フランクフルトにも見るべき場所は多い。またここもデュッセルドルフ同様日本人を数多くみかける。ホテルでたまたま話した年配の夫婦はドイツのクリスマス・マーケットを見るという目的で来ているとの事。

僕らも行く先々でマーケットは覗いてみたがそういう目的を持った旅もあるのだと変な感心をした。

朝マイン川を渡り川沿いにあるシュテーデル美術館に行く。この通りは美術館通りと言われていて沢山のミュージアムが並んでいて私たちのような旅行者にはとても便利な場所である。

シュテーデルはドイツ国内でもかなり立派な美術館である。中世から近代までバランスよく作品を収蔵している。フェルメール、ヤンファンアイク、デューラー、ホルバイン、クラナッハ、ボッティチェリ、フランジェリコ、ティエポロ、ラファエロ、レンブラント、ボッシュ、ルノワール、モネ、マネ、ベックマン、キルヒナーなど。特筆すべきは特別展で謎の多い画家といわれるファン・デル・ウェイデンをやっていたことだ。周辺の画家、ヤン・ファン・アイクなどを同時に配置した素晴らしい展示であった。

その後ドイツコミュニケーション博物館、ドイツ映画博物館(両方とも書き出すと長くなるので詳細省略)を見て、美術館を出たら7時であった。

昨日に引き続きかなり疲労困憊する。

腰の調子が少しおかしい。


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以下シュテーデル美術館


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ファイニンガー


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クレー


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ベックリン

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キーファー


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リヒター


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トーマス・バイルレ。バイルレさんは14-5年前になるが特別講師として学校に来て頂いたことがある。


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バイルレ


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バイルレ


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以下ドイツコミュニケーション博物館。ここは「子供の城」(青山)と通信博物館が合体したような内容であった。


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以下ドイツ映画博物館


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日本にゴジラがあるように、ドイツにはメトロポリスのあの...。


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朝、早めに宿を出て電車でダルムシュタットへ向かう。約40分ほど。小雨まじりでかなり寒い。

ここダルムシュタットの工科大学でエル・リシツキーは建築を学んでいる。

彼はサンクトペテルブルクの芸術大学を受験したがユダヤ人という理由で入学できず、ここダルムシュタットに留学したのだった。1909年頃である。彼はここで建築家のヨーゼフ・マリア・オルブリヒに学ぶことになる。

ダルムシュタットの街の中心にある工科大学をさらに丘の方に昇ると、19世紀末から20世紀初頭にダルムシュタット大公ルードウィヒが、ドイツ各地から芸術家を招聘し作った芸術家村がある。それらの中心にいたのがオルブリヒである。この丘の中心はルードウィヒの結婚を記念して作られた結婚記念塔であり、その横に芸術家コロニー美術館がある。周辺にはロシア建築家ベノイの造ったロシア教会、オルブリヒの自邸や彼が設計した住宅、ペーター・ベーレンスによるベーレンスハウスなど、ドイツにおけるアール・ヌーボー様式=ユーゲント・シュティール建築の見本市のような場所である。

リシツキーはここで多感な学生時代を過ごしている。彼は学生時代、電車と自転車で遠くパリにまでエッフェル塔を見にいっており、既に卒業のころはオルビリヒの影響を脱してベーレンスによるユーゲント・シュティール後、つまりモダニズムの影響を受けていたようである。結局1914年に勃発した第一次大戦の混乱の中ロシアに戻る事になるのだが...。

結婚記念塔横の美術館では「ロシア1900」という展覧会が行われていた。図録が大部だったのでDVDを購入した。

本当はダルムシュタットとマインツを一日ずつ訪問しようと考えていたのだが、いつもの「月曜日問題」にぶつかる為、一日で二つの街に行く強行軍となった。



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マチルダの丘


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ロシア教会


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結婚記念塔


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塔上からの眺め。


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我々が訪ねた時ちょうど結婚式が行われていた。


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今回の旅は何故かカメレオンに縁があるようだ。


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オルブリヒハウス


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ハウス・ダイタース(オルブリヒ)

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グリュッケルトハウス(オルブリヒ)

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ベーレンスハウス(ベーレンス)


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現在のダルムシュタット工科大学。考えてみればリシツキーがいたのは100年前で、そのあいだに第二次大戦もあり、ここダルムシュタットも相当な戦災にあっているからその当時の面影はもう見えないのかもしれない。しかし、それを求めて彷徨う私だった。


