終日雨。読書。旅の記録。他。

以下、トルコ旅行中訪ねた主な場所。

museum/library美術館/博物館等】

トプカプ宮殿/アヤソフィア博物館/国立考古学博物館/装飾タイル博物館/古代東方博物館/トルコ・イスラーム美術博物館/アナトリア文明博物館/ハットゥシャシュ博物館/ギョレメ屋外博物館/ゼルヴェ屋外博物館/アンタルヤ考古学博物館/騎士団長の宮殿(ギリシア、ロドス)/考古学博物館(ギリシア、ロドス)/アフロディスィアス博物館/エフェス考古学博物館 以上15カ所

ruins遺跡等】

地下宮殿/ヒッポロドーム/ヴァレンス水通橋/アンカラ城/アウグストゥス神殿/ローマ浴場跡/ハットゥシャシュ遺跡/ヤズルカヤ神殿/カイマクル地下都市/ハドリアヌス門/ファセリス遺跡/ペルゲ遺跡/アスペンドス遺跡/スィデ円形劇場/アポロンとアテナ神殿/リキヤの墓/カシュ古代劇場/パタラ遺跡/クサントス遺跡/レトゥーン遺跡/スミス山遺跡(ギリシア、ロドス)/リンドス遺跡(ギリシア、ロドス)/ヒエラポリス遺跡/アフロディスィアス遺跡/ディディム遺跡/プリエネ遺跡/ミレト遺跡/エフェス遺跡/アクロポリス遺跡(ベルガマ) 以上29カ所

camii/temple/churchジャーミー/教会/寺院等】

スルタンアフメット・ジャーミー/スルタンアフメット一世廟/スュレイマニエ・ジャーミー/トカル・キリセ/スレイマン・モスク(ギリシア、ロドス)/エヴァンゲリスモス教会(ギリシア、ロドス)/我らの聖母教会(ギリシア、ロドス)/オルハン・カーズィー・ジャーミー/イェシル・ジャーミー/ウル・ジャーミー/レッド・バジリカ 以上11カ所ただし小さいジャーミーは省略

city/nature街並と自然景観等】

グランドバザール/古本街/エジプシャン・バザール/ギョレメ・パノラマ/パシャバー地区/アヴァノス/ローズバレー/ウフララ渓谷/クルシュンルの滝/石灰棚/ブルサ・バザール

 以上11カ所


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以下智子の写真機より

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イスタンブール

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ザグレブで見つけた「ゼニート」というアヴァンギャルド機関誌について調べるためどうしても英語--クロアチア語の辞書が必要になり買い物に出る。ついでにコンチネンタルのネットカフェでブログの更新。その他食料や日常品の買い出しなど。

一日はおおむねクロアチア語、英語の勉強と資料の読書や整理であっといまに過ぎていきます。

 

トルコ覚え書き2

このブログにも何度か登場した私の個人的トルコ旅行アドヴァイザーであるえびりん(ちなみに彼女は版画家で毎年、銀座で個展をしています)から聞いた話に以下のようなものがあった。(無断使用をお許し下さい)

かつて120年程前日本を訪れたトルコの使節団(まだトルコにスルタンがいた時代ですね)の船が帰路、台風のせいで不幸にも串本沖で座礁し、打ち上げられた人々を串本の貧しい漁民たちが親身に助けたのだという。その話は伝説としてずっと今日までトルコでは語り継がれていて、彼らの親日感情の背景にはそのことがあるという。えびりんの話で感動的なのはその後で、実に最近の湾岸戦争時の話に移ります。

