イスタンブールで既に宿を予約していたため昨日はギョレメからユルギュップという町に夕方移動して宿泊した。ギョレメ屋外博物館を昨日は見れなかった(一昨日に夕方散歩で外からみただけ)ので、朝ネヴシェヒルという拠点の大きな町に行き、その夜の夜行バスの切符を購入、荷物を預け、再びギョレメへバスで(30分ほど)移動。そのユルギャップの宿は値段のわりにひどかったので、こんなことならギョレメに2泊すればよかったのだが。
ここではほとんど触れていないがそういうことは旅にはつきものとはいえ、結構疲れるものだ。

0517-1.jpg
ユルギュップの町

0517-2.jpg
ギョレメ屋外博物館はギョレメにある岩窟教会が集中している場所にある、オープンエアーのエコロジカルミュージアムである。ここはカッパドキア観光のハイライトの一つなのであろう、また日曜日というせいもあり大変な人が訪れていた。日本からの団体観光客を3組も見た。これまでトルコで見かけたアジア人の団体は圧倒的に中国でその次が韓国であった。カッパドキアは日本では人気があるのだろう。

0517-3.jpg

0517-4.jpg

0517-5.jpg

0517-6.jpg

0517-7.jpg

0517-8.jpg
ギョレメ博物館を出てすぐのところにあるトカル・キリセの教会。10世紀後半

0517-9.jpg

0517-10.jpg
ギョレメ屋外博物館を見ている途中、妻が教会と間違えて入った場所は管理事務所のようなところであった。そこにいた偉そうなおじさんが一人でターキッシュティーをいれていて、お茶に興味のある妻にいろいろ講釈をしてくれた。その人が君らは団体かと聞くのでいや2人で旅していると答えると(その間事務所には部下が何人もやってきてあわただしくなったのだが)トカルキリセの所でサリというやつが君らを待っている。彼が君たちをスペシャルな場所に連れて行ってくれるから行きなさいといってメモを渡してくれた。彼のサインとsaliという名前と20リラと書いてあった。一応サンキュウといってもらって別れたが、これは善意なのか、営業なのか理解に苦しむ所だ。もちろんこれまでの旅の過程でトルコ人は押し並べて親切で人が良く、治安もよいということは分かっているが、当然そこは観光客相手の部分もあり、営業なのか本意なのかそのトルコ的ごちゃ混ぜなのか、まだそこのところの見分けがつかないのだ。(多分ずっとつかないような気がする)
トカルキリセを出たころには我々はそのことを忘れかけていた。すると地味な無精髭のおじさんがやって来て君らをドライブに連れて行きたいがと行って来た。メモを見せてあなたはサリさんかと問うとそうだという。少し迷った末、どうせその日は夜行バスだし、時間はあるし、予定もなかったのでサリさんのオンボロ自動車でドライブに連れていってもらうことにした。行ったのは3カ所であったがガイドブックに載っていない場所で、アシュクバディシとペリバカラルバディシ、アヴァロンの丘の三カ所である。2時間程。最後アヴァロンでは絨毯工場に連れて行かれた。
ここでイソさんという人が出て来て流暢な日本語で解説をはじめた。実は我々は2人とも絨毯好きなのでまずいと思ったのだが、織りの現場から繭から糸の取り出し、染色と丁寧に見せてくれるし、こちらも興味ありありなものだから真剣に聞いてしまう。問題はさっきのことと同じで私たちは現時点で買う気がないということなのだった。そこで途中でイソさんに悪いが私たちは長旅の途中なのでそんな買い物なんかできない、説明してくれるあなたに悪いからというと、イソさんは泣きそうな顔をしながら私は久しぶりに日本語がしゃべれるだけで嬉しいんだ、買わなくてももちろんかまわない。ぜひ最後まで紹介させてくれという。素直に信じた訳ではないが、成り行き上しょうがないのでそうすることに。最後は畳三十畳くらいの部屋に我々をソファにこしかけさせ、イソさんは次々に床に絨毯を部下に広げさせて説明して行く。何十枚も。話しながら興奮している。これは凄いと思うものが確かにあった。(結局は買えないのだけど)イソさんとは握手をして別れた。
後で思ったのは私が絨毯を好きになった原因は少なくとも二つある。一つは小学校3〜4年の頃我が家に新しい絨毯が来た時の母が幸せそうだった記憶。もう一つはコッポラの映画ゴッドファーザーパート2だ。デニーロ扮する若き日のコルレオーネが友人から子供の誕生祝いに絨毯をあげると言われ、いそいそと彼のあとについて行って結局絨毯泥棒の片棒を担がされるというユーモラスなシークエンスがある。またここで絨毯は新しく生まれた命、ファミリーを包むとても重要なメタファーとして表されている。このシークエンスは無声映画のように言葉がほとんどなく映像だけで描かれていて、コッポラの全ての映画の中でも最も冴えきった映像だったと記憶している。(撮影はゴードン・ウィリス!)それに単純な僕は影響されて結婚した時とか子供が生まれた時に絨毯を買ったのだった。(もちろん高級品ではありませんが)