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ダルムシュタットのマチルダの丘の後、電車で40分程のマインツに移動。

マインツはグーテンベルクミュージアムを訪ねることが目的である。まあローロッパに来てここに来ないと何となく落ち着かないので、何と言うか僕にとっての「お伊勢参り」「富士山登頂」のようなものでしょうか。僕は富士山には登った事はありませんが。

美術館は5時に閉まったため2時間では到底充分ではなかったがまあやむを得ない。外に出ると暗くなっていたがクリスマスの市で街は賑わっている。皆が飲んでいる飲み物を頼んだら「ホットワイン」のようなものだった。

かなり歩き回ったのでくたびれた。


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ここは写真撮影ができなかったのでイメージはない。却って良かったかも知れない。写真撮影が可ならば予定を変えて「明日また来る」と言っていたであろう。


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マインツのクリスマス・マーケット。各都市ごとに見ているので私たちはクリスマスマーケット評論家になれそうである。


デュッセルドルフを午前中に出てフランクフルトへ向かう。電車で約2時間半。

フランクフルトを拠点にしてマインツとダルムシュタットを訪れるのが今回の目的である。

ホテルは駅の側で、到着して外に出ると雨模様で薄暗い。

街の中心部まで歩き、クリスマスの市を見る。


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実はデュッセルドルフでの美術館で最も楽しみにしていたのはクンスト20K20と呼ばれる州立美術館であった。ここはクレーやピカソなど20世紀美術が充実していることで有名である。しかし何と、今年の4月から来年の秋まで改築の為閉鎖されていた。

うーん...調査不足であった。

残念であるがしょうがない。ここの名作は今日本の名古屋の美術館に行っているようだ。

それでもうひとつの美術館、K21に行った。ここはその名の通り未来志向(?)の現代美術の展示をしているところである。大体1980年以降の作品に絞っているようだった。建物はK20と裏腹にこちらは古い建物を改築したものであった。この改築はとても優れたもので感心した。

また現代美術の展示はこれまで訪れたところの多くが、何故かぞんざいな印象を受け、うんざりさせられることが多いのだがここは違った。ひとつは普通よくあるように大空間に膨大な数を羅列せず(建物が古いせいか)こじんまりした部屋に少しずつ展示している所が落ち着いていてとても良かった。名前の知らない作家幾人か、イリヤ・カバコフ、クリスチアン・ボルタンスキーが特に印象深かった。(作品は撮影禁止なので写真はない)



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K21エントランス


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途中、クンストアカデミーの横を通る。


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その後エーレンホーフ文化センターにある美術館クンストパラストに行く。ここは古典から現代美術までを展示していたが、時々ドイツで見かける時間軸を壊して異なる時代の作品を併置する(ドレスデンの美術館がそうであったが)僕の嫌いなタイプの展示をしており、あまり感心しなかった。ただオットー・ディックスの版画のみの特別展をやっておりこれは、第一次大戦の悲惨さを告発したものでその迫力に圧倒された。もともとオットー・ディックスは好きな作家ではあったがこれによってさらに見方が変わった。これだけでも来て良かったと思ったが、その後ガラス博物館に行って驚いた。この美術館はむしろガラスがメインだったのだと知らされた。エジプトやローマ時代のものからアールヌーボーを経て現代までこんなにガラスが充実した美術館は初めてであった。ガラスをやっている人は必見の美術館だと思う。あまりにも多すぎて時間内に見切れなかったのが残念である。(ここも撮影禁止なので写真はない)

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エーレンホーフ文化センター周辺。


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クンストパラスト。いくつかの美術館の複合施設らしい(全部は見れなかった)


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エントランス。


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今日はもうデュッセルドルフ最後の夜となってしまった。

鈴木さんとご家族には何から何までお世話になってしまい本当にありがたかった。

しかも今日は最後の夜ということで、またしても鈴木家でごちそうになってしまった。

つい最近リエカでの食事についてブログにうかつなことを書いてしまい、私たちの貧困な食生活を随分心配して下さったようだ。まったく厚かましい事で恥ずかしくまた申し訳ないと思いつつ、楽しい最後の夜を過ごさせていただいた。

