翌日の僕のザグレブ行きのバスと13日の妻のウイーン行きの列車のチケットを買う為に久々にひとりで町に降りる。
リエカは素晴らしい秋晴れである。

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前々から気になっていた駅の向こうの港側にある巨大な工場に近づいてみる。
線路を渡るしか近づく方法がないことは分かっていたので勝手に近づく。
こちらはプラットフォームが線路の高さなので簡単に横切る事ができるのだ。
列車はめったに入ってこないし。

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ここも廃墟だと思い込んでいたら細々と操業していた。
最初はセメント工場だと思っていたが...。こんどソボルさんに確かめてみようと思う。

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町の中心にあるローマ時代の門。
帰りに久々にカフェコントに寄る。コンチネンタルホテルのインターネットカフェである。
7月までは暑い中、わざわざここまできてブログの更新をしていたところ。
入ってみたら高級レストラン風に模様替していて驚いた。気のいい店員のお兄さん、お姉さんもいなくなっていた。
後から入って来た若いバックパッカー風の若者たちも面食らった様子で質問していた。
インターネットは従来通りできるみたいだけど。
ここに来たばかりの4月のころをふと思い出す。
カプチーノを飲んで帰宅する。

明日、早朝5時に家を出て、ザグレブ、ブタペストを経由してパリに向かう予定だ。
結局、エジプトの旅程はこちらで確定できないままであった。
とにかくナイル川沿岸がちゃんと見れればまずは良しとしよう。
後は成り行きにまかせるしかない。



終日資料読みと次の旅の支度。

エジプト行は一般的なカイロ、ルクソール、アスワン、アブ・シンベル、アレキサンドリアといったナイル川沿岸ならば、仮に向こうに行ってからでも何とかなりそうなのだが(それでも南北に1000キロの移動はあるが)、今回加えてシナイ半島に渡り、さらにヨルダンのペトラまで足を伸ばすとなると大変な旅になりそうで...。どうするべきか悩んでいるところ。
まだ確定できないでいる。
こんなにぎりぎりまで予定が確定できないのは初めてだ。

同時にエジプトの後、12月後半に訪ねるつもりのドイツ西部のルートを確保する作業。
今度のドイツ行はクレーのデュッセルドルフ、リシツキーが大学生活を送ったダルムシュタット、そしてグーテンベルクのマインツが含まれている。
とにかく行き帰りの飛行機を押さえねばならない。

そんなこんなで地味に慌ただしい日々である。


終日、調べものと次の旅の準備に追われる。

雨の合間を見て食料の買い出しに出かける。
いつもの歩いて30分のスーパーへ。
帰りは霧雨になった。
空のキャリーバッグを満杯にして帰る。
いつものことだが約15キロほどか、結構重い。
ただ中身はワインやビールなどアルコール水分比率が高く
これは苦労話にはならないねと妻と苦笑する。

前々日マイーダさんと話したことの覚え書き。
イヴァさんのいるドブロブニクの話。
1992年のクロアチア独立の際に起こった旧ユーゴスラヴア軍との戦争でドブロブニクの町がかなり破壊されたことは有名である。
プリトヴィッツェ国立公園と同様危機的世界遺産リストにはいったのだが、この時の状況は凄まじかったらしく僕らが眺めた町からすぐ上に見えるスルジ山の頂上まで旧ユーゴスラヴィア軍に占領され、そこから集中砲火を浴びたらしい。
僕らが訪ねたイヴァさんの家にも爆弾が飛来したらしいのだが幸運にも不発でコンクリートにひびが入っただけですんだらしい。
僕が少し驚いたのはそのような状況の中でほとんどの住人が疎開というのか避難しなかったということである。小さい子供だけは避難させたらしいけれども。
そこに長い歴史を持つドブロブニクの人々の強い意志があったのだなと感じた。
マイーダさんが言うには困難だったのは当時クロアチアはまだ国としてちゃんと独立したわけではなかったから寄せ集めの防衛軍だったのでより大変であったという。
結局ドブロブニクは占領されなかった。

その後スダッチさんのコレクションの話になり芸術と国のアイデンティティ、ナショナリズムを巡って話をしたがそれは複雑だし、長くなるのでまた機会があったら書きたい。
ともあれ、ヨーロッパは複雑である。
ましてやこのバルカン半島は。

エジプトの前のパリフォトは今年は日本特集らしく楽しみである。
しかしエジプトが本当に決まらない。
すこしあせる。
まる一日、次のエジプト旅行の計画に費やす。
これは後半最大の山場だと思われる。
なかなか難しい。

