荷造り作業。気持ち的にはトルコはもう夏ではないかと思えるのだがネットでみると意外にもクロアチアよりも気温が低かったりする。可能な限り荷物の重量を減らす事に腐心する。東京からではなく中継地点ともいえるクロアチアからの旅なのでかなり思い切った軽量化が可能になった。お昼にソボルさんと(結局充電中に床に落として調子の悪くなった)携帯の換わりを購入に街のセンタービルという最も大きなショッピングセンターに行く。その後エスプレッソを飲みながらソボルさん自身についての質問や僕のデザインの事について話をした。彼はいわゆる得度したというのか、相当長期間の修行を積んだ真言密教の立派なお坊さんだったのだ。ヨーロッパ全土で50人以下という。何故とかどのようにについて書くと長くなるのでまたいつか。彼の修行が生半可なものではないことだけは感じる事ができた。

また僕がデザインについて考えてきたことと(その社会的な存在の意味など)彼が何故仏教にひかれその世界にはいったかについてその理由はほとんど同じだね(これはソボルさんの言葉だが)という話になった。ただのモダンでもなく、がちがちの伝統主義者でもなく、伝統を可能な限り深く理解した上で、それと今をいかにクロスさせるかに興味があること、その時重要なのはフォルムではなくて「ホーリスティックな生成している状態」であることなどなど...。

その帰りに「あそこには何があるの」と以前僕が質問したのだがリチエナ河の奥の谷に車で連れて行ってもらった。残念ながら電池切れで写真には残せなかった。ここは近代産業の工場等の廃墟あとで現在はロックコンサートなどが開かれているという。また第二次大戦中の戦争の不気味な遺物もある。ここにこれから5年くらいかけて建築、美術、デザイン、音楽の専門家が集まる芸術地区を作る計画があるそうだ。ユーゴスラビア紛争の後、その傷も次第に癒えてこの街も大きな変貌を迎えようとしているように見えた。

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街にあるクロアチア航空のオフィスで次のフライトのリコンファームを行う。ブログの更新作業。帰りはバスではなくペダル・クジッチの階段621段を登ったがあとで膝が痛くなってしまった。家に着くとマイーダさんが来ていてダリンカさんが庭に作っている菜園の野菜を何でも好きなだけ持って行けという。おかげで今晩の夕食のサラダはいつも以上にごちそうになった。また香草も何種類かいただいた。魚の料理やスープなどに香草は欠かせないが、こちらのマーケットではいまいち分かる香草がなかったので妻は感激していた。また僕たちの為にダリンカさんはトマトを育ててくれているらしく、あなた達がトルコ旅行から帰って来たら出来てるよみたいなことを言っていた。楽しみだ。

リエカでは皆さんのお陰で落ち着いた日々を送る事ができ、また予定通りの日程を消化することができた。他のヨーロッパ諸国へ移動する際にフェリー、バス、電車、飛行機のどれがベストなのかについて等未だに良くわからないとこは沢山あるが実際やってみなきゃわからない事の方が多いのだろうと思う。

いよいよ48日から次のトルコへの旅が始まるのでだんだん緊張感が高まってくる。

今朝は5時半起き、6時過ぎに家を出ました。

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いつも乗っているバス

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イストラ半島中部、ブルサル-オルセラの村

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ロヴィニィ手前のリムスキーフィヨルド。アウトドアスポーツの名所らしい。

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ロヴィニィ到着。今日はあいにくの雨模様である。

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旧市街への入り口バルビ門。かつてはここは海で旧市街は島だったのだ。

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聖エイフェミヤ教会。エウフェミヤはローマ時代に迫害され車輪で拷問されたうえ、コロッセウムでライオンにかみ殺され殉教したといわれる人。塔の先端には車輪とエウフェミヤの像がある。

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港から旧市街エウフェミヤ教会の尖塔が見える。

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バスで約1時間、ローマ時代の古代都市、ポレチュへ移動。あいにくの雨だが濡れた石畳の色が美しい。

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エウフランシス・バジリカ。世界遺産に指定されているらしいが、ビザンチン・モザイク?という感じで始めはあまり興味がわかなかった。そもそもビザンチン美術についてあまり良い印象を持ってなかったので。しかしその考えはかつてリシツキー研究のためロシアのサンクトペテルブルグに行った時ロシアイコンの凄さに驚いたのと同様に、考えを改めさせられた。この教会は美しい。