私たちにとって(これまでの苦しくも楽しかった旅の思い出や鈴木さんのデュッセルドルフでのお話を酒の肴に)楽しい忘年会になりました。


ブログはこれから会う方に気を使わせてしまうという問題があることに気づきました。これはある面、どうしようもない問題ですが、少なくともこれからは食生活などに関する弱音ははかないようにがんばります。もう旅も残り少ないのだから。

鈴木さんの車でmaiさんと海君も一緒にデュッセルドルフから高速を飛ばして3〜40分にあるエッセンに向かう(初めてアウトバーンを走りました)。ここは戦前からドイツの重工業を担ったルール地方の中心都市である。重工業?に何の関係があるのと思われるかもしれないが、ここにはツォルフェライン炭鉱跡があってそこが今回の目的地である。
ここのことは以前大学の研究紀要の編集をしていた時、査読した論文にここを始めとするドイツにおける近代産業の保存活動について書かれたものがあって、その時以来関心を持っていた。その論文自体はレポート程度でさほどのものではなかったが、実態を自分の目で確かめたく来てみた。
ここは1930年代に当時最先端のモダニズムスタイルで建てられたもので建築的な価値があるとともに、街と言っても良いくらい広大な敷地にある炭鉱全体を産業遺産として保存しようとしているところである。これは新しいエコロジーミュージアムの一つの展開でもある(ユネスコの世界遺産にも登録されている)。日本でもこのような場所がたくさんあるがほとんど顧みられる事なく壊されているのが現状である。こういった姿勢と過去の遺物に対する考え方は残念ながらドイツのほうがはるかに進んでいると思われる。
修復した建物の一部は現代美術の展示やデザインミュージアム、子供たちの遊戯施設などとして使用されている。
今回訪ねたレッドドット・デザイン・ミュージアムはノーマン・フォスターが手がけたものである。

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27年前に作った修士制作の(dead tech)風景が現物として存在しているようで、感慨深くひとり静かに興奮していた。
近代の廃墟には(あるいはあらかじめ廃墟である近代において)局所的な物語と想像力が必要と考えた、あの頃から僕らは確かにポストモダンを生きて来たのだと実感。生きている間は気がつかないのだが過去がパースペクティブになってやっと確認できることもあるのだなあと独り言。

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リシツキーのフォトモンタージュ「雲への階梯」を思い出す。

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レッドドット・デザインミュージアム
ノーマン・フォスターのデザインに関しては手放しでは褒められらない。また展示内容に関してもかなり問題を感じた。今回はレッドドット・デザインコンペティションの受賞作が膨大に並べられていた。有象無象であるので一概には言えないが、全体としては産業振興目的の展示であった。アプローチがちょっと古い(モダニズム?)というか、頑固なドイツ人らしいと言うべきか...。形にならないデザインに対してどう考えているのだろうとか思う所あるけれども省略。

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工場跡地は面白いけど、ノイズが大きすぎて展示には不向きで、そこはあまり解決されていない。

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夜は皆でドイツ名物のビアホールへ。
伝統的なドイツ料理と共に自家醸造のビールを楽しみました。
このお店には1811年にナポレオンも訪れたということで肖像が飾ってあった。
朝から霧で薄曇り。温度は2度から4度くらいか。
今日は夕方、FH-Dのコミュニケーションデザイン学科のテュフェル(Teufel)教授の研究室を訪問する予定である。
それまで午前中から昼間にかけて自分たちでデュッセルドルフの町を散策し、3時に鈴木さんが迎えに来てくれて車でデュッセルドルフの町を案内してもらい鈴木さんのアトリエを見学した後、大学に向かう。

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デュッセルドルフは州都であり、ファッションと商業の町である。ここは町の中心、ケーニヒスアレー。お堀をはさんで82メートルの大きな道。両側に並木道が続いている。

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旧市街にある市庁舎とマルクト広場。クリスマスの市。

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ライン川沿いの道。

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オーバーカッセラー橋

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かつての港の再開発地域、メディエンハーフェン。手前はラジオ局、向こうに見えるのはフランク・O・ゲーリーの建築。このあたりはおしゃれな場所らしいが月曜の午前中とあって人通りも少なくひっそりしていた。

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デュッセルドルフにはこのような立派なお寺もあるのに驚く。

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少し郊外にあるベンラート城。城と聞いていたので最初のイメージとかなり異なっていた。
18世紀に建てられたバロック様式の建物で城というよりは離宮である。庭が広大である。

