終日、資料の読書と長旅後半の計画に追われる。
夏は9時頃だった日没が今では6時である。これが4時頃までになっていくのだと思うと
ヨーロッパの冬は暗そうだ。これまで経験して来た春、夏とは全く印象が異なるのだろうと思う。

前から聞いてはいたものの、ヨーロッパ圏内は早めに予約をすると航空券が(列車などに比べて)大変安く手に入る事がやっと後半になって分かって来たし、ビビらずにネットで予約する度胸もついてきました。

やっとアバウトながら以下の旅程が決まる。
10月は後半に1週間ほど、ザグレブ、ベルリンへ。
10月の終わりから11月のあたまにクロアチア国内のドブロブニク、ザグレブへ。
11月の半ばにパリ、ウイーンを経由し20日間弱エジプト(シナイ半島)へ。
12月半ば過ぎに再びドイツ(ドュッセルドルフ、マインツ)へ1週間ほど。
1月前半に南イタリアとシチリアに約2週間。
2月の前半にクロアチアの拠点をたたみ、ポルトガル、モロッコ、スペインをまわる。
3月10日から20日までフランス(パリ)、その後ニューヨーク(約10日)を経て帰国の予定となる。

その他リエカ滞在中に出来る限り時を見計らって近隣のスロヴェニア、クロアチア国内のショートトリップ(バス)もしたいと考えている。
このあたりの冬の寒さがどのようなものか未知なのでどうなるかわからないけれども。

多分、11月のエジプトが冬とはいえ後半最大のハードな旅になりそうなのと、
ここリエカの拠点を引き払って後の放浪の50日間がどうなることやら不安ではある。

これまでの前半は全てが手探りだったし、様々なカルチャーショックもあったがその分、多分に新鮮でもあった。
後半は同じ旅でもその経験の受け止め方が変わって来るのではないかという予感がある。
うまく言えないが善かれ悪しかれ旅の質感が変わって来るのではないかと。


終日次の旅の準備。
でも家に籠ってばかりは何なので散歩しました。

テレビのニュースを見ていると同じクロアチアでも南のドブロブニクなどではまだ海水浴をしているのです。
しかしここトルサットはもう秋の気配です。
歩くと上着を脱ぎたくなるくらいの気温ですが。

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終日、家にひきこもり調べもの、読書、次の計画などに集中。

ここリエカの家は静かで気持ちよく引きこもりには最高です。
申し訳ないですが家事はなにもしていません。
感謝の気持ちを時々忘れるのでカミサンから顰蹙を買っているのが問題なくらいの
静かな日々です。

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画像が荒くて申し訳ない。1926年シュレーダー邸を訪れた左から建築家のマルト・スタム、リートフェルト、エル・リシツキー。リートフェルト38歳、老けて見えるが(急に頭が禿げたので)リシツキーは36歳。リシツキーの奥さんのゾフィーの書いた伝記では世界恐慌、ファシズムの前のアヴァンギャルドが幸福だった頃のワンシーンである。彼らはここで一般庶民の住宅の未来を終わる事なく語り合ったとある。

オランダ覚え書き。
今回のオランダではレンブラント、フェルメール、ゴッホ、エッシャー、モンドリアン、リートフェルトと(見落としも随分あるとは思うが)それなりに見れたのは良かったと思う。
そう、加えてウエルクマンやマレーヴィチなど思わぬ出会いもあったし。

ただ心残りがいくつかあった。
気をつけて(意識しながら)美術館や町の画廊などを見たつもりではあったが、戦後の優れたオランダのグラフィック・デザインがほとんど見れなかったこと。

リートフェルトは思った以上に評価されていたがデ・スティルのドゥースブルクがほとんど見れなかったこと。

そして最も大きな欠落はゲルト・アルンツがどこにもなかったことであった。
かつてゲルト・アルンツの大回顧展を行ったのはハーグの市立美術館である(今回モンドリアンを見たところ)。ここではモンドリアン以外にはイズラエルという画家の大展覧会をやっていてモダンデザインに関する展示は全くと言っていい程なかった。
まあ、こちらにも学芸員にわざわざ何故か質問する程の準備もしてなかったのでしょうがないが...。
オランダにいればなにか情報が入ると思っていたのだが...。
アルンツに関しては特に心残りではある。