かのフセインが「イラク上空を飛ぶ飛行機は全て撃ち落とす」と言って、実際何機か撃ち落とされていた時、イラクには逃げ遅れた日本人(商社関係の人など)がいたそうだ。いつものことながら在留邦人には冷たい日本政府は当時、早々に彼らを見放してしまったのだった。これら絶望的な状況の日本人に救いの手を差し伸べたのがトルコ政府で、彼らはその為のチャーター便を飛ばし無事多くの日本人が救われたということなのだ。ひょっとしたら同じ回教徒の国なのでトルコ航空機は撃墜される確率が少なかったこともあったのかもしれない。しかし安全である保障はどこにもなかったはずだ。恥ずかしながらえびりんにこの話を聞くまで僕はこの事実を知らなかった。自国民が関係しているならばいざ知らず全く関係のない日本人に対するトルコのこの行為はかつての串本の日本人に対するトルコ人からのご恩返しだったようだ。実際日本人の商社マンたちは涙を流して感謝したらしい。

...とここまでの話は事実であり美談である。

しかしえびりんの話はこの後、暗いアイロニーへと転調するのであった。何故ならばかつての串本沖で救われたトルコ人とは異なり、湾岸戦争で救われた時には涙を流したはずの日本人は帰国後そういった事実を日本人にはほとんど伝えていないという事実があるからである。もともと、外国を旅する日本人に冷たい日本政府や外務省(そもそも一旦は見捨てたのだから後ろ暗いので)は宣伝するわけがない。しかし、100年以上も前の借りをしっかり返す義理堅いトルコの人と、危機が自分の目の前から去れば恩も忘れる日本人とは何なのでしょうねとえびりんは寂しそうに語ってくれたのであった(勝手に脚色してごめん)。

 

さすがに今回の旅では僕に串本の恩を返させてくれとも、湾岸戦争の借りを返せとも言ったトルコの人はいなかった。しかし「日本人は表面上ではニコニコ笑って親密な態度なんだけど、本当はいったい何を考えているのだろう?日本人は素晴らしいと思うが旅の途中に示す親密な態度は本物なのか、その場しのぎなのか私にはわからない。私は日本人を信じたいのだけれどあなたはどう思いますか」と訴えてくる若者がいたのは事実である。また「日本と韓国はトルコ人から見ると同じに見えるがその関係はどうなっているんだ」(関係=コネクションと彼は言ったのだがそれは2000年にわたるコネクションなのか最近のことなのか、政治的なことなのか、文化的なことなのかよく分からなかった)とか「私たちは英米人から何でトルコ人は日本人や、中国人に対してそんなに親切なんだと言われるくらい私たちは日本人に親近感を持っているのに日本人は私たちに対してどうなんだろう」という結構(人種差別的な問題も含む)複雑な疑問までも投げかけられたのであった。私は旅に忙しい日々を送っていた。しかし夜遅くブログなどを宿の人気の無いレストランなどで一人更新しているとよく話しかけられたのだ。彼らの何気ない質問は仮に日本語で話すにしても微妙で難しい話であった。それを英語で問いかけられたのだからかなり難儀しました。実際僕の答えは無茶苦茶なものとなったと思う。本当はそっとしておいてほしかったのだけど、僕はそんな質問を誘発するような顔をしていたのだろうか?(ひげのせいかもしれないが「お前はこれからジャーミーにお祈りに行くのか」といった冗談を二度程言われた)

しかし僕もご存知のようにこのブログで迂闊にも「トルコ人の考えていること、その真意がどこにあるか分かり辛い」とか勝手なことを書いてしまっていたのだが、苦笑ものだが彼らも日本人に対して同じような疑問を持っていることがわかって興味深かった。またこのような状況下、自分の母国のこと(あるいは母国と中国、朝鮮半島、東南アジアの国々との関係)を母国語以外の言葉で話すという経験は重要なものだとも感じた。

 

もちろんたかだか一ヶ月弱の滞在でトルコ人についてとかトルコについて僕が語れるわけは無いしそのつもりもなかったのだ。しかし彼らの質問はそのような僕のありきたりの答えを認めないたぐいの真剣さがあった。例え短期であったとしても意見を求めて来る彼らの直裁さというものは貴重なものだとも思った。例えば日本人が日本に来た外国人に「日本はどうですか?」と聞く儀礼的な質問(はじめから真剣な答えなど期待していない)と彼らのそれとは異なるように思えたのだ。彼らの多くは儀礼的な返答を好まないようだ。実際僕はどこまで話せば良いのか迷いました。それは日本人特有の「良い加減」と彼らの背後にいる「アッラー」のせめぎあいなのかどうかは分からないけれど。