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鈴木さんのアトリエ。ここは自宅からすぐ(歩いて15秒!)の昔の駅舎だった建物である。
(駅は現在別の駅舎を使用している)
建物は市によって文化遺産として丁寧に保存修復され、市はそれを芸術家に貸しているのだ。
となりの空間はギャラリーであった。年に一回、デュッセルドルフの市民はこういった芸術家たちのアトリエを訪ねるフェアがあるそうである。

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アトリエは昔の駅長室。ここは南側の廊下だったところ。

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FH-Dデュッセルドルフ応用科学大学コミュニケーションデザイン学科。
昨日書いたクンスト・アカデミーにはデザインコースはない。この大学の創設者はあのペーター・ベーレンスである。それだけでもここが由緒あるところだと分かりますね。

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ここはドイツ国内でも評価の高いデザイン教育機関だとは聞いていた。テュフェル教授はいきなりここ10年の学生の作品、教育の成果をまとめた分厚い本から紹介を始めた。いや本当によく頑張っている事が理解できる。そのあと次から次へと面白い本を繰り出して来る。時計は見ていなかったが話が尽きず、多分予定時間を随分オーバーしたようだった。
普通の実務教育よりも教師と学生共同のプロジェクトがやっぱり面白い。映画のグラフィック史やヘルムート・シュミットなどといったテーマの研究はアプローチもまとめも立派である。
詳しい話は長くなるので省略しますが刺激をかなり受けました。

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テュフェル教授。テュフェルというのは天使(エンゲルス)の反対の意味だそうだ。皆さん笑う。ご本人も自己紹介のとき笑っていた。彼は来年の2月と3月に大阪のddd、東京のgggギャラリーで学生と共同プロジェクトの展覧会を行うそうだ。ヘルベチカの50歳の誕生日を記念していると言っていた。またそれはチューリヒとバーゼルを和解させる展覧会であるとも。
僕は残念ながら行けないけれど、東京、関西にいて興味のある人はぜひどうぞ。

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鈴木さんの娘さんであるmaiさんはテュフェル教授の教え子で、彼女がこの面談をアレンジしてくれた。彼女はギムナジウムを出て数年デザインの実務を経験した後、この大学に入学している。テュフェル教授の右隣にいる青年は海君。今回通訳をしてくれた。完璧であった。
この後、テュフェル教授も含めて皆さんで食事に行った。

朝、雨の中6時半に家を出てタクシーでバスセンターへ向かう。

ザグレブ空港からケルン・ボン空港。

ケルンから電車でデュッセルドルフに4時過ぎに無事到着。

デュッセルドルフは知り合いの鈴木さんからぜひ来るようにと誘われていたのだ。

前回のドイツ旅行の際は鈴木さんの日本行きとすれ違いになってしまい、お会いできなかった。

鈴木さんは40年以上前、東京芸大の院を卒業した後すぐに日本を出て、ユーラシア大陸を渡りドイツに向かったのだ。キール滞在を経てここデュッセルドルフにアーティストとして暮らして30年以上になる。

以前日本でお会いした時、色々なお話をしたのだが、その中でデュッセルドルフのアカデミー・クンストで6年勉強されたこと、その理由がかつてここのアカデミーでクレーが教えていたことなどを興味深く伺っていた。またここではボイスやリヒターが学生だったり、教えていたことでも有名である。

そういうわけで僕の中では「デュッセルドルフ=鈴木さん=クレー+現代美術」となっており、是非訪ねたかったのだ。

ホテルに到着後、鈴木さんに電話すると早速車で迎えに来て下さった。

夜は鈴木さんご一家に温かなおもてなしを受けた。鈴木さんの手料理(和食)は全くプロ並みで妻ともども、こちらヨーロッパに来て何と「初めての!」本格的日本料理に感動。

デュッセルドルフは日本人がヨーロッパの中でも最も多い町としても有名だそうだ。日本の食材もかなり手に入るらしくリエカと比べると思わずため息が出てしまう。


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ケルン上空。


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鈴木家にて。鈴木さん、家内、maiさん、ペトラ夫人と。

maiさんはデザイナー、奥さんは写真家である。


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鈴木さんの家にはペットが沢山いた。立派なカメレオンも二匹いてびっくり。

