、観光名所だしという感じを受けた。しかし今日歩き回ってみて感じたのは、表層はそう見えるのだが、実は第一印象と全く異なっている事に気づいたのだ。
この町には神殿が建てられたころからあった磁場がそのまま強烈に残っていると感じられる。
都市の中にある遺跡ならローマだってあるじゃあないかという話にもなるのだろうが、ローマははっきりいってここほどの磁場はない。ローマはローマ人の都でもあったがむしろ、キリスト教徒の都であり、ルネッサンスであり、なによりバロックの都なのだ。ローマ人もギリシアを見倣って神殿を作ったがここに来てみるとローマ人とギリシア人の神殿に対する構えと言うか何と言って良いかわからないが(本気度?)、とにかく異なると感じるのだ。異質というよりもギリシア人の方が空間の聖性に対する感受性が圧倒しているのではないかと思えた。ギリシアを支配下に置いたにもかかわらず、(実際、武力、経済、政治と多くにおいて優っていたローマが)こと文化に関する事はずっとギリシアに対して謙虚であり続けた理由が少しだけ分かったような気がした。
これは少なからず新鮮な感動であった。結局、異教(キリスト教や回教)、近代産業社会、消費社会と町を覆っているものは替わっていくのだが、それでも簡単に消えないものを作った人々に改めて強い関心を持った。
それを可能にしたものは何だったのだろう。
そういえば歩きながらかつて学生時代に読んだ多木浩二さんと前田愛さんの空間のコスモロジーに関するテキストが頭に浮かんだのであった。またこの場所はギブソニアンならば「ヴィスタ」について考えさせられるのではなかろうか。
メテオラは奇岩群の頂上にある修道院で有名である。ここの修道院は14世紀頃から作られたギリシア正教であり、様式はビザンチンである。現在は5つの修道院に人が住んでいるらしい。私たちはこの中のルサヌーとアギオス・ニコラオスの二つを訪ねた。
その後ひたすらアテネを目指し、夕方6時頃アテネに帰還する。だいたい800kmのバス旅であった。
慣れないツアーなので気疲れしたせいか体調を少し壊した。ツアーの後半から主治医(?妻の事)の命令もあり禁酒生活に入る。
4月からこっちセーブすることなく、ずっと元気に酒は飲んでいたので、いい加減節制しろというゼウスのお告げだと思った。
午前中デルフィの遺跡を見る。ここはアポロンが信託をしたところとして、またアテネからも日帰りで来れる所でもあり、観光客も多く有名である。古代にはギリシアだけではなく世界の中心とされていた場所である。そういえばアイルランドにも世界の中心はあったが。
ここは雄大なパルナッソスの連山の中、山の斜面を利用して作られた巨大な聖域である。すそ野にはオリーブ畑が広がり、あまり高くはない糸杉(ジプレッツェーン)が印象的である。遠くにはコリンティアス湾も見え、とにかくロケーションが素晴らしい。神話が信じられる雰囲気が充満している。あのオイディプス王の悲劇も、ここでの神託によるものだ。私たちの今回の旅はトルコのディディム(アポロンの神託した聖域)といい、ディロス島(アポロンの生まれた島)といいアポロンに縁が深いと改めて気づかされた。
午後はメテオラに向かう為に北上するのだが、途中で添乗員が変わったり、バスの乗り換えがあったりのかなりの混乱であった。全くやれやれという感じである。団体行動に我慢を重ね、メテオラの近くのカランバカという町に宿泊。
この日に合流した人の中に日本から来たカップルがいた。夕食時、久々に日本の様子などを聞く。ガソリンの値段のことやそれにともなって様々な物が値上がりしている話。医療制度が変わって混乱していることなど。(この二人は医療関係者だったのでその情報は特に詳しかった)地震の予知の話や今年は東京が43度になるという予言の話も。
本当ですか?
混乱の予兆。予定していたバスが来れなくなって急遽、このような乗り物に乗ってデルフィの町見学。
2日目はオリンピアの遺跡と付設の考古学博物館を午前中かけて見た。スポーツを古代の人がどのように考えていたかとても考えさせられる場所であった。空気がとても清浄であった。古代オリンピックの哲学というか魂というか。
その後午後はほとんど移動時間である。パトラを通過してリオというところからコリンティアコス湾に架けられたアンティリオン大橋を渡りギリシアの中部へ。次の目的地デルフィで宿泊。
夕方にデルフィの博物館へ行った。1時間と少ししか時間が与えられず大変不満ではあったがここの博物館はとても素晴らしかった。
青銅の御者の像、勝利の女神ニケやヘルメス!の像(ギリシア彫刻の傑作群)など。
以下オリンピアの遺跡。
以下考古学博物館。
アンティリオン大橋
アンティリオン大橋記念博物館
以下デルフィの博物館
これは単なるお土産。
今回のギリシア旅行の日程は今年の3月に日本で決めておいたものだ。島々は宿だけ決めて自分たちで勝手に動き回ったが、ペロポネソス半島とギリシア中部は交通が不便と聞いていたので旅行会社の三泊四日のツアーに参加する事にした。
1日目はアテネを出発。コリント運河を渡りペロポネソス半島に入り、エピダウロス遺跡の古代劇場を見る。ここでは古代の医療、ヒーリングの聖地で医神アスクレピオスがまつられている。劇場、音楽、スポーツ、医療、浴場が合体しているのだ。ナフプリオンの町を通過し、アルゴス平野をわたりミケーネ遺跡へ。ここはバルカンから南下したギリシア人がクレタ文明を引き継いで独自化しミケーネ文化を築いたところといわれている。
その後バスで西に移動し、メガロポリスを通ってオリンピックの発祥の地オリンピアで宿泊。
あらかじめ覚悟していたことだが、遺跡や博物館では見学の時間を制限され、せかされ精神衛生上はとてもよくない。(そのくせ土産物屋での滞在時間が長いのだ)英語だがガイドがつくし、宿の心配、交通の心配をしなくて良いのはらくちんではあるけれど。
この日は丸一日この博物館に時間を割く。約7時間程いたがさすがに後半は集中力がきれる。いつもはこのブログではなんとかその場で編集して写真を選ぼうとはしている。しかし情報量が多くて短時間では無理である。
この日の分はランダム(=適当?)にさせてもらう。
明日からペロポネソス半島とギリシア中部に移動するのでここにはその後再度来てもう少しゆっくり見ようと思っている。
この日はアテネへの移動日である。午前中、宿でブログの更新などをして空港へ。(空港まではイクラリオンから20分程度。大変便利である)しかしトラブル発生。日本で予約したバウチャーを持って航空会社のチケットカウンターに行くとこの便は6月の終わりにキャンセルされている。電話連絡をとったが応答がなかった。またリコンファムもされなかったので残念ながらあんた達の飛行機はないと言われる。「エーッ??」と言うと(それ以外言葉が出てこない。そこで私たちは英語が得意じゃないのでもう一度ゆっくり説明してくれと言ったが結果は同じであった)しかし4時間後の飛行機があるからそれには乗れますという。全く信じられないが確かに私たちの予約した便そのものはなくなっていた。予約をしたのは3月だったと思うが、このようなことがあるとは。誰に文句つけて良いかわからないし、あきらめる。広くて人も少ない空港の待ち合い室で手紙を書いたり、記録をしたり読書で時間をつぶすことに。
この日はイクラリオンから最も遠くにある遺跡、フェストスへ向かう。あの神秘のディスクが発見されたところである。イクラリオンから63km南、島の反対側にある。クレタの島は高低差が激しく万年雪を抱えた山もある。植生もそのせいで多様であるという。フェストスまでこの高低のある山道を1時間半くらい走る。フェストスの遺跡が作られたのは4100年前、その後一旦地震で崩壊し、400年後に再建された物が現在の遺跡である。
遺跡からの帰り道(バスで30分くらい)にゴルティスの遺跡があるので寄った。ここはガイドブックなどにもそっけなく1行しか書かれてない所であったが実際は大変興味深いところであった。ここは古代からローマ時代(ローマ支配時代の首都)中世のビザンチン教会までが混在している場所であった。丘にはおぼろげながらかつての劇場の形が残っている。実際は広いのだが発掘中らしく、見学できる場所が限られていたのは残念である。ここは大きなオリーブの樹が印象的だったが、入り口のおじさんの説明だと1200年前のオリーブと言っていた。本当かどうか、信じられないけど。
またここで特筆すべきなのはゴルティン・ロウ(law code of gortyn)が思わず見れた事だ。これは紀元前5世紀頃ここにあるローマンオデウム(劇場)に残されたもので縦3メートル横8,5メートルの石盤にびっしりと文字が刻まれている。文字は古いギリシア語らしい。英語の解説書があったので詳しくは帰ってからになるがアルファベットの変遷を確認する上でとても貴重な資料であった。
バスの温度計は40度を示していた。日の照りつける遺跡はもっと暑いような気がする。これほど高温のお湯になったペットボトルの水を飲むのは初めての経験である。
以下フェストスの遺跡
フェストスのディスクの発見場所。
珍しく記念撮影をした。
ここからはゴルティスの遺跡。
http://www.docomomojapan.com/
にあっても誰も驚かないだろう。
発掘中の人々
クノッソスの遺跡の後、同じ日にイクラリオンの考古学博物館に行ったのだが、クノッソスのエヴァンスに「けち」をつけた以上、同じページに書く気にならず項を改め0707-2とする。実際この前後は同行している妻も僕も体調を壊し(妻はお腹の調子、僕は目が痛くなった)たのだ。まさかエヴァンスの呪いじゃないだろうが。
項を改めたのはもうひとつ理由がある。この博物館がとても素晴らしかったからだ。その中でも特筆すべきなのはフェストス(phaestos)の円盤を見れたことである。今から10年前、ゼミのまとめとしてwriting space design 98/99という本を石塚君やカトケンや中蔵君と苦労しながら作ったのだがその巻頭のページにCDのディスクとこのフェストスの円盤を並べてレイアウトしたのだった。僕はこの二つをつなぐ物がwriting space designを意味していると当時思っていた。(今もそれは変わらない)その時はまさか10年後に自分がそのオリジナルを拝めるとは想像だにしてなかったが。
フェストスの円盤は想像以上のものだった。まだ解読されていない。
10年前の自らの振る舞いが今を決定しているのだ、と改めてグレゴリー・ベイトソンのことを思い出した。
パンサーです。
蜂のブローチ
この文様はミロス王の家紋、もろ刃の斧。ラビュリントスを表しているという。
水晶でできた器
クレタを象徴する牡牛
蛇を持つ女
ライオネス
これが単なるフレスコなのかどうか分からない。
印章
フェストスのディスク
昨日の夜クレタ島のイラクリオン(英語表記だとheraklionヘラクリオン)に上陸し港の近くに宿をとった。ここはギリシアの島々の中で最南端、かつ最も大きい島である。300km向こうはアフリカ大陸である。ここはギリシア文明発祥の地といわれる。人が住み始めたのが今から約9000年~8000年前で5000年前から高度な文明が存在し、3800年から3500年前にひとつの最盛期を迎えたといわれている。前日訪れたサントリーニ島もその中に含まれ、これら全体をギリシア文明と呼んでいる。
ここにはクノッソス、フェストス、マリアという三つの重要な遺跡がある。
今日はまず私たちのいるイクラリオンの近く(バスで約20分)のクノッソス遺跡を訪ねる。これはギリシア神話の中でも特に良く知られている場所である。クレタのミノス王が自分の息子であるミノタウロスという怪物を閉じ込める為にダイダロスに作らせた迷宮=ラビュリントスとして。クレタがアテネをも完全な支配下に置いていた時代である。
また、これが単なる神話ではなく実在のものであったことを英国の考古学者アーサー・エヴァンスが1900年に発掘し、歴史上の事実として証明したことでも有名である。
そしてこのことからかつてプラトンの述べたアトランティス文明がここやサントリーニ島であったのではないかという話にも繋がるのだ。
そういった(興味深いが)細かい話を詳述する時間がないし、ここでの目的でもない。とりあえず私たちは写真のようにこのクノッソスの遺跡を訪れた。ここはかなり広大で興味深いものがあり、その重要性はよく理解できた。
しかし(これまでもいろいろ言われていたらしい)残念ながらアーサー・エヴァンスによる発掘と修復にはかなり重大な問題があると思った。私は考古学の専門家でも修復の専門家でもないのでとやかく言う筋合いはないのだろうが、これまで様々な遺跡を見てきた直感で言わせてもらえばエヴァンスは間違っていると思う。彼は修復と称して遺跡をコンクリートで再現(再構築)しているのだ。だから結果として建物の姿など、見る人にとっては分かりやすいのかもしれない。床も平らになって歩きやすい。しかし現地でこれは絶対やってはいけないことだろうと思う。別の場所に再現するならば別だが。だから見ていてどこまでがオリジナルでどこからが手を加えた物かがわかりずらい。しかも本当の修復ならば本来、当時と同じ素材、同じ工法をとるべきなのに例えば本来木であっただろう部分はコンクリートに着彩なのである。まるでへたなアミューズメントパーク化しているのである。しかも修復ではなくて適当な所であいまいに廃墟化しているのだ。まずそのことに驚かされた。どんな基準でそのようなことを行ったか理解できない。
ガイドブックには「約3700年前の宮殿が復元され、想像以上に生々しく保存されているのに驚かされる。...それらは訪れる者のロマンをかきたて、神話の世界へと誘う。」などと書いてあるがこれはとんでもない犯罪行為だと思え実は気分が悪くなった。
遺跡を見るという事は見る側にそれなりの想像力を必要とするものではないのだろうか。
この遺跡の発掘により、先に述べたようにギリシア文明の存在が決定づけられたことは間違いない。しかし昨日のアクロティリ遺跡などの発掘(これらはエヴァンス以降)から見るとエヴァンスの行為(イギリスの考古学研究所が現在も管理しているらしい)は考古学として超えてはならない一線を超えたのではないかと思えてしょうがない。とても残念に思った。
これはヨーロッパにおける最古の「道」だと言われている。
昨日も書いたが、アクロティリ遺跡を見れない事に失望しつつ今日は移動の日である。夕方次の島クレタ島に渡るまで博物館に行くことにした。最初はフィラ考古学博物館である。ここは入り口に紀元前17世紀の大壷があると聞いていた。ちゃんとありました。博物館の多くは撮影自由なので(フラッシュさえ焚かなければ)調子良く撮っていたら壁に「撮影禁止」の張り紙。なので中途半端なものになりました。
そして問題の次の博物館、新先史期博物館へ。これまでのギリシアでの博物館は全体的に規模も小さく(島にあるせいか)見せ方も適当な感じでどうもイマイチな感じがしていたのだが、ここでは良い意味で大きく裏切られた。予備知識もなかったせいだが、ここは新しい博物館で私たちの行けなかったアクロティリからの出土品がメインの博物館だったのである!