0517-11.jpg

0517-12.jpg

0517-13.jpg

0517-14.jpg
夜行バスでアンタルヤに向かう。
地下都市も地上都市も穴を掘っている限り同じなのだと思う。モグラと同じで遠近感はなくなるだろう。誰もが「どうして」と思う場所だが、アラン諸島やディングル半島を旅した身からするとそのことは特別なことじゃない。ように思える。人間はもともと穴に住んでいたのだ。ここでは、ただ試しに掘ってみたらその岩が意外にもろく、簡単に掘れたから、掘る事がやめられなくなり、それが遺伝子にまで染み付いたのではないかと勝手に考えた。住居とは何かを考える上ではここは大変興味深い場所である。

0516-1.jpg
宿のバルコニーから、ギョレメ村を見る。
0516-2.jpg
ギョレメパノラマ。

0516-5.jpg
向こうに見えるのはウチサヒルの町。

0516-6.jpg
カイマクルの地下都市。僕の悪夢パターンのベスト2は高所、穴(閉所)であるがこの日は二つとも現実のものとして味わうことになった。興味深いが絶対に住みたくない場所である。写真は暗すぎてあまり撮れなかった。掲載しているのは比較的広い場所で、ようやく通れる位の穴が随所にある。多分多くは暗闇の中で生活していたのではないか。

0516-7.jpg
ここは地下5階といわれているがそのようなエレベーション感覚は住んでる人間にはなかったのではないだろうか。

0516-8.jpg
敵の侵入を阻止する仕掛けが至る所にあるそうだ。ここを襲う敵とはどのような人たちだったのだろう。

0516-9.jpg
各階をつなぐ通気口。ここには礼拝堂、教室、食料庫、井戸、厨房、ワイン醸造所、ゴミ処理施設、お墓など全てがあり、2万人が住んでいたという。それなりに機能的にできていて、例えば日本のマンションとどこが違うのか?と考えてみると、「同じかも」という感想も出て来るのだ。