彼の名前はdiegoである。ソボルさんと一緒だ。

明日からのドイツ旅行の準備に追われる。
約11日間の予定である。

この間英作文などに忙しかった為、旅の心構え(?)をする時間が少し足りない。
ドイツは3度目になるので慣れて来たせいもあるかもしれない。
マイーダさんが訪ねてきてくれる。
抹茶を飲みながら話した事。
以前ブキッチさんにもらったクロアチアデザイン史の本を読んでいて、どうにもしっくりしないところがあった。ひとつはそれがザグレブ中心で語られ過ぎているように思えた事である。もうひとつはバックボーンになるはずの19世紀末から20世紀にかけての、つまりオーストリア・ハンガリー帝国以降の国家としての政治的変遷についてほとんど触れていないことである。また同様に今は外国になっているボスニアやスロヴェニアなどについても全く触れようとしていないこと、第一次大戦と第二次大戦間がかなり抜け落ちている印象をもったこと。そして最後に僕の今住んでいるリエカについて、かなり意識的に触れていないと思われた点である。前にも書いたがリエカは1920年ころダヌンツイオがいてヨーロッパ中から未来派とダダイストが集まった不思議な時空間を持っていたはずなのに全く触れられていないことであった。なので話のついでに彼女に聞いてみた。
それに対してマイーダさんはとても懇切丁寧に説明してくれた。
歴史的にリエカは20世紀の100年で少なくとも7回政治体制が変わったこと。栄光のオーストリア・ハンガリー唯一の貿易都市時代、イタリア占領の時代、ダヌンツイオ時代、自由自治都市、イタリアとユーゴスラヴィアによる二国分割支配(ベルリンのような)、そしてユーゴスラヴィア、現在のクロアチアなどだ。
そしてリエカはそもそもイタリアの影響を強く受けているのに対してオーストリアの影響の強いザグレブとはもともと対立的な感情もあるらしい。
とにかく複雑なのだということは分かった。
今はザグレブの美術館のディレクターをしているフランチェスキさんがリエカにいた数年前にダヌンツイオ時代の芸術のアヴァンギャルドの展覧会をしたところ、「未来派なんてファシズム芸術を称揚するなんて」と非難囂々であったらしい。(この展覧会の図録は見せてもらったが大変立派なものだった)確かに日本でも80年代までは未来派=ファシズムといった短絡的な見方があったことを思い出したりした。
ダヌンツイオがマリネッティに影響を与えたからファシストで、ファシスト=ナチズムだからけしからんというのは、マイーダさんも言っていたが歴史をちゃんと知らない人間の短絡化した戯言ではある。
まあ、話はブキッチさんのデザイン史の記述にリエカに触れた部分が少ないのは何故というところから始まったのだが、それに関しては「ダヌンツイオ時代や二国統治されていた時代はクロアチアではなかったから」ということのようだ。
だから納得できますということではないけども。
マイーダさんは少なくとも僕の疑問の理由はよくわかるらしく将来もっと統合的なデザイン史、美術史が書かれるだろうと言っていた。多分時間がかかるだろうということも。
それとは別に僕にとってこのリエカという町はマイーダさんやソボルさんとの話でいろんなことを知れば知る程、興味深いところになってきた。
始めのうちはここに来たのは偶然のようなものと言っていたが最近では必然であったのではないかという確信に変わって来ている。

その後、西側ヨーロッパによる旧東側諸国への偏見や差別などについても話が及んだがそれは長くなるのでやめます。



作業は昨日の続き。
朝から夜までずっと雨が降り続く。
講義文に加えて履歴書も送って欲しいと頼まれる。
これも英訳作業する必要あり。履歴を書くという作業は日本語だったとしても大変だ。
これまでの論文や雑誌に載った文章のタイトルも翻訳してみる。
たまたまコンピュータにデータのあった約25年分の版画作品やデザインワークを見直すはめになった。パワーポイントで以前作ったもの。画像で約200枚くらい。
改めて全部を見返すと意外に(?)おもしろい。...いや本当は思う所多々あるけど、ここでは省略。

ついでにマイーダさんやソボルさんにこのパワーポイント画像も見せる事にした。
考えてみたら彼らにこれまで自己紹介らしいことは全くしていなかったことに気づく。
今頃、私はこういう者ですと言うのもおかしな話ですけど。
言葉を重ねるより全然早かったんじゃあないかと今更ながら思う。

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