全てが今から3700年から4000年前のものなのである!。
写真をご覧になっていただければわかるが保存状態は極めて良い。50年前のものと言われたって信じるだろう。焼き物類を見ながら「ウオーツ。光悦!」とか「宗達!」とか「光琳!」とか「岡本太郎!」とか口走りながら見ました。
凄いです。
そして壁画。驚くべき新しさ(変な形容ですが)というか何と言うか。
圧倒されました。細かい話はあるけど書けない。
そういえばこの日のサントリーニの気温は39度でした。
フィラ考古学博物館
例の大壺
ここは主にティラ遺跡出土なので紀元前9世紀以降のものが主であった。
この島の名前サントリーニは何故か分からないが近代になって名付けられたもので昔はティラ島と言っていたという(thera寺)。この島への第一の目的は昨日記したように紀元前1500年、つまり3500年以上前の大噴火で埋もれ、再発見されたアクロティリ遺跡を見る事であった。(この間の事情はポンペイと同様だが何しろ火山灰によって保存されたものの年代が桁違いである)ここはつまり4000~3500年前のギリシア文明が封印されているところなのだ。しかしこの遺跡は2~3年程前からクローズドになっている、今回行っても見れないかもしれないよとは聞いていた。あらためて今回現地で確認したのだがやっぱり開いていなかった。アクシデントがあったからという説明だが詳しい事は分からなかった。残念ながらここは断念することに。今後行く予定のアテネの考古学博物館にめぼしいものは展示されているそうなのでそちらを期待することにした。
もう一つの目的地は古代ティラといわれる紀元前9世紀から1000年以上かけて栄えたというティラの遺跡である。ここは島で最も高い嵓山の上にあり、麓までフィラの町からバスで行き、麓でミニバスに乗り換えて8合目あたりまで行く。そこから徒歩で登る。こんな高い山の上の遺跡はめずらしい。ロドスのリンドス遺跡も高かったがタイプはかなり異なる印象だ。
帰りにワイン博物館を訪ねる。すいません。かなり個人的な下心がありました。ここは火山灰質なので土壌がワインに適しているのだという。試飲した収穫後のぶどうを一旦2週間ほど干して作ったワインを購入。
バスで夕方フィラの町にもどり、一旦宿で休憩。夕方の5時から8時まで開いている町中のメガロン・ギジ博物館へ。ここは建物が古く17世紀のもの。展示物は16世紀以降の島の歴史を示す地図、文書、写真などである。50年前の地震の様子を示す写真などが興味深い。
左下が8合目あたり。ここまでミニバスが来る。
遺跡の入り口付近にあるギリシア正教の小さな寺院。建てられたのは中世。
以下ワイン博物館
以下メガロン・ギジ博物館。サントリーニ島の火山の様子を示す銅版画。
かつて、この島を支配したオスマン・トルコのスルタンの手紙。
1956年(私の生まれる1年前)の噴火。
オールドポート。現在もロバがいて人を運んでいる。
博物館入り口。
博物館横の教会。
昨日と同じ夕日の名所。この真下がオールドポート。
昨日、目的のデロスを見たので今日はゆっくり起きて朝食をとり、ミコノスの考古学博物館へ。BC9世紀から6世紀にかけてつぼ絵が抽象形態(渦巻き)、動物(信仰)、人間(神話)へとはっきり変わって行くのを見る事ができた。
その後エーゲ海洋博物館へ。ここは町中の小さな私設博物館である。収集や見せ方も偏っているが私としてはいくつかの地図とコンパスなど航海器具をまめて見れたのが収穫であった。これもwritingの重要な道具なのだ。
その後、次の目的地サントリーニ島に行く為にフェリー乗り場へ。2時45分の出発予定が1時間遅れる。結局6時45分に無事サントリーニ島に到着。
ここは白い街並が断崖の上にある。それが雪が積もった様と形容されることで有名だ。島の構造がミコノスや他の島々ともかなり異なっている。何故ならばこの島は火山島でBC1500年前の火山で今の形になったという。ここで栄えたかつてのキクラデス文明もその火山によって埋没したといわれる。フェリーポートからはバスで20分程断崖を上ることになる。私たちの宿のあるフィラという町は1956年の火山による地震で崩壊し、その後にできたものだそうだ。
同じ観光地でもミコノスと異なりこの島との相性は良い気がする。
宿に荷物を置き町の散策。有名な夕日を見る。
以下考古学博物館にて。
BC7
博物館中庭
BC8
BC9
ここからエーゲ海海洋博物館
博物館中庭
サントリーニ島のバス
宿のテラス。ここは東向き。
向こうに見えるのが2000年前にできた火山島。
そもそも観光の島ミコノス島に滞在しているのはこのデロス島に来るためである。この島は紀元前1世紀に西アジアの国に滅ぼされて(島民1万人が殺されたという)以来、人は住んでおらず19世紀にヨーロッパ人の(ギリシア人自身の)ギリシア再発見とともに発見された古代遺跡である。ここはアポロンとアルテミスの兄妹が生まれた島として(もちろん神話上だが)エーゲ海の島々の中でも最も中心的な場所の一つである。約2000年来人は住んでおらず、現在は島自体が遺跡として保存されている。なので当然宿泊施設などはなく、ここに行く為にはミコノスから4キロだが船で1時間弱かけて行くしかないのだ。行きのフェリーが午前中3本、帰りが午後に3本あるのみ。私たちは朝一番のフェリーに乗り最終便で帰ってきた。島は日をよける場所がほとんどない。
唯一の建物がディロス博物館である。
さすがに来た甲斐があった。その規模はトルコのハットゥシャシュにほぼ匹敵するだろう。小高い山の上のゼウスのサンクチュアリからの眺めは絶景である。
ディロス島
ディロス島博物館にて。
顔料
驚くべき文字!
ゼウスのサンクチュアリ
復元図
ミコノスに戻る。
朝、6時半に宿を出て地下鉄でフェリー乗り場に行く。約30分。フェリーは思ったよりも大きく、埠頭は夏休みの観光旅行客でごった返していた。フェリーも満員。船は7時35分にピレウス港を出発、途中シロス島、ティノス島に寄りながら13時にミコノス島に到着。
島を散策。翌日のディロス行きの準備。インターネットでメールの確認とブログの更新をしようと考えていたがホテルでも町のインターネットカフェでもラップトップの持ち込みでは交信できないことがわかり断念。
夕日から完全に暗くなるまで宿の屋上で過ごす。夕日はさすがに美しい。思った程、星は見えなかった。
ミコノス島はいわゆるギリシア観光の中心の島の一つらしい。それはいわゆるビーチ(ヌーディストビーチとホモセクシュアル?)、ナイトライフ(ディスコ?)に代表されるもので要するに遊ぶ為の島であるらしい。私たちには何の関係もないので、いかにも欧米からのリゾート顔した旅人の中、ああ来た時期が悪かったと思った。例のいやな予感。観光にはおそらくベストの時期なのだろうけど。
悪い予感は大抵あたる。ホテルの住人が夜中に騒ぎながら町に(多分)繰り出し、朝がたに戻り、その度に起されるのには閉口した。
なんて上品なものではなく、実は夜中にあまりにも頭に来てドアをあけて怒鳴ったのだった。ここ二三日あまり眠れてなかったのでよっぽど頭にきたのだ。(翌日は大事なディロス行きが控えているし)何と怒鳴ったか忘れたがもちろん日本語である。あなたは怒るとああいう言葉になるのねと妻は言っていたが。多分九州弁で怒鳴ったのだろう。
ミコノスの印象、最悪である。
ピレウス港
途中の島
ミコノス島の宿のテラスから港を見る。
教会
風車。ここは風が強い。
港
島にはギリシア正教の小さい教会が無数と言いたいくらいある。
朝4時半にリエカの家を出て、5時20分発リュブリャナ行きの電車に乗る。8時にリュブリャナ駅到着。バスで飛行場に行き、12時45分初アテネ行きの飛行機に乗る。
時差が1時間減って東京との時差は6時間。
宿に荷物を置き、アテネの町を散策。
翌日の朝早くからから島巡りに出るので、アクロポリスなどアテネの町をゆっくり見るのは旅の後半になる。
リュブリャナの空港にて。
宿のテラスから見えるアクロポリス。奇妙に現実感がない。アングルもいまいちと思うのは気のせいかもしれない。
町中から見上げるアクロポリス。やっぱり現実感少なし。
国会議事堂前
ライトアップしてること自体がうさんくさいような。
旅の準備の大詰め。
年のせいだろうか。ローマの旅の疲れがなかなかとれず、やっと前日になって次の旅への緊張感がたかまる。
諸々、交信の必要にもかかわらず、またしても自宅でネットができなくなり、急遽カフェコントへ。
どたばたの一日。
ソボルさんに借りた本の複写。
翌日朝早いのでなるべくはやく寝たかったのだが寝付けず、結局2時間ほどの睡眠しかとれず。
旅の準備。
7月後半の宿の手配など。
夜、サッカー「ドイツ対スペイン」観戦。
ちゃんとスペインが実力通り勝ててよかった。
本当は3対0くらいの差なのに1-0なんてドイツはしぶとい。
終日旅の準備など。
やっと7月後半の旅程が決まる。
買い出し。ダリンカさんに教えてもらった近所の別の小さなマーケットへ。歩いて約20分。ここのパイはおいしい。行くだけで汗だくになるが。
あとはひたすら読書。
「ギリシア神話」の続き。
「ローマ散策」河島英昭著 岩波新書。
8月の旅行の計画など。
以下ローマ覚え書きの付け足し。
ローマには本当に魅力的な本屋がたくさんあった。しかも美術書や映画の本専門である。店の構え、ディスプレイからして美しいのだ。街角を歩いているとそのことは気配からわかるものだ。
また当然ながら各美術館にはミュージアムショップがあってここにも多くの魅力的な美術書がこれ見よがしに(?)置いてある。
しかし!
今回、何冊かの例外を除いて本は買わなかったし、そのような本屋にも意識的に入る事はしなかった。
その理由は一旦入ってしまうと自分が冷静さを失ってしまうような気がしたから。
恐らくバッグに溢れてこの先読みもしない本まで買ってしまいそうな気がしたのだ。
妻は不思議そうに「本屋さんには行かないの?」と聞いたが。
ともかく今は本じゃなくて「実物、実空間!」だろと自分に言い聞かせたのであった。
「...」。
それで良かったかどうかは自分でも分からない。
次にローマに行ったときはどうなるのだろう。
河島さんによれば古本でいえばローマよりもナーポリが凄いらしい...。
相変わらずの強烈な暑さである。
自宅でひたすら読書。「ギリシア神話」呉茂一著 新潮文庫。文体は少し読みにくくはあるが大変な名著だと思う。ヴィジュアルコミュニケーションに関するこのような本があれば良いのにと思いながら感動しながら読んでいる。
前にも書いたが自慢の船で(実はボートではなくちゃんとした船であった)アドリア海クルーズに出かけていた大家のユリックさんとダリンカさんが夕方帰宅。
夜、ユーロ選手権、ロシア対スペインをTV観戦する。スペインは何となくだが、もし日本が強くなったらこんなチームになるのかなあと思わせるタイプのチームである。全体に小柄だが機敏に良く動き、でかい相手に運動量とテクニカルな戦術で対抗する。でも時として技に溺れがちでもある。(にわか評論家をお許し下さい)ロシアはあのヒディングが率いるチームで前半は健闘していた。僕はこの試合は何となく無骨なロシアを応援することにした。前半は互角であると思われた。ところがハーフタイムの後突然ロシアは乱れだしぼろぼろになって負けてしまった。サッカーとは本当に不思議なスポーツだと思った。結果いよいよ、ユーロ選手権も大詰めでスペインとドイツの一騎打ちとなった。
今読んでいるギリシア神話でもそうだが、これまで旅した中で見たここクロアチア、そしてトルコ、ローマの様々な遺跡の中、競技場つまりコロッセオと劇場というのはどれも印象深いものばかりであった。(当時の人々がいかにそのことを大事にしていたかという意味で)
それで今日スポーツといっているものの意味が、それまでよりも僕にとって別の大きな意味を持っていると感じられ出したのだ。
僕らは子供の頃、スポーツは「余暇」だと教えられてきた。あくまでも普通の日常生活の付け足しの様な扱いであった。同じように学校では美術も音楽もそのような扱いであった。(日本における民主的戦後教育の成果?立身出世とは無縁の?)
しかし本当は違う。美術もスポーツも演劇も余暇なんかじゃない。何を馬鹿な事を...。
と2000年以上前のギリシア人やローマ人が言っている様な気がするのだ。
今日はクロアチアの祭日である。朝から強烈に暑く、強い日差し。午後、昨日買った切符の再確認の必要が生じ再び駅に行くはめに。町は閑散としている。おそらくこの日差しの中うろうろしている人のほとんどが旅行者だと思う。私たちもついでに四たび博物館へ向かう。しかし何とまたしてもお休み。よほどこの博物館とは縁がないのだろう。博物館の前で愕然としている旅行者を見かける。その後歩いて駅に向かう途中のバスセンターの側の教会に暑さを逃れようと入ると何とここも閉まっていた。ここでもがっくりしている旅人がいた。私たちの近所、トルサット教会は開いているよと教えたかったが大きなお世話かもしれないと思い黙っておく事にした。
クロアチアでは(おそらく他のヨーロッパとアメリカも)6月から小中学校(多分高校も)は夏休みということだ。大学は6月までやっているところもあるらしいが。ともかく夏休みが3ヶ月と長い。日本の子供たちが聞いたらさぞうらやましいと思うだろう。それで町のあちこちにバックパッカーの若人たちを見かける。
夜はユーロ選手権のドイツ対トルコをTV観戦する。
やはりどうしてもトルコを応援してしまう僕であった。ドイツは一時トルコを植民地化していたのでお互いの国民感情はどのようなものかと考えながら見てしまった。(もちろん単純なものではないと思われる)
(にわかサッカー評論家になって恐縮だが)試合内容は実際僕にはトルコの方が好ましく感じた。結構良い試合だと思ったが残念ながら最終的にはドイツのつまらない省エネサッカーが勝った。
ともあれサッカーはどっちかに肩入れするというか応援して見た方が楽しいのだと思った。いつのまにかユーロ選手権の興奮に私たちも知らずのうちに巻き込まれているのかもしれない。このトルコに負けた(後で知ったのだが)クロアチアでは今でもTVのゴールデンタイムであの時こうしてれば的な番組を放送しているのだ。あきらめが悪いというかよっぽどくやしかっただろうなと思う。
ダリンカさんとユリックさんは旅行で不在なので庭の水やりをする。
午前中、次の旅のルートなどを調べる。
家の外に出る気が起こらない程、日差し強烈。日本でいえば高気圧の張り出した8月の初めあたりの感じです。そう山下達郎的です。
午後から一人で(妻は自宅で読書)例のごとくコンチネンタルに行きだらだら汗を流しながら23日までのブログの更新を行った後、7月1日のリュブリャナ行きの電車のチケットを購入の為歩いて駅へ。そもそもリュブリャナ行きの電車が動いているかどうかが不明だったのだが、7月1日朝5時20分のリエカ出発が決まる。(駅員はとても親切な女性だった)そのまま即日リュブリャナ空港からアテネへ向かうことになる。
夜、ドイツ、チェコなどの日程を検討。
バルコニーの日よけの出し方を教えてもらった。
旅の整理の続き。食料や日常雑貨の買い出しなど。
ソボルさん、マイーダさんが訪ねてきてくれる。私たちのこれからの旅程などを伝える。今後の計画は7月からギリシアに18日、オーストリア、チェコ、ドイツに14日ほどの長旅が控えている。これらの大雑把な計画は出発前に決めておいたものだが、ギリシア以外はルートをまだ決めておらずこれから計画を立てねばならない。リエカに到着してもローマの余韻にゆったり浸る時間がなく、少し慌ただしい。
ローマに関しての簡単な覚え書き。
このブログを読み返すとその場その場で無責任というか勝手でぞんざいな印象を書いていて我ながら恥ずかしいが、まあそれはライブということで保存しておこうと思う。ローマについてはもっと時間が経たないと書けないし、再度、訪れるつもりなのでおいおい書く事になるだろう。
ジェラートはさすがにどこでもおいしかった。いつも食べるのに忙しく写真など思いつきもしないので画像記録はないが。
その他食事のことなど。
ヴィラ・ジュリアで三島由紀夫邸を思い出したこと。
二人のミケランジェロ、ブオナローティとメリージのこと。ミケランジェロその人と通称カラヴァッジョの二人である。
松に代表される植生とそのコントロールの仕方について。相当な強い意志を感じた。これに関しては恐らくちゃんとした文献があるのだろうと思うが...。
朝から掃除や洗濯、旅の荷物の整理など。
サッカーでは一昨日にクロアチアは負けたらしく町は静かである。しかも今日は日曜日で祭日(ファシズム抵抗の日)らしい。午後、コンチネンタルでブログの更新を行う。ローマの旅の最終分である。今回の旅行ではホテルでのインターネット環境は完璧で、スピードも日本と同じくらい(この旅で初めて)で快適であった。しかしここコンチネンタルでは相変わらず交信に時間がかかり、全ての更新が終えるのに3〜4時間もかかってしまう。自宅にネットが敷かれるのは8月からである。今少し不便なネット生活に耐えねばならない。
そういえば前日の出発時、電光掲示板に従ってホームで電車を待っていたら直前になってプラットホームの変更アナウンスが流れ、あわてて移動することになった。イタリア語のアナウンスは全く理解できないので周りの乗客の動きに従ったということだが。
ともかくも夜行電車で無事トリエステに戻る。朝の8時頃到着。やはり少ししか眠れず。ただバスと異なり体を伸ばせるので疲労度は全く異なるし、もう少しで自分の家に帰れるという安心感もあってそうつらくはなかった。トリエステから8時半リエカ行きのバスもあったが遅らせて12時半までトリエステで過ごす。
帰りのバスではパスポートコントロール(イタリアースロベニア間)で入国拒否をされた南アフリカの女性がいて、結構もめていた。土曜日ということもあり、お役所はどこも休みなので彼女(白人)は国境沿いからタクシーで入国地点のトリエステまで戻る事になった。(ようだ)言葉がわからないので詳しい事は不明だがシェンゲンがどうのこうのというのは聞こえた。そのせいでバスは少し遅れたが無事リエカまで帰還。
「ローマは暑い、暑い」と書いてきたがクロアチアはもっと暑くて驚いた。ただここはイタリアよりも幾分湿気が少なく感じる。しかも家は丘の上なので夜になると風が出て温度が急激に下がり、寝苦しいことは全くない。
トリエステ。駅は町の中心から少し離れている。
港に向かって広がる大きな広場
この日は今回のローマ滞在最終日だ。夜の10時50分のトリエステ行きの夜行に乗る。
朝レビッビアから地下鉄で出発駅のティブルティーナ駅まで行き荷物を預ける。バスでヴェネツィア広場まで向かい(いつものことながら旅の終わりになって地下鉄やバスの要領が分かってくるものだ)、カンピドーリオ広場の坂を上ってカピトリーニ美術館へ。ここは世界最古の美術館といわれているところ。約540年前の創設だ。ここはヴァティカンを別にしてこれまで見た中で彫刻、絵画とも最も充実しているように思う。昼食をはさんで4〜5時間いただろうか。カピトリーノの丘にあるので、美術館最上階にあるカフェからのローマの街並、フォロ・ロマーノの眺めも絶景である。
カンピドーリオ広場の坂
以下、カピトリーニ美術館
まるでジョセフ・コーネルのような...。