 

少なくとも僕は今回の旅で多くのトルコの人にもらった沢山の(時には不思議な)親切と暖かみを忘れないことくらいはできると思う。


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昨晩は久々にゆっくり眠ることができた。当初、このような拠点(クロアチアにフラットを持続的に借りること)を持つことは少し贅沢なのではないかという気持ちもあった。しかし実際旅してみると、拠点なしの移動(放浪?)生活はあまりにもきついということがわかった。もちろんここリエカでの生活も東京の自宅のように自在とは到底言えないまでも、充分以上にその意味があったことを実感させられている。

トルコで見た様々のものや多くの人と話したことなどが熱をもった大きな一塊となって頭や心に残っており、それらを抱えたままここ数日は過ごさねばならないようだ。整理がつこうがつくまいが、そうしなくてはどうも元の精神状態には戻れないように感じている。それくらいトルコでの経験はインパクトがあった。リエカは今、日本の梅雨のようで雨が降ったり止んだりしている。(僕らが戻る直前までは31度の暑さだったそうだ)

今日は終日荷物の整理などをして一歩も外には出なかった。

 

トルコ旅行覚え書きの前にこの旅のそもそもの目的を記しておきたいと思う。

このブログを見ている方々には気楽な遺跡巡りにも見えるかもしれませんが、私の旅はこれでも一応研修旅行なのです。

【研究課題】

ヴィジュアル・コミュニケーションにおける「文字」「図像」「書物」など「視覚記号」諸要素の起源、歴史的変遷、環境との関係に関する調査と研究。

【研究理由】

私のこれまでの研究テーマは以下の2点である。

1)書物、ダイヤグラム、サイン・システムなどタイポグラフィと図像を軸としたグラフィック・デザイン史研究、およびそれらを今日的視点で再解釈し近代の視覚言語とは何かを問うもの。

2)文字の発生前後からの人類の記述の変遷(History of WRITING)をたどり、その中にヴィジュアル・コミュニケーション・デザイン史を定位し今日的視点からデザイン概念を再構築すること。

[これまでの研究と今回の在外研究との関連]

1)トラヤヌス碑文に見られるインペリアル・キャピタルからルネッサンスを経て今日までリバイバルを重ねた人文主義的タイプフェイスの歴史と変遷(記念碑、墓石から印刷された書物まで)の現地調査と資料収集。

(2)2007共同研究「オットー・ノイラート研究」に関連し、ISOTYPE(International System Of Typographic Picture Education)をヨーロッパにおけるヒエログリフ解読(エジプト再発見)の文脈で考察し、同時に18世紀以降のダイヤグラム、サイン・システムを主とした視覚記号のヨーロッパ各国における展開の現地調査と資料収集を行いたい。

 

以上が(大学に提出した書類の抜粋なので文章が硬くてごめんなさい)私の今回の旅の大きな目的である。もしこれに付け加えることがあるとすれば、出来る限りそれらが生み出されたその場所に行くことであった。

今回のトルコの旅ではまさにトラヤヌス時代の文字が生まれるかなり以前からその前後までの様々な文字(記号)による碑文、粘度板、円筒印章、貨幣、文様、器具、彫刻、装飾品等をかなりまとめて見る事ができた。それらはシュメールによる楔形文字の発生から彼ら独自のアルファベット(表音文字化)への移行、エジプトの象形文字とそのアルファベットへの移行、象形文字と楔形文字の交流と新たな文字の発生(未解読の多くの文字も含まれる)などである。短く見積もってもBC2000年間の変遷がそこにはある。現在の私の中では整理がつかず混乱状態であるものの、少なくともエジプト、シリア、アラブ、ヒッタイト(トルコ)ギリシアといった地中海をとりまく諸地域が商活動、侵略、戦争、民族移動などを通して、かなりダイナミックに交流し、その中で否応なく文字が生成、流通してきたことが実感として理解できた。このことは今後丁寧にトレースする必要がある。

