これまでの旅で集まった資料を日本に送るための整理作業や、ここに置いて行く(捨てる)本、持って帰る本の選別などの作業を終日行う。
しかし様々な資料や本を作業途中で思わず読んでしまい、その都度作業は中断され、はなはだ効率悪し。

例えば
白水社の文庫クセジュから出ているジョルジュ・カステラン著の「クロアチア」という本は旅の前に一度読み、5月頃にもう一度ここで読んだ本であった。
その時は大した事ないと思っていたし、実際小さな本だ。しかし今、読み返すと不思議に面白い。
西ローマ帝国の崩壊から、1200年前のクロアチア王国の成立、カトリックと国教会の対立、ハンガリー、オーストリア、イタリア(ヴェネツィア)、オスマントルコ、ロシアなどからの限りない干渉。
セルビア人とクロアチア人の相克、オスマン帝国の占領との闘争、ファシズムに巻き込まれた(ファシズムさえも利用せざる得なかったような)悲惨な独立運動、二つの世界大戦、その後のソヴィエトとのイデオロギー的な対立など、今頃になってありありとリアリティを感じながら読む事が出来るというのはいったいどういうことなんだろうか。
...と思うくらい興味深く読みだすと止まらない。

その理由は多分、それを「読む」ためのコードをこの間、僕が手に入れたという事なのだろう。
しかし、例えばアイルランドにおける(悲惨な)歴史の場合は、最初からあんまり抵抗なく読めたし一応普通に理解できたのに、クロアチアに関してはそうでなかったということは何か別の理由があったように思う。
今それが何故なのか精確に分るわけではない。
しかし多分恐らく、それだけこのセントラル・ヨーロッパ「バルカンの地」は特別に(と言っていいくらい)複雑な場所だったのだと思う。
宗教的にもカトリック、イスラム、正教、プロテスタントの相克があり、(もっと昔はローマ帝国やケルト、イリリアなどの古代社会の宗教も潜む)しかもそれは近代になっての社会主義時代においても単純ではなかった。
ソヴィエト(スターリン)との対立と同時に西側世界との対立など。
そして人種の問題。
国家ユーゴスラビア(南スラブ人の国の意味)内にかかえた、経済的、文化的、宗教的緊張。

そして結局それらを奇跡的に束ねていたチトーが死んだ後の1991年からの戦争。

僕がここリエカに来てすぐの頃、5月の初めだったかソボルさんが
「テラヤマさん、クロアチアは日本のメイジイシンのような激しい変革をこの2000年の間に20回は繰り返しているのです」
といった言葉が「かなり控えめ」な言い方だったということが今ならば分る。
今のクロアチア人にとって今クロアチアという独立国家が存在できることがどんなに貴重なことであるかということが、今ならば分る(というのはおこがましく)、感じる事ができるような気がするのです。

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そろそろ、ここリエカの撤収作業にかからねばならない。
ここを出てからの日程に関して、僕はザグレブでの講義が終わらない事には落ち着いて考えられないのでとりあえず妻がかわりにやってくれている。これも来週から慌ただしくなりそうだ。

今クロアチアではハンドボールの世界選手権が各地で行われており結構盛り上がっている。
以前、サッカーの熱狂については何度か触れたがここはバスケットとハンドボールもプロリーグがあり、かなり人気のスポーツだ。テレビでも時々やっている。
ハンドボールは妻が熱心にテレビを見ている。
クロアチアは結構強くて勝ち進んでいるようである。
国民全部でたった450万人しかいないのに、サッカーもバスケットもハンドも(加えてプロテニスも)世界的に見て一目置かれるほど強いというのは考えてみたら凄い事だ。
特に西欧列強諸国、ドイツやイギリスなどと対戦する時のクロアチア人の熱くなり方は尋常ではない。彼らにとって国際戦は戦争のようなものなのだ。
アジアにおける日本対韓国戦や日本対中国戦のような雰囲気がもっと複雑で激しく存在している。ような印象を受ける。