その後クリプタ・バルビへ。ここは今では地下にあるローマ時代の年の遺構がしっかり保存されており丁寧にみせてくれる博物館である。学芸員の解説付き(ただしイタリア語)。
その後強い日差しを避けながら(さすがに前日のアッピアウオーキングが効いていて結構疲労してます)、ジェズ教会へ。天井画、バッチャによる。サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会、パンテオン再訪。
カエサルが暗殺された場所アレア・サクラ(聖域)トッレ・アルジェンティナ広場。
サンタゴスティーノ教会にてカラヴァッジョの「巡礼の聖母」をみる。
最後の見納めは「ルドヴィシの玉座」をもう一度見ようということになり、アルテンプス宮(ローマ国立博物館)へ。ここの照明は自然光が主なので夕暮れの弱い光で見にくくもあったが、なかなか風情があってよかった。この時間帯(7時頃)には見学者は他にはいない。
ローマにしばしの別れを告げる。
今日は炎天下の中、覚悟の上でアウトドアである。アッピア旧街道をひたすら歩こうと思っていた。しかし実際歩いてみるとアッピア旧街道で昔の風情でゆっくり歩ける場所は限られている事が判明。(狭い上に車が猛スピードで走り歩道はなく両サイドは石壁が続く。茶店等全くない部分がかなりなのだ)途中から慣れないローカル・バスを乗り継ぎながらの旅となった。(よくある行き当たりばったりのパターン)
まずは前回入れなかったカラカラ浴場。
カラカラ浴場は思っていた以上に壮大である。ローマにいるとどうしても宗教的(カトリック的)荘厳さがこれでもかというほどにあって少しうんざりさせられるが、(というのも禅宗のせいか、我々日本人は宗教上の物質的荘厳さに対してどこか疑いを持ってしまうところがあるように思う)それとは別の純粋な構築物的荘厳さとでいうものがここにはある。宗教の醸し出すそれとは性質の異なる強さがある。
「テルメ小川もお風呂の王様もあんな規模じゃ歴史には残れないねえ」とここに来た日本人ならば皆しみじみ考えるのじゃないかしら(そんなことないか)。例えば今の東京都庁舎の廃墟を2000年後に見せられて昔の日本人は風呂の為にこれだけのものを作ったんですと言われればだれだって驚くと思う。そんな凄みがカラカラ浴場にはありました。変な比喩ですいません。
アッピア旧街道へ
サン・セバスティアーノ門手前、ドゥルーゾの門
サン・セバスティアーノ門
クインティーリ荘博物館。
クインティーリ荘
ここはカラカラ浴場から20キロ近く離れているので観光客はほとんどいない。広大な敷地である。ローマのそばとはにわかに信じがたい。とても良いところ。かなり記憶に残る場所。
チェッチリア・メテッラの墓。ここもアッピア街道沿い。
アッピア街道を沿って歩く。
セント・セバスティアーノのカタコンベ(入る気が起きなかったのでパス)
近くにサレジオ教会があることを地図で発見。ここは観光地でも何でもない。ここ20年来、縁あって東京のサレジオ会(小平市)の教会や児童福祉施設、小中学校のデザインに関するお手伝いをさせていただいた経緯もあったので、ここローマ郊外にその本拠があると知ってしまったからには(?)行かねばならないだろうと思い、往復6キロの杉木立とオリーブの美しい道を歩いて訪ねる事に。
http://www.salesio.or.jp/
http://www.salesio.ac.jp/
いわゆるローマの町中の教会とは全然異なるのでどこが入り口かわからない。周辺をうろついていると普段着だったが神父様とおぼしき方から声をかけられた。かいつまんで訪問の理由をしゃべったがもとよりこっちの勝手な思い入れで来たのだから理解されたかどうかあやしい。しかし彼はニコッと笑うと礼拝堂が見たいかと聞いてきた。「イエス」と答えるとこっちだよと礼拝堂に入れてくれた。疲れた一日だったのでほっとした時間を過ごす事ができた。しかも私たちの為に英語の話せる若い修道士がわざわざ来てくれて何かしてほしいことはないかと聞いてくれた。心から来れてよかったと挨拶をして辞した。
ドン・ボスコの肖像
ドン・ボスコとドミニコ・サヴィオ
ドミニコ・サヴィオの像
2000年以上前の敷石
ボルゲーゼ美術館に入館する為にはあらかじめ予約が必要で、月曜日に電話で予約をしておいた。朝宿を出て地下鉄B線、A線と乗り継いでボルゲーゼ公園方面に向かう。
途中サンタ・マリア・デル・ポポロ教会へ。
カラヴァッジョの礼拝堂。「聖パオロの改宗」と「聖ピエトロの逆さ磔」その他チボの礼拝堂、ピントリッキオのフレスコ画など。ここはかなり充実度が高い。
ポポロ広場、ラムセス二世のオベリスク。
ポポロ広場、双子教会(サンタ・マリア・イン・モンテサント教会とサンタ・マリア・デイ・ミラーコリ教会)。
サンタ・マリア・デイ・ミラーコリ教会内部。
ボルゲーゼ公園、ナポレオン広場からポポロ広場を見下ろす。
小金井公園に似ています。
ボルゲーゼ美術館
ここは名品ぞろい(カノーヴァ、ベルニーニ、カラヴァッジョ、クラナッハ、ラッファエロ、ティツィアーノ、ボッティチェリ、リューベンス他)であることは間違いない。僕の主な目的はやはりここでもカラヴァッジョで「馬丁の聖母」「果物籠と青年」「ゴリアテの頭を持つダヴィデ」「バッカスに扮する自画像」「聖ヨハネ」「聖ヒエロニスム」であった。
個人的な好みで申し訳ないがラッファエロ(前にも書いたが)と同様ベルニーニが苦手です。ロレンツォ・ロットの「聖なる対話」が素晴らしかった。
木本さんからは「美術館情報をしっかり書け」という指示をもらっていますが、言い訳するようで何だがここでは別にまともな美術案内をするつもりはないので皆さんそのつもりで読んで下さい。私の好みなんてコロッと変わってしまいますから。とはいえここの美術館は先にも書いたように予約を要求する上予約料と入場料で軽く2000円以上をとり、2時間たつと入れ替え制で追い出されるのだ。落ち着かない事この上ない。
当然館内は撮影禁止なのでカラヴァッジョ、クラナッハなど(以下は参考イメージです)
ロット
次はヴィラ・ジュリア・エトルスコ博物館。ローマ美術に影響を与えたギリシアとならぶ源泉(しかもローマによって徹底的に破壊されたため残存品が少ない)エトルリア美術に興味を持っていたので期待が大きかった。しかしここは展示、解説ともわかりにくくかなり失望した。ただこの博物館内にある館ヴィラ・ジュリアの遺構は素晴らしかった。
ヴィラ・ジュリア
再びボルゲーゼ公園を通り国立近代美術館へ。
ここは19世紀から20世紀にかけての主立った近現代絵画がイタリアを中心にしながら全ての作家あります的な展示だった。内容に関してはかなりムラがあるように思う。全体の印象はあまり強くない。ただデュシャンをまとめて5、6点見れたのは収穫だった。
宿を替わる日。これまで滞在した場所はテルミニ駅から10分くらいの所で比較的便利な場所であった。東京駅に対する日本橋とか銀座の感覚である。今後の事も考えて後半は地下鉄で中心部から少し離れた場所を選んでみた。地下鉄B線の最後の駅、レビッビアである。それでもテルミニから15分弱。地下鉄の車両は落書きで表も内部も悲惨な状況である(後で全ての車両ではないことが分かったが)。レビッビアまで来ると完全な郊外の住宅地である。新しい宿は駅から4〜5分なので思ったより不便ではない。一旦荷物を預け再びテルミニ駅へ戻る。
今日は月曜日で美術館関係は休みが多いので、ローマ巡りのバス券(1日16ユーロ、ダブルデッカー)を購入し、遺跡巡りと町巡りをすることに。このバスは終日、何度でも乗り降り自由でかなり頻繁に走っている。まずは日本語のガイドを聞きながら約1時間半かけてローマの町を一周する。テルミニ駅で一旦昼食後、次はコロッセオで下車、コロッセオ、カラカラの浴場跡、パラティーノの丘を散策。といってもコロッセオには博物施設もあり、パラティーノの丘も同様で、しかもかなり広大で4時間はかかった。真夏の暑さであった。サングラスだけではだめで帽子をしなければ目が参ってしまう程、光がきつい。考えてみればこの季節、日本では梅雨である。ヨーロッパの夏は長いのだと実感する。その後、夕暮れのサンピエトロ寺院に行く。宿に戻ったのは9時過ぎであった。その後0615の更新をして1時就寝。
バスの車窓から
コロッセオ。
コロッセオ内部の展示。なかなか凝っていて好感が持てた。
コロッセオからコンスタンティヌスの凱旋門を見る。
コロッセオから松並木(サン・グレゴーリオ通り)を通ってカラカラ浴場跡に向かう。2キロくらいか。
浴場競技場。入り口を間違えてこの競技場を一周するはめに。
カラカラ浴場跡。なんと午後2時までで入れず。
閑静な良い場所だったのでまた機会があれば来る事にしようと思う。
歩いてまたコロッセオのそばパラティーノの丘へ。以下パラティーノの丘
スタディオ
パラティーノ博物館
パラティーノの丘から東を見る。
丘から北を見るとフォロ・ロマーノが見下ろせる。この角度からかつての市民たちは皇帝の凱旋を見ていたのだ。
丘をおりる。
以下サン・ピエトロ広場と寺院。
ピエタ
下に見えるのがピエタ。
長い夕暮れ
三たびテヴェレを渡りテルミニへ。
朝8時半に宿を出る。
マッシモ宮 ローマ国立博物館 9時開館のはずなのに10分以上待たされる。ここはローマを中心にギリシア美術も含む。コレクションはさすがに全て素晴らしい。特にフレスコ、モザイクの多様さは特筆すべきものがあった、
まるでダリのドゥローイングのような。
リヴィアの家のフレスコ画。
円盤投げ ランチェロッティ
以下ディオクレティアヌスの浴場跡 実はローマ国立博物館。始めは単なる遺跡だと思って入場すると、とんでもない、かなりの規模の考古学博物館であった。特に文字、スクリプトゥムに関する丁寧な展示が行われていた事には驚く。しかしとにかく量が半端ではなく見切れなかった。
コンパス。このようなディテールの展示が学芸員の意識の高さを示しているように思う。
こういった展示の仕方もセンスの高さを示しています。
一階は屋外の展示
鉄の書物
珍しく同行していた妻が足が痛いと悲鳴を上げる。たしかに8時半から2時まで歩きっぱなしだもの。ホテルに戻り休憩をとることにする。
共和国広場 ナイアディの噴水
サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会。ミケランジェロがファサードのデザインをしたことで有名である。確かに本当に素晴らしいものである。彼は自分の意匠を完全に殺してローマ時代の遺跡が全面に出るようにデザインしているのだ。自己顕示欲の強い人かと思っていたので意外だった。写真の扉デザインはもちろん別人です。
床には天球図が大理石で埋め込まれていた。
教会裏手にはローマ時代の遺構が残る。
ファサード正面。内部と外部のコントラストこそミケランジェロがやりたかったことなのだろう。多分。
ナイアディの噴水
以下サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(裏側。こちらを最初に見て閉まっていると勘違いしました)
妻に言わせれば「ローマで最もありがたみ(?)の感じる教会ということだが、確かにそのような感じがしないでもない。
バルベリーニ広場
トリトーネの噴水
スペイン広場(朝)
船の噴水
ボルゲーゼ宮
以下アルデンプス宮 ローマ国立博物館
天井とフレスコ
ルドヴィシの玉座 側面
ルドヴィシの玉座 二人の乙女に海から引きあげられるアフロディーテ
ルドヴィシの玉座 側面
(妻を殺して)自害するガリア人
ナヴォナ広場 ネプチューンの噴水
ナヴォナ広場 四大河の噴水(工事中)
以下パンテオン
ミネルヴァのオベリスク
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会(フィッリピーノ・リッピ、アンジェリコ、ロマーノなどの絵があった)
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会(外観)
ドーリア・パンフィーリ美術館
ここはローマ一大きな屋敷の一部が美術館になっているところ。私設である。ライティングも悪いし、収集のしかたが金持ち趣味というか好きな所ではなかったがここにはカラヴァッジョが三点もある。その中でも「エジプト逃避途中の休憩」は傑作中の傑作であると思う。その他、ここにはベラスケスの有名な「イノケンテゥウス十世」、ピッピ、ティッツアーノ、ブリューゲル、メムリンク等等があるがいかんせん、展示の仕方が最悪。平気でカラヴァッジョの贋作を展示しているのだもの。
「エジプト逃避途中の休憩」
サン・ルイージ・ディ・フランチェージ教会ここにもカラヴァッジョが三点あります。傑作です。
聖マタイの殉教
聖マタイと天使
そして「聖マタイの召し出し」
たまたま結婚式に遭遇した。
テヴェレ河
スペイン広場(夕刻)
これからも何度も行く事になるであろうイタリアへの最初の旅である。朝5時に家を出てバスで町のバスセンターへ。ハンバーガーを買って6時のトリエステ行きのバスに乗る。トリエステには8時半に到着。実際の距離は車で普通に行けば1時間もかからない距離だと思うのだが、バスは客を拾うため近隣のオパティアなどをまわり、しかも途中でパスポートコントロールなどがあるので2時間半かかってしまう。
トリエステでドキドキしながらバスセンターから駅へ急ぐ。(無謀にも列車の予約をとらずに来たのだ)運良くローマまでの特急券(ユーロスター)をとることができた。しかも帰りの夜行寝台も。受付のお兄さんがとても親切でラッキーだった。
列車は9時50分発。トリエステからヴェネツィアまで1時間半弱。ヴェネツィアからフィレンツェまで2時間半。フィレンツェからローマまで1時間40分。ローマに到着したのは16時過ぎである。
ローマへは初めてである。25年前、イラストレーターの斉藤君と一ヶ月間ヨーロッパ旅行をした時、ローマまで行く時間がなく、フィレンツェ、ヴェネツィアまでで引き返したのだ。二、三日の滞在をするくらいなら行きたくない(行くべきではない)と思ったのだ。行くのならばちゃんと行かなきゃ、なんて思った記憶がある。それから25年も経つとは思わなかったが。
ローマが近くになるにつれ、「満を持しすぎたかなあ?」と突然不安になる。というのもこの10数年の間、ゲーテの「イタリア紀行」と和辻哲郎の「イタリア古寺巡礼」に始まって塩野七生さんの「ローマ人の物語」(当然全巻読破しました)他、ローマ、イタリア関係の本を随分読んできたのだった。なぜ不安になったかというと文字による妄想があまりにも先行しすぎているかもしれないと思うからだ。
とりあえず宿に荷物を置いて夕暮れの町を散策した。
トリエステ駅
駅前
ユーロスター。もっと立派できれいな車両を想像していました。
恐る恐るローマを歩く。
クイリナーレ広場
フォロ・トライヤーノ
トラヤヌスの記念柱
ヴィットリアーノ
フォロ・ロマーノ
コロッセオ
明日からイタリアのローマに短期旅行に行く予定。本格的な旅の準備に追われる。
例のサッカーのヨーロッパ選手権でクロアチアは今度はドイツに勝った模様。このあたりは閑静な住宅街にもかかわらず、家の中にいてさえも、どよめきや爆竹の音が聞こえる。町中はこの前とは比べ物にならないくらい大騒ぎなのだろう。この試合はテレビで見たが確かにクロアチアは強いように思う。良い試合であった。少し前だが同じ大会で土砂降りの中トルコがスイスに勝ったのも少しうれしかった。
ソボルさんと地元の警察に滞在許可証延長の申請に行く。帰りに町で次の旅の準備、ブログの更新等。夜テレビで映画「ブラックレイン」をやっていたのでついつい見てしまう。嘘でもいいから日本が映っていればそれだけで見てしまうのだ。「ああ、ひどい映画だな」と思いつつも「おお20年前のポストモダンが流行っていた頃の大阪だ」とか、健さんの英語力とか。
近所のトルサット聖母教会につい最近完成したビジターセンター。
そう、レンガがクロアチア国旗の意匠なのでした。
【展覧会のお知らせ】ここで何度か登場したえびりんとこおおらいさんの展覧会が偶然今開催中で、お知らせします。お近くの方はどうぞ。6月14日(土曜日17:00)まで
おおらいえみこ展 「ヒゲとロバと三日月と」
ギャラリーLa Mer(ラメール) 中央区銀座1-9-8奥野ビル205
03-5250-8108 http://www.g-lamer.com
今度結婚式が行われる卒業生のための祝辞を書く。
このような文章は結構時間がかかるものです。
あとはひたすら読書など。ローマの歴史について。
英語の勉強と称して「草枕」夏目漱石の英訳文を読んでいる。
これで英語の勉強になるかどうかはかなりあやしいけれども。
不安定な梅雨のような天候が続いていたが今日は晴天である。家にいて読書と勉強。エジプトの歴史について。ラムセス二世の伝記。
久しぶりに、ちょっと目の調子が悪くなり、散歩にも行かず。
トラブル修復のつづき。
インターネット用プリペイドを更新するために丘をおりて30分ほど歩き、センタービルのショッピングセンターへ。ついでに買い物をする。意外なことにここのカフェで出されたコップの水がおいしくて夫婦で顔を見合わせる。前にも書いたがクロアチアの水は私たちにはきつすぎてどうもだめで(ペットボトルの水でさえ)今日は他のペットボトルを試そうと話していたところだったのだ。(ちなみにトルコでは何の違和感もなく水はOKだった)そうだ!浄水器だという話になり、浄水器売り場へ。蛇口に装着式ではなく、貯水式のものを購入。結局これにて水問題は解消した。
その後妻は家に戻り、僕は20分ほど歩いて町まで行き、コンチネンタルでブログの更新を試みる。なんとか復活。しかし、トルコでのカーネルサンダース現象といい、今回のトラブルといい全く原因がわからず、しかし災難は確実に常に忘れたころやってくる。大村嬢にはソフトが無事動いている限り、ネット経由で送られてくるソフトの更新はしないほうが安全ですよと言われていたのでそれも守っているのだが。このレオパルドというOSのせいだろうか。勝手に何かしでかすのだ。この先が思いやられます。またプリペイド方式も面倒なので(ブログの更新やちょっと集中的に調べものをすると250メガなんてあっというまになくなってしまうのだ。その度にシティセンターまで行くのはあまりにも効率が悪い)ソボルさんに電話線を敷く相談をしなければならない。
コンチネンタルのカフェで作業していて、ふと気づくと外は昼間のようにあかるいのだが、8時を過ぎていた。帰ろうとすると、周りの雰囲気が異様なことに気づく。皆レッドスクエアのTシャツを着てそこここでさわいでいるのだ。おそらく何かサッカーの試合でクロアチアが勝ったのだろうとは想像はついた。大通りまで出て帰りのバスを待っていたら目の前を町の中心に向かって走っていく車にはクロアチアのユニフォームを着た人が乗っていて車窓から体を乗り出して旗を振っている。道を歩いている集団も興奮し雄叫びをあげている。そのような車が瞬く間に続々増えだし、全ての車がクラクションをならし、ジグザグ運転を始めたりしている。あっというまに大交通渋滞。しかも発煙筒が焚かれているらしく道の先では煙も漂い、騒乱状態である。おかげでバスは30分以上またされるはめになる。家に帰るとテレビではヨーロッパ選手権かなにかが行われているらしく、クロアチアがオーストリアに勝ったとのことだ。まるでワールドカップに優勝したみたいな騒ぎ方ではないのか?
