リエカとザグレブでの講義の準備、その他の勉強の為当分家に籠る。
今日からリエカの天気も雨模様となった。

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以下妻の写真機より。トルサットの丘から北を見る。

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バルコニーから見えるイストラ半島の山。

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凍った水たまり。

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トルサット城にもある例のライオン(ヴェネツィア支配を示す)

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ポストイナはピランから北東へ直線距離で60キロ程のところにある。

スロヴェニアの首都リュブリャナとリエカを結ぶ鉄道駅のあるところである。

写真を見比べれば分るがたった60キロしか離れてなくても、内陸部に入ればいわゆるアルプス(の地中海側)となり全くの冬景色となる。観光ガイド風に言えばこのスロヴェニアやクロアチアは自然の風光の多様さでは本当にヨーロッパの中でも群を抜く所であると思う。

帰路にここを選んだのはこのあたりには有名な鍾乳洞が点在しているので一応見ておこうと思ったためである。ポストイナ駅のそばにはヨーロッパ最大のポストイナ鍾乳洞があり、そこから33キロ離れたところにはシュコツィヤン鍾乳洞もある。こちらは世界遺産となっていて地底に250メートルの大渓谷があって凄そうではあるが、例のごとく交通の便が悪いし、無理してはしご(?)をしてまで鍾乳洞を見たいわけではないので、今回はポストイナ鍾乳洞のみを訪れた。


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この右手には大きなホテルやショッピングアーケード風な場所もあるのだが冬期休業中であった。


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このトロッコに乗って2キロ程進む。


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この鍾乳洞は10万年くらいの間に地下水が石灰岩を削ってできたものという。

全長は27キロとのこと。トロッコをおりた後は2キロほどガイド(英語)の説明を聞きながら歩く。約2時間。


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ポストイナ駅。

鍾乳洞を見終わった後は町を散策しようと思っていたのだが美術館などの公共施設は全てクローズド。しかも土曜日の為かマーケットなど全ての店が閉まっていた。レストランだけは2件開いていてなんとか昼食を食べる事が出来たけれど。

まるでゴーストタウンというか、時が止まってしまった町のようでスティーブン・キングの小説を思い出しました。

夕方、例の一日一本の列車に乗って無事リエカに帰還。


朝5時に起き、6時に家を出て7時のバスでポルトロージュ、ピランに向かう。
ポルトロージュはリエカから直線距離だと約70キロ北東のスロヴェニアにある。イタリアのトリエステからは30キロほど南下したトリエステ湾の端にある。
イストラ半島を横断するのであるが例のごとく交通の便はすこぶる悪く、また国境(EU)越えがある。途中イストラ半島の半ばブジェットで小型バスに乗り換えコーペルへ。コーペルでバスを乗り換えポルトロージュへ到着。約3時間ほど。

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イストラ半島。有名な霧を見る事が出来た。

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ポルトロージュの港。

この町の南の小さな半島にフォルマ・ヴィヴァという屋外の石彫公園(open air museum)がありそれが今回の目的である。すぐ南、クロアチアと接している所にセチョヴリエという広大な天然の塩田がある。公園から塩田とアドリア海が見えるとても美しい場所である。
フォルマ・ヴィヴァは旧ユーゴスラヴィア時代の1961年から毎年、作家を招聘してきたようだ。作家はここに滞在して作品を残している。現在(48年間)までそれは持続しているところが、これまでのスロヴェニア(旧ユーゴスラヴィア)の激しい歴史的変転を考えれば驚くべきことのように思う。しかもこれに端を発してスロヴェニアは他にも鉄と木のそれぞれ素材別の同様の大きな美術館があるのだ。
旧ユーゴに限らず旧東欧諸国のこのような地味だが地道で誠実な芸術やデザインへの取り組みは情報こそ少なかったので西側諸国にはあまり知られてないが、再評価されるべきもののように思う。

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フォルマ・ヴィヴァのあるセチャ公園から塩田とトリエステ湾を見る。

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ここを教えてくれたのは尊敬する彫刻家のSさんで彼もここに作品を残していると聞いたのでそれと出会える事も今回の楽しみの一つであった。実際に行って見て、かなりの作品が丘全体に散在しているので果たして出会えるかと不安になったがちゃんと見つける事ができた。

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彼は30年位前(1978年)と言っていたがプレートには確か1971年と書かれていた。なんと38年前である!