これまでタイポグラフィの教科書にも全く触れられることのなかった「何故、トラヤヌスの時代(要するに今から2000年程前)に既にあれほど完成された書体ができていたのか」(「それをまさか単純にローマ人の功績に帰すだけでは済まないだろう、では誰がどのようにして?」...これこそが私のこの旅の本当の目的であるが)についてのヒントがいくつもあった。またそのことはただ単に文字の形だけを見ていても理解できないような気がする。当時の人々、少なくとも造形に携わった人間たちの装飾品や建築物に対する数学的、幾何学的対比、比率に対する感覚と密接に結びついている事も間違いの無いことのように思われる。この地域と時代は歴史学的にも考古学的にもまだまだ謎が多くこれからの新たな発見などによって文字の歴史もかなり書き換えられていくような予感も感じた。ある本によれば歴史家は文字が生まれてからを歴史時代としそれ以前を考古学的対象と切り分けるそうだが、コミュニケーションという視点からみるとその理屈はあまりにもアカデミズム的でおかしいと思う。考古学と歴史学のもっと統合的で視覚記号論的な歴史生態学が必要なのではないのかという気もした。(門外漢なので勝手な感想ですが)

今回わかったことはこれまでのわたし達に与えられている歴史的知見がヨーロッパにおいてもたかだか18世紀の終わりから始まったということだ。

私自身も自分の整理の為に地道に年表を作ろうと思っているが自由に参照できる資料が手元に無いので、この場所でどこまでできるかわからない。しかしこれからの旅のためにはできる限りのことをしておきたいと思っている。

 

この旅において特筆すべきなのはアンカラのアナトリア文明博物館で見たチャタル・ホユックの遺跡出土品であった。(もちろんアレクサンダー大王の石棺における想像を絶する彫刻の完成度の高さとか、特筆すべきものを言い出せばほかにも目白押しなのだけれど)

これは現在のところ人類最古の集落といわれているところである。紀元前7000年頃以降のもの、つまり今から9000年前である。博物館で見る事のできた紀元前56000年から3000年にかけての土器、家屋の復元、地母神の座像、呪術的な造形物の強さ素晴らしさには全く驚かされた。人類が時間を経るごとに賢く(?)というか進歩、成長しているという発達史的な歴史観はこれをみると簡単に吹っ飛びます。ヒッタイト文明やアッシリアなどの「歴史上の」文明とそれ以前の「考古学的」事実であるチャタル・ホユックとの関係、関連を文字で証明するものがないので一般の歴史書には断絶してしか触れられていないが、場所的にみればどう考えても何らかの関係があるように思える。

またこれはアイルランドに行ったときと同様だが、今日の私たちが考えている造形とはそもそも何なのかとも考えさせらずにはいられない。歴史が新しくなればなるほど繊細さや量的な規模は増大するかもしれない。しかしものに込められた造形上の強さはそれに反比例して弱まっていくものなのだろうか?

 

最後についでと言っては何だけれどももう一つの旅の目的(というよりも野望に近いかも)も書いておこうと思う。(何事も言ってしまえば未来のいつかに実現するような気がするので)今回は諸事情と時間の制約から現在のイラク、シリア、ヨルダン、サウジアラビア、イスラエルといった中東諸国まで足を伸ばすことができない。この1年の旅の後、機会があれば今度は東アジア、東南アジアの側からイスタンブールに向かう旅をしたいと考えている。もちろん1年フルにというのではなく、断片的になるだろうけれども。そうしなければどう考えても自分の中のバランスがとれないだろうと思えるのだ。


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以下智子の写真機より


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朝、宿に荷物を預かってもらい、再びリュブリアナの街をのんびり散策。一ヶ月ぶりにちゃんとしたカプチーノが飲めた。(トルコではひたすらティーだった。へたにコーヒーを頼むとネスカフェが出て来るので)その後1455分発の電車でリエカへ。途中二箇所でパスポートコントロール。電車は緑の中をゆっくり進む。客は少なく六人用のコンパートメントには私たちだけだ。トルコではほとんどバスでの移動だったので久々の電車でのゆったりした移動にあらためて感動。五時半ごろ到着。無事リエカに帰還する。