0516-10.jpg
通気口から上を見上げる。

0516-11.jpg

0516-13.jpg
ウフララ渓谷

0516-14.jpg

0516-15.jpg
岩の中にある教会や礼拝堂。

0516-16.jpg

0516-17.jpg

0516-18.jpg

0516-19.jpg



0516-20.jpg
フランス、トルコ、カナダ、オーストラリア、日本、国籍混交のツアー。お昼ご飯。

0516-21.jpg
ゼルヴェ峡谷。ここがこれまでで一番興味深い場所だった。観光客も少なくゆっくり見る事ができる。

0516-22.jpg

0516-23.jpg

0516-24.jpg

0516-25.jpg

0516-26.jpg

0516-27.jpg

0516-28.jpg

0516-29.jpg

0516-30.jpg

0516-31.jpg

0516-32.jpg

0516-33.jpg
ピジョンヴァレー(鳩の峡谷)。木にぶら下がっているのは魔除けの目。

0516-34.jpg
岩に暮らす人々の生業はワインの生産だった。彼らは鳩を飼いその糞を飼料にしていたらしい。

0516-35.jpg
まるでマグリットの絵のような...。




ハットゥシャシュのあるボアズカレ村はとても良い所でここにもう一泊する予定だったが、これからの移動の時間を考えて、悩んだ末、カッパドキアに向かうことにする。ボアズカレから大きなバスセンターのあるヨズガットには公共交通機関はなく、昨日案内してくれたタクシードライバーの携帯に電話し、送ってもらうことにする。約40キロ。ヨズガットからカッパドキアへのバスは13時からで時間が余ったので、町で一番大きなデパート(4階建て)のインターネットカフェへ。ここで作業中突然「カーネルサンダース現象」というトラブルが発生。サファリが使用不能となる。(その後自動修復したらしく現在は問題なく動いている)カッパドキアのネヴィシェヒルに4時到着、客引きにだまされそうになるが運良く目的地ギョレメ村へのドルムシュを発見。ギョレメ村には夕刻到着。この日は宿を決めてなかったので荷物を引きづり宿探しを行う。夕刻、屋外博物館まで散歩する。カッパドキアには地下都市を見たくて来たが思ったより広大でどう見て行くかしっかりした計画の無かった私たちは少し途方に暮れたのだった。

0515-1.jpg
ヨズガットのバスセンター。向こうに見える少し高い建物がデパート。
0515-2.jpg

0515-3.jpg

0515-4.jpg

0515-5.jpg

0515-6.jpg

アンカラのオトガルからバスに乗ってスングルルの町まで約3時間。スングルルから目的地ボアズカレ村までドルムシュという小型バスがあるはずなのだが、何しろ始めての場所なのでバス停の位置も何もわからない。やむを得ずタクシーで向かう。(約20km)この旅ではなるべく公共交通機関を利用しようと思っているがなかなかうまくはいかない。しかしお陰で予定よりも早くボアズカレ村に着くことができた。タクシーの運転手とのやりとりや宿を決めるプロセスもいろいろ事件がありおもしろいのだが時間がないので省略。
ハットゥシャシュは3000〜4000年前のヒッタイト人の築いた王国である。それまでの緑の少ない丘陵の中にここは緑が比較的多く、昔から美しい場所であったことが想像される。遺跡は丘全体に広がり全体を見て回るのに約7キロ歩く。そこから3キロ、北東にヤズルカヤという露天の神殿があり、そこも訪ねる。約5時間で14〜5キロ程(半分は上り坂)歩く強行軍であった。
ここではかつて1万枚もの粘度板が発見されたところとしても有名で、その粘度板によれば2千キロ離れたエジプトと交流があったことがわかっている。ヒエログリフとくさび形文字の交流の跡が見られる。王国の遺跡は大変ダイナミックでかつてここに建っていた状況を想像するだけでわくわくさせられる場所である。何故か観光客は少ない。村には一件の宿しかないのだ。人々は大変素朴である。
0514-1.jpg