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ディテールを見ていると、彫刻家の仕事というのは(建築家とも共通するけど)否が応でも自然との共作になるのだなあとしみじみ感じました。
まるでこれまで僕が彷徨って来た様々な遺跡のように。
多分石という素材にそもそもそのような宿命があるのだろう。鉄やステンレス、または木であれば自ずと印象は異なる。時間のスパンが全く異なるのだ。多分素材の石自体が何万年かの時間をかけて作られたものなのだから。

その後、すぐ近くのピランという町を訪れる。ここは13世紀から17世紀にかけてヴェネツイアに支配された町。いたるところにあのライオンの像がある。あのライオン像(結構間の抜けた顔の)を見ると今の国とは関係なくそこがヴェネツイア共和国であることを実感する。
これはピランに限らないが現在の国境とは何かを考えさせられることでもある。

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ピランの広場

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細い半島の先端にあるピランの旧市街。城壁からの眺め。

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城壁

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聖ユーリ教会

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半島の先端にある灯台。

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ここで一泊するかどうか迷ったが結局夜のバスでポストイナへ移動。
ポストイナは零下10度の冬の町であった。
終日家にて調べもの、読書などで過ごす。ゆえに特筆すべきことはない。

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ここ数日寝込んでいて朦朧状態ではあったが思考した中に重要だと思われる事があったので以下覚え書きとして記す。
(朦朧雑記なので長いです。あくまで自分のための覚え書きなので興味のない方はどうぞ読み飛ばして下さい)

「これからチャールズ・サンダース・パースをもう一度真剣に勉強し直さなくてはならない」という強烈な考えに見舞われた。
それはパースの記号学が主ではあるが、もちろん論理学や現象学も含めて再度しっかり読み直すということだ。
「全ての思考は記号である」
「全ての経験は時間の中の連続的なプロセスである」
という有名なことばをめぐってあれやこれや考える。
...この場合のプロセスとは一回限りのものであるけれども(経験とは常に一回限りなので)、しかし場合によっては別のプロセスで何度でも繰り返せるし、順番が決まっているわけではない、それは例えば僕らが絵を見る経験において特にとか...。
これは突然降ってわいたかのような感じもしたが、パースは人間の思考においてそもそも「直感的に」何かが頭に降りて来るなどといった類いは絶対に認めない人だったので、僕がこう考えたのにも意識化してないにせよ多分何らかの理由があるのだ(つまりあるプロセスを経た上で浮かんできたことなのだ)と思う。
それをここ2〜3日で考えてみた。
そもそもパースのことを幾分真剣に読んでいたのは20代後半から30歳の前半までで、結局彼の書いたテキストはとても分り辛く、かなり昔に音を上げて放り出してしまっていた。
今がその時以上に読解力があるかというと自信はないが。

まあそれはともかくとして
パースの記号論で最も重要な部分は思考のプロセスに関することである。
そして人の認知行為の中で最も重要なことは推論(のプロセス)であると述べている。
パースによれば推論は演繹と帰納と仮説形成の3つでできている。

極端に細部を端折ればパースが語ったのは、これが知覚と思考を理解するための道具立ての全てである(ように思う)。
たったこれだけ。
しかしこれで充分。
複雑な世界を解読するのに複雑な道具ではやっていられない。
問題はシンプルな道具をいかに用いるかなのだ。
ジェイムス・ギブソンもその点全く同じ態度であった。
しかし、しかしである。(ギブソンもまた同様であるが)実際はこれがとてつもなく難しい。
パースはこの三つの道具立てで世界を分類、論証していくのだが、とんでもなく複雑(に思える)な例の三角形を作り出した。大抵の人は多分これで挫折する。
(友人のみぎわさんはしぶとくその作業を持続している数少ないパース研究者の一人だ)