終日家にこもり旅でたまった資料の整理。
旅の途中購入した書籍や、ゆっくり目を通せなかった資料に目を通す。
辞書を引きながら、またインターネットで確認しながらの作業なのでなかなかはかどらない。

しかし今回はあまりゆっくり振り返っている時間がない。
次の旅の当面の準備もあるけれど、ほとんどちゃんと決めてなかった後半の旅の見取り図全体を再度描かなければならないのだ。

もちろん、誰かが言ったように旅はちゃんと戻らなければ旅とは言えないので出発前に大きなアウトラインは作って来た。
これまでは若干の修正(例えば8月は少し休んだり、当初思ったよりイタリア滞在が少なくて北ヨーロッパが少し増えたり)はあったもののほぼ計画通りであった。
しかし後半についてはあまり考えてなかったのだ。

これは出発前にそれだけの準備をする時間やゆとりが全くなかったということにもよるのだが、半分は意識的に「行ってみなけりゃどうなるか分からんだろう。」という気持ちもあったのだ。
決めた事をそのままトレースするほうがどっかおかしいんじゃないかという気持ちがあった。

実際、見たり、感じたりするこということは、何かがその都度、自分に刻印され自分の感覚の何かが変化し続けているということだ。実感として。
これは当たり前と言えば当たり前のことではある。しかしこれまでの人生で少なくともこんな短期間にこれ程の量の情報を浴びた経験がないので圧倒されているということなのだと思う。
それで旅先で「やばい」と感じて思わず受信を遮断しよう(インプットを減らそう)とする自分がいるのだ。そしてそれを見ているもう一人の自分が「なんちゅうやっちゃ、お前は」と苛立っているのだ。

ここ最近、みっともないとは思うのだが「苦しい」だの「混乱している」だの弱音を吐いているのはそういうことです。
意外と弱い私をお許し下さい。

この迷いも旅に含まれた大事な要素なんだとここ数日、少しづつ開き直るようになってはいるものの。

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9月7日。ミラノで見たグリーナウエイのインスタレーションの様子。画像が小さくて見にくいですが。正面に見えるのが再現されたテーブルです。
http://www.esporre.net/terayama/2008/09/0901leonardos-last-supper-by-p.php

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終日、ブログの更新に追われる。

今回の旅の後半、ベルギー、オランダでの経験で書くべき事は目白押しではある。
が、頭からどうやっても離れないのはまずはフェルメールである。
フェルメールはこの旅の最初、イギリスのナショナルギャラリーに始まっている。
これまで行った場所で見れるものは必ず見て来た訳で、しかも彼に関しては今日いろんなところで語られているので今更僕が何か語る必要もないと思う。
いや、語りたい事は山ほどあるのだ。しかしそれをどう語って良いか分からないということなのだ。
このブログをご覧の方はもうすでに僕の見方が偏っている事はご存知だと思う。
レオナルドとヤン・ファン・アイクはまず別格として、デューラーとホルバイン、ボッシュとブリューゲル、そしてカラバッジョ、レンブラントがいるのだが、どうしても今語らねばならないのはフェルメールなのである。
時代も場所も異なるのにそれらを一緒くたに語る無茶苦茶さは承知の上です。しかももっと他にも優れた画家は沢山いるかもしれない。その点もごめんなさい。

ともあれ今はフェルメールのことを記さねばならないとおもうのだが今更何を語るべきなのか...。

「失われた時を求めて」を書いたマルセル・プルーストはフェルメールの「デルフトの眺望」を二度見ている。1902年マウリッツハウスと1921年パリでのオランダ絵画展覧会で。
そこで彼は書いている

「デン・ハーグの美術館で[デルフトの眺望]を目にして以来、私はこの世で最も美しい絵を見た事を知った」と
で彼の小説「失われた時を求めて」第五巻「囚われの女」の中に以下のテクストがある