0514-2.jpg

0514-3.jpg
ハットゥシャシュ
0514-4.jpg
大神殿

0514-5.jpg
古堅さんに似たタクシードライバーがやってきて小一時間程熱心に解説してくれた。翌日彼にタクシーを頼むことになる。
0514-6.jpg

0514-7.jpg

0514-8.jpg

0514-9.jpg

0514-10.jpg
ライオン門
0514-11.jpg

0514-12.jpg
ライオン門の外
0514-13.jpg

0514-15.jpg

0514-16.jpg
スフィンクス門地下道
0514-17.jpg
城壁
0514-18.jpg

0514-19.jpg

0514-20.jpg
スフィンクス門

0514-21.jpg
ニシャンテベ。古代文字が書かれている。
0514-22.jpg

0514-23.jpg

0514-24.jpg
ヤズルカヤの神殿へ、谷をおりて再び登る。
0514-25.jpg

0514-26.jpg

0514-27.jpg

0514-28.jpg

0513-18.jpg
アンカラの目的はこのアナトリア文明博物館に来たかったからだ。アナトリアのヒッタイト時代はもちろんのこと、人類最古の集落と言われるチャタル・ホユックの遺物もある。紀元前7000年の集落である。これをみればほぼ9000年前にいかに高度な文明が存在していたかがわかる。イスタンブールの古代東方博物館とならんでスペシャルなところ。全く期待は裏切られなかった。このあと、その遺物が発掘された場所、ハットウシャシュにいくのだが。ここに掲載した写真はごく一部である。

0513-1.jpg

0513-2.jpg

0513-3.jpg

0513-4.jpg

0513-5.jpg

0513-6.jpg

0513-7.jpg

0513-8.jpg

0513-9.jpg

0513-10.jpg

0513-11.jpg

0513-12.jpg

0513-13.jpg

0513-14.jpg

0513-15.jpg

0513-16.jpg
アウグストウス神殿跡

0513-17.jpg
ローマ浴場跡

0513-20.jpg

0513-21.jpg

0513-19.jpg
アウグストウス神殿側の住居


0512-1.jpg
旧市街からバスセンター(オトガル)がある新市街へフェリーで行く。料金は安くしかも大変気持ちの良いルートだ。

0512-2.jpg


0512-3.jpg
アンカラへはバスで約6時間。バス会社は競争が激しくサービス合戦をしているらしい。まるで飛行機のようにスチュワードのような車掌が飲み物やケーキを配る。

0512-4.jpg
夕方アンカラ到着。ここが首都になって80数年、6万人の都市から320万の都市にしたと聞いてもっとモダンな街を想像していたが、街はお世辞にもきれいとはいえない。排気ガスが結構すごいし、全体的にはカオティックな印象を受ける。

0512-5.jpg

0512-6.jpg

0512-7.jpg
ひとまず一番高い場所、アンカラ城に行ってみる。

0512-8.jpg
息をきらして城の中に入るとそこは意外にも町(集落)があった。後でこの家々が一夜建築と呼ばれている事を知る。こどもたちがわらわらと遊んでいる。城は閉まっているときいていたが、子供の一人が城まで連れて行くという。半信半疑でその子の後について迷路のような一夜城を通っていくと確かに城に登る事ができた。(良いのかどうかしらないが)その子はちゃっかり1リラ(約90円)を案内賃として要求してきた。

0512-9.jpg

0512-10.jpg

0512-11.jpg

0512-12.jpg

0512-13.jpg

0512-14.jpg
城の中でサッカーをする子供達

0512-15.jpg

0512-16.jpg
丘の上がアンカラ城

色々書きたい事もあるがこれ以上やると旅自体に支障をきたすのでとりあえず写真のみ。
行った場所は国立考古学博物館、古代東方博物館、装飾タイル博物館、アヤソフィア博物館、トルコ・イスラーム美術博物館。

0511-01.jpg
国立考古学博物館、古代東方博物館、装飾タイル博物館の三館は同じ敷地内にあり、大変素晴らしい。右手は国立考古学博物館、左手奥が装飾タイル博物館、手前に古代東方博物館がある。アレクサンダー大王の石棺の素晴らしさは完全に僕の想像を超えていた。