しかし僕はこれをもっと真剣に深く考えるべきであったと、今回朦朧とした頭で強く感じたのだ。
あの三角形が仮にパース程の天才でない限り簡単に理解できないとしてもだ。
すぐにあきらめないで少しずつ、そのプロセスを歩んでも良いのではないかと思えて来た。
で、その時にひらめいたのは本を理解しようと読むのではなく、
「自分自身の何らかの制作行為を通じて思考すれば良いのだ」
というのが今回の朦朧思考における最も重要なポイントである。
(書いてしまえば当たり前すぎてどうということもないが)
極端に言えば僕にとってパースを正しく理解する必要はそもそもないのである。
それを正しく理解しなければと考えたのがそもそも挫折の原因であるような気がしたのだ。
道具としての思考と思考そのものの理解を僕は混同していたし、それ故に自分の道具としての思考が時としてブレて、実際の制作と乖離していたのだ。
こんなことを今言うのは自分は馬鹿ですと言っているようなものだ。
実際馬鹿なんだからしょうがないじゃねえかと今は開き直っているところだ。

...まあそれもともかくとして
演繹はかなり論理的な説明であり、分析的で図式的である。故にこれは思考においては川下の「言説」の領域。
帰納は個人的な経験、感情から一般論にいたる道筋。一般論にいたらなくてもよいのだが。例えば絵を見て何か類似物を想起したり、別の記憶を重ね合わせたり、新しい関係物を発見したりするいわば中流域。
そして仮説形成(アブダクション)はもっとも川上にあって帰納を導くための触覚的な手探りのようなもの。環境と自分の間に生起する原初的知覚、あるいは新しい何かに出会うための自己投機的な振る舞い。

この仮説形成は仮に造形においては、これまで見た事もない形や方法に接近するためのものでもある。
私たちが「創発的」と言っているものはこの仮説形成によって生み出される。

その他は長くなるので省略。
(なお以上の説明は僕が勝手に理解していることなので正しいことかどうかは全く分らない)

では何故、今になってパースだと確信したか。
以下推論できるのはおおむね3つの理由による。

まず第一は自分にとって必要なことは哲学などの最先端を理解したりすることでは当然なく自分のヴィジュアル・コミュニケーション行為にとって必要な思考の道具、信頼に足る道具は何かを探すという目的の為であり、それをここ30年程考え続けてきた(つもりであった)。
しかし振り返ると自分の能力を過信し、あれやこれやに手を出し、全くものになっていないことに愕然とした。自分の頭の悪さに気がつかないこと自体が相当な問題であり、実はそれを考えると現在かなり絶望的な暗い気分であるがそれはここではとりあえず置いておく。
ともかくも、風邪のせいばかりじゃなくて自分がかなり心理的に追いつめられた状態であると思われる。

第二にこの旅(現在9ヶ月以上経過)を振り返って自分が採っている知覚の方法が全て基本的にパースが言った通りであった事に「はた」と気づいたこと。

まず非日常的といえる程の膨大な絵、図像、文字、風景などを見ている時、感じて理解したり認知したりする時に自動的に働く思考プロセスである。それは上に述べたような帰納的なプロセス。何か類似物を想起したり、別の記憶を重ね合わせたり、新しい関係物を発見したりすること。アナロジーやメタファーなどの稼働。

そしてまた、うまく言葉化できないけど存在する、単なる理解や納得を超えたある新しい出会いのようなものの遭遇感覚。一般論のためではない帰納的な帰結。

また日常の極めて不自由な言語環境の経験にもよる。つまり沢山の外国語に囲まれて行動する時、自分がとっている知覚と理解のプロセスも同様にパースがあてはまる。
ものを理解したり認知したり思考することは普段無意識に行っているが、ここ外国では無意識には物事は進行してくれない。言葉が理解されない時、出来ない時、全知全能を傾けて何かを発見する志向が起きる。環境、状況、身振り、表情、空気、抑揚、エトセトラ、推論を導き出す為の膨大な情報を必死でピックアップしようとすること。
パースが言っている事は正しいという結論。