「(...)しかし、ある批評家が書いているものによると、フェルメールの『デルフトの眺望』、彼が大好きでよく知っているつもりだったこの油絵のなかに、黄色い小さな壁面(それが彼にはよく思い出せなかった)が、じつによく描かれていて、そこだけ単独にながめても、十分に自足する美をそなえていて、すばらしい支那の美術品のように美しい、とあったので、ゴルベットは、じゃがいもをすこしたべ、外出し、展覧会場にはいった。階段をまず二、三段のぼったとたんに、彼は目まいに襲われた。いくつもの絵の前を通りすぎた、そしていかにもわざとらしい芸術の、うるおいのなさ、無用さの印象を受けた、(...)やっとフェルメールの絵の前にきた、その彼には、およそ知っているどの絵よりもはなやかで、他とはかけはなれていたという記憶があった、しかし彼は批評家の記事のおかげで、いまはじめて、青い服を着た小さな人物が何人かいること、砂がばら色をしていることに気がついた。そして最後にほんの小さく出ている黄色の壁面のみごとなマチエールに気がついた。...」

このプルーストの語る小さな黄色の壁面は本当に小さく、そう指摘されなければ探せないくらいのものだ。
しかしフェルメールの絵を見ていて実際、彼の本当の凄さはこの壁面にあると思う。
もちろんこの壁でなくても良いのだ。彼の絵におけるこの黄色い壁的なもの。
「牛乳をそそぐ」女の後ろの壁面でも、手紙を読む女の青い衣装でも、女の耳飾りでも。
そこには誰もが見えるのに誰もが描きえないものが厳然とある。
支那の美術品かどうかは知らないが少なくとも「自足する美をそなえて」いることは確かなのだ。
フェルメールと同時代の似たような題材を扱う優れた画家はいるものの、この感覚はフェルメールだけのものである。
これを何と言ったら良いのか。

僕には言葉が見当たらない。
抽象とか具象とかは全く関係のないことだけは確かだ。
ぼちぼちとたまっていた今回の旅、後半部分のブログの更新を行う。
余裕があると、あれやこれや考えてしまうので、一日分の更新に随分時間がかかってしまう。
自分が見たものを単純に見たということが簡単ではなくなってきた。

今回の旅の途中、たまたま別件についてであったが、尊敬するアーティストでもある友人の木本さんとメールのやりとりがあった。
いろいろ凄いものを見たりすることが単なる快楽では止まらずもはや、苦しみを伴う苦行でもあり、自分がどう受け止めれば良いか分からないカオス状態でもあることを正直に彼女に伝えたのだった。
その返信が
「寺山君、あなたの状態は不安定平衡といって、とっても素晴らしい状況なんだよ」であった。
さらに「腰が抜けるまでそれを徹底しなさい」でもあった。(実はもう腰は抜けかかっているのですが)

ともあれ「不安定平衡」とはとても難しい言葉である。
数学に対してまともに取り組んでいる数少ない芸術家である木本さんならばともかく
素人の僕がどうのこうのいう資格はないのだが、彼女の言わんとする事は何となく分かるような気もする。
普段、教師として学生を見ている時、ものを作ることにおいて学生がそのような状態に一度は突入しない限り本人における本質的な変容は現れないということは経験的に知っているし、それはいうまでもなく自分自身の経験でも知っている事だ。

旅を初めて6ヶ月。もう半分が過ぎてしまったという思いと、まだ半分かという思いが交錯する。
妻に正直
「他所様からは単なる贅沢に聞こえるかもしれないが...見続ける事はある意味本当に辛い事でもあるなあ」と弱音をはくと
「でもそれをあなたは望んだんでしょ」と答えられた。

そうだ、僕は無意識的かもしれないけど望んだのだ。
おそらくこの不安定平衡を。


ご存じない方のために木本さんのホームページは以下です
http://www.kimoto-k.com/index.html



今日は日曜日。

食料など日常品の買い出しに行かねばならない。

昼過ぎにいつものように荷物を運ぶためのキャリーバッグをごろごろ転がしながら

30分くらいのところにあるスーパーにのんびり向かう。

1時頃そこに我々が到着したとたんに店内の電気が消える。

いったい何事か、と思っているとこれで閉店なのだと知らされる。

「えーっ、何で日曜日のこの時間に閉店なの。今日は祭日でもないでしょう」

とか思っても始まらない。

これがクロアチア生活なのだ。

あきらめてそこからさらに2~30分かけて丘をおりてセンタービルにある大型スーパーで買い物を済ます。

荷物が重いので帰りはバスを二つ乗り継いで帰宅。

タクシーを拾いたくてもここには「流しのタクシー」というものがない。

日常の何ということのない買い物がここでは半日仕事となる。


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庭の主。名前は忘れた。今度ソボルさんに聞いておこう。
例のごとく、小旅行から帰った後の作業に追われる。
荷物の片付けや洗濯など。
疲れでかなりボーっとしながらも淡々と。