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リュブリアナの中心はほぼこの模型で収まる規模である。しかも街中への車の乗り入れが禁止されているのでとても気持ちが良い。


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私たちの乗った電車ではないが蒸気機関車が現役で動いていた。

朝、イェニカブの宿からタクシーでアタテュルク空港へ。約30分。オーストリア航空でウイーンに向かいトランジット、アドリア航空に乗り換えてスロベニアの首都、リュブリアナへ到着。リュブリアナはクロアチアのリエカから大変近いのだが(直線距離で約80キロ)バスがない。クロアチアからスロベニアを通ってイタリアのトリエステやウイーンに向かうバスはあるのだが、多分旧ユーゴスラヴィア同士、歴史的に微妙な関係らしい。ソボルさんによれば領土問題も含まれているとのこと。恐らくクロアチアがEUに加盟してしまえばその問題も雲散霧消してしまうだろうとも言っていた。ともかくリュブリアナからリエカには列車が一日に二本しか走ってないのだ。ということでリュブリアナに一泊する。今後この街もザグレブと同様、ヨーロッパの各地に移動する時に通過することもあると思われるのでどのような所か知っておきたいというのもあった。

宿に荷物を預け街をぶらっと歩いた。ここもザグレブと似て落ち着いた緑の多い街である。ただ、まだ頭と身体にはトルコでのハードな日々が刻印されていてかなりボーッとした状態である。トルコでの体験を消化できないままだ。これは当然のことだと思う。とにかくトルコ旅行自体が事故も無く無事であったことにほっとしている。

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リュブリアナ城から街を見下ろす


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イスタンブールのアタチュルク空港から出発は62日に決まっているのでこの日は何としてもイスタンブールまで辿り着かねばならなかった。飛行機も駄目、あてにしていた別のフェリールートもガイドブックに掲載されていたものは既にルート自体がなかったりした。やむなく先日ベルガマからブルサという街まで約8時間、バスの強行軍であった。ブルサはトルコ第四の都市らしい。私個人としては、短期滞在ではあったが、不思議と落ち着いた良い街の印象がある(街の佇まいもそうだが人の雰囲気も)。トルコの大都市の中でも最も気に入った所だった。この日午前中にブルサの有名な寺院を見て、マルマラ海沿岸のヤロワに行きそこからフェリーで(予定した最初の便は何と満員で乗れなかったが)イスタンブールになんとか戻ることができた。この間何人かのトルコの人々と印象に残る話などをしたが、それはまたの機会に。

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ブルサにて

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再びイスタンブールに戻る。この港公園ぞいの夕暮れは最高だ。景色ではなくここを通り過ぎる老若男女の姿が。いつまで見ていても見飽きる事が無い。

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丘からベルガマの街を見る。

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朝、セルチュクの宿の人が遺跡まで車で送ってくれる。距離はだいたい4キロくらい。エフェスは地中海沿岸の古代都市の中でも規模が大きく、観光客の数も例えば昨日に行ったプリエネやディディムと比べて桁違い多い。これまであまり人気の無い遺跡を歩いてきたので、団体客がぞろぞろ続く場所は少し落ち着かない。

 

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オデオン(音楽堂)

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トラヤヌスの泉

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公衆トイレ

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ケルスス図書館。一万二千巻の書物が所蔵されていたという。

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大劇場。山の斜面にそって作られている。

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以下エフェス考古学博物館

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サン・ダイアル

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豊饒神

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拳闘士に関する特別展が行われていた。

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ベルガマの町へ移動。セルチュクからバスで3時間半。

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クズル・アウル(レッド・バジリカ)。かつて古代エジプトのセラピス神(オシリスとアピス-プルトーン神)を祀り、のちにキリスト教の聖堂になった場所。