やれやれ。
雨時々晴れ
そろそろ、精神状態も日常生活に戻り次の旅の準備もはじめなければと思っていた矢先、またもやコンピュータトラブルが発生した。この日は町の市場に食料の買い物に行き、ついでにブログの更新と東京にいる息子とスカイプでチャットをする予定であった。チャットの最中、だんだんとコンピュータの挙動がおかしくなったので、一旦スカイプを切断し再起動をかけた。こちらの異常を息子に伝えるためメールソフトのエントラージュを立ち上げるといきなり、更新(?)されていて、今までの送受信データ全てがなくなってしまっているのだ。アドレス帳にあった情報も全てなくなっている。同じくサファリをみるとこちらも同様、いきなりまっさらな状態に勝手になってしまっているのだ。履歴も何も消えてしまっている。ここにはブックマークにこれまでの旅程で集めた各重要情報のアドレスがあったのだが全てなくなってしまっていた。ここ一ヶ月以上、保存もしていなかったのだが。
全く原因がわからない。
呆然とする。
結局息子とは電話で話すことになる。
帰宅し、やむを得ずエントラージュにメールアカウントを入れ直すと4月半ば以降の受信分を再び読み込み始めた。(それ以前は全て失われたのだろうか?不明である)多くは迷惑メール、宣伝の類いだが大事なメールを救うためには全てを読み込まなければしょうがない。これに夜おそくまでかかる。こちらから送信したものは全く失われたままだ。このおかげでネット用プリペイドを使い尽くし翌日に持ち越す。サファリもどうすることもできない。自分のブログのアドレスやそれに書き込むためのアドレスすらわからないのだ。またしてもアキオ君にメールで教えてもらうこととなる。
終日雨。読書。旅の記録。他。
以下、トルコ旅行中訪ねた主な場所。
【museum/library美術館/博物館等】
トプカプ宮殿/アヤソフィア博物館/国立考古学博物館/装飾タイル博物館/古代東方博物館/トルコ・イスラーム美術博物館/アナトリア文明博物館/ハットゥシャシュ博物館/ギョレメ屋外博物館/ゼルヴェ屋外博物館/アンタルヤ考古学博物館/騎士団長の宮殿(ギリシア、ロドス)/考古学博物館(ギリシア、ロドス)/アフロディスィアス博物館/エフェス考古学博物館 以上15カ所
【ruins遺跡等】
地下宮殿/ヒッポロドーム/ヴァレンス水通橋/アンカラ城/アウグストゥス神殿/ローマ浴場跡/ハットゥシャシュ遺跡/ヤズルカヤ神殿/カイマクル地下都市/ハドリアヌス門/ファセリス遺跡/ペルゲ遺跡/アスペンドス遺跡/スィデ円形劇場/アポロンとアテナ神殿/リキヤの墓/カシュ古代劇場/パタラ遺跡/クサントス遺跡/レトゥーン遺跡/スミス山遺跡(ギリシア、ロドス)/リンドス遺跡(ギリシア、ロドス)/ヒエラポリス遺跡/アフロディスィアス遺跡/ディディム遺跡/プリエネ遺跡/ミレト遺跡/エフェス遺跡/アクロポリス遺跡(ベルガマ) 以上29カ所
【camii/temple/churchジャーミー/教会/寺院等】
スルタンアフメット・ジャーミー/スルタンアフメット一世廟/スュレイマニエ・ジャーミー/トカル・キリセ/スレイマン・モスク(ギリシア、ロドス)/エヴァンゲリスモス教会(ギリシア、ロドス)/我らの聖母教会(ギリシア、ロドス)/オルハン・カーズィー・ジャーミー/イェシル・ジャーミー/ウル・ジャーミー/レッド・バジリカ 以上11カ所ただし小さいジャーミーは省略
【city/nature街並と自然景観等】
グランドバザール/古本街/エジプシャン・バザール/ギョレメ・パノラマ/パシャバー地区/アヴァノス/ローズバレー/ウフララ渓谷/クルシュンルの滝/石灰棚/ブルサ・バザール
以上11カ所
以下智子の写真機より
イスタンブール
ザグレブで見つけた「ゼニート」というアヴァンギャルド機関誌について調べるためどうしても英語--クロアチア語の辞書が必要になり買い物に出る。ついでにコンチネンタルのネットカフェでブログの更新。その他食料や日常品の買い出しなど。
一日はおおむねクロアチア語、英語の勉強と資料の読書や整理であっといまに過ぎていきます。
トルコ覚え書き2
このブログにも何度か登場した私の個人的トルコ旅行アドヴァイザーであるえびりん(ちなみに彼女は版画家で毎年、銀座で個展をしています)から聞いた話に以下のようなものがあった。(無断使用をお許し下さい)
かつて120年程前日本を訪れたトルコの使節団(まだトルコにスルタンがいた時代ですね)の船が帰路、台風のせいで不幸にも串本沖で座礁し、打ち上げられた人々を串本の貧しい漁民たちが親身に助けたのだという。その話は伝説としてずっと今日までトルコでは語り継がれていて、彼らの親日感情の背景にはそのことがあるという。えびりんの話で感動的なのはその後で、実に最近の湾岸戦争時の話に移ります。
かのフセインが「イラク上空を飛ぶ飛行機は全て撃ち落とす」と言って、実際何機か撃ち落とされていた時、イラクには逃げ遅れた日本人(商社関係の人など)がいたそうだ。いつものことながら在留邦人には冷たい日本政府は当時、早々に彼らを見放してしまったのだった。これら絶望的な状況の日本人に救いの手を差し伸べたのがトルコ政府で、彼らはその為のチャーター便を飛ばし無事多くの日本人が救われたということなのだ。ひょっとしたら同じ回教徒の国なのでトルコ航空機は撃墜される確率が少なかったこともあったのかもしれない。しかし安全である保障はどこにもなかったはずだ。恥ずかしながらえびりんにこの話を聞くまで僕はこの事実を知らなかった。自国民が関係しているならばいざ知らず全く関係のない日本人に対するトルコのこの行為はかつての串本の日本人に対するトルコ人からのご恩返しだったようだ。実際日本人の商社マンたちは涙を流して感謝したらしい。
...とここまでの話は事実であり美談である。
しかしえびりんの話はこの後、暗いアイロニーへと転調するのであった。何故ならばかつての串本沖で救われたトルコ人とは異なり、湾岸戦争で救われた時には涙を流したはずの日本人は帰国後そういった事実を日本人にはほとんど伝えていないという事実があるからである。もともと、外国を旅する日本人に冷たい日本政府や外務省(そもそも一旦は見捨てたのだから後ろ暗いので)は宣伝するわけがない。しかし、100年以上も前の借りをしっかり返す義理堅いトルコの人と、危機が自分の目の前から去れば恩も忘れる日本人とは何なのでしょうねとえびりんは寂しそうに語ってくれたのであった(勝手に脚色してごめん)。
さすがに今回の旅では僕に串本の恩を返させてくれとも、湾岸戦争の借りを返せとも言ったトルコの人はいなかった。しかし「日本人は表面上ではニコニコ笑って親密な態度なんだけど、本当はいったい何を考えているのだろう?日本人は素晴らしいと思うが旅の途中に示す親密な態度は本物なのか、その場しのぎなのか私にはわからない。私は日本人を信じたいのだけれどあなたはどう思いますか」と訴えてくる若者がいたのは事実である。また「日本と韓国はトルコ人から見ると同じに見えるがその関係はどうなっているんだ」(関係=コネクションと彼は言ったのだがそれは2000年にわたるコネクションなのか最近のことなのか、政治的なことなのか、文化的なことなのかよく分からなかった)とか「私たちは英米人から何でトルコ人は日本人や、中国人に対してそんなに親切なんだと言われるくらい私たちは日本人に親近感を持っているのに日本人は私たちに対してどうなんだろう」という結構(人種差別的な問題も含む)複雑な疑問までも投げかけられたのであった。私は旅に忙しい日々を送っていた。しかし夜遅くブログなどを宿の人気の無いレストランなどで一人更新しているとよく話しかけられたのだ。彼らの何気ない質問は仮に日本語で話すにしても微妙で難しい話であった。それを英語で問いかけられたのだからかなり難儀しました。実際僕の答えは無茶苦茶なものとなったと思う。本当はそっとしておいてほしかったのだけど、僕はそんな質問を誘発するような顔をしていたのだろうか?(ひげのせいかもしれないが「お前はこれからジャーミーにお祈りに行くのか」といった冗談を二度程言われた)
しかし僕もご存知のようにこのブログで迂闊にも「トルコ人の考えていること、その真意がどこにあるか分かり辛い」とか勝手なことを書いてしまっていたのだが、苦笑ものだが彼らも日本人に対して同じような疑問を持っていることがわかって興味深かった。またこのような状況下、自分の母国のこと(あるいは母国と中国、朝鮮半島、東南アジアの国々との関係)を母国語以外の言葉で話すという経験は重要なものだとも感じた。
もちろんたかだか一ヶ月弱の滞在でトルコ人についてとかトルコについて僕が語れるわけは無いしそのつもりもなかったのだ。しかし彼らの質問はそのような僕のありきたりの答えを認めないたぐいの真剣さがあった。例え短期であったとしても意見を求めて来る彼らの直裁さというものは貴重なものだとも思った。例えば日本人が日本に来た外国人に「日本はどうですか?」と聞く儀礼的な質問(はじめから真剣な答えなど期待していない)と彼らのそれとは異なるように思えたのだ。彼らの多くは儀礼的な返答を好まないようだ。実際僕はどこまで話せば良いのか迷いました。それは日本人特有の「良い加減」と彼らの背後にいる「アッラー」のせめぎあいなのかどうかは分からないけれど。
少なくとも僕は今回の旅で多くのトルコの人にもらった沢山の(時には不思議な)親切と暖かみを忘れないことくらいはできると思う。
昨晩は久々にゆっくり眠ることができた。当初、このような拠点(クロアチアにフラットを持続的に借りること)を持つことは少し贅沢なのではないかという気持ちもあった。しかし実際旅してみると、拠点なしの移動(放浪?)生活はあまりにもきついということがわかった。もちろんここリエカでの生活も東京の自宅のように自在とは到底言えないまでも、充分以上にその意味があったことを実感させられている。
トルコで見た様々のものや多くの人と話したことなどが熱をもった大きな一塊となって頭や心に残っており、それらを抱えたままここ数日は過ごさねばならないようだ。整理がつこうがつくまいが、そうしなくてはどうも元の精神状態には戻れないように感じている。それくらいトルコでの経験はインパクトがあった。リエカは今、日本の梅雨のようで雨が降ったり止んだりしている。(僕らが戻る直前までは31度の暑さだったそうだ)
今日は終日荷物の整理などをして一歩も外には出なかった。
トルコ旅行覚え書きの前にこの旅のそもそもの目的を記しておきたいと思う。
このブログを見ている方々には気楽な遺跡巡りにも見えるかもしれませんが、私の旅はこれでも一応研修旅行なのです。
【研究課題】
ヴィジュアル・コミュニケーションにおける「文字」「図像」「書物」など「視覚記号」諸要素の起源、歴史的変遷、環境との関係に関する調査と研究。
【研究理由】
私のこれまでの研究テーマは以下の2点である。
(1)書物、ダイヤグラム、サイン・システムなどタイポグラフィと図像を軸としたグラフィック・デザイン史研究、およびそれらを今日的視点で再解釈し近代の視覚言語とは何かを問うもの。
(2)文字の発生前後からの人類の記述の変遷(History of WRITING)をたどり、その中にヴィジュアル・コミュニケーション・デザイン史を定位し今日的視点からデザイン概念を再構築すること。
[これまでの研究と今回の在外研究との関連]
(1)トラヤヌス碑文に見られるインペリアル・キャピタルからルネッサンスを経て今日までリバイバルを重ねた人文主義的タイプフェイスの歴史と変遷(記念碑、墓石から印刷された書物まで)の現地調査と資料収集。
(2)2007共同研究「オットー・ノイラート研究」に関連し、ISOTYPE(International
System Of Typographic Picture Education)をヨーロッパにおけるヒエログリフ解読(エジプト再発見)の文脈で考察し、同時に18世紀以降のダイヤグラム、サイン・システムを主とした視覚記号のヨーロッパ各国における展開の現地調査と資料収集を行いたい。
以上が(大学に提出した書類の抜粋なので文章が硬くてごめんなさい)私の今回の旅の大きな目的である。もしこれに付け加えることがあるとすれば、出来る限りそれらが生み出されたその場所に行くことであった。
今回のトルコの旅ではまさにトラヤヌス時代の文字が生まれるかなり以前からその前後までの様々な文字(記号)による碑文、粘度板、円筒印章、貨幣、文様、器具、彫刻、装飾品等をかなりまとめて見る事ができた。それらはシュメールによる楔形文字の発生から彼ら独自のアルファベット(表音文字化)への移行、エジプトの象形文字とそのアルファベットへの移行、象形文字と楔形文字の交流と新たな文字の発生(未解読の多くの文字も含まれる)などである。短く見積もってもBC2000年間の変遷がそこにはある。現在の私の中では整理がつかず混乱状態であるものの、少なくともエジプト、シリア、アラブ、ヒッタイト(トルコ)ギリシアといった地中海をとりまく諸地域が商活動、侵略、戦争、民族移動などを通して、かなりダイナミックに交流し、その中で否応なく文字が生成、流通してきたことが実感として理解できた。このことは今後丁寧にトレースする必要がある。
これまでタイポグラフィの教科書にも全く触れられることのなかった「何故、トラヤヌスの時代(要するに今から2000年程前)に既にあれほど完成された書体ができていたのか」(「それをまさか単純にローマ人の功績に帰すだけでは済まないだろう、では誰がどのようにして?」...これこそが私のこの旅の本当の目的であるが)についてのヒントがいくつもあった。またそのことはただ単に文字の形だけを見ていても理解できないような気がする。当時の人々、少なくとも造形に携わった人間たちの装飾品や建築物に対する数学的、幾何学的対比、比率に対する感覚と密接に結びついている事も間違いの無いことのように思われる。この地域と時代は歴史学的にも考古学的にもまだまだ謎が多くこれからの新たな発見などによって文字の歴史もかなり書き換えられていくような予感も感じた。ある本によれば歴史家は文字が生まれてからを歴史時代としそれ以前を考古学的対象と切り分けるそうだが、コミュニケーションという視点からみるとその理屈はあまりにもアカデミズム的でおかしいと思う。考古学と歴史学のもっと統合的で視覚記号論的な歴史生態学が必要なのではないのかという気もした。(門外漢なので勝手な感想ですが)
今回わかったことはこれまでのわたし達に与えられている歴史的知見がヨーロッパにおいてもたかだか18世紀の終わりから始まったということだ。
私自身も自分の整理の為に地道に年表を作ろうと思っているが自由に参照できる資料が手元に無いので、この場所でどこまでできるかわからない。しかしこれからの旅のためにはできる限りのことをしておきたいと思っている。
この旅において特筆すべきなのはアンカラのアナトリア文明博物館で見たチャタル・ホユックの遺跡出土品であった。(もちろんアレクサンダー大王の石棺における想像を絶する彫刻の完成度の高さとか、特筆すべきものを言い出せばほかにも目白押しなのだけれど)
これは現在のところ人類最古の集落といわれているところである。紀元前7000年頃以降のもの、つまり今から9000年前である。博物館で見る事のできた紀元前5〜6000年から3000年にかけての土器、家屋の復元、地母神の座像、呪術的な造形物の強さ素晴らしさには全く驚かされた。人類が時間を経るごとに賢く(?)というか進歩、成長しているという発達史的な歴史観はこれをみると簡単に吹っ飛びます。ヒッタイト文明やアッシリアなどの「歴史上の」文明とそれ以前の「考古学的」事実であるチャタル・ホユックとの関係、関連を文字で証明するものがないので一般の歴史書には断絶してしか触れられていないが、場所的にみればどう考えても何らかの関係があるように思える。
またこれはアイルランドに行ったときと同様だが、今日の私たちが考えている造形とはそもそも何なのかとも考えさせらずにはいられない。歴史が新しくなればなるほど繊細さや量的な規模は増大するかもしれない。しかしものに込められた造形上の強さはそれに反比例して弱まっていくものなのだろうか?