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現教会床の下にある古いモザイクの床。

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塔の先端に昇る

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ポレチュの街並

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ローマの神殿遺跡。

大掃除。ブログの更新。次の旅の準備など。

昼間、例のごとくコンチネンタルホテルまで出かけて、ブログを更新していたらトラブル発生。せっかく更新した半分がだめになる。いろいろやってみたがうまくいかず急遽、設計者であるあきお君にヘルプのメール。その後、彼の迅速な対応のおかげで無事復旧しました。ありがとう。その他、次回の旅の目的地であるトルコについて、かつてそこで数年暮らしていた後輩のえびりんに色々質問をし有用なアドバイスをもらったりした。とにかく遠く日本を離れてもパソコンとネットワークのお陰で助かることが多い。時々、もし今持って来ているノートブックがいかれたらどうなるのだろうと少し不安にもなる。えびりんは確か僕の4級下の後輩になる。彼女からのニュースによればその1級下の落語家林家たい平(師匠)が今回文部大臣賞なるものを受賞したとの報せが。みぎわさんとお祝いの会に行くそうである。彼が学生当時皆と伊豆の印刷工場見学に行ったのはもう二十数年昔のことなんて信じられないなあ。

この旅の記録をどうするかについては少し迷った。ヴィデオカメラは論外であった。まずどっちみち帰国した後、見直す時間がない。結局、写真機をどうするかに尽きた。ニコン某、キャノン某の高解像度デジタルカメラを買うべきか。あるいは新島さんは僕に「寺さん、プロなら記録はデジタルなんてだめだよ。フィルムでとらなきゃ後で使えないよ」などとプレッシャーをかけるし。しかしデジカメとアナログ両方持って行くなんて箸と筆とマウス以上に重いものを持った事の無い育ちの僕には無理だ。

いや、実際は年のせいですが、とにかく重いものをかついで旅する根性はないなあと思って悩んでいたのだった。結局、一緒に事務所をやっていた大村麻紀子嬢が持っていたかっこいいカメラをみて(昨年)欲しくなって、単にまねをしてそのカメラにしたのだった。それが今回使っているRICOH CAPLIO GX100である。フィルターも何もない。20代の頃はニコンのFEというカメラがいつも鞄のなかにあって自分の身体の延長のようになっていた時期がある。30代の10年は仕事でも写真はプロのカメラマンまかせになり、自分では撮影しないし、もっぱら子供を撮るのに専心していた。そんなこんなで20代のようなカメラ感覚はどんどん薄れていた。そのうち世の中はデジタル化し、そういったカメラも必要にかられて時には使ってはみたものの、かつてニコンのFEを使っていた自分の目の代わり的な感覚は全く失われていたのだ。しかし今回の旅で久しぶりに毎日のようにカメラを手にしていると、それなりに感覚というのは戻ってくるもので面白い。フィルムと違って必要な時にはその場で確かめられるなんて夢のようだ。(もちろんその場で確かめられない良さ!というのもありますが)解像度が問題なのはしょうがないと思う事にしている。使う機能はマニュアルでシャッタースピードと絞りを調整するだけ。デジカメ特有のいろんな機能は全く使いこなせてないが(その気もないせいだが)面白いのはオートにしていると聖堂や博物館などの薄暗い場所でも勝手にカメラが補正して実際よりも明るく映る事だ。だから単なる記録というよりも別の画像を見ている感じもある。僕はカメラについているフラッシュがきらいなので全く使わない。基本的には室内ではロースピードシャッターになる。最初は15分の1で危ないかなあと思っていたが、最近は2分の1秒であまりぶれなくなりましたよ。気合いでしょうか。

そしてここまで書いてようやくふと気づいたのはレンズがニコンFE時代と同じ28ミリであること。今のカメラはズームもついているが必要じゃない限り使わない。当時はTTLと言って露出計を使わずにレンズを通して測光出来る事自体が新しかったし、プロは光の様子から絞りとシャッタースピードが即座に分からないようじゃ写真撮る資格は無いなどと言われていた。学生でズームなんて使っていたら写真の先生に怒られたものだ。28ミリという画角は僕にとって機械的な制約でもあるが、それゆえ自由に振る舞える無意識的な枠だったのだ。これは個人的なことではあるがちょっと感動的な発見である。

