朝から雨模様の曇り空であったが昼間、雨の間を縫うようにリエカの町まで買い物に出かける。ザグレブ行きのバスの時刻も確認する。案の定、ネットには出ていないバスがあった。クロアチアは油断できないのだ。
近所のスーパーにあったお米が最近売り場からなくなっていて、町のデパートやスーパーを探すも見つからない。まだ買い置きはあるものの、どうしてなのか不明である。唯一何とか食べれるお米なのである。
あとは終日翻訳作業の続き。

そもそもこの旅の出発時において講義などするつもりは毛頭なく、むしろなるべく学校の授業のことや、自分の行って来たデザインその他の活動はなるべく忘れて、せっかくの機会なので外から入って来る新しい情報に純粋に身を委ねようと思っていたのだ。
今翻訳しているのは自分がこれまで主に関わった授業を中心に大学の教育内容を紹介するものである。(たまたまコンピュータに画像データなどがあったので引き受けても良いかなという気持ちになってしまったのだ)
なので今回必然的にこれまで封印していた授業の記憶諸々と一気に向き合うことになった。僕が非常勤で大学に勤め出したのは29の時なので22年間の記憶である。今年退任されるO先生と22年前からスタートした1年の基礎授業のこと、15年前から何年もかかってK先生と作ったwriting spaceの授業のこと、9年くらい前からN先生とスタートさせた通称レシピ等など。
ここでの紹介は「うちの学生はこんな素晴らしい作品を作っています」という自慢などするつもりはなく、何故この授業(カリキュラム)が学生にとってそしてデザインにとって重要だと考えたかという一点に尽きる。
デザインに対する理念なり哲学なりと教育の具体的方法論は表裏一体のもので両方が同時に問われるという意味においては昨日の翻訳という作業について考えたことと似ている。
...結果、これまで封印して来た思考が一気に吹き出して来て言葉は追いつかない。ので考えた内容に関してはここでは省略します。
結局もの思いにふけって翻訳作業のほうがしばしば中断する。
しかしこのことに今はあまり捕われすぎないようにしようと思う。
日本に帰ればまた、いやというほど考えなければならないのだから。


14日からのドイツ旅行のスケジュールがほぼ決まる。

自宅でひたすら英文作成。リエカとザグレブでの講義のために既にある30枚か40枚ほどの日本語の原稿を英語に置き換えていく作業。リエカではソボルさんがその英文からクロアチア語に同時通訳してくれる予定である。前にも書いたがソボルさんは翻訳家であり言語に関しては天才的なところがあるので、問題はない。問題は私が自分の考えを未熟であっても正しく彼に伝えられるかにかかっているのだ。ザグレブも含めて講義は来年の予定だが今週末のドイツ旅行の前にまず第一稿を渡さなくてはならない。

この翻訳translationという作業はとても面白く考えさせられる。実際やってることはもちろん大したことではないけれど、ノイラートの言ったtranslaterだとか、ボイスのtranslationという言葉の意味とか、単に右のものを左に持って来るというものではない。

今の僕はいかにシンプルな、基礎的な語彙を用いるかを考えざるを得ない。そうすると同時に元の日本語を添削する作業になる。日本語だと適当に書き流したような文章も1センテンスごとに吟味することになる。そもそも言いたかったことは何なのかを相対化するということ。その結果、日本語では気づかない意味がまた浮かび上がってくる。そこが何とも言えず不思議な感覚である。

造形に関するテキストなのでなおさらのことかも知れないが、身体とか自己とか環境とかをめぐって考えていると、簡単な言葉が哲学的な意味を帯び出したり...。

日本語が自由に話せるということは、ある面では言葉を意識化しないということなので、自由なようでいて実はそうでもないのではないかと思えてきた。

やむを得ずの作業だけれど日本にいては忙しさにかまけて、こんな経験をするチャンスがなかったことを思えば僕にとって「言葉」を考えるとても良い機会である。


ここクロアチアには僕の日本語をクロアチア語に翻訳してくれる便利な人はいないのでやむを得ず英作文に励んでいる。
元のテキストは既にあるのでこれをネットの翻訳ソフトと電子辞書を使いながら翻訳しているのだが、当然簡単ではない。時間がかかる。普段使わない脳みそを使うので気が狂いそうになります。
時間感覚もおかしくなる。
もう夜遅いから寝ようかと思って時計を見るとまだ7時だったりする。
こんなことはここ最近ありえなかった経験だ。
ここリエカはずっと雨の日が続いている。
朝明るくなるのは遅いし、昼間も薄暗く夜が本当に長い。
ヨーロッパは夏と冬のコントラストがこんなにも強いのかと実感する。
妻に言わせればヨーロパの梅雨は12月なのだ。
何故かわからないがエジプト旅行中、タクシーの中で聞いたサンタナの「哀愁のヨーロッパ」のフレーズが頭の中をグルグルする。