食料の買い出しに行く必要があるのだが終日雨で家を出られず。
終日、メールで各方面への礼状や様々な連絡など。
次の旅の宿の予約や切符の手配など。
まずは数日後のパリ行きとウイーン行きのルートを押さえる。
お昼にマイーダさんとお茶。

夕方藤田さんたちにいただいたお土産のうるめいわしをみそ汁とご飯で食す。
全くこんなに美味いものがこの世にあるのかと思う程おいしい。

トリュフもいいけど僕はグルメじゃないので、このうるめいわしの方にどちらかと言えば感動する。
今日本を離れているからであろうか。
慌ただしく昨晩無理をしてリエカに戻ったのは、今後の旅のスケジュールがタイトであるからである。
ついこのあいだ旅の半分が過ぎたばかりと思っていたが後半やりたいこと、行きたい事を考えると意外に時間が足りないのだ。

リエカは相変わらず、曇り空で時々雨が降っている。本格的な秋だ。
大家のユリッチさん、ダリンカさんはダルマチアにある別荘のオリーブの収穫に行ってしまい当分帰って来ない。100%のスペシャルなオリーブオイルを持って来てあげるといわれているので楽しみだ。

終日1週間程たまったブログの更新を行う。妻は次の旅行の予約などに追われている。
朝10時過ぎにホテルへ車で迎えに来てくれたあきこさんと昨日レセプションのあったHDLUクロアチア芸術協会美術館のフランチェスキさんを訪ねる。
彼とあきこさんの車で早速コレクターのスダッチさん宅を訪ねる。丘の上のザグレブ旧市街のさらに奥は高級住宅地で大統領官邸もある美しいところである。そこにスダッチさんの家はあった。助手の方と我々を迎えてくれた。

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ジーコ似の大コレクター、スダッチさんと。
これはスダッチ邸を辞す時に撮ったものだけど、我ながら興奮して頭に血が上った時の顔をしてますなあ。

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左からあきこさん、スダッチさんの助手(名前失念)、フランチェスキさん、スダッチさん。
あきこさんは10月15日に知り合った桐谷さんが紹介してくれた方で、ニューヨークでアーティスト活動した後クロアチア人の旦那さんと結婚し、今ザグレブに住んでいる。今回のミーティングのお手伝いを快く引き受けて下さった。前日のレセプションで既に旦那さんとも挨拶済みである。
旦那さんは高名なイラストレーター、コミック、映像作家でミルコ・イリイッチと同様にニューヨークで活躍した後、現在ザグレブ芸大でアニメーションを教えている。
あきこさんには通訳ではなくて、僕がへたでもとりあえずがんばってしゃべるので横にいて分からない時にヘルプして下さいとお願いした。頼り出すときりがないので。
フランチェスキさんは最初HDLUの主任学芸員のような立場だろうと勝手に思い込んでいたのだが、どうも館長のようである。まあ肩書きなどどうでもいい話であるが。ほとんど僕と同世代である。

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そこからの出来事は書き出したら簡単には済まなくなるものであった。
とにかく彼は途方もない量のコレクションを惜しげもなく見せてくれた。というか全くみきれない分量である。
範囲もアヴァンギャルド時代のグラフィック・デザインの領域を超えて現代美術まで含まれているし、例えばクロアチアの有名なアニメ作家の場合、絵コンテ、セル画も根こそぎ持っているのだ。雑誌も微妙にサイズが異なっていたり、検閲が入ったものなどの複数ヴァージョンも。
ある種の狂気というか何と言うか。
現在の日本のコレクターも何人か知っているが全く比較にならない。むしろ(会った事はないが)昔の日本の財閥、五島慶太や益田飩翁などが想起される程そのスケールがでかい。
彼は37歳と若いが自分で会社を経営している。洗濯機を作る会社と建築会社のようだ。そこで儲けた金を全てコレクションに注ぎ込んでいるらしい。
大学教育とは全く無縁であるという。
「いつからコレクションを始めたのか?」という質問に「生まれた時から」と冗談を言っていたが、僕が今回見せられたデザインに関するものはたかだかここ数年と言っていた。これも信じられない。
僕の編集したリシツキーの本を見てそれが大学のコレクションだというと「これ皆ほしいなあ。売らないのか」と冗談を言っていた。「売るわけねえだろう」と思いましたが冗談に聞こえない所が凄い。しかも後で分かったのだが、彼は金にあかして買い集めたのではなく周りの人がその価値に気づかない時期に根こそぎ収集していたという。それを知ったフランチェスキさんが展覧会をリエカで行い(それにマイーダさんが関わっていた)それで市場では急激に価値が高まったらしい。結局かれは損をしていないのだ。もちろん売って儲けようなどとは思ってないようだったが。
日本のアヴァンギャルド、柳瀬や村山にも興味をもっているらしく、今回待ってましたとばかりにいろいろ質問された。