0511-1.jpg

0511-2.jpg

0511-3.jpg

0511-4.jpg

0511-5.jpg

0511-6.jpg

0511-7.jpg

0511-8.jpg

0511-9.jpg

0511-10.jpg
大王の石棺
0511-11.jpg

0511-12.jpg

0511-13.jpg

0511-14.jpg

0511-15.jpg

0511-16.jpg

0511-17.jpg

0511-18.jpg

0511-19.jpg

0511-20.jpg

0511-21.jpg
装飾タイル博物館
0511-22.jpg

0511-23.jpg
アヤソフィア博物館
0511-24.jpg

0511-25.jpg

0511-26.jpg

0511-27.jpg

0511-28.jpg

トプカプ宮殿はいわずとしれたオスマントルコ帝国時代の歴代支配者(スルタン)の超有名な居城である。巨大であり、財宝のかたまりである。見て回るのにもかなりの時間がかかる。ハーレムもある。まあ色々、すごいです。が実はここでも一等感動したのは視覚的なものではなくてコーランをずっと読み(詠い)続けている僧侶がいて、その声とメロディなのであった。何故かはわからないが。触覚の次は聴覚か。

その後エジプシャン・バザールを歩き、町中をさまよいながらスュレイマニエジャーミー(中が工事中でステンドグラスは見れず)、シェフザーデバシュジャーミーなどへ。京都の寺周り感覚です。祈りの前に水道で手足を洗う若者が印象的であった。日本の神社ならば手と口を漱ぐくらいだけど、ここの人たちは銭湯で身体を洗っている様子を想像していただきたいのだがもっと真剣だ。その後ローマ時代の遺跡バレンス水道橋を見、古本街からグランドバザールへ。グランドバザールは本当に迷路のようで実際かなり迷ってしまった。

そこでくたびれ果てたころ夕方なのだが、昨日行ったブルーモスクに再訪。

帰路、疲れたのでやめようかと言っていたのだがローマ時代の地下宮殿なる所に行く。ここはたいした所ではないと思っていた。古い家を壊したら地下からローマ時代の柱が出て来ました、くらいのもんではないかと。ところがこれが大間違いで、本当に地下に巨大な宮殿があり、その床は池のように水がたまり魚さえ泳いでいるのだ。ここには28本の列柱が12列、計336本あったそうである(現在見えているのは246本)。4世紀から5世紀にこれは貯水池として作られたという。私たちが昼間見たバレンス水道橋を通って来た水がここに貯水されていたのだ。この空間が千何百年もの間暗闇に眠り続けていたことに不思議な感動を覚える。昨年のゼミ生、荒尾君の時間論を思い出す。この暗闇の時間イメージの不気味さはニュートン的ではなくライプニッツ的である。20年程前に掘り起こされた列柱の台座になっているメドゥーサの首は横向きで恐ろしい。それにしても貯水槽のためにこの規模と構造の空間を作るなんて。この時代その最盛期を過ぎていたにもかかわらずローマ人のやることは凄いなと思わせられる。その後ブルーモスクの下には実はまだ発見されていないローマの宮殿が眠っているのではないかと勝手に夢想してしまった。

0510-1.jpg

以下トプカプ宮殿

0510-2.jpg


0510-3.jpg


0510-4.jpg


0510-5.jpg


0510-6.jpg


0510-7.jpg


0510-8.jpg


0510-9.jpg


0510-10.jpg


0510-11.jpg


0510-12.jpg

宮殿テラスからボスポラス海峡を望む

0510-13.jpg

エジプシャン・バザール入り口

0510-14.jpg


0510-15.jpg

ジャーミー巡り。名前を覚えきれず。

0510-16.jpg


0510-17.jpg


0510-18.jpg


0510-19.jpg


0510-20.jpg


0510-21.jpg

バレンス水道橋

0510-22.jpg

古本屋街

0510-23.jpg


0510-24.jpg


0510-25.jpg

再びブルーモスクへ。どこかの美大の先生と学生だ。イスタンブールで古美研も最高だね。

0510-26.jpg


0510-27.jpg

地下宮殿(実際の見えよりも少し明るい)