妻との(哀しい)会話。
「今日は何を食べたい?」
「すき焼き。」
「あなた、ここにはお豆腐としらたきがないこと知っているでしょ。」
「じゃあかわりにたまねぎとか...」
「それじゃすき焼きじゃないでしょ。それにこちらでは生卵は食べれないのよ。」
「...」
「他に食べたいものは?」
「湯豆腐」
「...」

哀愁のヨーロッパ。


昨日に続き読書と資料の整理。

以下エジプト覚え書きの2。トラブル編
このブログを読んでいただいている方にはお分かりのことと思うが今回のエジプトの旅では種々問題が発生し大変であった。細かい経緯を書いているわけではないのでなんのこっちゃ分からんという部分もあったと思う。
改めてここで愚痴るつもりはないのだが、記録に留めておきたいことのみ記す。
以下、カイロの私の旅行エージェントになったサイードとトラブルの後に話したことである。
エジプトでは独立した人間はお金持ちなのである。例えばダハブにサイードと行ったとき私たちが昼食をとったレストランはサイードの昔からの友人が経営しているところであった。彼の説明によればその友人は複数のレストランと安ホテルを経営しているのだが、売り上げは一日に200万円以上であるという。しかしそこで働く従業員の一ヶ月の給料は1万円以下なのだという。
つまりオーナーは月に6000万円稼いで、その人件費は月2−30万円で済ませると。
日本ではありえないことだがサイードにいわせればこれがエジプトでは普通なのだと。つまり独立したオーナーはとても金持ち。しかしその周辺で働く人々は極端に貧乏なのである。
同じ事が旅行エージェントでも起こる。
カイロから客の為に地方の旅行エージェントに委託しても、そこがピンハネをし、実際のエージェントにはわずかな金しかまわらない。そうすると彼らは勝手に予定やホテルを変更し小金を稼ごうとする。
それでトラブルが絶えないのだと。エジプト人であるサイード自身が「エジプト人は馬鹿なんです」という。
そんなことをしたら結局は信用を失う。だから自分もそんなことをしたエージェントをクビにする。そして別のエージェントに替える。(代わりはいくらでもいるから)最初はまじめにやってくれる。しかし1〜2年もすれば必ずと言っていい程同じ問題を起こす。また替える。その繰り返しなのだと。結局長続きしない。
サイードに言わせれば「だから馬鹿なんだと」
そのような状況には僕らも実際何度か出会ったので実感として理解できたのだが、本当にそれが全ての原因なのかどうかは分からない。

話はかなり変わるが私が印象深く感じたのは現代のエジプト人が古代エジプトの遺産を特にありがたく感じてないように思われたことだ。イスラム教徒からみれば古代エジプトはとんでもない異教徒であり、全く否定すべき対象なのだ。
少なくともそこには尊敬や畏怖の感情はないようであった。単なる観光、お金儲けとしか考えてないようであった。
その事が私には最も信じ難いことであった。

以下妻の写真機からー旅の断片その4
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食料がなくなったし今日は土曜日なので妻とあわてて食料の買い出しにいつものスーパーへ。
雨が止んでくれたのは幸いであった。
あとは一月にザグレブとここリエカの大学でレクチャーをすることになったので以前ブキッチ先生にもらったクロアチアデザイン史の本を必死で読んでいる。
まあ典型的な泥縄なんですけど。

昨日書き忘れたことであるが、我が家を訪ねてくれたマイーダさんはこれから町でデモに参加するということであった。嵐模様であったにもかかわらず昨日はクロアチアの全ての主要都市では一般市民による大デモがあったのだ。
マイーダさんの話によれば今回の世界的な経済恐慌による景気後退とクロアチア政府の政治的経済的政策に対する異議申し立て、もう一つは以前にも書いたがマフィアがらみの一連の政治的なスキャンダルに対する抗議行動でもあるらしい。
このスキャンダル(ジャーナリスト殺害事件)には現在のクロアチアの政治中枢とイタリアのマフィアと財閥、クロアチアの軍、新興財閥などがからんだ複雑なものがあるらしい。
当面ユーロによる政治的外圧しかクロアチアの現在の歪んだ状況を正せないのは情けないことだとマイーダさんは言っていた。(充分理解できたわけではないがそのように聞こえた)
そしてここヨーロッパの片隅でアメリカ新大統領オバマの演説を読んだ。
美しい文言の羅列ではあるがあれは単なるレトリックにしか聞こえない。アメリカ人だけが陶酔しているのではないか。
世界はもっと複雑できしんでいると実感する。
おそらくもし日本にいればこのようなリアリティはなかったのだろうと思うけれど。

以下妻の写真機からー旅の断片その3

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終日雨風。冬の嵐のようである。
終日メール、旅の片付けなど。
昼間マイーダさんが訪ねて来てくれる。
1月のリエカ美術大学訪問について相談。
妻は大分回復した模様。
体調が思わしくないにもかかわらず食事を作ってくれている。
このことによって二人とも少しずつ体調が良くなっていることは間違いない。
僕のお腹の調子も大分良くなって来ました。