ともかくクロアチアの強さは彼らの「根性」とか「矜持」を示している。
と僕は勝手に思っていた。
しかし年末に遊びに来たベルリンのモリタさんのモリタ理論によればそうではなく
「テラヤマさん、それはですね、クロアチアに美人が多いからですよ!美人が多いと男は頑張るもんなんですよ。」とのことであった。
さすが欧州滞在の長い人の視点は違うのだ。
でも本当かなあ...?。
確かにクロアチアの特にダルマチア地方は美人が多い事で有名で、国際的に活躍するモデルの産地らしいけど。

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妻の写真機より。ポストイナにて。

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駅。

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リエカ大学応用美術アカデミーというのが正式名のようである。
最初の自己紹介は日本語でしゃべったほうが良いとソボルさんが言うのでそうした。
朝の10時から約2時間、ソボルさんのおかげで何とか無事に終了。
終わった後握手を求めに来る学生もいたし、聞いてくれた先生は「インプレッシブ」とか言っていたけど実際どこまで伝える事ができたかは不明です。
しかしまあともかくも、少しはリエカという町に自分なりの義理のひとつは果たせたかと...。

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ちなみに学生の総数は300名ほどとのこと。

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講義の後研究室にて。右から招待してくれたシンカニヤ教授、学科長のシュチマッチ教授。左はソボルさん。

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講義の後、シンカニヤさん、(写真を撮り損なったのが残念であるがカウボーイのような)IVO VRTARIC教授(通称クムさん)、ソボルさん。マイーダさん、妻とお茶を飲みに行く。
これはクムさんにいただいた地酒。強烈だがおいしい。
kumさんのことは以前マイーダさんにも聞いた事はあったのだが普段、モトヴンの自分の牧場で生活しているアーティストで、たまに学生と一日かけてモトヴンから馬で来たりするそうだ。
とても興味深い人物でかなり感じるものがあった。マレーヴィチが好きな様で私の今日の話にもマレーヴィチがちょっと出て来たので話が通じた。
モトブンの牧場でマレーヴィチのコンセプトをベースにした数日間のワークショップもしていて今年はあのワイマールのバウハウス大学の学生たちが来るそうだ。
確かにマレーヴィチの絵に地平線を馬が走る絵があります。
馬に乗りにこいと誘ってくれたのだが...。
時間があればまたモトヴンまで行ってみたいけど。

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帰ってくるとアドリア海は凄い光景を見せてくれた。

実際声に出して原稿を読んでみて時間を計り、それに通訳の時間を想定し、話が時間内に収まるようにあらかじめ並べてあったスライドを幾分減らしたり並べ替えたりといった作業に追われる。
最後に妻も初めて聞く(見る)話なので横で見てもらって最初のオーディエンスとして「これ分るかなあ」とか言いながら、いろいろアドヴァイスをもらう。
この場合、分る分らないというのは言葉の問題もあるのだけれど、むしろ学生たちの置かれている状況、デザインの環境のクロアチアと日本との違いとか落差のようなことである。
考えさせられる事多し。