ここに戻ると本当にほっとします。
帰る場所があって本当に良かったと改めて実感。
食料は買い置きしていたもので済ます。

いつものことながら頭はそれまで見て来たものを
無意識に反芻している。
これもいつものことながら、夢遊病者状態が一時続くのだと思う。
朝の列車でアムステルダムからドイツのケルンへ。
今回はケルンーリエカという飛行ルートを見つけたので(リエカ空港は本当にマイナーでめったに飛行機は飛ばないのだ)その飛行機に乗るためである。
3時間弱。
この日の写真は全て妻が撮ったもの。

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ケルンでは駅前にある大聖堂を見る。飛行機の時間まで3〜4時間の余裕はあったものの、中途半端に町を歩く気にならず。
駅で昼食をとってケルン・ボン空港に向かう。

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夕方、無事飛行機は出発し夜の8時、リエカに到着。
心配していた空港から町までのバスもあった。
今回のオランダの旅も終わりに近づいてきた。
この旅の究極の目的のひとつにシュレーダー邸があった。
朝、朝食もとらず宿を出てユトレヒトに向かう。
シュレーダー邸はユトレヒトのセントラル・ミュージアムが管理しておりそこからバスでツアーが出る。
今回も最初は予約がないから内部は見せないと一悶着あったが結局見れることに。(ミラノ以降今回の旅はその手のトラブルが多すぎた)

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アムステルダム中央駅、朝。

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リートフェルト設計シュレーダー邸1924年

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ここはセントラル博物館が修復、管理している。世界遺産に登録されている。一階はまだ修復中の部分がある。
修復技術に関してはデッサウのバウハウスと比較するとかなり落ちる。かなり荒い。
デッサウ並みにやるべきだと思った。
http://www.esporre.net/terayama/2008/07/726.php

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残念ながら、内部は撮影不可だったので写真はない。
ここは建築化された家具という言い方がなされる。やっぱり内部、細部をちゃんと見なければその面白さがわからない。
空間をこれでもかという程細かく変化させるその執念(?)には恐れ入る。やり過ぎと思える程である。微笑ましいというか何というか。リートフェルトの他の全ての建築がそういう訳ではないから、若くして(シュレーダー夫人と出会ったのが33歳)この建築を彼女(当時32歳で未亡人であった)と作ったプロセスにその秘密があるのかなと思いました。
また住む人間の積極的な行動にあわせて空間が変化するという考え方は、リシツキーのプロウンルーム(1923)やドレスデンの展示空間設計(1926)と全く同じコンセプトである。1926年にここを訪れたリシツキーがリートフェルトと意気投合したという話もうなづける。
想像以上に興味深かく来て良かったと思いました。
リートフェルトは木工職人あがりというか、気取った感じのない人で、しかしこのような大胆な物を作ってしまう所が好きだ。
建築の専門家の人たちがどう思っているか知らないが。

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内部写真のかわりにセントラル博物館で撮った資料写真を載せます。
最初の模型。

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歩いて1〜2分の所にある同じくリートフェルト設計の「エラスムス通りの集合住宅」も見学する。ここは内部撮影が可であった。

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ジグザグ・チェア

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見学はオランダのどこかの大学の建築の学生と一緒だった。

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ディック・ブルーナ・ハウス。
一旦バスでセントラル博物館に戻る。ここはディック・ブルーナ・ハウスも併設していて閉館時間の関係でそちらに先に行くことにする。

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ブルーナは父親の経営する出版社のブックデザインも随分手がけている。
グラフィック・デザイナーとしても相当なものであった。
彼はリートフェルト、マティス、レジエに強い影響を受けたと語っていた。

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子供の遊戯室も当然充実。

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セントラル博物館に戻る。ちなみにこの設計もリートフェルトである。

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ショップと受付カウンター

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カフェテリアで遅めの昼食をとる。こことショップのデザインは「ドローグ・デザイン」椅子のデザインはリートフェルト。

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ドールズ・ハウス

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ドム塔1332年。

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ドム教会1254年。オランダ最古の教会。



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