この日は読書、洗濯、昼寝!(かなり疲れているのかもしれない)食料の買い出し等。

ついにリエカの西、イストリア・ペニンシュラへ。ここイストリア半島は内陸部がいわゆる山岳都市、沿岸は港町で全く異なる二つの風景を見る事が出来る。山岳都市というか山のてっぺんに古い集落がある場所は一般の観光客が訪れるのはなかなか難しく、ソボルさんがそのうち車で行きましょうといってくれている。この半島はトリュフとワインの産地であるらしい。

半島の南端に近い街プーラへ向かうため朝7時に家を出る。偶然ダリンカさんの夫、ユリックさん(大家さん)の外出と鉢合わせをしたので、バスセンターまで車(ベンツ)で送ってくれた。ユリックさんの英語も私と同程度なのでちょうど良い感じで会話する。70歳だそうだ。自分用の船も持っていて奥さんと釣りに行くのが趣味らしい。(この時はやたらでかい船を連想したのだが、後で自宅にあるヤマハのエンジンをつけた小さいボートを見せてもらうことになる)自宅には2台も車はあるし悠々自適の老後といったところか。娘のマイーダさんは私の幼い頃は「ここ(トルサット)じゃなくて、つまらない労働者アパートに住んでいたのよ」と言っていたが。70歳にしては僕の知っている人から見ると少し老けてみえる。僕の日本での知り合いが皆異常に若いせいかもしれない。

この日はプーラに宿泊して半島西岸のローマ時代の遺跡を追って、ロヴィニィ、ポレチュと回る予定だったが観光客の多さに圧倒されたせいもあり、プーラだけにしてリエカに戻ってきてしまった。リエカが自宅化したせいか変なホテルに泊まるよりも帰ってきたくなったのだ。行きはトンネルを使った高速で半島を途中まで横断して南下。帰りは沿岸沿いのルート。それぞれ2時間と2時間半。日本で言うと自宅から鎌倉への小旅行という感覚に近いか。ドライブ中も風光明媚で見応えがある。美しい海と山の間に宮崎駿のファンタジーに出て来そうな村や港を通る。ユーロ圏の人々が大挙して訪れる訳が分かるような気がした。(しかも幸いな事に日本的な渋滞とは全く無縁である)

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朝リエカのバスセンター

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プーラにあるローマ時代の円形劇場。ローマ、ボローニャに次3番目の大きさと言う。ほぼ完璧な形で円形が見られる。現在でも5000人収容のコンサートが開かれ現役である。往時は2万5千人。地下室が展示場になっていた。

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地下展示場

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ここをかつて拳闘士達が駆け抜けたのだろうか。

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街にいくつか残っているローマ時代の凱旋門の一つ、セルギ門のディテール。

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アウグストゥス神殿。かなりの変形が加えられていてもプロポーションは抜群に美しい。

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聖マリア・フォルモッザ教会周辺。ローマ時代の石の破片がごろごろしている。

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フランチェスコ教会。ここの聖堂は静謐で美しい。

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イストリア歴史博物館(昔の城跡にある塔)から街を望む。向こうにコロッセウムが見える。

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城壁にある朽ちかけた物見の塔。

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古代ローマ劇場跡。上が昔の城壁である。

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劇場としては完璧なサイズだと思える。

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イストリア考古学博物館

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博物館入り口

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帰路

今日はメーデー。ここクロアチアもお休みの日。

携帯電話の調子が悪くソボルさんが様子を見に来てくれる。ささやかなお茶会を開く。水がどうも日本と違うので香りが弱いのが気になる。ソボルさんに水のことを聞くがリエカは背後に山脈をかかえているので水は豊かでおいしいという。水道水ももちろん飲める。日本と比べて水温がかなり低い。ただし岩盤はライムつまり石灰岩なので水質は軟質なのか硬質なのかここでは知る由もないが日本の水とはあきらかに異なるのだ。(それに比してイストリア地方の水は飲めないそうだ)

ところでソボルさんは何と16才の時に「茶の本」を読んだという。それだけではなく「宮本武蔵」と「五輪の書」「葉隠」もだ。(これらは英語経由でクロアチア語訳があったという)全くどういうやつだ。リアリ?