0510-28.jpg

床には魚が泳いでいるのが見える。

0510-29.jpg

このメドゥーサの頭は逆さまで

0510-30.jpg

こちらは横向き。結構怖いでしょ。


5時半に目が覚め、6時に宿を出て歩いてバスセンターへ。空港まで30分。ザグレブ空港から9時過ぎ発のプロペラ機でミュンヘンへ。ミュンヘンでトランジットしイスタンブールへ(直行便がないのでかなり遠回り)。今回のトランジットタイムも1時間弱だったが飛行機は遅れも無く無事に到着。空港からのシャトルバスでマルマラ海峡を右手に見ながらアクサライまで約30分(久々の交通渋滞)。トラムに乗り換え3つ目の停留所がスルタンアフメットで私たちの滞在場所である。イスタンブールは大きく旧市街、新市街、アジア側の3エリアあり、スルタンアフメットは旧市街にある。新市街には金閣湾を橋かフェリーでわたり、アジア側にはフェリーでボスポラス海峡を渡る事になるが今回の私たちの滞在目的場所は全て旧市街にある。宿から歩いて78分の所にスルタンアフメットジャーミー(別名ブルーモスク、ジャーミーは寺院)がありここには時間制限(お祈りの時間以外)がないので夕方入ってみる。ここは日本のお寺と同じで靴を脱いで入る。床には絨毯がびっしり敷き詰められている。靴を脱ぐということがアジアとヨーロッパを分けているのだと何となく実感。絨毯の柔らかい触覚がかえってここで冬祈る時の寒さを感じさせる。この地で美しい絨毯が生まれたわけがわかるような気がした。この感覚が意外にもドームの視覚的な凄さ(スペクタクル)よりも印象深いのだ。

この寺院の横は昔のローマの大競技場跡であり、テシオドス一世とコンスタンティヌス三世のオベリスク(石柱)、途中で折れている青銅の蛇の柱がある。

夜は環境の急激な変化と前日のゼニート事件などの影響か、疲れているはずなのに眠れず。ブログの58日分はこの眠れない時に書いたもの。朝方4時過ぎにやっと就寝。朝方街のどこからかコーランの祈りの声が聞こえる。二日続きの睡眠不足は旅の敵である。


0509-1.jpg


0509-2.jpg

ブルーモスク

0509-3.jpg

アヤソフィア

0509-4.jpg


0509-5.jpg

ブルーモスク(スルタンアフメットジャーミー)正面

0509-6.jpg


0509-7.jpg


0509-8.jpg


0509-11.jpg


0509-12.jpg


0509-9.jpg


0509-10.jpg


0509-13.jpg


0509-14.jpg

オベリスク

9時のバスでザグレブへ。12時到着。さすがに首都だけあってリエカよりはずっと大きい(しかしロンドンや東京に比べれば驚く程小さな首都である)。

博物館や教会など街の主要なものを徒歩圏内で見て回れる。

(ここから先は僕の本に関するきわめて個人的な記録なので興味ない人は飛ばして下さい。)