第三に僕がこれまであれやこれや寄り道して来たものの起点の多くがパースにあったという仮説形成による。(かなり大雑把だけれどメモとして)
ジェイムス・ギブソン(+グレゴリー・ベイトソン、エドワード・ホール)などの生態学的知覚論、現象学、知覚心理学。
ウイリアム・ジェイムスのプラグマティズム。
現象学およびゲシュタルト心理学。
(ノイラートのいた)ウイーン学団。
エルンスト・マッハの科学哲学。
それぞれへの影響関係と共通項など。

ちなみにソシュールやバルトの「記号論」は社会や表現された表象を読み取ったりすることにおいて重要だと思ったし興味深かったが、今となってはそれだけのもので自分の道具としては今回は全くと言っていい程関係がないことも痛感。

最後にここまでメモしてきて浮かんだ4つめの理由。この旅が終わった後、自分はこれまでのやり方とは違ったやり方で物を作っていきたいと多分(無意識的に強く)思っていたのだろう。
仮に望んだとしても自分が別人になるわけはないのでそれは他人から見れば恐らく大したことではないだろうし、ささやかなことだ。もちろん、それが何かはここには書けないけれども。
午前中、リエカ近現代美術館に行く。
「17回国際ドローイングードローイングとアニメーション」展を見る。
この美術館の60周年、国際ドローイング展の40周年も兼ねているようであった。
ドローイングといいながらほとんどアニメーション展であった。
ここは前にも書いたがおもしろい建物だが展示は相変わらず良くない。
でもともかくかなりの数のアニメーションを見れた。
日本人作家では山村浩二「カフカ田舎医者」と和田敦「鼻の日」を見た。
たまたま今、N本先生が送ってくれたDVDでここ10年程の視デの学生のアニメーション(映像)を見直す機会があった。内容的には相当レヴェルが高く、こういう場所に出しても全く見劣りしないと思った。だから出せば良いと単純に言いたいのではなく(それはひとつは本人の作家的意思の問題もあるから)そもそも作家を育てる事が可能なのかという根源的な問題もあるように思う。これは夏にリンツのアルスエレクトロニカでもちょっと感じたことだが、美術大学にある根源的な問題なのだけど...。

帰宅後まじめに勉強。

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美術館のトイレのタイルにレーニン。これはまじめなのか冗談なのか?
ロヴランは私の今いる家のベランダからいつも真正面に見えるイストラ半島の小さな港町である。リエカから18キロ南でオパティヤのさらに南にある。現在はオパティヤと同様のリゾート地でもあるが、オパティヤよりもはるかに由緒のある町である。7世紀からここは港町として栄えていたのだ。
前々から行きたいと思っていたがやっと実現した。
ここはバカール同様記憶に残るクロアチアの場所のひとつとなった。

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このあたりはおそらく19世紀に作られたリゾートのためのヴィラ。

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旧市街の広場の聖ユーリ教会。ほぼ14世紀の建築。

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旧市街広場の主。町の人は通りかかると皆彼女(彼氏?)に「ディーディー」と声をかけていた。

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旧市街で最も古い場所、井戸らしい。

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ロヴランの港。真正面がリエカ。

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オパティア同様、海岸沿いに美しい遊歩道が続いている。

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「こんな場所で育てば色彩感覚がさぞや良くなりそうね」とは妻のセリフである。
僕「こんな場所が日常の散歩道であることがうらやましい」