ましてや僕も気になっていた本だが読んでなかったアレックス・カーの「美しき日本の残像」を知っているかと聞く。はじめは原タイトル「Lost Japan」というので分からなかったのだが。これは確か松岡正剛さんが千夜千冊でとりあげていて僕も「読みたい本リスト」にあげてはいたのだが未読であった。ちょっと悔しい。彼から日本の大本教や神道、合気道について矢継ぎ早に質問されたがほとんどまともには答えられなかった。息子が合気道をかじっているので聞いた名前は出て来たが。

「ディエゴ・ソボル 君は何者か?」

彼は小学生から中学生の間、父親の仕事の関係でチェコスロバキアのプラハで4年過ごしている。そこのロシアンスクールに通ったという。そこにはアメリカンスクールや地元の学校もあったが幼少時の教育はロシア式がベストだと思うと言っていた。

人間謎が多い方が楽しい。

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朝は少し雨模様だったが8時に家を出て島に向かう。リエカのバスセンターからクルック島へはバスが何便も出ている。目的は島の最南端のバシュカである。陸から島へは大きな橋で渡る。なんだか眠たくてバスに乗ったら催眠術にかかったように寝てしまった。3時間かけてお昼にバシュカ到着。教会は2時半まではお昼休みだから行っても中には入れないとインフォメーションで告げられがっくりしたが、とりあえず歩いて(2.5キロ程)行ってみる。街からかなり距離があるのであてにしていた教会近くのレストランもシーズンオフらしく閉まっていた。やむを得ず、目的の聖ルキア教会のまわりをうろついていると中から女性が出て来て見せてあげましょうと言ってくれる。まず最初に15分程のヴィデオ解説を見た後に教会の内部へ。

クロアチアも、このクルック島もそうだが陸地自体が石灰の巨大な岩盤でできており、山の上部は植物が生えず岩肌が見えごつごつした印象だ。山口県の秋吉台をもっとスケールアップした感じ(中学、高校の勉強不足がたたって地理的ボキャブラリーが貧困なのはお許し下さい)。平野部分の面積が狭く海岸線から直ぐに山が切り立っている。この教会はそのような岩山を背景に10世紀ころに建てられたもので、その素朴な形にはある種の強さを感じる。素朴ではあるが黄金比などの比率はかなり厳密に適用されていて、とても単純だが美しい。(昨年院生の金那姫さんと一緒にやった研究がこんなところに生きている)グラゴール文字の刻まれたタブレットが最初に発見された場所である。

またバシュカの街自体は細い路地が入り組んだ古い街で大変美しい所だ。近隣には「アパート貸します」のような看板が沢山あったので、夏はおそらく長期滞在のバカンスの客でごったがえすのだろうと思う。

帰りは1時間程バスでもどり、島最大の港町クルックで途中下車し遅い昼食をとる。ここも港に続く城壁に囲まれた旧市街は美しい。クルック島はワインの産地でもあるので一応買ってみる。

夜、岡倉天心の「茶の本」を読み出したら止まらなくなり、最後まで読了。この本は3度目だ。これは英文が収録されているのでソボルさんにあげるつもり。

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バシュカ郊外

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聖ルキア教会

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聖堂のみが残っている

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港町クルック

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城壁

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釣り人

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窓の修理をする尼僧

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帰りのバスの車窓から。リエカ近くの別の港町。

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終日雨らしいので、あんなに意気込んではいたが、朝KRK(クルック)島行きは断念する。この日あたりから一応ネットで天候を調べることにする。何せクロアチア・テレビの天気予報は短い上に分かりにくいのだ(クロアチア語なのだから当たり前か)。終日、次の長旅の準備をしたり(ほぼ旅程の大枠が決まる。見たいものばかりでかなり欲張りな計画を立ててしまったような気が)、日記を書いたり、いつものコンチネンタル・ホテルでブログの更新作業などをして過ごす。

このブログというメディアについて実際やってみると、改めて考える所もあるが長ったらしくなりそうなのでやめる。簡単にいうとこのブログ、あまり深く考えずにスタートしてしまった。つまり本来ならこれはメディアとして一体何の意味があるのかを熟慮すべきではなかったかと。(自分はそういう仕事の専門家のはずだ)また、もしデザイナーとして本気でやるのならもっと考えてスタートしたかもしれないとも思うのだ。