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戦後ユーゴスラヴィアを代表するグラフィックデザイナーのグワッシュによる原画。
この作家は数日前に高齢で亡くなったという。

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アニメーションのキャラクター設定のスケッチや音楽のスコアなど。

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始めのうちは写真をメモ代わりに撮っていたが、あまりにも膨大な量に途中からばからしくなってやめた。

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スダッチさんのコレクションのみで行われた展覧会(リエカ)の図録。
編集はフランチェスキさん、マイーダさんも英語の翻訳で関わっている。

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ユーゴスラヴィアのアヴァンギャルドはミチチ率いるゼニートと旅団(travelers)という二つの集団があった。彼らの写真、往復書簡やメモなども全てスダッチさんは持っているのだ。

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戦後のアヴァンギャルドも当然のように。

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これはもっと最近の現代美術中心の図録。背が10センチ近くある大部のもの。

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これも。

ともかくいつまでいても見切れないので、「また来たければいつでもどうぞ」という話になって皆で遅めの昼食(2時を過ぎていたか)に行く事に。
途中彼の建てたビルディングに置いてある現代クロアチア美術のおびただしい作品なども見る。
話に忙しく写真はほとんどとる暇がなかった。

その場にザグレブ芸大のデザイン史、デザイン理論の先生ブキッチさんが合流した。
昼食後スダッチさん、フランチェスキさんと別れ、ブキッチさんとあきこさん三人でステューデントセンターの展覧会に行く。
途中ザグレブ芸大を通りながら30分程歩く。
さすがにデザイン史の先生、歩きながらあの建物、この建物、町の構造の由来などを簡単に紹介してくれたのだが大変興味深い。スペシャルなガイドであった。
さすがにブキッチさんはスダッチさんのような狂気?の雰囲気はなく、むしろ控えめな感じの方だが、少し話して相当優れた人だというのがすぐに分かった。
僕が知りたいと思っていたクロアチア(旧ユーゴスラヴィア)のデザインや建築、アートに関する第一人者なのだ。
ここらへんのフランチェスキさんのセンスには改めて舌を巻く。ソボルさん、マイーダさんが「とにかくフランチェスキは凄い人だからあなたを見たらそれにふさわしいことを考えてくれるからとにかく会えば」といって人見知りだからといって渋る僕を会わせた理由が良くわかった。

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ザグレブ芸大はこの奥。

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ステューデントセンター

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ここはかつて1930年代万国博覧会の会場だった場所らしい。これはイタリア館だという。
今は無惨な廃墟である。最近同じ会場内の木造の建築が火災で焼失したという。
ブキッチ先生に「しかし、これだけのものが残っているということが凄い。修復すれば立派な文化遺産になるのに」ということを言ったら激しく同意していた。
クロアチアでは、まだまだ予算的に手がまわらないのだろうけど。

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ステューデントセンターも歴史ある場所のようだった。今夜が内覧会である。
1968年のいわゆる世界中で起こった社会変革の波がここザグレブでもあり、その当時から今日までのポスターが展示されていた。夜時間がないという僕の為にブキッチ先生はわざわざ見れるようにしてくれたのであった。

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展覧会図録。これもかなり分厚い。

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ブキッチ先生の本をもらった。英語であることがありがたい。

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同じくブキッチ先生が編集した本。Zagreb modernity and the city

僕は今回の旅ではなかば意識的に大学などのアカデミックな場所とのコンタクトは避けて来たのだが、ザグレブでの5月の奇跡的なゼニート遭遇事件以来、奇跡的な人との出会いや繋がりを考えるとこれは人知ではなく天の差配としか思えない。
なのでとにかく素直に状況を受け入れ行動しようと思う。

ブキッチ先生からレクチャーを頼まれたので1月にザグレブ芸大で話をすることにした。

この後あきこさんと別れ(彼女には一日中付き合ってもらい大変ありがたかった。今度ザダールのシーオルガンを見に行きましょうということになった。楽しみである!)