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妻の写真機より。ポルトロージェ。

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ピラン、ヴェネツィアのライオン。

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夕方近く、ザグレブのアキコさんから最終的なリライト原稿を送ってもらう。
リエカの講義の為に(以前ここにも書いたが)日本文の原稿を自分で英語に翻訳してそれをソボルさんに見せ、ソボルさんと話しながら改良したものがあった。
基本的にはそれでいくしかないと思っていたのだが、アキコさんにもし読んでみて何かアドバイスがあればお願いしますと原稿を送っていたのだった。
アキコさんはこの正月フランス旅行もありかつ風邪もひかれていたにもかかわらず、熱心に原稿を読み比べてくれてかなり修正してくれたのだった。昨日からその確認作業をしていて最後はチャットと電話でのやりとりも加わった。
「遅くなってごめんなさい。」と何度も謝られて恐縮する。
実際読み比べると最初の原稿は文章という感じで堅苦しい気が何となくしていたのだが、なんかスムーズな話し言葉にちゃんと変わっているのだ。もちろん文意は変えないで。
いや、僕の語学力ではあくまでもそんな気がするとしか言い様がないのですけど。
実際声に出してみるとますますその感じを深める。
最初のテキストはやたら難しい単語が出て来るのだがそれも減っている。
自分で訳しておきながら、自分で意味が分からんとはしゃれにならないですから。
ともかくありがたいことであった。
その後、大急ぎで原稿をソボルさんに送り、夜プリントアウトしてもらうことができた。

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妻の写真機より。イストラ半島風景。ピランに向かう途中。

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来週26日に予定しているリエカ美術大学での講義が近づき緊張感たかまる。

もともと日本でも沢山の学生の前で話すのは苦手だし、これは何年経験しても変わらない。

こればっかりは慣れっちゅうのはないような気がする。

特にあの講義室の雰囲気がだめだ。

ゼミ室などで学生と向かい合っている時は全然OKなんだけど。

多分、ただ気が小さいだけなんだろう。今更でかくなりたいとも思わんが。

しかもこの旅ですっかり学校の事を忘れていて、今更ながら悪夢の感覚が蘇っているところである。


15日に書いた朦朧覚え書きのC.S.パースについてみぎわさんからメールがあった。

僕の旅を見ながら思い浮かべたパースの言葉があったとして以下のテキストを送ってくれた。


「......身体がなければ、多分われわれは情態というものを持たないだろう。......情態は全て認知的であり、感覚であり、感覚は心的記号あるいは言葉である。......そこで人間が動物的情態だとすれば、言葉はまさに同じく書かれた情態である」

「私は、この「ライティングスペーストラベラー」というタイトル、初めは単純に寺山さんがライティングスペースを旅しているのだと受け止めていましたが、パースの言葉を思い出してからは、寺山さんというライティングスペースが旅しているのだと思うようになりました。」

このパースの言葉もとても奥深いものがあります。「情態」という言葉がすごいですね。

またみぎわさんのタイトルへの指摘は僕も実感していたことで、最初は僕も単純にwriting spaceを巡る旅と何気なくつけたのです。しかしどうもそんなに単純な主客二分化などはできないと感じていたのです。つまり自分と世界が入れ子になっているという感覚でしょうか。それを言葉にしてくれたものでした。


かつてK先生と視覚伝達デザインの研究会の名前を「カメレオン」・プロジェクトにした時の記憶も蘇って来た。

...もしも私たちがカメレオンのように自分の身体が受容器であると同時にプロジェクション機能を持っていたとしたら...。

いや多分カメレオンのようにあからさまに目に見えなくてもそれが意味するところは同じ事なのだ。


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以下妻の写真機より。凍った水の中に浮かぶ蛇口。


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ロヴラン。


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ここ数日、もうすぐここリエカを離れなければならない時が迫ってきたことを考えるとふいに寂しさと悲しみの感情が心に起こる。

これは当初予測だにしていなかったことで、我ながら意外な感情であった。 
人の心がいかに不確かなものかと思う。
この1月のシシリーなどの小旅行をとりやめてここリエカに籠ろうと決めたのもひょっとしたら僕の心の奥底の感情がそれを決めさせたのかもしれないと今になって思う。
私たちは茶の稽古をしながら少しずつ別れの挨拶をしているのかもしれない。
そんなことはもちろん言葉には出さないけれど。
お茶の稽古が別れの挨拶なんてちょっと出来過ぎだとも思うけれど。
しかしこれから恐らくこの「雪」という点前をする度に私たちはリエカのこと、ソボルさんやマイーダさんのことを思い出すのであろう。
また彼らとて。