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今日は昨年末から決まっていたリエカ美術大学での打ち合わせの日。
マイーダさんが車で迎えに来てくれて一緒に家を出る。
この学校は家から歩いてもせいぜい7〜8分のところにあり、これまでもここで何度も写真を載せて来た。いつまでたっても新築工事が進まないところである。
しかし、実際行ってみて僕が勝手に誤解していたことがいくつか判明した。
まずここトルサットの丘の西側はかつてユーゴスラビアの軍隊の駐屯地だったということが今回分った。つまり18年くらい前ということだ。当時のユーゴスラビアは徴兵制があり、若者は皆1年の兵役義務があってここトルサットはその軍隊の教育施設だったという。常時4000名くらいの若者がここにいたのだと。
その後、クロアチアが独立した後、(徴兵制度もなくなり)旧兵舎を流用してここに美術の教員養成大学ができたのだ。そこが今回私が訪れた場所である。
そしてさらにここは現在、応用技術系の総合大学として再編されつつあるということであった。現在リエカ市内に散らばっている文学、建築、法学、薬学、医学、理工学等の単科大学がここに集まるということなのだ。そしてかつての美術教員養成の学校も美術とデザインの大学として再編成されたのだった。正式な名称はよく分らないが12月に訪ねたデュッセルドルフのFH-D(応用科学大学)のようなものだと思う。
こういう総合大学ができるのはクロアチアでも初めてであることも今回知った。考えてみればクロアチアは独立してからまだ日も浅く、政治のみならず教育システムなど様々なことが現在構築中なのであることを改めて知る。
それがぼくがここリエカに滞在以来、散歩中になんとなくぼーっと見て来た建築中の建物の実態だったのだ。(もともと大学からは遠ざかろうと努力してきたので詳しいことを知らなかったのは当然であるけれど)僕がマイーダさんに「建築中の建物はすべて美術大学の建物だと思っていた」と言ったら「テラヤマさん、あなたクロアチアの人口を知ってますか?」と笑われた。確かにクロアチアの人口は450万人程。国土面積も九州の1.5倍なのだ。そんなでかい美術大学なんか必要なわけはないのだった。僕の所属する日本の大学もそもそも日本では最も学生数の多い美術大学でしかもそれは多分世界的にみても最も学生数の多い美術大学なのだ。そっちの方が一般的に考えて異常なのかもしれない。

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リエカ美術大学はこの建物で全て。彫刻も絵画もデザインも全てここに収まる。

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屋根裏を改築したところがコンピュータ・ルーム

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新築中の校舎。また改めて散歩で来ようと思います。

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講義室

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研究室にて。僕を招待して下さった先生は実は風邪でダウンしてお休みで今日は会えなかった。代わりにいろいろ面倒をみてくれたヤコブ・ザパー教授。彼はザグレブの美術大学を出た後オーストラリアのメルボルンで十数年デザイナーをした後、ここに呼ばれて来たという。まだ着任して1〜2ヶ月とのこと。彼は立ち上がると2メートル近くあります。座った写真で良かった。

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以前ここで紹介したミルコ・イリッチもそれから年末に会ったミラン・トレンツさんもそして今日会ったヤコブさんも人口450万の非英語圏の国に生まれている。そして国外に活路を見出している。そしてソボルさんがかつて僕に(彼は語学の達人でどこにだって行こうと思えば行けたのに)絶対リエカを離れるつもりはない、と強い口調で言った事を思い出したりもした。
同じく非英語圏ではあっても人口一億人の国に生まれた僕はそんなこと考えなくてこれまできた。それが幸せだったのかどうだったのかとふと考える。
もちろん選ぶとか選ばないとかの事ではなくて運命としか言いようはないことだけど。
少なくとも日本でも1000部とか2000部とかのマイナーな本ばかりデザインしてきた僕はどちらかというと450万人規模の国のほうが合っていたのかもしれないと思う。


やっと自信をもって回復したと言えるような状態になった。
1が3つも並んでめでたいので、今日が僕にとっての仕事始めというか新年のスタートのような気持ちである。
今日はリエカはとても穏やかな日和で久々に家を出て散歩に行った。
自宅では読書、調べもの等通常のパターンに戻る。

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薬師寺さんからの年賀状、無事に到着。とても手の込んだ(銅版画で5色刷り!)ものです。まるでお見舞いをもらったような気持ちになりました。

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12月の始めに大学の某部署が送った荷物の一つが今頃になって到着。どこをどう放浪していたのかボロボロ(これでも相当修復されていた)。中身の本はだめになっていたがDVDはビニール袋にカバーされていたのでなんとか無事だった。この間随分ご迷惑をおかけしたN本先生に早速報告。

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トルサット城(砦)ここは来る度ごとに良い場所だと思うようになった。とても良い空気が充満している場所である。今回ギャラリーのパネルでこの城の歴史をじっくり読んでみた。