最後についでと言っては何だけれどももう一つの旅の目的(というよりも野望に近いかも)も書いておこうと思う。(何事も言ってしまえば未来のいつかに実現するような気がするので)今回は諸事情と時間の制約から現在のイラク、シリア、ヨルダン、サウジアラビア、イスラエルといった中東諸国まで足を伸ばすことができない。この1年の旅の後、機会があれば今度は東アジア、東南アジアの側からイスタンブールに向かう旅をしたいと考えている。もちろん1年フルにというのではなく、断片的になるだろうけれども。そうしなければどう考えても自分の中のバランスがとれないだろうと思えるのだ。
以下智子の写真機より
朝、宿に荷物を預かってもらい、再びリュブリアナの街をのんびり散策。一ヶ月ぶりにちゃんとしたカプチーノが飲めた。(トルコではひたすらティーだった。へたにコーヒーを頼むとネスカフェが出て来るので)その後14時55分発の電車でリエカへ。途中二箇所でパスポートコントロール。電車は緑の中をゆっくり進む。客は少なく六人用のコンパートメントには私たちだけだ。トルコではほとんどバスでの移動だったので久々の電車でのゆったりした移動にあらためて感動。五時半ごろ到着。無事リエカに帰還する。
リュブリアナの中心はほぼこの模型で収まる規模である。しかも街中への車の乗り入れが禁止されているのでとても気持ちが良い。
私たちの乗った電車ではないが蒸気機関車が現役で動いていた。
朝、イェニカブの宿からタクシーでアタテュルク空港へ。約30分。オーストリア航空でウイーンに向かいトランジット、アドリア航空に乗り換えてスロベニアの首都、リュブリアナへ到着。リュブリアナはクロアチアのリエカから大変近いのだが(直線距離で約80キロ)バスがない。クロアチアからスロベニアを通ってイタリアのトリエステやウイーンに向かうバスはあるのだが、多分旧ユーゴスラヴィア同士、歴史的に微妙な関係らしい。ソボルさんによれば領土問題も含まれているとのこと。恐らくクロアチアがEUに加盟してしまえばその問題も雲散霧消してしまうだろうとも言っていた。ともかくリュブリアナからリエカには列車が一日に二本しか走ってないのだ。ということでリュブリアナに一泊する。今後この街もザグレブと同様、ヨーロッパの各地に移動する時に通過することもあると思われるのでどのような所か知っておきたいというのもあった。
宿に荷物を預け街をぶらっと歩いた。ここもザグレブと似て落ち着いた緑の多い街である。ただ、まだ頭と身体にはトルコでのハードな日々が刻印されていてかなりボーッとした状態である。トルコでの体験を消化できないままだ。これは当然のことだと思う。とにかくトルコ旅行自体が事故も無く無事であったことにほっとしている。
リュブリアナ城から街を見下ろす
ロドスは紀元前12世紀頃から人が住み始めカミロス、イアリソス、リンドスの三つの古代都市で有名である。現在はリンドスが町も残り、遺跡も保存が良い。ロドスは海のシルクロードの中に位置している。ローマ帝国、東ローマ帝国、サラセン、ベネチアとその支配者は歴史の中でめまぐるしく変わっている。この島を有名にしているのは島の先端(約900メートル四方の旧市街)が城壁で覆われているところだ。現在でも城壁はしっかり残っている。これは聖ヨハネ騎士団が200年にわたりビザンチン帝国の崩壊後、イスラムに対するキリスト教の前線基地とするためこの島を支配し、築いたものだ。このあたりは塩野七生さんの小説「ロードス島攻防記」に描かれている。攻撃をしたのはトルコのスレイマン一世でこの戦いでは大砲が本格的に使用されている。今でも城壁のあちこちに丸い石が転がっているが大砲の弾である。
400年近いトルコ支配の後、イタリア、ドイツが占領しギリシアに帰属できたのは第二次大戦後である。
リンドスの町と丘
遺跡から町を見下ろす
スミス山(ロドスの町近く)の古代スタジアム
古代劇場
アポロン神殿
城壁に戻る
24日と25日はお祭りらしく城壁のあちこちでイヴェントが行われていた。
大道芸の人々。昔、芸祭に来てもらったことのある黒色テントとそっくりのパフォーマンスだった。
翌日フェリーでギリシアのロドス島に渡る為この日にはマルマリスに到着しておかねばならなかった。パタラからは結局7時間ほどかかった。この移動でも不思議な事があった。途中フェティエという町でバスを乗り換え、4時間ほどかけてマルマリスに向かうのだがバスセンターのおじさんが「あんたらどこに行くの?」(僕はトルコ語はメルハバしか知らないのだけど簡単な質問ならなんとなく分かるのだ)と聞くので「ロドスに行きます」と答えた。するとそのおじさんは動き始めたバスまで追いかけて来てマルマリスに着いたらここにいけとペンションのカードを渡すのだ。すると今回も案の定、マルマリスのバスセンターにアル・ゴアを若くしたようなお兄ちゃんがいて、自分のペンションに連れていくのだ。
でここから先を書くと長い話になるので、結論から言うと夕方の5時を過ぎていたにもかかわらず、翌日のフェリーのチケットも無事手に入り、嘘のようにうまくことは運んだのだ。しかし、私たちにしてみればバスセンターのおじさんやペンションの兄さんやフェリーの切符を用意してくれたおじさん達がどのような意図で、結びついているか理解できず、とても不安でもあり、不思議でもあったのだ。トルコはコネ社会なのだろうか?その日はその宿に泊まっていたトルコのサラリーマンのおじさん達と色々話をした。
クサントス、レトゥーンは二つで世界遺産になっている。そのあと私たちの滞在しているパタラの遺跡にも行ったが、パタラの遺跡は想像していたよりもずっと良い。クサントス、レトゥーンよりも良いのではないかと思った。皆それぞれスケールのでかい遺跡群であった。リキア文明、リキア文字については大変興味深いものがある。リエカに戻って改めて調べ直したいと思っている。
パタラのメインストリート
以下クサントスの遺跡
以下レトゥーンの遺跡
以下パタラの遺跡
アンタルヤから2時間ほどかけてカシュに移動する。
カシュの町
岩窟墓(リキア時代)
リキア文字 古代劇場。向こうには紺碧の地中海。ほとんど人は来ない。
幸運なことにペルゲ、アスペンドス、スィデの三カ所に行くツアーを見つけた。自分たちの足だけならば一つがせいぜいの距離である。その分かなりハードに動き回ったせいで体中が軋むように痛くなった。
ペルゲは紀元前数世紀以上前からの町である。町全体がそのまま残っている。
アスペンドスは紀元前10世紀からの町である。円形劇場は小アジア最大の規模であり、世界で最も保存状態が良いらしい。
この辺りには滝が沢山あるそうだ。
夜行バスは絶対に避けようと思い、カッパドキア(カイセリ)-アンタルヤの航空便を探したがみつからず、また日中に行きつけそうなバス便もないためやむを得ずの強行軍になった。思った通り眠れなかった。これまでの中部アナトリアは春の季節であったが地中海沿岸のアンタルヤは既に夏であった。宿で眠っては却って調子を崩すと思い、真夏の日差しの中アンタルヤ考古学博物館へ。ここには後に行くペルゲ遺跡でみつかった彫刻が多く展示されている。イスラム美術も含めて収蔵品はかなりある。彫刻は2世紀のローマが中心でそれほどでもない。途中意識が朦朧としてきたので人気のない視聴覚室のようなところを探し出し、2人とも30分程仮眠をとる。博物館で仮眠をとったのは始めてである。
トプカプ宮殿はいわずとしれたオスマントルコ帝国時代の歴代支配者(スルタン)の超有名な居城である。巨大であり、財宝のかたまりである。見て回るのにもかなりの時間がかかる。ハーレムもある。まあ色々、すごいです。が実はここでも一等感動したのは視覚的なものではなくてコーランをずっと読み(詠い)続けている僧侶がいて、その声とメロディなのであった。何故かはわからないが。触覚の次は聴覚か。
その後エジプシャン・バザールを歩き、町中をさまよいながらスュレイマニエジャーミー(中が工事中でステンドグラスは見れず)、シェフザーデバシュジャーミーなどへ。京都の寺周り感覚です。祈りの前に水道で手足を洗う若者が印象的であった。日本の神社ならば手と口を漱ぐくらいだけど、ここの人たちは銭湯で身体を洗っている様子を想像していただきたいのだがもっと真剣だ。その後ローマ時代の遺跡バレンス水道橋を見、古本街からグランドバザールへ。グランドバザールは本当に迷路のようで実際かなり迷ってしまった。
そこでくたびれ果てたころ夕方なのだが、昨日行ったブルーモスクに再訪。
帰路、疲れたのでやめようかと言っていたのだがローマ時代の地下宮殿なる所に行く。ここはたいした所ではないと思っていた。古い家を壊したら地下からローマ時代の柱が出て来ました、くらいのもんではないかと。ところがこれが大間違いで、本当に地下に巨大な宮殿があり、その床は池のように水がたまり魚さえ泳いでいるのだ。ここには28本の列柱が12列、計336本あったそうである(現在見えているのは246本)。4世紀から5世紀にこれは貯水池として作られたという。私たちが昼間見たバレンス水道橋を通って来た水がここに貯水されていたのだ。この空間が千何百年もの間暗闇に眠り続けていたことに不思議な感動を覚える。昨年のゼミ生、荒尾君の時間論を思い出す。この暗闇の時間イメージの不気味さはニュートン的ではなくライプニッツ的である。20年程前に掘り起こされた列柱の台座になっているメドゥーサの首は横向きで恐ろしい。それにしても貯水槽のためにこの規模と構造の空間を作るなんて。この時代その最盛期を過ぎていたにもかかわらずローマ人のやることは凄いなと思わせられる。その後ブルーモスクの下には実はまだ発見されていないローマの宮殿が眠っているのではないかと勝手に夢想してしまった。
以下トプカプ宮殿
宮殿テラスからボスポラス海峡を望む
エジプシャン・バザール入り口
ジャーミー巡り。名前を覚えきれず。
バレンス水道橋
古本屋街
再びブルーモスクへ。どこかの美大の先生と学生だ。イスタンブールで古美研も最高だね。
地下宮殿(実際の見えよりも少し明るい)
床には魚が泳いでいるのが見える。
このメドゥーサの頭は逆さまで
こちらは横向き。結構怖いでしょ。
朝5時半に目が覚め、6時に宿を出て歩いてバスセンターへ。空港まで30分。ザグレブ空港から9時過ぎ発のプロペラ機でミュンヘンへ。ミュンヘンでトランジットしイスタンブールへ(直行便がないのでかなり遠回り)。今回のトランジットタイムも1時間弱だったが飛行機は遅れも無く無事に到着。空港からのシャトルバスでマルマラ海峡を右手に見ながらアクサライまで約30分(久々の交通渋滞)。トラムに乗り換え3つ目の停留所がスルタンアフメットで私たちの滞在場所である。イスタンブールは大きく旧市街、新市街、アジア側の3エリアあり、スルタンアフメットは旧市街にある。新市街には金閣湾を橋かフェリーでわたり、アジア側にはフェリーでボスポラス海峡を渡る事になるが今回の私たちの滞在目的場所は全て旧市街にある。宿から歩いて7〜8分の所にスルタンアフメットジャーミー(別名ブルーモスク、ジャーミーは寺院)がありここには時間制限(お祈りの時間以外)がないので夕方入ってみる。ここは日本のお寺と同じで靴を脱いで入る。床には絨毯がびっしり敷き詰められている。靴を脱ぐということがアジアとヨーロッパを分けているのだと何となく実感。絨毯の柔らかい触覚がかえってここで冬祈る時の寒さを感じさせる。この地で美しい絨毯が生まれたわけがわかるような気がした。この感覚が意外にもドームの視覚的な凄さ(スペクタクル)よりも印象深いのだ。
この寺院の横は昔のローマの大競技場跡であり、テシオドス一世とコンスタンティヌス三世のオベリスク(石柱)、途中で折れている青銅の蛇の柱がある。
夜は環境の急激な変化と前日のゼニート事件などの影響か、疲れているはずなのに眠れず。ブログの5月8日分はこの眠れない時に書いたもの。朝方4時過ぎにやっと就寝。朝方街のどこからかコーランの祈りの声が聞こえる。二日続きの睡眠不足は旅の敵である。
ブルーモスク
アヤソフィア
ブルーモスク(スルタンアフメットジャーミー)正面
オベリスク
朝9時のバスでザグレブへ。12時到着。さすがに首都だけあってリエカよりはずっと大きい(しかしロンドンや東京に比べれば驚く程小さな首都である)。
博物館や教会など街の主要なものを徒歩圏内で見て回れる。
(ここから先は僕の本に関するきわめて個人的な記録なので興味ない人は飛ばして下さい。)
そして一渡り見た後、古本屋があったので2軒ほど覗いてみた。グラゴール文字について欲しい本があったので訊いてみたが置いてなかった。ザグレブへはまた来る予定もあるし、そろそろ宿に帰ろうかということになってぶらぶら歩いていた。そうしたらいつもの本の神様がまたもや唐突にやってきて奇跡を起こしてくれたのだ。(このことについてはかつて一緒にパリを散歩していて現場を見たことのある陣さんは説明抜きで信じてくれると思うのだが、僕には本の神様がついていて時々必要な場所に思いがけなく連れて行ってくれることがあるのだ)。今回も歩いている途中、通りからたまたま普通ならば入らないような路地がふっと見え、何故かそこにその時だけ吸い寄せられるように入る僕なのであった。妻は突然の僕の不審な行動に何事かと驚く。路地の奥はなんてことのない中庭になっていて地元の人だけが集まるような小さなカフェがあるだけ。何もないし人もいない。ただその向こうにガラス張りのビルの一角が面している。その佇まいが何となく銀座のgggギャラリーを小さくした感じなのだ(わかる人にはわかると思う)。なんの事前情報も無いのだが吸い寄せられるように迷い無くそこに入る僕。するとそこは予感どおりグラフィック専門のギャラリーで、何かの展示のオープニング5分位前だったのだ。人がにわかにごったがえし出し、テレビカメラのクルーもいる。まるでそこに呼ばれたゲストのようにいる僕(多分謎の東洋人に見えただろう)。その奥にメインエヴェントのように飾られてあったのが写真の本である!そばにいたおじさんに自己紹介し、突然でしかも偶然で申し訳ないのだがこれはいったい何の展覧会かと聞く(後で考えればとてもおかしいシチュエーションだ)。そのおじさん(ひょっとしたらクロアチアで有名なデザイナーの一人だったかもしれない)はとても親切に答えてくれる。ここのギャラリーのオーナー(あそこにいるけど今テレビのインタビューで忙しそうだ。ちなみに若い女性)がこのたびユーゴスラビア1920年代の主立ったアヴァンギャルドの雑誌(ざっとみて20冊は下らない)をコンプリートにリプリントし、今日はそのお披露目のパーティーなのだという。そのリプリントの中にはあのリシツキーが表紙をデザインしたゼニートが燦然と輝いているしダダもある。ゼニートについては今までオリジナルを見た事はなかった。そうこうするうちに会場は人で溢れ出すしオーナーの彼女とはどうせゆっくりは話ができそうにないので立派なパンフレットをもらい、トルコ旅行のあとちゃんとアポイントメントをとって来ようと決め会場をあとにしたのだった。
当然僕は興奮していた。
(あのおじさんに)ゼニートは本当にここザグレブなのか?