そして一渡り見た後、古本屋があったので2軒ほど覗いてみた。グラゴール文字について欲しい本があったので訊いてみたが置いてなかった。ザグレブへはまた来る予定もあるし、そろそろ宿に帰ろうかということになってぶらぶら歩いていた。そうしたらいつもの本の神様がまたもや唐突にやってきて奇跡を起こしてくれたのだ。(このことについてはかつて一緒にパリを散歩していて現場を見たことのある陣さんは説明抜きで信じてくれると思うのだが、僕には本の神様がついていて時々必要な場所に思いがけなく連れて行ってくれることがあるのだ)。今回も歩いている途中、通りからたまたま普通ならば入らないような路地がふっと見え、何故かそこにその時だけ吸い寄せられるように入る僕なのであった。妻は突然の僕の不審な行動に何事かと驚く。路地の奥はなんてことのない中庭になっていて地元の人だけが集まるような小さなカフェがあるだけ。何もないし人もいない。ただその向こうにガラス張りのビルの一角が面している。その佇まいが何となく銀座のgggギャラリーを小さくした感じなのだ(わかる人にはわかると思う)。なんの事前情報も無いのだが吸い寄せられるように迷い無くそこに入る僕。するとそこは予感どおりグラフィック専門のギャラリーで、何かの展示のオープニング5分位前だったのだ。人がにわかにごったがえし出し、テレビカメラのクルーもいる。まるでそこに呼ばれたゲストのようにいる僕(多分謎の東洋人に見えただろう)。その奥にメインエヴェントのように飾られてあったのが写真の本である!そばにいたおじさんに自己紹介し、突然でしかも偶然で申し訳ないのだがこれはいったい何の展覧会かと聞く(後で考えればとてもおかしいシチュエーションだ)。そのおじさん(ひょっとしたらクロアチアで有名なデザイナーの一人だったかもしれない)はとても親切に答えてくれる。ここのギャラリーのオーナー(あそこにいるけど今テレビのインタビューで忙しそうだ。ちなみに若い女性)がこのたびユーゴスラビア1920年代の主立ったアヴァンギャルドの雑誌(ざっとみて20冊は下らない)をコンプリートにリプリントし、今日はそのお披露目のパーティーなのだという。そのリプリントの中にはあのリシツキーが表紙をデザインしたゼニートが燦然と輝いているしダダもある。ゼニートについては今までオリジナルを見た事はなかった。そうこうするうちに会場は人で溢れ出すしオーナーの彼女とはどうせゆっくりは話ができそうにないので立派なパンフレットをもらい、トルコ旅行のあとちゃんとアポイントメントをとって来ようと決め会場をあとにしたのだった。

当然僕は興奮していた。

(あのおじさんに)ゼニートは本当にここザグレブなのか?

表紙にはベオグラードって書いてあるじゃないか?

いやここザグレブで発行されたのだ!

1922年という年はリシツキーがモスクワからベルリンに行き二つの正方形の物語やベシチをデザインした輝かしい年だ。ということはベルリンへの途上でユーゴスラヴィアに寄ったのか?それともその後の進歩派芸術家会議によるものか、頭を想像がぐるぐる駆け巡る。

(こういうことを奇跡と言わなくて何と言ったら良いのか?何で彼女は今ここでリプリントをしたのか。そのお披露目が何故今日なのか。何故その日に僕はザグレブにいるのか。なぜあの時間にあそこを僕は通りかかったのか。何故あの路地に何かあると僕は感じたのか。)

12年前パリの古本屋で同じようにリシツキーの「USSRコンストラクション」を発見し、翌々日に「声の為に」に出会いそれがきっかけとなり日本で展覧会を企画し本を作るはめになったのだった。今回大英博物館でパスをもらえたことやグラゴール文字と滞在先の関係など、密かにいつもの本の神様の差配と感謝はしてはいたのだが、まさかリシツキーのゼニートにここで引き合わされるとは!

リシツキーが「もっと研究を深めよ!」と言っている。いやそう言っているのは僕の本の神様か。


0508~1.jpg


0508~2.jpg

宿のそば

0508~3.jpg


0508~4.jpg

ザグレブ考古学博物館。ザグレブで最も古いエレベーター。

0508~5.jpg


0508~6.jpg


0508~7.jpg


0508~22.jpg


0508~8.jpg


0508~9.jpg

ザグレブ歴史博物館

0508~10.jpg


0508~11.jpg


0508~12.jpg


0508~13.jpg


0508~14.jpg


0508~15.jpg


0508~16.jpg


0508~17.jpg


0508~18.jpg


0508~19.jpg


0508~20.jpg


カテゴリ

アイテム

  • 09-1212.jpg
  • 09-1211.jpg
  • 09-1129.jpg
  • 09-1129-1.jpg
  • 09-1115.jpg
  • 09-1103-4.jpg
  • 09-1103-3.jpg
  • 09-1103-2.jpg
  • 09-1103-1.jpg
  • 09-1028-4.jpg