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今回のトルコの旅もかなり大詰めになってきた。セルチュクに滞在したのは地中海沿岸のクサントスやペルゲ、アスペンドスと同様、ここエーゲ海沿岸にも紀元前10世紀以降の古代都市がいくつもあるからだ。その中でもこの三都市は必ず見たいと思っていたのだがそれぞれ、20~30キロ以上離れておりしかも交通の便は大変、悪い。期待していたバス会社のツアーもない(昨晩、訊いてみると最大手のバス会社にもかかわらず、法外な値段をふっかけられたりしたのだ)。旅慣れてきたせいか(疲れてもうどうにでもなれとやけくそ気分も含まれて)だめで元々なんとかなるさ、自力で行ってやろうじゃないかと宿を出た。最初のディディムまでバスを3回乗り換えて2時間でスムーズに到着。すでに炎天下36度であった。昼過ぎからはドルムシュという小型バスの運行も極端に減るという情報なので、見終わった後、昼食もとらずに次のミレトをめざす。ここがミレトへの分岐点だとバスから降ろされた場所で聞いてみるとここからミレト遺跡までは5キロ、徒歩しか手段は無いと言われる。どうしようかと躊躇していると側に停まっていた車の中から若いお兄ちゃんが良かったら車で送ってあげるよと声をかけてくれた。あまりの幸運にユダヤの民を率いて紅海をわたるモーゼのような気分になりました(少し大げさかもしれないけど)。
ミレトでは一人で旅している日本の中年女性に声をかけられ、次に私たちがプリエネに行くというと、じゃあ一緒に行きましょう、あなた達が見終わるのを待っているわという。この時も次の目的地プリエネに行くバスはなく、一旦ソケという街に戻り、行き直すしかなかったのだ。我々が戻り、じゃあソケに行くしかないかと話していると今度はドルムシュ(小型バス)の運転手が50リラ(4500円くらい)出してくれればプリエネまで行ってやるけどという。バスの運転手がタクシーに早変わりだ。この適当さはトルコならではである。プリエネまでは25キロほどで3人でその値段ならば安いということで話はまとまり、プリエネまで無事に行き着く事ができた。トルコでは至る所重要な観光地にもかかわらず、肝心のところにわざとのように交通機関がない。まったくひどいなあと思いつつ、結局テキトーで親切なトルコ人に助けてもらうほかないのだ。これが今回私がマスターしたトルコ旅行のコツです。この日は結局水やコーラやビールやアイスのみで昼食がとれず、夜の8時にやっと食事をとることができた。いつもなら夜は涼しくなるのだがこの日は夜も暑く寝苦しい夜であった。

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以下ディディムの遺跡
ここはデルフォイとならぶ神託のメッカという。柱の太さや並べ方が間隔が他とはかなり異なる。遺跡面積は狭いが迫力がある。有名なメドゥーサも含め彫刻のディテールがかなり鮮やかに残る。

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以下ミレト(ミレトス)
ここはギリシア文明圏で(ということは世界で)最初に哲学と自然科学が生まれたといわれるイオニア文化の中心地である。紀元前4世紀に作られた大劇場が中心だがここも広大な場所に様々な街の遺構が点在している。ターレスとかソクラテスとかがこの街を歩いたのか!と思いつつ。

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プリエネの遺跡。復元図。
この都市の街並は都市計画においてグリッド(格子)を用いた最古のものであるという。背後にそびえる山の土砂によって19世紀まで埋もれていたという。

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この日はかなりの猛暑であった。予定していた13時のバスに乗れず17時までパムッカレに足止めされた。あまりの暑さに再びパムッカレに登る気もおこらず、近所の週に一回のバザールを覗いたほかは宿でブログの更新などをする。また宿にいるといろんなタイプの日本人旅行者が来て話をする。妻は宿の女性主人(日本人)と一緒に衛星放送で「ニュースセブン」を見ていた。これまで休みの無い時間が続いたので結果的には久々の休養日となった。
セルチュクまではバスで4時間。バスセンターで翌日の移動手段の確認をしたのだが全く要領を得ないまま9時半に宿に到着。夕食抜きで就寝。

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