その後ザグレブの町を散策していた藤田さん、薬師寺さん一行と合流し、最後の晩餐二日目を行いお分かれする。
私たちは9時発のバスでリエカへ。
帰宅すると12時を過ぎていた。

朝、快晴。まるで真夏の光の中、ドブロブニク旧市街のプロチェ門からすぐそばにあるマイーダさんの妹のイヴァさんのアトリエを訪ねる。イヴァさんは陶芸家で旦那さんはガラスをやっておりここは二人の工房兼ショップである。昨日が日曜日だったので私たちは訪問を遠慮したのであるが実は待っていてくれたようであった。マイーダさんから連絡があったのだろう、私たちの為にプレゼントまで用意してくれていた。
イヴァさんはダリンカさん似である。
お正月はリエカで会う約束をした。

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後で知ったことだがイヴァさんたちのアトリエは旦那さんのマルコさんの実家でもあった。
このあたりは第二次大戦後は全く家もなかった場所だったらしい。

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私たちがそもそもクロアチアのリエカに滞在するようになったのは全くの偶然にもかかわらず、このような出会い、繋がりができることの不思議さを思わずにはいられない。

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ホテルの窓から見えるグンドリッチ広場。月曜の朝の市。

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一時間遅れの飛行機でザグレブへ。ここはザグレブのホテル。

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夕方、ザグレブ散策の後、フランチェスキさんから招待されていたHDLUクロアチア芸術協会美術館の展覧会のオープニングに皆と向かう。

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HDLU。白い建物がピンクにライトアップされていた、かなりクレイジーである。

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入り口で藤田さん薬師寺さんらをフランチェスキさんに紹介した後内部へ。

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この展覧会はコンペティションだったらしく授賞式はテレビが取材していた。

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僕は明日の昼間、ザグレブのアヴァンギャルドアートのコレクターやザグレブ芸大の先生と会う予定があり、藤田さん薬師寺さんご夫婦とゆっくりできるのは今日が最後かもしれないということで、このレセプションのあと皆で最後の晩餐(飲み会?)に行きました。
この間藤田、薬師寺ご夫妻とは旅をともにできたし、久々に日本語でいろんな話ができ、まさに叱咤激励され、夫婦共々ありがたいことでした。



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現在は文化歴史博物館として使われている総督邸にて。昔の地図、右上にRAGVSAとある。

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中庭

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オノフリオの小噴水

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1990年代のボスニア戦争におけるドブロブニク防衛軍兵士を記念した部屋。壁には戦死した兵士の写真、ヴィデオで当時の破壊されたドブロブニクの町が映し出されていた。

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防衛軍の旗

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向こうに見えるのがスルジ山。右手が旧総督邸。

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昔の港。人が泳いでいた。

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フランシスコ会修道院

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城壁の上を歩く。全長約2キロ。

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左向こうに見えるのはロヴリイェナツ要塞。

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スルジ山側の城壁

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城壁の最も高い所から見たドブロブニク旧市街。

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フランシスコ会修道院

前夜からの雨が朝には土砂降りとなる中、タクシーでリエカのバスセンターに向かう。
今日はクロアチアのほぼ南端、ドブロブニクに行く予定である。
「アドリア海の真珠」とも称されるドブロブニクはおそらく日本でも最も有名なクロアチアの都市かもしれない。ここクロアチアでもソボルさんたちからこれまで何度も行くべきと勧められ実際二度程計画したのだが、何せリエカから交通の便が悪いのとタイミングがうまく会わず断念したところである。
リエカからドブロブニクは直線距離だと400キロ強、バスだと12時間かかる。
今回はここに訪ねて来られた藤田さんたちに合わせて一緒に行く計画を立てたのだった。
リエカからいったんザグレブへバスで向かい、飛行機でドブロブニクに飛ぶルートである。
所要時間は7時間弱。

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ザグレブ

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ザグレブ、サヴァ川をこえて空港に向かう。

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ドブロブニクの湾岸。

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手前に見えるのはロクルム島。

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城塞都市ドブロブニクを囲む城壁。構造は総督府など城内の建築物も含めて5月に訪ねたギリシアのロドス島旧市街と驚く程似ている。異なっているのはロドスは聖ヨハネ騎士団が島民を支配して作ったのに対して、ここは完全な独立共和国であったことだ。
http://www.esporre.net/terayama/2008/05/523.php
ヴェネツイアの強い影響下にあったロドス島とドブロブニクが似ているのは歴史的に言えば当然のことで、アドリア海の女王といわれるヴェネツイアがゲルマン人の圧迫から逃れたローマ人が潟(ラグーン)に住み着いたのと同様、ここも昔から住んでいたローマ人がスラブ人(現クロアチア人)から逃れて住み着いたのが始まりである。ここの昔の名前はラグーサであったという。



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ピレ門から市街に入る。

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ここ旧市街は車は入れない。プラッツァ通り。ここは7世紀には運河で海だったところ。


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旧市街にある宿に荷物をおいて散策に出かける。ホテルの前にあるグンドリッチ広場。

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階段の上は大聖堂。

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大聖堂内

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