まあそんな小理屈は別にしても、(こうして幸運にも)全てではないにせよ日常の多くの義務やしがらみから一旦身を離すことが許されて、これまでずーっと見たいと思っていたものを見る旅の日々を記録し、一部ではあっても公開するなんてことは、人様からすればどうみたって自慢話にしか見えないよなと思ったのだ。気恥ずかしさの所以はそこにある。

しかしまあ熟考せずに物事にあたるのはきわめて自分らしいことでもある。難しく考えるのはやめよう。身内に手紙を書くような無防備さでいくしかないのだ。

朝、マイーダさんから電話連絡。今日リエカ大学の図書館に彼女が電話をしてグラゴール文字に関した展示室を見れるかどうかを訪ねてくれたのだ。その結果OKが出て図書館に12時に向かう。

グラゴール文字は世界でも数少ない作った人間が特定できる文字である(例えばハングルと同様に)。860年前後にキュリロスとメトディオスという正教会の神父によって聖書をギリシア語からスラブ語に翻訳する為に作られた文字である。話せば長くなるがこの文字はキュリロスの弟子たちによって改良され現在ロシア等で使われているキリル(キリルはキュリロスがなまったもの)文字になった。その後正教会の勢力拡大によってグラゴール文字よりもキリル文字の方が広く使われ、グラゴール文字はカトリックのクロアチアの聖職者によってのみ近代まで用いられたのである。この文字はまずイスタンブールで生まれ、現在のクロアチアへ伝えられ、ブルガリアやマケドニアに広がったという。そのような意味でこの文字はクロアチア人にとっては特に重要なアイデンティティともなる文字なのである。その最も古い石に刻まれたテキストが私たちの今いる所から見えるアドリア海のクルック島で発見されたのである。

図書館の展示はかなり充実したもので歴史的経緯や変遷がよくわかるものであったが一般公開されてはいない。学芸員のアンナさんがつききりで説明しながら見せてくれた。彼女は「私は英語が得意じゃないので」としきりに謙遜するが逆に私たちには大変分かりやすい解説となりとても良かった。石に刻まれた文字は明日クルック島に行くのでまた改めて記する事になるが興味深かったのはまず、マニュスクリプト(手稿本)で、これは1617世紀過ぎまで続けられたという(一般書ではないので活版印刷の方がコストがかかるのだ)。とても美しく印象深いものであった。また活版印刷も行われたのだが最初のグラゴール文字の印刷物は1480年ころには作られている。この本がとても美しいので僕が「ヴェネチアの影響があるのですか?」というとアンナさんは目を輝かせて「そうなんです!グラゴール文字で印刷された最初の本はリエカではなくてヴェネチアで印刷されたものです」と答えた。アルド・マヌティウス、あるいはニコラ・ジャンセンを思わせもする大変シンプルかつ美しいタイポグラフィックな書物なのだ。ただアンナさんは私の質問に対しどこの工房で刷られたか、誰が活字を設計したかはわからないという。ただフランコ・パーリというビショップ(ルーテリアンと言っていたように聞こえたが...)がヴェネツィアから印刷技術とともにグラゴールタイプをリエカに持って来たらしい。とても興味深い話である。ではリエカにはその古い印刷所なりそれらのことを展示したような博物館はないのかと問うと、残念ながらよく分からないのだという答えであった。「何せ古い話だから」と。ただ一つだけ思い当たるミュゼがあるのでマイーダさんに探してもらえとその名前をメモしてもらった。まるで探偵みたいだが次の探索の糸口になるかもしれない。明日はクルック島の奥地まで行って石盤を見るつもりである。

その後昨日に続いて再度(正確には三度目)、旧市庁舎の美術館に行った。ドアは開いていたので中に入ると「まだやってない。明日だ」と言われた。美術館の前の大きな垂れ幕には28日からスタートと明記しているにもかかわらずである。ちょっと信じられない。縁がないのかも。

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マニュスクリプト

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この支持体はペルガモン。

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印刷楽譜

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活版印刷

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フランコ・パーリ像

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点は発掘、発見されたグラゴール文字の石盤、印刷物の場所。

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かなり危険な階段。悪夢に出てきそうだ。

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