表紙にはベオグラードって書いてあるじゃないか?
いやここザグレブで発行されたのだ!
1922年という年はリシツキーがモスクワからベルリンに行き二つの正方形の物語やベシチをデザインした輝かしい年だ。ということはベルリンへの途上でユーゴスラヴィアに寄ったのか?それともその後の進歩派芸術家会議によるものか、頭を想像がぐるぐる駆け巡る。
(こういうことを奇跡と言わなくて何と言ったら良いのか?何で彼女は今ここでリプリントをしたのか。そのお披露目が何故今日なのか。何故その日に僕はザグレブにいるのか。なぜあの時間にあそこを僕は通りかかったのか。何故あの路地に何かあると僕は感じたのか。)
12年前パリの古本屋で同じようにリシツキーの「USSRコンストラクション」を発見し、翌々日に「声の為に」に出会いそれがきっかけとなり日本で展覧会を企画し本を作るはめになったのだった。今回大英博物館でパスをもらえたことやグラゴール文字と滞在先の関係など、密かにいつもの本の神様の差配と感謝はしてはいたのだが、まさかリシツキーのゼニートにここで引き合わされるとは!
リシツキーが「もっと研究を深めよ!」と言っている。いやそう言っているのは僕の本の神様か。
宿のそば
ザグレブ考古学博物館。ザグレブで最も古いエレベーター。
ザグレブ歴史博物館
荷造り作業。気持ち的にはトルコはもう夏ではないかと思えるのだがネットでみると意外にもクロアチアよりも気温が低かったりする。可能な限り荷物の重量を減らす事に腐心する。東京からではなく中継地点ともいえるクロアチアからの旅なのでかなり思い切った軽量化が可能になった。お昼にソボルさんと(結局充電中に床に落として調子の悪くなった)携帯の換わりを購入に街のセンタービルという最も大きなショッピングセンターに行く。その後エスプレッソを飲みながらソボルさん自身についての質問や僕のデザインの事について話をした。彼はいわゆる得度したというのか、相当長期間の修行を積んだ真言密教の立派なお坊さんだったのだ。ヨーロッパ全土で50人以下という。何故とかどのようにについて書くと長くなるのでまたいつか。彼の修行が生半可なものではないことだけは感じる事ができた。
また僕がデザインについて考えてきたことと(その社会的な存在の意味など)彼が何故仏教にひかれその世界にはいったかについてその理由はほとんど同じだね(これはソボルさんの言葉だが)という話になった。ただのモダンでもなく、がちがちの伝統主義者でもなく、伝統を可能な限り深く理解した上で、それと今をいかにクロスさせるかに興味があること、その時重要なのはフォルムではなくて「ホーリスティックな生成している状態」であることなどなど...。
その帰りに「あそこには何があるの」と以前僕が質問したのだがリチエナ河の奥の谷に車で連れて行ってもらった。残念ながら電池切れで写真には残せなかった。ここは近代産業の工場等の廃墟あとで現在はロックコンサートなどが開かれているという。また第二次大戦中の戦争の不気味な遺物もある。ここにこれから5年くらいかけて建築、美術、デザイン、音楽の専門家が集まる芸術地区を作る計画があるそうだ。ユーゴスラビア紛争の後、その傷も次第に癒えてこの街も大きな変貌を迎えようとしているように見えた。
街にあるクロアチア航空のオフィスで次のフライトのリコンファームを行う。ブログの更新作業。帰りはバスではなくペダル・クジッチの階段621段を登ったがあとで膝が痛くなってしまった。家に着くとマイーダさんが来ていてダリンカさんが庭に作っている菜園の野菜を何でも好きなだけ持って行けという。おかげで今晩の夕食のサラダはいつも以上にごちそうになった。また香草も何種類かいただいた。魚の料理やスープなどに香草は欠かせないが、こちらのマーケットではいまいち分かる香草がなかったので妻は感激していた。また僕たちの為にダリンカさんはトマトを育ててくれているらしく、あなた達がトルコ旅行から帰って来たら出来てるよみたいなことを言っていた。楽しみだ。
リエカでは皆さんのお陰で落ち着いた日々を送る事ができ、また予定通りの日程を消化することができた。他のヨーロッパ諸国へ移動する際にフェリー、バス、電車、飛行機のどれがベストなのかについて等未だに良くわからないとこは沢山あるが実際やってみなきゃわからない事の方が多いのだろうと思う。
いよいよ4月8日から次のトルコへの旅が始まるのでだんだん緊張感が高まってくる。
今朝は5時半起き、6時過ぎに家を出ました。
いつも乗っているバス
イストラ半島中部、ブルサル-オルセラの村
ロヴィニィ手前のリムスキーフィヨルド。アウトドアスポーツの名所らしい。
ロヴィニィ到着。今日はあいにくの雨模様である。
旧市街への入り口バルビ門。かつてはここは海で旧市街は島だったのだ。
聖エイフェミヤ教会。エウフェミヤはローマ時代に迫害され車輪で拷問されたうえ、コロッセウムでライオンにかみ殺され殉教したといわれる人。塔の先端には車輪とエウフェミヤの像がある。
港から旧市街エウフェミヤ教会の尖塔が見える。
バスで約1時間、ローマ時代の古代都市、ポレチュへ移動。あいにくの雨だが濡れた石畳の色が美しい。
エウフランシス・バジリカ。世界遺産に指定されているらしいが、ビザンチン・モザイク?という感じで始めはあまり興味がわかなかった。そもそもビザンチン美術についてあまり良い印象を持ってなかったので。しかしその考えはかつてリシツキー研究のためロシアのサンクトペテルブルグに行った時ロシアイコンの凄さに驚いたのと同様に、考えを改めさせられた。この教会は美しい。
現教会床の下にある古いモザイクの床。
塔の先端に昇る
ポレチュの街並
ローマの神殿遺跡。
大掃除。ブログの更新。次の旅の準備など。
昼間、例のごとくコンチネンタルホテルまで出かけて、ブログを更新していたらトラブル発生。せっかく更新した半分がだめになる。いろいろやってみたがうまくいかず急遽、設計者であるあきお君にヘルプのメール。その後、彼の迅速な対応のおかげで無事復旧しました。ありがとう。その他、次回の旅の目的地であるトルコについて、かつてそこで数年暮らしていた後輩のえびりんに色々質問をし有用なアドバイスをもらったりした。とにかく遠く日本を離れてもパソコンとネットワークのお陰で助かることが多い。時々、もし今持って来ているノートブックがいかれたらどうなるのだろうと少し不安にもなる。えびりんは確か僕の4級下の後輩になる。彼女からのニュースによればその1級下の落語家林家たい平(師匠)が今回文部大臣賞なるものを受賞したとの報せが。みぎわさんとお祝いの会に行くそうである。彼が学生当時皆と伊豆の印刷工場見学に行ったのはもう二十数年昔のことなんて信じられないなあ。
この旅の記録をどうするかについては少し迷った。ヴィデオカメラは論外であった。まずどっちみち帰国した後、見直す時間がない。結局、写真機をどうするかに尽きた。ニコン某、キャノン某の高解像度デジタルカメラを買うべきか。あるいは新島さんは僕に「寺さん、プロなら記録はデジタルなんてだめだよ。フィルムでとらなきゃ後で使えないよ」などとプレッシャーをかけるし。しかしデジカメとアナログ両方持って行くなんて箸と筆とマウス以上に重いものを持った事の無い育ちの僕には無理だ。
いや、実際は年のせいですが、とにかく重いものをかついで旅する根性はないなあと思って悩んでいたのだった。結局、一緒に事務所をやっていた大村麻紀子嬢が持っていたかっこいいカメラをみて(昨年)欲しくなって、単にまねをしてそのカメラにしたのだった。それが今回使っているRICOH CAPLIO GX100である。フィルターも何もない。20代の頃はニコンのFEというカメラがいつも鞄のなかにあって自分の身体の延長のようになっていた時期がある。30代の10年は仕事でも写真はプロのカメラマンまかせになり、自分では撮影しないし、もっぱら子供を撮るのに専心していた。そんなこんなで20代のようなカメラ感覚はどんどん薄れていた。そのうち世の中はデジタル化し、そういったカメラも必要にかられて時には使ってはみたものの、かつてニコンのFEを使っていた自分の目の代わり的な感覚は全く失われていたのだ。しかし今回の旅で久しぶりに毎日のようにカメラを手にしていると、それなりに感覚というのは戻ってくるもので面白い。フィルムと違って必要な時にはその場で確かめられるなんて夢のようだ。(もちろんその場で確かめられない良さ!というのもありますが)解像度が問題なのはしょうがないと思う事にしている。使う機能はマニュアルでシャッタースピードと絞りを調整するだけ。デジカメ特有のいろんな機能は全く使いこなせてないが(その気もないせいだが)面白いのはオートにしていると聖堂や博物館などの薄暗い場所でも勝手にカメラが補正して実際よりも明るく映る事だ。だから単なる記録というよりも別の画像を見ている感じもある。僕はカメラについているフラッシュがきらいなので全く使わない。基本的には室内ではロースピードシャッターになる。最初は15分の1で危ないかなあと思っていたが、最近は2分の1秒であまりぶれなくなりましたよ。気合いでしょうか。
そしてここまで書いてようやくふと気づいたのはレンズがニコンFE時代と同じ28ミリであること。今のカメラはズームもついているが必要じゃない限り使わない。当時はTTLと言って露出計を使わずにレンズを通して測光出来る事自体が新しかったし、プロは光の様子から絞りとシャッタースピードが即座に分からないようじゃ写真撮る資格は無いなどと言われていた。学生でズームなんて使っていたら写真の先生に怒られたものだ。28ミリという画角は僕にとって機械的な制約でもあるが、それゆえ自由に振る舞える無意識的な枠だったのだ。これは個人的なことではあるがちょっと感動的な発見である。
この日は読書、洗濯、昼寝!(かなり疲れているのかもしれない)食料の買い出し等。
ついにリエカの西、イストリア・ペニンシュラへ。ここイストリア半島は内陸部がいわゆる山岳都市、沿岸は港町で全く異なる二つの風景を見る事が出来る。山岳都市というか山のてっぺんに古い集落がある場所は一般の観光客が訪れるのはなかなか難しく、ソボルさんがそのうち車で行きましょうといってくれている。この半島はトリュフとワインの産地であるらしい。
半島の南端に近い街プーラへ向かうため朝7時に家を出る。偶然ダリンカさんの夫、ユリックさん(大家さん)の外出と鉢合わせをしたので、バスセンターまで車(ベンツ)で送ってくれた。ユリックさんの英語も私と同程度なのでちょうど良い感じで会話する。70歳だそうだ。自分用の船も持っていて奥さんと釣りに行くのが趣味らしい。(この時はやたらでかい船を連想したのだが、後で自宅にあるヤマハのエンジンをつけた小さいボートを見せてもらうことになる)自宅には2台も車はあるし悠々自適の老後といったところか。娘のマイーダさんは私の幼い頃は「ここ(トルサット)じゃなくて、つまらない労働者アパートに住んでいたのよ」と言っていたが。70歳にしては僕の知っている人から見ると少し老けてみえる。僕の日本での知り合いが皆異常に若いせいかもしれない。
この日はプーラに宿泊して半島西岸のローマ時代の遺跡を追って、ロヴィニィ、ポレチュと回る予定だったが観光客の多さに圧倒されたせいもあり、プーラだけにしてリエカに戻ってきてしまった。リエカが自宅化したせいか変なホテルに泊まるよりも帰ってきたくなったのだ。行きはトンネルを使った高速で半島を途中まで横断して南下。帰りは沿岸沿いのルート。それぞれ2時間と2時間半。日本で言うと自宅から鎌倉への小旅行という感覚に近いか。ドライブ中も風光明媚で見応えがある。美しい海と山の間に宮崎駿のファンタジーに出て来そうな村や港を通る。ユーロ圏の人々が大挙して訪れる訳が分かるような気がした。(しかも幸いな事に日本的な渋滞とは全く無縁である)
朝リエカのバスセンター
プーラにあるローマ時代の円形劇場。ローマ、ボローニャに次3番目の大きさと言う。ほぼ完璧な形で円形が見られる。現在でも5000人収容のコンサートが開かれ現役である。往時は2万5千人。地下室が展示場になっていた。
地下展示場
ここをかつて拳闘士達が駆け抜けたのだろうか。
街にいくつか残っているローマ時代の凱旋門の一つ、セルギ門のディテール。
アウグストゥス神殿。かなりの変形が加えられていてもプロポーションは抜群に美しい。
聖マリア・フォルモッザ教会周辺。ローマ時代の石の破片がごろごろしている。
フランチェスコ教会。ここの聖堂は静謐で美しい。
イストリア歴史博物館(昔の城跡にある塔)から街を望む。向こうにコロッセウムが見える。
城壁にある朽ちかけた物見の塔。
古代ローマ劇場跡。上が昔の城壁である。
劇場としては完璧なサイズだと思える。
イストリア考古学博物館
博物館入り口
帰路
今日はメーデー。ここクロアチアもお休みの日。
携帯電話の調子が悪くソボルさんが様子を見に来てくれる。ささやかなお茶会を開く。水がどうも日本と違うので香りが弱いのが気になる。ソボルさんに水のことを聞くがリエカは背後に山脈をかかえているので水は豊かでおいしいという。水道水ももちろん飲める。日本と比べて水温がかなり低い。ただし岩盤はライムつまり石灰岩なので水質は軟質なのか硬質なのかここでは知る由もないが日本の水とはあきらかに異なるのだ。(それに比してイストリア地方の水は飲めないそうだ)
ところでソボルさんは何と16才の時に「茶の本」を読んだという。それだけではなく「宮本武蔵」と「五輪の書」「葉隠」もだ。(これらは英語経由でクロアチア語訳があったという)全くどういうやつだ。リアリ?