以下エジプト覚え書きを少し。
エジプトやヨルダンで見たものを自分の中で消化するには今は早すぎて無理のようだ。
改めて調べたいこと等も山積しているからだ。
それはともかくとして、少なくとも言えることは今回かなり無理をしたけれどシナイ半島、ヨルダンまで足を伸ばせたことは結果的に良かった。
シナイ半島のセントカトリーナの蔵書が見れたことについては既に触れたが、それよりもヨルダンを含めあのあたりの空間、風土に少しでも接することができたことが大きい。
以前にも少し触れたが今回の旅全体で本当は今のイスラエル、イラン、イラクまで足を伸ばしたかったのだ。つまり僕にはバビロニアまで行って楔形文字発祥の地点に立つ必要があったのだ。旅の始めから時間と安全の問題でそれは断念したのであるが、今回中東地域に少しでも触れることができたのは自分の中の世界地図の上では貴重なものとなった。5月に行ったトルコ東部のハットゥシャシュの楔形文字でかなりの関係がつかめたというのもあった。
またラムセス二世とハットゥシャシュ王国の戦争とその後の世界初の国家間平和条約という3200年前に行われたダイナミックな交換も実感することができた。
現代人の想像力を超えて古代の文化交流はダイナミックなものなのだ。

単純に宗教のせいに帰するつもりはないが現在のイスラム圏を旅する大変さはエジプトでいやという程味合わされたけれども。

以下妻の写真機からー旅の断片その2

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妻は風邪で寝たり起きたり。
リエカは終日雨で寒い。
荷物の片付けの前にこの間旅先で送れなかったメール、特に緊急を要するものから優先的に送らねばならない。
あれやこれや、旅の疲れが残っているせいか遅々として進まない。
次の12月後半の旅の準備にも手をつける必要がある。
夜になってやっと随分遅れたブログの更新。

妻の写真機が9月になってレンズエラーで壊れてしまい、僕の1台だけでは不安だということで今回ウイーンで新たに購入した。
以下妻の写真機からー旅の断片その1

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10時のヴェネツイア、サンタ・ルチア駅発トリエステ行きの電車に乗る。

トリエステでバスに乗り換え、何事もなくリエカへ。

11月11日パリ行きに始まった今回の約3週間のショートトリップも何とか無事帰還することができた。

私たちの為にマイーダさんが暖房を入れておいてくれたが、思った以上にリエカの夜は底冷えがする。

妻は風邪気味で寝込む。

恐らく旅の心労と疲労のせいであろう。


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朝ホテルの中庭にて。


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サンタルチア駅前




今日は空港傍のホテルからバスでヴェネツイアのサンタ・ルチア駅近くの宿に移動し一泊する予定であった。

朝テレビのニュースを見ているとヴェネツイアが大浸水している様子が映し出されたいた。

建物のグランドフロア(一階)部分まで完全に水浸しだったのでそもそもホテルがやっているかどうか、大丈夫かと不安になる。

とにかく行って確認するしかない。

私たちがサンタ・ルチア駅近くのローマ広場に着いた10時頃にはかなり水も引いていた。

サンマルコ広場にはなお水が残っていたが駅前は何とか普通に歩ける状態となっていた。

移動したホテルは外見はこじんまりしているが、中に入ると堂々としたヴェネツイアンスタイルで、とても気持ちの良いホテルであった(今はオフシーズンなのでこのようなホテルに泊まることができるのだが)。

荷物をおいてチェックインまで時間があったのでバポレットでムラーノ島まで行ってみる。今年は夏以来二度目である。

曇り空のせいもあって、もう3時には暗くなり始め、4時には夕暮れる。

暗くなってから二つの教会を訪ねる。

スクオーラ・ダルマータ・サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ。スキアヴォーニはダルマチアのことでかつてのクロアチア人の為の教会である。ここにはカルパッチョの連作がある。暗くて見にくいのが難点であるが素晴らしかった。

もうひとつはサンティッシマ・ジョバンニ・エ・パオロ教会。ここはヴェネツイアの中でもかなり壮麗な教会で、ベッリーニの多翼祭壇画、ヴェロネーゼの絵画連作、ヴェロッキオの彫刻等傑作がある。


エジプトのムスリムからカトリックの世界へ。

死海とヴェネツイア、二つの場所を行き来したことに感慨を感じながら...。


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道に打ち寄せる海水。


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海水が残るサン・マルコ広場


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午後4時のカイロ発の飛行機でウイーンを経由して夜9時、ヴェネツイアに到着。

タクシーで空港近くのホテルへ。

飛行機、タクシー、ホテルと当たり前のことが当たり前にスムーズにいくことにこんなに感動するとは...!。


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