今日は予定した稽古の最終日。11時から。
道歌は
稽古とは一より習ひ十を知り
十よりかへるもとのその一

雪点前をソボルさんマイーダさんは二度繰り返した。
一応なんとか最後までできたので当初の予想よりもはるかに上出来だったのではないかと思う。
後もう一度どこかで時間をつくって最後の復習をすることになるであろう。

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彼らからお礼にとプレゼントされたエスプレッソマシーン。

今日も終日勉強。
お茶の稽古三日目は11時から3時間。
今日は仕舞いの稽古のあといよいよ雪点前の練習に入る。
この茶箱はいわば携帯お茶セットである。
アウトドアでもどこでもお茶を点てることができるところが素晴らしい。
また茶碗や棗(なつめ)を包む仕覆(しふく)が美しい。
ただこの出し入れが結構難しいのだ。
今日の道歌は
右の手を扱ふ時はわが心
左の方にありとしるべし

これなどは身体論として奥深い。とてもギブソン的ですね。

ソボルさんは僕の記憶はヴィデオ的ですと言っていたが、複雑な手順の記憶力が抜群に凄い。

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終日勉強。
今日は13時から2時間半の稽古。
割稽古の続き。茶巾、茶筅などの扱い。
抹茶の頂き方の復習など。
今日の利休道歌は
ならひつつ見てこそ習へ習はずに
よしあしいふは愚なりけり

利休道歌の言ってることはとても奥深い。
翻訳してみるとますますその感を強くする。
ひたすら見る事、そして行為が無意識化するまで繰り返せと言っている。
身体に覚えさせる、型から入るという日本古来の学習方法はとても興味深い。

そう、いつからか「かっこよりも中身が大事なんだよね」的な言い方を日本人はするようになったのだろうか。
これは一見真実っぽいが底が浅いなあなどと考える。

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ソボルさん、マイーダさんともに熱心でなかなか飲み込みが早い。
ソボルさんは日本語をしゃべる時、彼の好きな三船敏郎と北野武のまねをするところがおかしい。

僕は昔の古傷(膝、ソボルさんも同様である)で正座はせいぜい15分くらいが限度である。
しかし本当に久々に正座をし背筋をのばし座るのはとても気持ちの良い事だったことを思い出す。
そういえば物心ついた頃から僕は母の稽古をいつも見ていたのだった。
いつも客の役回りで頂く側でしたが。
終日、家で勉強する以外に今日から自宅でソボルさんマイーダさんとお茶の稽古をすることになった。
11時から3時間。
私たちはこの旅に雪点前ができる茶箱を持参していた。
時々お茶が飲みたくなるし、最後は旅先でこの茶箱をどなたかにあげてもいいと思って持って来たものである。
ソボルさんもマイーダさんもたまに家に寄った時はこれでお茶を飲み、気に入った風であったのでよかったら差し上げようと妻と話していたのだ。しかしお茶の点て方もわからずに茶箱だけもらっても困るよなという話になり、私たちのクロアチア滞在もあと僅かだということになってどうするか考えた。
結局ソボルさんもマイーダさんも是非教えて欲しいということになり慌ただしく稽古をすることにしたのだった。
先生は妻である。彼女は10年くらい修行をし一応茶名もある。僕は半東(はんとう=アシスタント)兼通訳である。
雪点前というのはなかなか複雑ではたしてマスターできるかどうか、妻は不安がったがとりあえずスタートしてみることに。
まずは席入りの練習。次に割稽古といって袱紗さばきなどの部分的練習を行う。
稽古の最初、挨拶の前に全員で利休居士道歌を一首吟じ黙祷するのであるが今日は
その道に入らんと思ふ心こそ
我が身ながらの師匠なりけれ


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向こうが見立ての床の間。本当は掛け軸も自分で描こうかと思ったが、もともと飾られてたクレーが良いのでそのままに。

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