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右上が城

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今回は、体調が(といってもそんなに大げさなものじゃないにもかかわらず、微妙に)悪いというのは意外に大変なことだと実感させられた。
まず何と言っても精神的なものというか、気持ちが思っていた以上にダウンするのがよく分った。
まるでジキルとハイドのように自分の中に別人がいるということを実感させられた。
しかしここ何日か朦朧な状態で考えたことも実は悪い事ばかりではなかったような気もしている。
それまで意識上ではあえて消していたこととか、無視していたことを知る事ができたような。
それは自分のこれからを考える上で多分大切なことであると思っている。
そういった意味で今回寝込んだのは、自分の中にある無意識的な一種のリハビリ作用が働いたせいかもしれない。
0110の写真で中川師匠から「あれは間違っておるぞ」とメールがあった。
もちろん説明が間違っているのではなく写真を僕が勘違いしたものであった。
もうすでに訂正していますが念のため。
冷や汗の不肖の弟子より。

やっと普通の感覚が戻って来た実感を得る。

今回のことで普通の状態=健康がいかに大切か思い知らされた。

これから無理せず少しずつ体調を整えていこうと思う。

(ご心配をおかけした方々すいません)

この間中川さんから前回15日に掲載した以下の物件についてのコメントをいただいた。


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ともかく以下引用させていただきます。


あれはね、ヤドリギ(宿り木)ほかの木に寄生する植物。

常緑で冬でも葉の緑が鮮やかで、赤い実がつくことでクリスマスには喜ばれる植物です。

あの宿り木の下では誰にキスをしてもいいと北欧ではいわれています。

種の皮が硬く、その実を鳥に食べられても消化されず糞の中でそのまま排泄され、ほかの植物の木の股などで発芽 し、親木の養分をいただきながら生活する、"パラサイト"

でもこれがたくさんつきすぎて枯れてしまった親木というもはあまり見たことがないなあ。

何か親木にもメリットがあるのかなあ。


...とのことでした。さすが僕のアウトドアの師匠。なんでもご存知なのだ。

中川さんの肩書きは写真家であったが最近はむしろ作家である。しかし僕の中ではアウトドアというか自然と遊ぶというか、生活することというか、その道の達人なのである。20年程前、中川さんと塩野米松さんの本をデザインしたのがお付き合いの始めであった。

取材と称しては現場にご一緒させてもらいそれ以降随分お世話になった。なにしろカヌーやシーカヤックは日本でも草分けだし、釣り(フライ・フィッシング)やスノー・クロスカントリー、星空観察、野外料理、キャンピング、植物や鉱物にも詳しい、(基本的に必要な道具は自分で作ってしまう)とにかく達人なのである。ちょうど子供たちも小さかったので影響を受けやすい僕はよく家族でキャンプに行くようになった。自分たちだけで行くと僕の場合はどっちかというと難民キャンプみたいになってしまう何とも全くダメな弟子であったが、自分にないものを持っているこの方には随分教えられることが多かった。最近は釣りはイギリスの田舎の川をも主戦場にしておられるようだが、木の上に家を造ったり田んぼを借りて仲間とお米を作ったり、海のそばで子供たちにアウトドア生活を教える学校をNPOで作ったりと活動は全く衰えない。

以前ここにも書いたようにクロアチアでユーリッチさんのアウトドアライフやもの作りスタイルにも感心したが、日本の僕の知り合いで真っ先に思い出したのが中川さんであった。


で、ここまで書いてみて気がついたことだがデザインを通じて仕事をする楽しさは「アウトドア」にもちろん限らない「文学」や「建築」等など、様々な「その道の達人」とその都度ご一緒できるであることは間違いない。

しかし僕はこれまでそれらは「その人の道」でありあくまでも僕の「デザイン」の道とは異なると思い込んでいた。しかしよく考えればそれらとの出会いは自分にとってデザインとはそもそもどんな存在意義があるのかを考える重要な鍵、そして糧になっていたのだと改めて気づかされるのだ。


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以下は中川さんのブログです。

http://blog.goo.ne.jp/bossokashira


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