ましてや僕も気になっていた本だが読んでなかったアレックス・カーの「美しき日本の残像」を知っているかと聞く。はじめは原タイトル「Lost Japan」というので分からなかったのだが。これは確か松岡正剛さんが千夜千冊でとりあげていて僕も「読みたい本リスト」にあげてはいたのだが未読であった。ちょっと悔しい。彼から日本の大本教や神道、合気道について矢継ぎ早に質問されたがほとんどまともには答えられなかった。息子が合気道をかじっているので聞いた名前は出て来たが。
「ディエゴ・ソボル 君は何者か?」
彼は小学生から中学生の間、父親の仕事の関係でチェコスロバキアのプラハで4年過ごしている。そこのロシアンスクールに通ったという。そこにはアメリカンスクールや地元の学校もあったが幼少時の教育はロシア式がベストだと思うと言っていた。
人間謎が多い方が楽しい。
朝は少し雨模様だったが8時に家を出て島に向かう。リエカのバスセンターからクルック島へはバスが何便も出ている。目的は島の最南端のバシュカである。陸から島へは大きな橋で渡る。なんだか眠たくてバスに乗ったら催眠術にかかったように寝てしまった。3時間かけてお昼にバシュカ到着。教会は2時半まではお昼休みだから行っても中には入れないとインフォメーションで告げられがっくりしたが、とりあえず歩いて(2.5キロ程)行ってみる。街からかなり距離があるのであてにしていた教会近くのレストランもシーズンオフらしく閉まっていた。やむを得ず、目的の聖ルキア教会のまわりをうろついていると中から女性が出て来て見せてあげましょうと言ってくれる。まず最初に15分程のヴィデオ解説を見た後に教会の内部へ。
クロアチアも、このクルック島もそうだが陸地自体が石灰の巨大な岩盤でできており、山の上部は植物が生えず岩肌が見えごつごつした印象だ。山口県の秋吉台をもっとスケールアップした感じ(中学、高校の勉強不足がたたって地理的ボキャブラリーが貧困なのはお許し下さい)。平野部分の面積が狭く海岸線から直ぐに山が切り立っている。この教会はそのような岩山を背景に10世紀ころに建てられたもので、その素朴な形にはある種の強さを感じる。素朴ではあるが黄金比などの比率はかなり厳密に適用されていて、とても単純だが美しい。(昨年院生の金那姫さんと一緒にやった研究がこんなところに生きている)グラゴール文字の刻まれたタブレットが最初に発見された場所である。
またバシュカの街自体は細い路地が入り組んだ古い街で大変美しい所だ。近隣には「アパート貸します」のような看板が沢山あったので、夏はおそらく長期滞在のバカンスの客でごったがえすのだろうと思う。
帰りは1時間程バスでもどり、島最大の港町クルックで途中下車し遅い昼食をとる。ここも港に続く城壁に囲まれた旧市街は美しい。クルック島はワインの産地でもあるので一応買ってみる。
夜、岡倉天心の「茶の本」を読み出したら止まらなくなり、最後まで読了。この本は3度目だ。これは英文が収録されているのでソボルさんにあげるつもり。
バシュカ郊外
聖ルキア教会
聖堂のみが残っている
港町クルック
城壁
釣り人
窓の修理をする尼僧
帰りのバスの車窓から。リエカ近くの別の港町。
終日雨らしいので、あんなに意気込んではいたが、朝KRK(クルック)島行きは断念する。この日あたりから一応ネットで天候を調べることにする。何せクロアチア・テレビの天気予報は短い上に分かりにくいのだ(クロアチア語なのだから当たり前か)。終日、次の長旅の準備をしたり(ほぼ旅程の大枠が決まる。見たいものばかりでかなり欲張りな計画を立ててしまったような気が)、日記を書いたり、いつものコンチネンタル・ホテルでブログの更新作業などをして過ごす。
このブログというメディアについて実際やってみると、改めて考える所もあるが長ったらしくなりそうなのでやめる。簡単にいうとこのブログ、あまり深く考えずにスタートしてしまった。つまり本来ならこれはメディアとして一体何の意味があるのかを熟慮すべきではなかったかと。(自分はそういう仕事の専門家のはずだ)また、もしデザイナーとして本気でやるのならもっと考えてスタートしたかもしれないとも思うのだ。
まあそんな小理屈は別にしても、(こうして幸運にも)全てではないにせよ日常の多くの義務やしがらみから一旦身を離すことが許されて、これまでずーっと見たいと思っていたものを見る旅の日々を記録し、一部ではあっても公開するなんてことは、人様からすればどうみたって自慢話にしか見えないよなと思ったのだ。気恥ずかしさの所以はそこにある。
しかしまあ熟考せずに物事にあたるのはきわめて自分らしいことでもある。難しく考えるのはやめよう。身内に手紙を書くような無防備さでいくしかないのだ。
朝、マイーダさんから電話連絡。今日リエカ大学の図書館に彼女が電話をしてグラゴール文字に関した展示室を見れるかどうかを訪ねてくれたのだ。その結果OKが出て図書館に12時に向かう。
グラゴール文字は世界でも数少ない作った人間が特定できる文字である(例えばハングルと同様に)。860年前後にキュリロスとメトディオスという正教会の神父によって聖書をギリシア語からスラブ語に翻訳する為に作られた文字である。話せば長くなるがこの文字はキュリロスの弟子たちによって改良され現在ロシア等で使われているキリル(キリルはキュリロスがなまったもの)文字になった。その後正教会の勢力拡大によってグラゴール文字よりもキリル文字の方が広く使われ、グラゴール文字はカトリックのクロアチアの聖職者によってのみ近代まで用いられたのである。この文字はまずイスタンブールで生まれ、現在のクロアチアへ伝えられ、ブルガリアやマケドニアに広がったという。そのような意味でこの文字はクロアチア人にとっては特に重要なアイデンティティともなる文字なのである。その最も古い石に刻まれたテキストが私たちの今いる所から見えるアドリア海のクルック島で発見されたのである。
図書館の展示はかなり充実したもので歴史的経緯や変遷がよくわかるものであったが一般公開されてはいない。学芸員のアンナさんがつききりで説明しながら見せてくれた。彼女は「私は英語が得意じゃないので」としきりに謙遜するが逆に私たちには大変分かりやすい解説となりとても良かった。石に刻まれた文字は明日クルック島に行くのでまた改めて記する事になるが興味深かったのはまず、マニュスクリプト(手稿本)で、これは16〜17世紀過ぎまで続けられたという(一般書ではないので活版印刷の方がコストがかかるのだ)。とても美しく印象深いものであった。また活版印刷も行われたのだが最初のグラゴール文字の印刷物は1480年ころには作られている。この本がとても美しいので僕が「ヴェネチアの影響があるのですか?」というとアンナさんは目を輝かせて「そうなんです!グラゴール文字で印刷された最初の本はリエカではなくてヴェネチアで印刷されたものです」と答えた。アルド・マヌティウス、あるいはニコラ・ジャンセンを思わせもする大変シンプルかつ美しいタイポグラフィックな書物なのだ。ただアンナさんは私の質問に対しどこの工房で刷られたか、誰が活字を設計したかはわからないという。ただフランコ・パーリというビショップ(ルーテリアンと言っていたように聞こえたが...)がヴェネツィアから印刷技術とともにグラゴールタイプをリエカに持って来たらしい。とても興味深い話である。ではリエカにはその古い印刷所なりそれらのことを展示したような博物館はないのかと問うと、残念ながらよく分からないのだという答えであった。「何せ古い話だから」と。ただ一つだけ思い当たるミュゼがあるのでマイーダさんに探してもらえとその名前をメモしてもらった。まるで探偵みたいだが次の探索の糸口になるかもしれない。明日はクルック島の奥地まで行って石盤を見るつもりである。
その後昨日に続いて再度(正確には三度目)、旧市庁舎の美術館に行った。ドアは開いていたので中に入ると「まだやってない。明日だ」と言われた。美術館の前の大きな垂れ幕には28日からスタートと明記しているにもかかわらずである。ちょっと信じられない。縁がないのかも。
マニュスクリプト
この支持体はペルガモン。
印刷楽譜
活版印刷
フランコ・パーリ像
点は発掘、発見されたグラゴール文字の石盤、印刷物の場所。
かなり危険な階段。悪夢に出てきそうだ。
朝、自然史博物館と美術館に向かう。自然史博物館は最初閉まっていると思えた。だって正面玄関は工事中のような有様だしドアも締まっている。あきらめてベンチに腰掛けて愕然としていた。智子は幼い娘連れの父親から何か聞かれ大胆にも「クローズ!」と言っている。その親子も納得したように去って行った。すると背後からへんな若者が物問いたげにやって来る。不気味だがとりあえず覚えたての「ドバルダン(こんにちは)」と言ってみる。よくわからないので彼に英語で「閉っているみたいですね」というと「いや、開いてますよ」という。なんのことかわからず「だってドア締まってるし、あそこ工事中だし」というと「いやこっちです。」といって裏口を案内する。変だなあ、こいつラリっているのかと不安に思いながらもついていくとそこが博物館の入り口で彼はれっきとした博物館のスタッフのようだった。(彼は窓から私たちの事を見ていたのだろうか?)結局彼に一人10クーナ(230円)の入場料を払い無事入る事ができた。入ったら入場者は私たちだけであったが、ちゃんと電気は点いていたし妙にインタラクティブな装置もちゃんと稼働していた。とても変な博物館だ。規模も小さく拍子抜けはしたがなんとなく、素朴というか、かわいいというか憎めない博物館である。だってエントランスに子供の夏休みの科学学習の宿題が飾られているのだもの。蝶を始めとする昆虫の展示は妙に凝っていた。新島さん好みだと思った。
そこを出て美術館に向かうがここは正真正銘の休みだった。日曜日が休みの美術館なんてちょっとないよなあと思いつつあきらめる(ヨーロッパでもたいていの美術館は月曜日が休みである)。しょうがないのでクロアチア最大のフェリー会社に行きタイムテーブルをもらい、バスセンターでバスの時刻表をメモし、マーケットで果物とパンを購入。小さなパン屋の若者が「あなたは何人」と聞くので日本人だと答えると僕は日本に行きたいと思っていると言った。日本の何に興味持ってるの?と聞くと「文化や歴史や全部だ。僕は本気で行く気なんだ」と言っていた。とりあえず「ナイスな考えだね」と答えておいた。
また今日はリエカあげてのマラソン大会の日のようであった。交通量が極端に平日より少ない。急に暑くなったせいか救急車みたいなのに運ばれたり、テントで倒れたりしている人が多かった。クロアチア人は何となく体格からいってマラソンには向いてないように思う。大きなお世話だけど。街の中心ではマラソン参加者や関係者のために大きな鍋で作ったラザニアを振る舞っていた。ラザニアを作っている人がちゃんとしたコック帽をかぶっているだけでおいしそうに見えました。
その後定番になりつつある美しい栗の木の並木のあるホテル・コンチネンタルのネットカフェで昼食と調べものとトルコ行きのホテルの予約等をする。パスタとピザとビール。バスで帰宅。その後読書等。夜テレビではジャッキー・チェンをやっていた。
自然史博物館正面。右手が正面玄関と思われる。
どう見ても裏口。
この日はソボルさんがオパティアを案内してくれる日である。午前中自宅テラスで絵を描いた。
お昼前にソボル、マイーダのカップルが車で迎えに来てくれる。オパティアはクロアチア有数のリゾートである。リエカから車で30分位。他の観光地、ドブロブニクなどと異なるのは歴史上オーストリアのリゾート地であったということだ。もともとはあるイタリア人が瀟酒なヴィラを妻のために海岸沿いに作ったことに端を発しているが100年以上前にオーストリアの王族、つまりハプスブルグ家の人々が避冬地としてここにヴィラを作り、リエカの貴族もそれに続いて、現在ではヨーロッパ有数のリゾートになったのだ。地中海的というよりもウイーン的らしい。海岸沿いに遊歩道がある。ここへの観光客はこれまではドイツ人、イタリア人、オーストリア人、ハンガリー人が多かったが最近はイギリス人とフランス人が多くなったとはソボルさんの解説。またもっと近年にはリッチなロシア人が滞在ではなくヴィラごと買い取っているという話である。もう少ししたら中国人がやってくるかも。
ソボルさんに観光客値段ではない安くておいしいレストランを教えてもらう。(まだオープンしていなかった)夏にでも改めてきてみようと思う。
気持ちの良いテラスでお茶をする。智子はクロアチアの有名なプリンが食べたいと言っていたがマイーダさんにここはウイーン的なところなのでそれはないのだと教えられる。でフルーツケイキにしたのだがこれは大変おいしく、しかもとてもリーズナブルで驚いた。
マイーダさんは美術書の翻訳や編集の仕事をしていて出版に関してはソボルさんと共同していることなどを知る。マイーダさんの知り合いでザグレブ美術館のキュレーターを紹介してもらうことになった。ソボルさんもマイーダさんも当然、美術やデザインに詳しく話が早いのは幸運である。僕の編集したリシツキーの本も見せたのだが、そこからおもしろい話がいろいろ聞けた。(ソボルさんはロシア語が読めるので話が早い)
そのひとつにあなたはダヌンツィオを知ってるか?というのがあった。「いや名前ぐらいなら知ってるけど良く知らない」と答えるとダヌンツィオはイタリア3大詩人の一人であるという。ダンテ、ペトラルカ、ダヌンツィオ、なのだと。で、かれは1919年から1920年、第一次大戦後の混乱の中ここリエカを統治した詩人であり、その時ヨーロッパ中のダダイストや未来派、アナーキストがここに集まっていたのだという話になった。ここリエカは第一次大戦前まではイタリアが占領しており(ソボルさんの母親はイタリア人であるがそれは占領下のリエカに生まれたからだ)、サラエボ事件以降の政治的真空状況の中、イタリアを背負って勝手にリエカを統治したのが文学者であるダヌンツィオだったらしい(イタリア政府は他国に遠慮してダヌンツィオを無視しようとしたが)。彼は日本ではムッソリーニや、何よりもあのマリネッティに影響を与えたファシズム的文学者として知られているし、日本ではさほど重要視もされていないかもしれないがとても興味深い人物であるようだ。当時のイタリアの国境線が私たちの今いるリエチナ河なのである。
ダヌンツイオはその短い統治期間(約2年間)、国家の最高規範は音楽にあるとして、かなり非政治的、文学的な統治を行ったようである。ソボルさんによればそれはクレージーでアナーキーだったが興味深く、ある意味では芸術的な時代だったのだ。
自宅に戻りネットで調べると、彼はドビュッシーとともに作った「聖セバスチャンの殉教」などで三嶋由紀夫に大きな影響を与えたことは周知の事実であったことがわかった。さらに夏目漱石の「それから」の執筆にも影響を与えたらしい。
初日にリエカの街巡りをした時にみた旧市庁舎のバルコニーでダヌンツィオは花火を打ち上げ、ファシズム的で未来派的な詩を朗読し、演説していたのである。(三嶋の市ヶ谷での演説はその模倣であったという説もあるそうな)
私たちの今いるリエカはそのような街だったのか。これもまたあらためてその著作を読まねばならないと思う。私の受けた印象ではその後のムッソリーニやヒトラーのファシズムとダヌンツィオのそれとは根本的に一線を画しているように思えるのだが。多分彼は19世紀的な人ではなかったかと。
ちなみにダヌンツィオは空軍にいた時に片目を失明している。
元イスラム寺院であった教会
午前中は掃除や次の旅程の検討や読書など。
市場が13時に閉まるのでそれにあわせて12時に家を出て市場で買い物。デパート等ものぞいてみる。何となく共産主義時代のあか抜けなさというのがただよっている感じがするのは気のせいだろうか?
その後ホテル・コンチネンタルのネットカフェにてブログの更新を行い、東京の息子とスカイプのチャットを使った交信を初めて行う。こちらは昼の3時だが向こうは夜の10時である。何とか無事に交信できた。息子(次男)は17才にして自宅で一人暮らしのはめになっているが何とか元気にやってくれているようで安心する。(ちなみに長男はすでに京都で一人暮らし2年目なので大丈夫のはずである)チャットというのをまともにやったのはこれが初めてだ。
以前にも記したがネットはプリペイドカード方式でやっているのだが、ブログの写真が多すぎるのかどうか不明だが、一回の更新で2000円近くかかってしまうのだ。いつでもどこでもやれる分便利であるが。しかしプリペイド分が無くなるたびにカードを購入せねばならない。それを気にしつつネットを使うというのもなかなか不便かつ不経済なのである。そこでリエカ滞在中のメールの更新や必要な情報摂取はプリペイド送信機で行い、このブログの更新は2〜3日に一度、街のネットカフェで行う事にした。
今回旅をして(市場などに行って)感じる事、今までの自分とは異なるなと思う点はまず、バス代とかほうれん草やパンや魚の値段とか諸々のお金のことに少し敏感になったことだ。東京にいると日常の買い物はしないし、何がいくらでそれが高いのか安いのかあまり考えもせずに生活して来たのだ。旅の中でそういったことを感じながら日々を送る事も今は大事なことのような気がしている。
そもそも私はこれまで日記を3日以上続けた事が無いにもかかわらず(自慢するつもりはないが)このブログ自体、すでにここまで続いている事自体驚くべき事である。(これも自慢するつもりはないが)でせっかくだからこのまま続く限り同じペースで続けてみたいと思っている。
なので、これを読んでる方でもし叱咤あるいは激励?したい方は直接メールで下さい。よろしくお願いします。
terayama@ka2.so-net.ne.jp
市場
晴れる。
朝、まるでエッシャーの絵のような階段発見!
家から歩いて5〜6分のところにあるトルサット城。昨日に続き再訪。
城の窓から見下ろすリエチナ河。高所恐怖症の僕はこれでもかなりきつい。
城廃墟部分。向こうにはローマ式の水道跡が見える。
地元の小学生達。丘や山のある街に住んでいる子供の特権は自分の住んでいる場所を見下ろすことができることだ。自分も学生の時、小倉から東京に引っ越して来て東京にそのような場所がないことを寂しく感じたことを思い出した。ここの子供達は「コンニチワ」というと元気よく「コンニチハ」と返事をする。日本語を教えているのだろうか?そんな馬鹿な。引率の先生も「コンニチハ」といいながらあなた達中国人?と聞いて来た。?。
今日はエッシャー階段の日なのかも
中庭はカフェ
城の中心の内部は発掘の歴史を示すギャラリーになっていた
城のすぐ下には聖ジョルジュ教会
聖ジョルジュ教会を抜けると向かいにはトルサット聖母教会が見える。いつも部屋からここの鐘の音が聞こえるが、ここはカトリックの巡礼地としてとても有名なことを今更知る。亡くなったヨハネ・パウロも訪れた事を記念する像が中庭にある。そして私たちが初日に降りた長い階段はこの教会に行く為に、巡礼者が跪きながら昇る事で有名なペタル・クジッチの階段というのであった。
この日はバスで街の西のはずれまで行ってみた。向こうの海岸に見えるのは有名な保養地オパティアである。
朝は晴れていたが途中から雨模様になった。昨日も天候はぐずついていた。気候は日本に近いと思う。少し温度が低いくらいだろうか。
なんとこの日もカメラのバッテリーをまちがえて写真がとれなかった。この日は家の近くにある。城や教会に行った。だんだん自分のいる場所の事が分かって来た。散策以外は次の旅の計画や資料集め、読書をして過ごしている。
泥縄だがクロアチアの事を改めて調べながら同時に次の大きな旅になるトルコのルートをどうするかで悩んでいるところ。テレビは映るがほとんど見ない。
私たちの住んでいる場所はリエカの港からすぐに切り立った丘の上にある。見晴らしはすこぶる良い。刻々と変化するアドリア海とその向こうに見える山陰はクロアチアで最大の島クルク島である。そのうち探索するつもりだ。しかしまずは足下を固めねばならない。丘にあるということは眺めが良い分、街に行き来する為に坂を昇り降りせねばならずその点大変である。こんな坂の上にあるとは知らなかったので正直びびる。ここにいる間に足腰は鍛えられそうである。坂道は何本かあり、また長い階段もある。またバスが頻繁に走ってもいる。途中にカフェやレストランが何件かあり、ジェラート屋さんもある。わりとおしゃれな場所である。しかし私たちの滞在している場所トルサットがリエカの中でもスペシャルな場所であることにこの時は全く気づいていなかった。
ちなみにリエカという名はかつてローマ人がここに街を造った時、大きな川が流れていた(リエチナ河)のでラテン語の河という意味で名付けたそうである。この日は街を散策、とくに大きな市場に行って買い物をした。カメラの電源が途中で切れて写真はあまり撮れなかった。
カフェ
かなり急な坂道
坂道の途中風景。向こうの丘との間が谷になっていて河が流れている。
長く続く階段
階段の終点。ここから街の中心へはすぐである。この階段が有名なペタル・クルジッチの階段だという。この時しらなかった。(後述)
リエチナ河から丘を見上げる。あの丘のてっぺんあたりに私たちの住居がある。
市のアルヒーフ。落書きが多く痛々しい。
自然史博物館。中には入らず。
現代美術館。ここでカメラのバッテリーが切れる。
朝9時にソボルさんが迎えに来てくれる。彼の車でダリンカさんとともに市の警察署へ。ここで滞在許可証をもらう為だ。幸いな事にソボルさんの親戚(女性)が警察に勤めておりそのコネでわずか1時間程で許可証が出た。もしまともなコネも無く私だけで申請したらどれくらいかかるかわからない。ソボルさんとソボルさんを紹介して下さった田中さんに改めて感謝。
その後街のカフェでソボルさんの妻マイーダさんと待ち合わせ。マイーダさんは風邪をひいて前日まで寝込んでいたという。エスプレッソを飲んだ後、ソボルさんに街を一通り案内してもらう。
一旦家に帰り昼食をとった後、再び街に戻りネットをつなぐ為の相談をする。結局自宅にラインを敷くのはあまり合理的ではないという判断をし、ボーダホンの送信機を購入しプリペイド式でやってみることにする。うまく作動するまでにマックのOSの事や何かで結構時間をとられる。またクロアチアにいる間はソボルさんの旧式の携帯を貸してもらいそれもプリペイドで使用する事とする。
この日は歩いて20分くらいの所にあるスーパーに買い物に行く。坂があるので結構きつい。
ソボルさん マイーダさん ダリンカさん
これまでも国が変われば勝手も異なり、その空気に慣れるのに時間がかかった。今度は国も変わったがそれ以上に生活のパターンが異なるのだ。ホテル暮らしから日常生活へ移行し、ここで生活の基盤を作らねばならない。要するにモードが変わるのだが当然ながら頭と感覚はついていけず、少しぼんやりして第一日目がスタートする。無理をせず少しずつ慣れていくつもりだ。
ソボルさんがお昼に訪ねて来てくれてダリンガさんとともに私たちの生活が上手く行くように世話をしてくれる。一緒にショッピングセンターに行って生活用品の購入や、地図で街の概要、インターネットのアクセスをどうするか、携帯電話をどうするか、安全な銀行でのお金のおろし方。etc。洗濯機やお風呂の使い方、鍵についてなど細かい事は山ほどあるものだ。
ソボルさんについてはまたおいおい記していくことになると思うが、彼は英語専門の翻訳家であり、出版社を経営している。つまり自分の翻訳した本を自分の会社で出版している。専門は仏教書である。彼は母国語以外に英語とイタリア語とロシア語に堪能で日本語も単語は良く知っている。例えば英語ではblessというクロアチア語を説明してくれた時に(god bless you等)、「日本語ではカジといいますね」と言われ一瞬何の事かわからなかった。「ああ加持祈祷の加持のことですか。」佛教語には詳しいのだ。インドの梵字はほとんど読めると言っていた。
テラス。向こうにはアドリア海が見える。
キッチン
ディエゴ・法海・ソボルさん。
近所
近所。森の向こうがリエカのセンターで港。
4月19日
いよいよ、今日はアイルランドに別れを告げクロアチアへの移動日である。
朝ホテルでチェックアウト。受付で支払いは日本円かユーロかと聞かれ、とっさによくわからないまま日本円にしたが、(クレジットカードなのだが)これは間違いであった。日本円にするとホテルのレートが上乗せされるらしい。旅をしているとこんなことにも、不条理感があり、神経質にならざるを得ない。(このホテルはこれまで泊まった中ではベストであったが)
バスで空港へ。早めに着いたので空港で軽い食事。そしてチェックインカウンターで搭乗券を発行してもらったのだが、(ルフトハンザは)機内に持ち込むつもりの手荷物の重量をしっかりチェックされ、あなた達の荷物はそれぞれ12キロと11キロ、規定は8キロで3〜4キロオーバーしているから機内に持ち込めないとケンモホロロにいわれる。成田でもヒースローでもそんなことは全くなかったのだが(ここらへんがドイツ的というべきか)。この時点で今回の移動における「何となくいやな予感」が発生する。やむなく荷物を預ける。そしてボディチェックをした後、飛行機がすでに30分遅れている事を知ったのだった。
ダブリンからクロアチアのザグレブへは直通便がなく、今回ルフトハンザでフランクフルトまで行き、クロアチア航空に乗り換えてザグレブまで向かう予定である。その乗り換えの為の空き時間は1時間弱しかなかったのだ。このことは実は前日から何となくいやな予感とともに気になっており、頭の中で合理的な乗り換えの仕方をスチュワーデスに聞くための英語をうっすら考えてはいた。フランクフルトは国際的なハブ空港なので広いはずでどのように乗り換えればよいのか見当がつかなかったのだ。(いやな予感は大抵当たるものだ)
結局、飛行機は1時間遅れてダブリンを出発。早速機内でスチュワードにどうすれば良いのか質問したが1時間後じゃないとわからないという。そのスチュワードはその後何のサジェスチョンもくれなかった。機長がアナウンスで遅れているが頑張ってショートカットしているので各方面への乗り換えは大丈夫だ...のようなことを言っているように聞こえる(が、ここらへんが情けないくらいにちゃんと聞き取れないというか確信が持てない)。飛行機はクロアチア航空便が出発する5分前に到着、あわてて空港内をどたばた走って移動するも結局乗り継ぎに間に合わなかった。多分タッチの差くらいであったはず。ここらへんの諸々のドラマは省略。
最終的にはあきらめてルフトハンザのカウンターに相談に行くと、「あなたは正当な理由があるので次の便に乗れる、ついてはあそこにある別のカウンターに行き券を発行してもらえ」といわれる。で、そこに行くと今度は「あんた達が遅れたのではないか」みたいなことをいわれ、ケンモホロロの対応をされる。こっちも疲れている上、かなり頭に来ていたので思わず強い口調で1時間もルフトハンザが遅れたせいじゃないか主張すると、やっと再発行してくれることになる。やれやれ。
しかしここでまたもやアクシデント発生。僕の航空券が行方不明になったのだ(搭乗券はあったのだが)。そしたら「一旦イミグレーションを出てANAのカウンターで航空券を再発行してもらえ。そうじゃないと券は発行しない」という。実際搭乗券その他で私たちが航空券を持っていた事は明らかであるにもかかわらずだ。しかもこの時点で夕方の4時半過ぎである。このままフランクフルトで一夜を明かすのか?はたして私たちはクロアチアに行き着けるのかと暗雲は広がるばかり。しかしなんと妻のバッグのポケットに航空券がみつかり無事、次のチケットをもらえることになる。
しかし次の便は5時間後の9時45分である。ザグレブの空港に迎えに来ているはずのソボルさんに連絡をとらねばならず、これも大変な作業であった。その後やむを得ず空港のレストランで夕食をとることに。ピザ1枚とシーザーサラダ一皿、生ビール3杯で約6500円。(これにチップをプラス4ユーロ、約650円)日本で150円の水エビアンが600円!であった。空港値段なのかもしれないがドイツもイギリスと同様物価が相当高そうである。ちなみに空港内にあるマクドナルドを見てみるとビッグマックバリューセット(ビッグマックとポテトとコーヒー)が6.5ユーロの1050円、これが相当割安に感じられるのだから他は推してはかるべしだ。
その便も出発が遅れ、結局ザグレブ空港に到着したのは11時半(当初の予定では夕方5時)。預けた荷物は無事に到着していた。今日一日の災難の中ではこれだけでも幸運と思うべきだろう。迎えに来てくれたソボルさんの友人ダミールさんは空港で6時間以上待っていてくれたことになる。そこから高速に乗ってリエカまで約200キロ、2時間弱。満月の夜、ダミールさんお勧めの音楽(カンツォーネとゴスペルを混ぜたようなクロアチアのトラディショナルフォーク)を聴きながらドライブ。ダミールさんは歌をうたいながらかなり飛ばす。(後で分かったことだがクロアチアの人は皆飛ばす。モナコのアイルトンセナのようだ)結局我々のこれから滞在する家に到着したのは夜中の2時前であった。ソボルさんと私たちが借りる事になるフラットの大家(ソボルさんの義母)ダリンカさんも起きて待っていてくれた。ルフトハンザのせいだが各方面に迷惑をかけ恐縮することしきり。とにかく簡単な挨拶と簡単な部屋の使い方を教えてもらい就寝は3時過ぎであった。
まあそれなりに大変なクロアチア上陸であった。時差は1時間減って7時間となる。
ザグレブ空港
とにかく到着。真っ暗なので街や周辺の様子などは全く分からず。東京からの荷物は無事に着いていました。
タラの丘は映画、小説とも有名な「風とともに去りぬ」に出てくるスカーレット・オハラの「タラの丘へ」という台詞で有名らしい。僕はこの映画を見た事もないし、小説も読んでない。妻は小説は二度読み映画は何度も見てるという。へーえ、そうだったのか。
ニューグレンジにある大古墳は約5000年前のもの。ここでもアイルランドの烈風吹きまくる。日本でいえば奈良の古墳群が想起されるがそれよりもはるかに古い。また世界遺産でもあるが、ちゃんと古墳中部まで入れるようになっている所が日本と異なる。奈良の古墳の中なんて誰も見たことないのではないか。宮内庁管轄のせいだろうか?
あまりにもアラン島の印象が強烈だったせいと、多分疲れているせいでゴールウエイでは博物館などを訪れる気がおこらず。街でやっとのことインターネットができる場所を探してメールを確認したりした。
ここでも夜の8時半ころにやっと日が暮れる。海のそばの宿に滞在している。長く続くサンセットは大変美しい。
アラン島の朝。昨日がうそのように風のない穏やかな朝。
まるでモネのような。
展覧会を見ながらふと西脇順三郎のことを思い出した。10代の終わりから20歳代の始めころ西脇の詩に入れあげた時期があったことを思い出したのだ。確か西脇はイエーツの研究を行っていたか、あるいは影響を受けたのではなかったか。イエーツとパウンドとエリオットがほぼ同時代の詩人だったはず。確かな事はもううろ覚えだけれども、思い出したのはそのせいだ。そしてイエーツから何故西脇なのかといえば、今回の長旅の予定の中、一ヶ月以上もギリシアに時間を割いているのは少なからず、30年前の西脇の詩の影響があるように今、ここにいたって思い当たる節があるからだ。ギリシアの神話的古代と現在の侘びた日本の田舎との時空の不思議な交感のようなものを自分は西脇の詩から感じ、大学に入学したての自分は下宿している近所の田舎の木立の中を自転車で走りながらギリシアと自分にとっての神話的原風景である故郷での幼い記憶を重ねつつ西脇のまねをして彷徨ってみたのだった。
永遠の旅人かへらず
(だったか?すいません。これを書いているのはだいたいギネスを飲んだ後か飲みながらなので、いい加減なところがあっても適当に聞き流して下さい)
例えば4〜5歳のころ子供達だけで親に内緒で食べた野いちごの味や、大人のいない切り崩された石灰の真っ白の広大な地面の上、雨の後にできた水たまりを泳ぎ回る無数のオタマジャクシの群れ、その上に映る刻々と変化する夕暮れの空の色などを。
この時、年齢的には幼いはずなのに過ぎていく時間への恐怖を感じた事はしっかり今でも覚えている。
イエーツはアイルランド独立のただ中でゲール語の復興運動を行っていたという。彼も左目を失明している。彼のテキストを改めて読み直してみたいと思った。
古本屋で12ユーロ。やっぱり少し高い感じはありますね。
まあ、英会話の本を読むより面白いかと...。
イギリス覚え書き
そもそもこの旅の最初の訪問先にイギリスを選んだのは大英博物館を訪れる為であった。これから行く事になる中東とヨーロッパ全体の場所と時間、文明の見取り図というか大枠をざっくりと俯瞰したく、その為には大英博物館しかなかろうと思ったわけだ。ここを訪れるのは25年前、10年前に続いて三度目となった。今回三日間、時差ぼけをものともせず頑張って通ったが、やっぱりこれまでと似たようなもので「ただざっと見ただけに過ぎないなあ」という印象が残った。本当はもっと長期間じっくり腰を落ち着けて見るべきなのだろう。ただ以前に比べてこちらの知識も増している分、以前より少しはクリアに見えてきたような気もする。
今回、特に印象深かったのは展示物をあちこち移動して見ながら、自分がまるでブラウジングしているような感覚を強く持ったことだ。インターネットにおけるブラウジングと似た感覚である。例えばエジプトエリアを見てギリシアエリアを見た後再びエジプトエリアに戻ったうえで、シリアエリアと比較するなどといった作業だ。パソコンと異なるのは目の前に解像度100%の現物があることと、クリックの代わりにこちらが生身の身体を移動させているということだ。しかし頭で起こっていることは、何と言えばいいか分からないが対象物をインデックス化しているというか、感覚的にはいったんリファランスの状態に持っていっていることは間違いがなく、その点でネット上とさほど差はない。当たり前のことだが現物が本来有るべき場所にあったはずのリアリティはかなり失われている。だからこそ(無駄なことも多分、多いだろうが)この後の私の旅は現地を可能な限りたどっていくことが逆に重要なポイントとなる。(実際、出発前には何人かの人から君の旅は博物館に行けば事足りるのでわざわざ現地に行くのは無駄が多すぎるのではないかと指摘はされた。もちろん僕はそうは思ってないのだが。)
昨年企画したノイラート展と無理に結びつけるつもりはないし、ノイラートやオトレ、ディドロを改めて持ち出すまでもないかもしれないが百科全書とmuseumの登場は必然的に同じものであり、またそれが今日のネットワークの元になったのだと今回大英博物館で改めて強く感じた次第。
今回望外に嬉しかったことが後二つある。ひとつは大英図書館のリーディングルームのパスがもらえたことである。これは一生使えるのだ。その為に今回は二度通うはめになったのだが、二度目に持っていった所属大学の学長名の「こいつの面倒宜しく頼む」的な書類の効き目があったのか、とてもスムーズにもらうことができた。今回は時間が無くそれを有効には使えなかったが(リーディングルームに入っただけでは無意味で、館内に置いてある膨大なリファレンスを使いこなさなければここは意味をなさないところなのだ)今度改めてじっくり準備をして来る事にしたい。ここにあるほとんどの貴重書が直に手に取って自由に見れるなんて信じられない。はっきりいってこんなに嬉しい事はない。世界の財宝を手にした気分だ。始めは厚かましいと思って図書館の特別展示だけ見て帰ろうと思ったのだが妻がだめ元でもパスのこと聞いてみたらと言ったのだった。本の神様が計らってくれたものと信じている。生きている間にこれから何度ここを訪れることができるか分からないが人生の楽しみが増えました。
今回、ロンドンで卒業生の田中(通称ユミッペ)さんに会えたことも嬉しいことの一つだった。彼女はほぼ10年前のゼミの卒業生。私のゼミの二代目の卒業生である。卒業後出版編集の会社に勤務し、その後修士であるロンドンのRCA(ロイヤルカレッジオブアート)のインタラクションデザインコースを優秀な成績で修了、フリーで活躍の後、この5月から北欧に拠点のある某有名企業のシニアディレクターとして働き始めるという。今回話をして大変しっかりしているのを見て感慨無量なものがあった。年をとったせいか私にとっての10年と若い彼女にとっての10年はこうも違うものかという思いもあった。彼女がインターナショナルな仕事環境でデザイナーとして勝負するのはこれからであるが是非頑張ってほしいと思う。今度母校に来て若い学生達に話をしてねと頼んでおいた。それで思ったのはこの旅の直前に送別で来てくれた6年前の卒業生、西沢君はソニーのインタラクション部門、北崎さんはゼロックスのアドバンスデザイン部門でバリバリ活躍している。ユミッペも含めてライティングスペース魂?をもった卒業生が活躍し、それが世界のデザインを変えていくのだなあと実感した。皆まだまだ若いのでこれから苦労は沢山あるだろうけど、初心忘れずに持続してもらいたいと願う。俺も自分なりにがんばらなきゃと思いました。
最後にロンドンの生活について。
噂には聞いていたが本当に(日本に比べると)物価が高い!ホテル、レストラン、地下鉄などは軽く2〜3倍の感覚である。ウイスキーも2倍の感じ。ワインは1.3倍くらいか。唯一安いと思ったのはビール、特にギネス。値段は日本とさほど変わらないがうまさは圧倒的にこちらのほうがうまい。後は良く知られていることだが美術館の多くが無料である事。これは本当に助かった。
ダブリン市貴殿棋道執心修行し
懈怠無く手段ようやく進む
之に依って初段を免許せしめ
なお以て勉励上達の
心がけ肝要たるべき者なり
よって免状件の如し
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